異世界転生の理由
なんとかしなければならないという焦燥と、
何もする気が起きない虚無の狭間でひたすらもがいた結果、今の俺は、見知らぬ都会の野暮ったい湿気を孕んだコンクリートに大の字になっている。
背中はぬるい地熱を吸ってじっとりと汗ばみ、頭の左側──こめかみから目の上にかけては、数時間前に殴られた裂傷が乾きかけて張りついている。
ポケットの中にあるのは、ツルの折れたメガネ、しわくちゃになった文庫本、それから使い道のないロッカーの鍵が何本か。財布は無くした。正確に言えば、殴られた拍子に持っていた手提げごと消えた。
もう探しても意味はない。そういう種類のミスだった。
「……詰んだな」
口から漏れた声は、自分でも驚くほど軽かった。
立川駅、北口の植え込みの陰。午前でも午後でもない時間帯。現実の重さだけがやけに体に乗っている。
小さなコンビニ袋の中には、缶チューハイがひとつ。ぬるくなりかけていたけど、飲むしかない。脳味噌をアルコールで誤魔化せれば、それでいい。
口をつけた瞬間、甘ったるい液体が傷口に触れてぴりっとしみた。
不意に、自分が今どこにいて、どこにも属していないことに気づく。
逃げた。闇金の受け子をやって、うまくいかなかった。警察に目をつけられた。
バックレた連絡先にはもう繋がらない。ミスをした受け子がどうなるかなんて、わかりきってる。
もう、東京にいる意味はなかった。
(……帰るか? 九州に)
そう思ったときだった。近くのベンチに、ひとりで座って酒を飲んでいる若いやつがいた。
Tシャツにくたびれたジーンズ、サンダル。何の特徴もない。けれど、なぜか妙に目を引かれた。コンビニのビニール袋をぶら下げて、暇そうに空を見ていた。
金がない。
詐欺って言うほどじゃない。ただの“小銭借り”だ。帰るまでの足代くらい、どうにかしたっていいだろう。
俺は植え込みから立ち上がり、そいつに声をかけた。
「すみません、ちょっと……怪我してて……財布もなくして……」
男はチューハイを持ったまま、俺をちらりと見た。
「え、マジ? それはやばいじゃん」
「……ちょっとだけ、でいいんです。金、貸してもらえませんか」
しばらく黙って、彼は俺を見た。観察するような、でも軽い感じだった。
「帰る場所あるの?」
「……あるっちゃ、あります」
「どこ?」
「九州のほうっす」
「へえ。じゃあ、金貸すよりバスのチケット取ってあげた方が良くない?」
「……は?」
「だって、金渡したらさ、使っちゃうかもしれないじゃん? 酒とかギャンブルとかで。チケットだったら確実に帰れるし」
スマホを取り出し、淡々とバス会社のサイトを開いていく。まるで誰かに頼まれた作業みたいに、機械的で、でもどこか楽しんでるようでもある。
「明日の夜の便、22時発、新宿バスタから。熊本行き、空いてるよ」
「……ほんとに、取ってくれるんすか」
「うん。取る。でもさ、せっかくだから、明日の夜まで遊ぼうよ。俺、暇だし。吉祥寺に住んでるから、そこ来て。スマブラやろ。あと、コンビニの唐揚げもうまいよ」
詐欺師としては最低の相手に声をかけたんだと、この時点でうすうす気づいていた。
それでも、俺は頷いた。
だって、そうする以外、もう手はなかった。
吉祥寺のアパートは、見事なまでに何もなかった。
白い壁に、床に敷いたビニールラグ。ローテーブルは100円ショップで買ったような小さなやつで、ベッドは折りたたみ式の薄いマットレスだけ。
「ミニマリストってやつっすか?」
「いや、貧乏なだけ。テレビ買う金もないから、プロジェクターだけある。こっちのほうが面白いじゃん?」
プロジェクターが白い壁に映したスマブラの画面は、少し青白く、ぼんやりとにじんで見えた。
彼はやたらと上手くて、俺は勝てなかったけど、何度かやってるうちに普通に楽しくなってきてしまっていた。
その空気が怖くなって、俺はロッカーの鍵束を無言でテーブルの上に置いた。
何も言わず。ただ、「見せるだけ」。
(気づけ。俺がどういう人間か)
彼はそれを一瞥し、「鍵、多いね」とだけ言った。
それだけで、何も聞いてこなかった。
その優しさが、罪悪感をひどく濁らせた。
午後、寝不足のまま、ふたりしてカーテン越しの光に顔をしかめながら起きる。
彼が「何か食べたい」と言った時、思わず口から出た。
「横浜の……中華街にある、麻婆豆腐の店、知ってるんすよ。辛いけど、マジで美味いです。……行きません?」
彼は目を輝かせた。
「行こっか!」
詐欺をしようとした男と、されようとしている男が、なぜか手ぶらで電車に乗り、灼けた夏の風の中、中華街の細い道を歩いていく。
