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シダの木陰で~森に住む者の小さな冒険記~

作者: 夜霧ランプ

知人に「オリジナル小説を書くなら固定のサイトに囚われないほうが良い」と言われてから、それまで活動していたサイト以外に掲載するための執筆を始めました。

これからも幾つかの短編小説を書いて行く予定です。

何よりも、誤字脱字が無い事を祈ります。

 エノコログサが、冷たい風に揺れる季節になった。夕日の訪れはどんどん早くなって、夏の頃にはいくらでも集められたアブラムシ達も、すっかり姿を消した。

 草むらの中を走り、小さな男の子は地面に落ちていたイガグリに近づいた。虫が食っているかもしれない中身には興味はない。彼の目的は、武器として使える鋭いイガの針の部分だ。

 枝についている間にしっかりと乾燥したイガは、丈夫な茶色の鋭い針や槍を何本も提供してくれる。武器として使える程度の大きさのイガを折るためには、一本の針の周りのイガを少しずつ折って、怪我をしないように気を付けながら、目当ての針を折る。

 九つほどの立派なイガの針を手に入れると、男の子はそれを腰に巻いたツルクサのベルトに差し、いつでも手に取って振り回せるようにした。

 その男の子の姿は、美しいと言うにはほど遠い。ガリガリに痩せていて、ぼろ雑巾のような灰色の衣服を着ている。生まれついての灰色の髪はぼさぼさに伸びており、目の周りと首の周りの髪は、時々適当に切っているらしく、不揃いに長かったり短かったりする。

 土埃にまみれた灰色の手足をしていて、皮膚の中で唯一ピンク色の頬の上には、輪郭に対しては割と大きな目が、髪の隙間からぎょろりと辺りを覗く。その瞳の澄んだ緑色だけは、彼の容姿の中で美しいと言えただろう。

 イガの針を得た男の子は、背の高いシダが包む森の中を、足早に戻って行く。灰色の砂と土が付いた足裏は、角質が固くなっているようで、少しの石の出っ張りや、彼の体の大きさから考えるとだいぶ大粒の砂利の中を走るときでも、敏捷な運動性を失わせなかった。

 男の子は、ブクブクと泡の立った水の流れる、「沼のような川」に行って、ベルトに差していたイガの中でも、一番長くて丈夫なものを手に取った。

 鉛色の水の中で、うっすらと銀色の魚の背が見える。男の子は、それに向けて鋭くイガの槍を振るった。手ごたえがあった。

 魚はバシャバシャと騒いだが、男の子が数本のイガで何度も刺すと、数秒もしないうちに力を失って水の上に浮かんできた。

 男の子は、イガの槍で魚を引き寄せ、鰓に手を掛けて身の丈ほどある魚を捕らえた。体に針のような棘がついている、奇形の小魚だ。しかし、男の子は、その魚の様子を気味悪がる風もなく、一度地面の上に獲物を投げた。

 魚類としての生命力で、小魚は未だビチビチと体をしならせる。男の子は、中くらいの、少し太めのイガの針で、小魚の頭を横から突き刺した。小魚が防御のために纏っていた棘が届かない場所から。

 小魚が痙攣くらいの動きしかしなくなってから、男の子は再び小魚の鰓に手を突っ込んで、シダの森の中を進んで行った。


 木の皮と落ち葉でふさいである木の根のうろから、カーテンをどけるように落ち葉を避けると、そこには苔の絨毯を備えた住居がある。男の子は片手に魚を持ったまま、そのうろの中に入った。

 うろの中は男の子の体に比べるとだいぶ深く、木でできた洞穴のように見える。

「ツァルグ」と、男の子はうろの中を見回しながら声をかけた。木の葉で覆われた木目の隙間から入ってくる光は朧気で、少しでも何かの陰になっていると、よく見えない。「ツァルグ。魚が獲れた」と、男の子は声をかけながら、うろ中の幾つかの部屋を見て回った。

 その薄暗い部屋の一つの中に、トカゲが居た。苔の絨毯の上に木の葉を幾重にも敷いて腹ばいになって、体温が下がるのを防いでいる。

 男の子が、そのトカゲを見てもう一度言う。魚の鰓に突っ込んだ片手をあげて、「ツァルグ。魚」と。

 トカゲは、うっすら目を開けて、「お手柄だね」とだけ答えた。トカゲは十分太っていて、男の子のガリガリの手腕と比べると、その尻尾は丸々とした豚の脚のように見える。

「だいどころで捌いてくる」と言って、男の子は魚を引きずりながら、うろの別の部屋に行こうとした。

「ニーニャ」と、トカゲが男の子に呼びかけた。「火を熾したままにしておいておくれ。今日はどうやら冷えそうだ」

「分かった」と、男の子は返事をし、だいどころに向かった。

 だいどころには、平たいベッドのような石の板と、石を割って作った、男の子の手の大きさに丁度良い包丁が置いてあった。

 魚を平たい石の上に置いて、男の子は包丁を手に取る。包丁で魚の頭を叩いて邪魔な棘を抜き取り、かまどの近くに干しておく。こうしておくと、魚の棘は腐らないまま新しい道具として使える。

 魚の肉と骨を器用に切り分け、いつも汚水を飲んでいたはずの内臓は毒液を撒き散らさないように抉り出した。

 石のかまどの中に乾燥させた小枝と草を詰め込み、熾火に息を吹きかけて火を起こす。かまどの上にお皿のような平たい石を置いて焼き、その上で魚の肉を焼き清める。

 外で肌寒い思いをしていたためか、男の子は身の丈の魚を調理する仕事で、顔中に汗をかいた。

 うろの中の空間は、少しずつ段差や深みが違うが、通っている空気は同じなので、きっとトカゲのいる部屋の温度も上がっているだろう。

 魚を消毒して味をつけるために、台所の隅で取ってあったミツロウを小さく切って、焼き上がりかけている魚の身に塗りつける。

 料理が出来上がる頃、さっきのトカゲが「やぁ。良いにおいだ」と言いながら、だいどころの出入り口を覗いた。

 男の子は、椿の葉の丈夫なお皿の上に焼けた魚の身を乗せて、「食べよう」と、トカゲに呼びかけた。

 一人と一匹は、アロエの棘を折って作ったカトラリーを使って、魚料理をパクパクと平らげる。

「質の良いほうだね」と、トカゲが言った。「沼川に居たにしては、洗剤くさくない」

「もっと丈夫な武器があれば、ザリガニをつかまえられるんだけどな」と、男の子は言う。「この魚の骨を使ってみようか」

「あいつらは武器じゃだめだ」と、トカゲは答える。「良いにおいのする餌を使って、釣りあげるのさ。尾の内側は柔らかいから、釣りあげた後ですぐに尾を刺す。用があるのは尻尾の肉だけだ」

 トカゲの説明を聞いて、男の子は「分かった。餌が手に入るチャンスがあったら試してみる」と答えた。

 食事を終えた後、二人はさっきまでトカゲの居た部屋に戻って、夫々の具合が良い場所で横になった。トカゲは落ち葉の上、男の子は、くしゃりと丸まったハンカチのような布の中。

 やがて夫々の寝息が聞こえてきて、男の子とトカゲは一日の疲労を癒した。


 枯れ木の空洞の割れ目に瓶の底の窓がついている。そこにある、森の中の店に入るには、空洞になった木の根の迷路を、迷わずに通る必要がある。

 虫肉屋と書かれた看板を潜ると、そこは色んな昆虫の肉のにおいがした。

 昨日、魚を獲っていた灰色の男の子は、自分が寝床にしているハンカチの布に何かを包んで、店主と対面した。「テス。虫肉を持って来た」

 首元にツルクサのネクタイをした、ナナホシテントウムシのテス氏は、男の子持ってきた荷物を見て、ふむ、と頷いた。

「相変わらずだね。ニーニャ」と、テス氏は挨拶をする。「今年も、ツァルグは元気かい?」

「昨日まではね」と、男の子―ニーニャ―は答えた。「今年も、これ、お願いするよ」

 そう言ってニーニャが包みを開けると、そこには彼と一緒に暮らしているトカゲ、ツァルグの尻尾が入っていた。

 テス氏はそれを受け取って、「良いハムが作れそうだ」と言うと、ニーニャの持って来た、その身を覆いつくせるくらいのハンカチに入るだけ、ミツロウとナッツをくれた。

「今年は、ミツロウが多めだね」と、ニーニャは言う。

「お得意様の寿命が長引くようにね」と、虫肉屋の主人、テス氏も言う。「トカゲ族が冬を越すのは唯でさえ大変だ」

「ありがとう。また、春に来るよ」と、ニーニャは挨拶し、虫肉屋から出た。


 大荷物を持っているので、ニーニャは走らないように、慎重にシダの森を進んだ。自分の体を包みこめるくらいの布いっぱいの荷物は、一欠けらでも失うわけにいかない。これは獲物の獲れなくなる冬の間の、貴重な食糧だ。

 比較的暖かいうちは昨日のように魚を獲る事も出来るが、流石に世界を白に変える物が降って来ると、ぼろ布一枚しか着ていないニーニャも、うろの家から出られなくなる。

 白い物が降ってくる前に、普段は木の葉で仮にふさいでいる家の出入り口を、分厚い木の皮で完全に覆って、誰も入って来れなくして、家の中の暖かい空気が漏れないようにする。

 ニーニャは湿った地面を走る風が、切るように冷たいのを感じ取った。明日にでも、白い物が降って来るかもしれない。

 自宅のうろに戻ると、さっそく冬支度をした。うろの中に取ってあった木の皮で何重にも出入り口を閉ざし、その皮が内側に剥がれて来ないように、重い石を押して入り口をふさぐ。