何かが狂っている。でも、どこか穏やかだった。
麻婆豆腐の店は中華街の裏通りにあった。
外観はあまり目立たず、看板も色褪せていたが、店内には香辛料の甘く刺激的な匂いが充満していて、それだけで食欲が刺激された。
「ここ、すげぇな……本当にうまいの?」
「……たぶん。昔、バイト仲間に連れてこられて。うまかった記憶があるんすよね」
「そういうの好き。ガイドブックに載ってないやつ」
店内の小さなテーブルに案内され、俺たちはランチセットを頼んだ。
数分後に出てきた麻婆豆腐は赤黒く、見るからに辛そうだった。
一口目で舌が痺れる。それでも、あとを引く旨みと、豆鼓の発酵した香りがたまらなかった。
「うわ、辛っ……けどうまっ……!」
「でしょ?」
思わず笑ってしまう。俺も、彼も、汗をだらだらかきながら、ハフハフ言って飯をかきこむ。
この瞬間だけは、何も考えずにいられる。
ロッカーの鍵のことも、詐欺のことも、九州に帰るという嘘の話も。ぜんぶ、今だけは置いておけた。
「でさ」
と、彼が唐突に口を開いた。汗をぬぐいながら、言葉を探すようにして。
「本当は、帰りたくないんでしょ? 九州」
麻婆豆腐の皿から、目が離せなくなる。
耳の奥が、じんわり熱くなった。香辛料のせいじゃない。
「何言ってんすか。……帰りますよ。バスも取ってもらったし」
「うん、まあそうだね。でも、昨日から見てて思ってた。目がぜんぜん帰る気してない顔してるんだよなーって」
そう言って、彼は笑った。嫌味じゃなかった。ただの感想。
悪意は一切ない。あるのは、好奇心と、奇妙な親しみだけだった。
「いやいや、向こう着いたら絶対に金返しますね!」
けど、どこかで、気づいてほしかった。だから鍵を見せたんだ。
「まだ時間あるし、中華街ぶらぶらする?」
そう言ったのは俺だった。
もうしばらく、彼と一緒にいたいと思った。理由はわからない。
詐欺のきっかけを探していたはずなのに、今は違う感情が体の中を静かに流れていた。
「いいよ。焼き小籠包とか食べよう」
歩きながら、彼はくだらない話ばかりする。近所の居酒屋の店主が声優志望だった話とか、無職になってからの一日の時間の潰し方とか。
俺は曖昧に笑いながらも、その全部をちゃんと聞いていた。
新宿バスタ、夜
バスタ新宿のロビーは、週末の夜で人が多かった。
俺は背中に安物のリュックひとつ。中には文庫本と、いくつかの鍵。それと、彼が予約してくれたバスチケット。
発車まで、あと10分。
「じゃ、そろそろか」
「……ここで?」
「うん、俺はここまで」
「……ありがとうございました」
ようやく、口から出た言葉。
彼は笑って、小さく手を振った。
「またねー、たぶん会わないけど」
深夜、東名高速・足柄PAのベンチに座って、缶コーヒーを手にしていた。
吐く息は白く、背中の汗はすっかり冷えきっている。
もう無理だった。
結局、俺はバスの車内でパニックになってしまった。
「やっぱり降ります」とドライバーに頼み込み、PAで下ろしてもらった。
行く場所も、金もない。
とっくに詐欺の仕事からも見放されている。
あの家に戻る手段も、たぶんない。
スマホを開いて、通話履歴からあいつの番号を探す。
登録していない番号。だけど、もう何度も見た画面だ。
ワンコール、ツーコール。
(……出ないか)
と思ったところで、カチッと音がして通話がつながった。
「おー、どうした? 九州着いた?」
「……あの、やっぱ、ダメでした。バス降りて。今、足柄です」
「そっか」
その言い方は、怒っても呆れてもいなかった。
ただ、淡々としていた。
「……でさ、悪いけど」
彼は続けた。
「こっちもちょっと今、大変でさ。ごめん、助けられない」
言葉が凍りついた。
少しの間、沈黙が流れた。
「……そっすよね」
「うん。……でも、まあ、自分でなんとか頑張って」
「はい……」
そのまま、通話は切れた。
足柄PAのベンチ
ベンチに腰をかけたまま、スマホを握りしめる。
頼れると思っていた。
助けてくれると思っていた。
——いや、助けてほしかったんじゃない。
ただ、自分がまだ誰かと繋がってるって思いたかっただけだ。
けど、それは甘えだった。
遠くでトラックが唸りを上げて通り過ぎていく。
夜風が、冷たくて、心臓まで貫いた。
俺は、ひとりだった。
そして、ようやくそこで気づく。
ここからが本当に「自分の人生の始まり」なのかもしれないと。
ここまで90%実話です。有名になったらお金返しに来てくれるのだろうか。。。