 そうしてる間も、寝室でツァルグの呻いている声が聞こえる。尻尾を切った後なのと、今日の寒さの影響で体力が落ちているのだ。

 ニーニャは、だいどころに行くと荷ほどきをした。食料棚の中に、クルミやドングリ、そしてミツロウの塊を詰める。

 人形遊びで使うような小さなホウロウの鍋に、蓋つきの小瓶の中に取ってあった水を一滴入れ、かまどに置き、火を熾した。煮立った水の中に、一つのミツロウの欠片を入れる。

 どろりとしたミツロウのお粥を作ると、枯葉越しに鍋の縁を掴んで、半分に割ったクルミの器に入れた。

 それを持って、ツァルグの横たわっている寝室に向かう。ニーニャは、冬眠しかけているツァルグの鼻先に、「お粥だよ」と言って、器を差し出す。

 苦しみながらも、冷気の中でうとうとしていたツァルグは、湯気の香りを嗅いで、クルミの器に舌を伸ばした。温度を測るように気を付けながら、一口二口とミツロウのお粥を舐める。

「ああ、とても美味しいね」と、ツァルグは言い、うーん、と呻く。

 ツァルグは冬眠するわけに行かない。何も食べずに尻尾を再生させるほどの体力を残していないのだ。

 ニーニャは、また、だいどころに行って、水を沸かした。やはり人形遊びで使うような小さなガラスの瓶をお湯につけ、瓶の中にお湯が入り込んだのを確認してから取り出す。

 瓶の先は、エノコログサの茎で蓋をし、その湯たんぽと、さっき食糧を運んでくるときに使ったハンカチを持って再び寝室に行く。

 ツァルグと自分の間に湯たんぽを置いて、ニーニャはトカゲと自分をハンカチで包んだ。

「悪いね、ニーニャ。冷たかろう?」と、ツァルグは小さな声で言う。

「大丈夫。いつもの事でしょ?」と言って、ニーニャは小さな湯たんぽの力と、自分の体温で、ツァルグの冷え切った皮膚を温めた。


 一冬を越える間、ニーニャはツァルグの看病をした。ニーニャはナッツを齧りながら体温と命を維持して、毎日、トカゲのためのお粥を用意する。そして、湯たんぽを作って、トカゲと一緒にハンカチの中で眠りに就く。

 栄養と体温をもらいながら、ツァルグは次第に元気を取り戻して行った。再生して行く尻尾が、それを示している。

 すっかり尻尾が生え変わった日、ツァルグは冬の眠気が治まっているのを感じた。ニーニャも、ハンカチの外がなんだか温かい気がして、うろの外の様子を見に行った。

 出入り口の木の皮を少しずつずらして、片手を外に出す。雨は降っておらず、手に日光が当たるのが分かった。

 ニーニャの緑の目が、そっと、外を覗く。白い物は姿を消して、空高くにある枝には新しい芽がつき始めていた。

 冬が終わった。だけど、まだ油断はできない。

 ニーニャは、木の皮で元通りに出入口をふさぎ、ハンカチに包まったままのツァルグの所に戻って、自分のスペースにすっぽりと入り込んだ。

「白い物が無くなってた。木も芽吹いてる。あと、十四日もすれば、外に出られるかも」

「ああ、また命が伸びたねぇ」と言って、ツァルグは僅かに前足を動かし、ニーニャのくしゃくしゃの髪を撫でつけた。


 トカゲのツァルグが、小さな赤ん坊を見つけたのは九回冬を越える前の事だ。シダの木陰に丸まっていた巨大なハンカチの中で、「にー、にー」と鳴いていたのだ。

 それは母親に助けを求める声ではなく、目の前を通る不思議なものを珍しがっている、好奇心の声だった。赤ん坊の大きな緑の瞳を、ツァルグは気に入った。

「やぁ、これは美しい」と言って、恋人の家から帰る途中だったツァルグは、プレゼントにもらった山羊のチーズの包みと一緒に、ハンカチに包まれた赤ん坊を家に連れて帰った。

 ツァルグはその頃、うろの家に体のサイズがあっており、うろの部屋から部屋へ簡単に移動できた。

 赤ん坊をハンカチごと寝室に置いておいて、山羊のチーズを柔らかく煮込んだものをクルミの器に用意した。そして、寝室に持って行き、ハンカチの中の赤子に「さぁお食べ。お粥だよ」と言って差し出した。

 赤子が、湯気の熱さに顔をしかめたので、ツァルグはアロエの棘から作った串で、一口分を器から引っ張り上げると、吐息をかけて冷ましてあげた。

 ぷよぷよとしたチーズのお粥を、赤ん坊は舐めるように食べた。

「お前に名前をつけなきゃねぇ」と、ツァルグが言うと、赤子は「にー。にー。にー、にゃー」と、何か言った。

 恐らく、赤ん坊は意図してその言葉を口にしたのではないだろうが、ツァルグは返事をもらったようで嬉しくなった。「そうか、お前はニーニャか」

 こうして、トカゲのツァルグはニーニャの育ての親になった。十年を生きながらえている間に、ツァルグの体はどんどん大きくなり、ニーニャの体も大きくなった。

 ツァルグには、うろの中の家はすっかり引っ越しが必要になったが、ニーニャにとっては「快適で丁度良い我が家」であるらしい。それを知っているので、ツァルグも無理に新しい場所に引っ越そうとは言わなかった。二人で住める新しい住処を安全に探す事のほうが、リスクが大きかったのだ。

 このシダの森の近くには、「悪い巨人」が住んでおり、時々、悪い巨人は森の生き物を捕まえて行ってしまう。捕まった物がどうなるかは分からないが、悪い巨人は、自分の手元に置いておいた虫や蛇やカエルが死ぬと、それを森の中に投げ捨てていた。

 どの生き物の死骸も、痩せ細り、ガリガリになっていることから、恐らく悪い巨人の許で餓死したのだろうと察された。

 ニーニャが三つになる頃、ツァルグは出かけて行った先の恋人の家が、がらんどうになっているのに気付いた。留守だろうか? と思ったが、何かおかしい。すっきりと片付けられていたはずのうろの中は、苔が引きはがされ、壁や床にはツァルグと同じトカゲ族の爪の痕があった。

 うろから引きずり出そうとする何かに抵抗したような、壁と床を掻きむしった痕。

 ツァルグは、項垂れて恋人の家を後にした。「ああ、そうさ。早く逃げなきゃな…」と呟きながら。

 その数週間後、ツァルグの恋人は餓死した状態でシダの木陰に捨てられていた。


 九つになったニーニャは、ツァルグと同じくらいの背丈になり、魚とりの他に、アブラムシをつかまえる方法や、芋虫を狩る方法を覚えた。土の地面や木の皮に耳をつけるだけで、何処にカブトムシやセミの幼虫が居るかを見つけられるようになった。

 この事に関しては、ツァルグは特別何も教えていない。

 ニーニャも「なんとなく掘ってた場所から柔らかい生き物が出て来た」くらいに思っていたが、その生き物を殺して肉に出来ると知ってから、最初はツァルグと自分のための食餌として、芋虫やサナギをつかまえるようになった。

 ニーニャの狩りの腕がどんどん上がって行って、二人では肉が食べきれなくなった頃、虫肉を分けてあげたカマキリの紹介で、ナナホシテントウムシのテスの店、「虫肉屋」を教えてもらった。

 その店に肉を卸しに行くようになり、代わりに、保存に適していて栄養価の高いナッツやミツロウをもらうようになった。

 それから、ニーニャとツァルグは、白い物の降ってくる季節を乗り越え、もう十年も生き永らえた。

「今日はすっかり好い気分だ」と、ツァルグは言った。「外も暖かかろう、少し日を浴びに行かないかい?」

「良いよ。緑の芋虫も捕まえたいし」と、ニーニャは答え、長らく自宅の出入り口をふさいでいた石をどけ、木の皮のカーテンを開け放った。

 湿った地面は太陽の熱に蒸され、草花の香りが満ちている。

 ニーニャの心は、一気に高揚した。また、たくさんの虫肉を手に入れて、お腹いっぱい食べれる日々が始まった事と、ツァルグと外に出かけられるようなった事が嬉しかった。

 二人は、シダの森の中でも、安全な東のほうに行った。日に照らされた岩場が多く、ツァルグが体を温めるにはもってこいの場所だった。

 ぽかぽかと、昼前の暖かい日差しを浴びて、ツァルグもようやく生き返った気分になった。

「そうだねぇ」と、ツァルグは言い出した。「ニーニャ、お前は、誕生日プレゼントってものを知ってるかい?」

「知らない」と、一緒に日向ぼっこをしていたニーニャは答える。

「そうだろうね。お前にはこの習慣を教えた事が無かった」と、ツァルグは言う。「私が、自分にぴったりの鍋や空き瓶を持っている理由を教えてあげよう」

 ツァルグは、「悪い巨人」の家に住んでいる、唯一の森の仲間の味方を教えてくれた。ツァルグがミーニーと言う名前で呼んでいる、黒猫だと言う。

「彼女は気に入った道具を家の外の隠れ家に置いておく癖があってね。ずっと前に私が住処にしていた、レンガ塀の割れ目にも、随分と色んな道具を提供してくれたんだ。それに、ミーニーは少しばかり記憶力が悪くてね。私に預けた道具の事はどんどん忘れて、新しい道具を次々に持ってくるんだ。私が、『こんなに預かり切れないよ』と言ったら、ミーニーは『今日は貴方の誕生日』って言うんだ。それで、私の誕生日は年に20回くらいあるんだ」

 それを聞いて、ニーニャは空気を吐くように、フフッと笑った。


 日差しの中に、黄色と黒の縞模様の虫が飛んできた。細く引き締まった殻に覆われた体を持つ、透明な羽の昆虫。

「ははぁ、新参のベスパが来たね」と、ツァルグはスズメバチに気づいて言う。「ニーニャ、少し草の間に隠れて居なさい」

 ニーニャが、言われた通りにフキの傘の下に隠れると、ツァルグとベスパは何かやり取りをして、ベスパ達は森の奥の方に飛んで行った。

「なんて挨拶したの?」と聞こうと思って、ニーニャが草むらから出ようとすると、突然、意味の分からない大きな声と影が頭の上から降ってきて、ツァルグの体が宙に浮いた。

 ニーニャはフキの葉の陰で縮こまった。

 ちらりと覗くと、ツァルグは、「悪い巨人」に、後ろの片脚をつかまれている。巨人は訳の分からない事を叫びながらツァルグを振り回し、自分の住処のほうに走って行った。

 何がどうしたんだろう、と、ニーニャは思った。そして、大変な事件が起こったのだと言う事に気づくまで、フキの葉の陰で辺りを見回していた。

 ツァルグが悪い巨人に捕まった。恐らく、餓死するまで悪い巨人の家に閉じ込められるのだろう。

 そう気づいて、ニーニャは突然怖くなった。日射しから隠れるように、草の間を走って、自宅のうろに逃げ込んだ。胸の辺りで、何かが激しく動いている。日射しの影響ではない冷たい汗が出てきて、喉がカラカラになって、息が苦しい。

 混乱したニーニャは、つい昨晩までツァルグと一緒に包まっていたハンカチに潜り込んだ。これは悪い夢だ。眠って起きたら、ツァルグが「ねぼすけだね」と言って起こしてくれるんだと思った。


 日差しが傾く頃、眠りから覚めても、ニーニャは一人きりだった。眠って起きたため、混乱とショックは治まっている。ツァルグを助けなきゃ、と、ニーニャは思った。

 ニーニャは、小さな頭の中で何度も「ツァルグを助ける方法」考えた。だけど、実際に行動してみないと、何も分からない事が分かっただけだった。

 悪い巨人の家には、ミーニーと言う黒猫が居る。彼女は、きっとツァルグを気に入っていたはずだ。なんとか、ミーニーと会って、ツァルグを助ける手がかりを得よう。

 そう思って、ニーニャは「悪い巨人」の家のある方向へ、シダの森の中を走った。


 悪い巨人の家の出入り口は、重たそうな木の扉が付いている。そして、その扉の一ヶ所に、四角く縦長に切られた小さな押戸が付いていた。ニーニャは、なんとかその押戸から入り込めれば…と思ったけど、いくら力を込めて押しても、戸は開かない。

 他の出入り口を探さなきゃ、と思って、悪い巨人の家を遠くからも近くからも何度も見回した。巨人の家には、屋根の上に窓が付いているらしい。地面の網に向かって開いている、壁を這うプラスチックの筒が、おあつらえ向きに屋根の上に伸びていた。

 ニーニャには、そのプラスチックの筒が何なのかは分からなかったが、それは雨樋と言う、屋根にたまった雨水を一定の場所に流すための仕組みだった。

 雨樋の内側に入り込んで両手と両脚を突っ張りながら上に向かう。最初は小さかった頭の上の光がどんどん大きくなって行って、ニーニャは雨樋の筒の中から、雨受けの所に頭を出した。

 脚を突っ張ったまま体を雨受けの中に引き出し、巨人の家の屋根に辿り着いた。それから、ニーニャはさっき見つけた、屋根についている小さな窓に向かった。

 換気をしているらしい窓から見下ろすと、室内は全面にタイルが張られて、寝そべったら心地好さそうな巨人用の器と、壁から長く伸びているホースの先を、丸いもので覆った何かがあった。

 ニーニャは、ジャンプして掴まれそうなところを探した。あのホースの先端は、丸っこいから着地点にはふさわしくない。何処か、取り付いて体勢を整えられる場所は? と探して行くと、寝そべられる大きな器の周りにあるカーテンレールが目に入った。

 あの場所なら大丈夫。そう思って、ニーニャは天窓の縁に手を掛けると、ブランと空中にぶら下がり、振り子のように体を揺らして落下し、カーテンレールをつかんだ。つかむと同時に体を引き寄せて、腹で衝撃に堪える。ニーニャの軽い体でも、衝撃は思ったより強かった。

 手から力が抜けて、ずるずる滑る半透明のカーテンを握ろうとしては手を滑らせ、床まで滑り落ちた。床は少し濡れていて、着地したニーニャの足元と、ぺたんとついた尻をわずかに湿らせた。

 不快感から、ニーニャはすぐに立ち上がって、そのタイル張りの部屋からの出口を探した。ガラスでできている扉は締まっていて、今のところ何処にも抜け道はない。

 誰かの足音が聞こえてくる。ズシンペタズシンペタと言う、不思議な足音。巨人のものだろうか。ニーニャはタオルの詰めてある棚の陰に隠れた。

 やがて、音を立てて部屋の扉が開いた。スカートを履いている巨人が、部屋の傍らに在った棒で、天窓を閉めようとした。

 今の内だ、と思って、開けっ放しの部屋の扉から、ニーニャは逃げ出した。


 タイルの部屋から出た先は、板張りの廊下だった。ニーニャの体重だと、床板は鳴りそうにない。遠くの扉から、大勢が騒ぐような歓声が上がっている。でも、その声はとても遠くから聞こえているように小さい。

 細く扉が開いていたので、ニーニャは廊下の奥に行って、様子をうかがった。

 四角い光る物の中で、ニーニャ達より少し大きいくらいの「人」が走り回っている。白と黒の丸い物を追いかけているようだ。その光る物の手前にはずっしりとした寝椅子があって、そこに二人の大型の巨人と、一人の小型の巨人が座り込み、熱心に光る物を見つめている。

 光る物の中の小さな人が丸い物を蹴る。それが網で出来た変な囲いようなものに入ると、さっき聞いた潮騒のような歓声が光る物から湧き、同時に三人の巨人も大声を上げて手を叩いたり、口笛を吹いたりした。

 ニーニャは、そのうちの一人。比較的小型の巨人が、ツァルグを連れ去った悪い巨人だと分かった。

 しかし、ニーニャは、その巨人の膝に、首輪をした黒猫が座っていることに気づかなかった。


 小型の巨人の後をつけて、ニーニャは巨人の部屋まで行った。扉が開いて閉まる一瞬の間に、部屋に滑り込む。一度物陰に隠れて部屋を見回すと、内部は棚に水槽や虫籠がたくさんあった。

 小型の巨人は、机の前の椅子に座り込んで、机の上に在った板を触り始めた。巨人の触り始めた板は光り出し、何かの規律性のある音が聞こえて来て、ピョコン、ボコン、ドカン、等と音が鳴っている。

 巨人が何かに熱中している間に、ニーニャは部屋中のケースを見て回った。

 ほとんどのケースは空だったが、大きな蜘蛛が入っている虫籠があった。

「あの…聞こえる?」と、ニーニャは囁き声で蜘蛛に話しかけた。

「聞こえるよ。この箱は通気は良いんだ」と、オオグモは答えた。

「僕の友達が、此処に連れて来られたかもしれないんだ。尻尾の青いトカゲ。ツァルグって言うんだけど…」と、ニーニャが言いかけると、オオグモは「此処に来る奴等と、自己紹介をしたことは無いな」と返事をした。「だけど、今日の昼間にトカゲが一匹連れて来られたのは知っている」とも。

「たぶんそれだ。そのトカゲは、どの箱に居るか分かる?」

 そうニーニャが聞くと、オオグモは「まず、私を此処から出してくれんかね。何、一人で逃げようって気はないさ」と言った。

 ニーニャは、オオグモの閉じ込められていた虫籠のレバーを九十度持ち上げて透明な扉を開けた。

 堂々とした大柄な蜘蛛は、ゆっくりと扉から出てきた。「トカゲの入ったケースは、巨人の机の隣の棚に在る。私が巨人を驚かしてる間に、連れて行きなさい」

 ニーニャは「分かった」と言って頷き、巨人に気づかれないように、ベッドの下や物陰を伝って、巨人の机の隣に置いてあった棚のケースに向かった。

 その棚には一定の間隔で手を掛けられる穴が開いていて、上りにくいが梯子のような作りに成っている。ニーニャは、部屋の明かりの陰になっている棚の側面を上り始めた。

 オオグモが、反対方向から、巨人の足元に近づく。そして、怒りを込めたのか、それとも単に巨人の気を引こうとしたのか、その足に噛みついた。

「痛い!」と言って、巨人は足元を見た。そしてオオグモを見つけ、「あ。逃げてる」と言った。

 その隙に、ニーニャはケースの中にツァルグが居ないか確認した。鮮やかな青い尻尾。居た。

 そして、そのケースの出入り口を探した。オオグモの入っていた虫籠とは違って、プラスチックの丈夫な蓋が付いている。ニーニャは、棚の傍らに置いてあった本を上り、ケースの角に手を掛けた。

 ぎしっと、ニーニャやツァルグに聞こえる程度の音がして、蓋が少し緩くなる。ニーニャは不安定な足場を歩いて、もう反対側のケースの角に手を掛けて、渾身の力を入れて引き開けた。

 カパッという、空気の音がして、ツァルグを閉じ込めていたケースが開いた。ツァルグは、つるつるのケースの内側を這って、後足を伸ばせる所まで登り、ニーニャが伸ばした手をつかんで外に逃れた。

 その間、オオグモはずっと巨人の気を引いてくれていた。

 ニーニャとツァルグは、視線を合わせて頷いた。オオグモを置いて行くわけに行かない。そこに、ドアのレバーをガチャつかせる者が現れた。

 柔らかい体を持った者が、何度もジャンプする音が扉の外で鳴っている。

 やがて、ドアレバーががたりと下り、部屋の戸が開いた。柔らかい身体を持った、毛皮の黒い猫が入ってくる。ミーニーだ。

 ツァルグとニーニャは、夫々の方法で密かに棚を降り、ミーニーに近づいた。

「ミーニー。手伝ってくれ」と、小さな声でツァルグは呼びかけた。

 猫族は耳が良い。ツァルグの、囁き声より小さな声を聞き、ドタバタしている巨人と、その手をすり抜けているオオグモの足音を聞きつけ、事態を察したようだ。

 ミーニーは、敢えて甘えた声でにゃーんと鳴いた。

 猫が入ってきたのに気付いた巨人は、「お前の餌にして良いから、あれを捕まえてよ」と、猫の体をオオグモの前に持って来て申し付ける。

 ミーニーは何でもないようにオオグモに近づき、オオグモが警戒する範囲に入った直前に、その尻のほうの肢を咥えた。

 細く開いた扉の前で待っていたツァルグとニーニャは、一瞬早く逃げ出す。ミーニーも、オオグモを咥えたまま後をついてきた。

 尻尾を高くあげ、「付いておいで」のサインを出しながら、ミーニーは玄関に急ぐ。

 玄関の大きな扉の下のほうに、四角く切られた猫扉がある。外に居た時のニーニャが押してみても、びくともしなかった扉だ。

 ミーニーが扉に頭を近づけると、首輪の下の磁石が反応して、猫扉が開く。

 ミーニーは、ツァルグとニーニャが猫扉を潜るのを待ってくれた。

 ようやく逃げ出した巨人の家を、振り返る事も無く、ツァルグとニーニャ、そしてオオグモとミーニーは、シダの森に辿り着いた。


 それから、ツァルグとニーニャは森の東に日光浴に行くのをやめた。悪い巨人達は、一度獲物を獲った事のある場所を覚えていて、何度でもそこに立ち寄る事があると知っていたからだ。

 シダの森に住むようになってから、オオグモは小さな虫を取って食べていたが、ニーニャから、テスの「虫肉屋」を教えてもらい、一緒に虫肉狩りをしてくれないかと持ち掛けられた。

 自分の腹をいっぱいにするより大量の虫肉には興味が無かったが、オオグモはニーニャの不思議な行動に興味を持った。

 狩りをして、それを「保存できる別の食べ物」と交換して、オオグモが体験した事のない「冬」と言う気温の低くなる季節を乗り越え、命を長らえる暮らしをする、と言う行動だ。

 狩りを手伝う間、オオグモはニーニャが走り回る速さに合わせていたが、やがてそれが億劫になったので、「背に乗りなさい」とニーニャに言いつけ、ニーニャの数倍の速さで森の中を飛び回った。

 蜘蛛族は俊敏だ。長距離を一瞬で走る事は出来ないが、一定の短距離ならパッと身をかわすことが出来る。

 ニーニャは、自分が走るよりずっと素早く移動するオオグモのスピードに、ドキドキワクワクした。

 最初は唯ワクワクしていただけだったが、やがてニーニャの目は、素早く動く視界の中に獲物が居るのを見つけられるようになった。

 ニーニャにとっての陸の獲物は、物言わぬ肉団子である、幼虫やサナギ、そしてミミズや芋虫だ。言葉が通じる相手は獲物ではないと、幼い頃からの経験で分かっていた。

 言葉が通じるものを獲物として危害を加えて、もし逃がしてしまったら、シダの森全体にニーニャを恐れる噂が広まってしまう。そうしたら、虫肉屋にだって肉を卸しに行けなくなるし、今まで挨拶をすれば対等に接してくれたカマキリやベスパ達だって、ニーニャを危険視して危害を加えてくるかもしれない。

 そんな事を考えていたと言うより、何となく察していたニーニャは、これから糸を吐いてサナギに成ろうとしている芋虫を見つけた。

 自分の髪の毛を編んで作ったロープに、イガの針を取り付けたものを鋭く投げ、芋虫の目を貫く。「ヘルメ。停まって」と、オオグモに呼びかけ、痛みとショックで草の葉の裏から落ちて来た立派な芋虫にとどめを刺し、オオグモの背に乗せる。

「だいぶ大荷物だ」と、蜘蛛は言う。ニーニャも答えて、「すぐに虫肉屋に行こう」と蜘蛛に声をかけた。


 ひまわりの花が咲き、種が実り、太陽の熱でその花も焼け朽ちて行く頃だ。

 シダの森で小さな集会があった。いつまでも沈まないんじゃないかと思わせる夕日の中で、少し涼しくなってきた夜風にあたりながら、ツァルグとニーニャとオオグモのヘルメと、年よりのカタツムリのスネイル、そして森の西に住む「女戦士」達の一人、スラが集まって話をしていた。

 スラ達は、ニーニャより体が大きく、悪い巨人の家から盗んできた武器を使うことが出来る。斜めに割った金属の側面に刃が付いているナイフを、ツルクサではなく生き物の皮を加工したベルトにいつも取り付けている。

 主に、この集会は、森の番人である女戦士達に、シダの森で起こった事件を知らせるために催されていた。

 その時の森の集会では、ツァルグは自分がさらわれた時の様子、ニーニャは悪い巨人の家の中の様子、オオグモは自分が暮らしていた暖かい国の様子、スネイルは自分のみじめさとブドウ園で一等の扱いを受けるカタツムリの様子の空想を話した。

「スネイル。その話は50回目だ」と、スラは文句をつけた。それから、ニーニャのほうを見て「しかし、小人。お前が巨人の家に行って、生きて戻って来るとはね」と言う。

「ミーニーと、ヘルメのおかげだよ」と、ニーニャが言うと、スラは「だろうね」と答えた。

 スラは、西の森で新しく勢力を伸ばしてきている新種の鼠の危険性を皆に伝えた。

「野鼠や、山鼠なんてものじゃない。大きな奴だと、子猫くらいあるんだ」と言って、スラはその大きさを示すように、両手を大きく円く振ってみせる。「新しく出来たセメント製の沼川を通って、此処まで来たらしい。奴等に、この辺りが荒らされなきゃ良いんだけど」

「せめんとって何?」と、ニーニャは聞いた。

「巨人達の使う、石の粉を練って好きな形にして固めた物だ」と、スラは言う。「新しい沼川も、今までの沼川と同じで、巨人達が作ったんだ。その沼川の水は、ボラの中に落ちて行ってる。地面の底にも、洗剤の混じった水が流れるようになってる」

 ボラと呼ばれているのは、沼川の水が流れ込む、普通の生き物は何も住まない水溜まりだ。水は巨人達の作った沼川から一時的にボラに集まり、網状になっている地面の中に吸い込まれて行く。

「小人。もしお前が、大型の鼠に遭遇しても、戦おうなんて思わないほうが良い。私達でも、二人以上いないと苦戦するから」と、スラ。

「うん。嚙み殺されないように気を付ける」と、ニーニャは答えた。


 その晩はニーニャにとっては非常に寝苦しかった。風の通らない場所に居ると、うだるような暑さが襲ってくる。おまけに、夢の中で「猫のように大きな鼠」に追い回されていた。

 うなされて目を覚ますと、ニーニャはいつものハンカチの中に丸まっていて、近くの苔の上ではツァルグが眠っていた。大鼠に追い回されていたのが夢であった事が分かり、フーッと息をついた。

 花をつけた西洋タンポポくらいに体の大きな女戦士達でも、二人以上いないと敵わない鼠。そんなのが森を徘徊するようになったら、安全な場所なんて何処にあるんだろう。

 ニーニャはそう考え、暑苦しいハンカチの中ではなく、ふわふわしたハンカチを叩いて凹ませ、その凹みの中に体を丸めて横たわった。

 ヘルメは自分の家になりそうな場所を見つけたらしいけど、どうやって鼠から身を護るんだろうか。

 そんな事を考えながら、再び眠気が湧いてきそうになった時、ニーニャは何かの声を聞いた。高く細い声で、メロディーを歌っている。

 なんだろうと思って、ニーニャはツァルグを起こさないように、そっとうろ家の外に出てみた。

 月光が注ぐ中、歌声は誘い掛けるように静かに響いてくる。シダの森を少し進むと、月影の射す場所に花畑があった。その花畑の端に、一輪の白い百合がぼんやりと輝いている。

 細い声のメロディーは、その花の根元から聞こえてきた。

 ニーニャは、胸の辺りがドキドキした。ヘルメの背中に乗って走る時のドキドキに少し似てたけど、もっと仄かな、むず痒いような胸の高鳴りだった。

 白い百合に近づくと、誰かの姿が見えた。百合の花と同じ白い髪と、乳白色の肌の体が浮かび上がる。ニーニャと背丈の近い、女の子のように見えた。

「君は、誰?」と、ニーニャは声をかけた。途端にメロディーは止まり、女の子の姿は闇の中に掻き消えた。

 ハンカチの上で目を覚まして、ニーニャは「あの女の子は夢だったのかな?」と思った。

 ツァルグに話そうかどうか迷っているうちに、ツァルグが「朝ご飯が出来るよ」と呼んだ。

 何年も生きてるトカゲにとっては少し窮屈なだいどころでツァルグが料理をしている。殻の中でぶよぶよしている幼虫の肉を輪切りにして焼いたものが、椿の葉の皿に乗せてサーブされた。

 表面の焼けた幼虫の肉は、ミツロウのほのかな甘みと殻の香ばしさと溢れ出る肉汁がとても美味しい。

「夏って、本当にいい季節だね」と、ニーニャは言った。

「そりゃそうさ。みんな、暖かさに守られているからね」と、ツァルグはトカゲらしい意見を言う。「ほとんどの生き物は寒さに怯えなくて良いこの期間に、次の世代の命を残す。この幼虫達だって、本当は今頃セミになるはずだったんだ。セミになって恋歌を叫んで、子供を残して…とね」

「僕達って悪いことしてるのかな?」と、ニーニャは複雑そうに言いながら、肉を噛む。

「食べることを悪い事だと思ったら、生きていけないね」と、ツァルグは同じく肉を噛みながら言う。「生きるには食べるしかない。そして、食べられる物って言うのは大体生きている物だけだ」

「難しいね」と、ニーニャは言って、最後の一欠けらを口に放り込んだ。


 最初の女の子の夢を見てから、ニーニャは毎晩同じ夢を見るようになった。眠っていると細く高い声のメロディーが聞こえてきて、その声の場所に行くと、決まって白い百合が咲いている。

 白い百合の根元には白い女の子がいて、声をかけると消えてしまう。そして、ニーニャは自宅のうろのハンカチの上で目を覚ます。

 何度も同じ夢を見るので、ついにニーニャはツァルグにその話を打ち明けた。

 ツァルグはトカゲ族なので、表情は作らない。しかし、長い付き合いから、ニーニャにはツァルグの顔が「緊張している」のが分かった。

「ニーニャ。次にその夢を見ても、声のする場所に行っちゃいけないよ?」と、ツァルグは言う。

「何故?」と聞くと、ツァルグはニーニャの片手を取り、首を横に振った。

 それ以上は聞くな、と言うサインだ。

 ツァルグが「聞くな」のサインを送る時、それはシダの森の秘密に関わっている、言葉にしてはいけない重要な事をニーニャが聞いた時だ。

 ニーニャは、黙って頷いた。

 次の晩、眠っていたニーニャはまたあの細い声を聞いた。声を聞いただけで胸がドキドキ言い始め、あの女の子の姿を目にしたいと思ってしまう。

 だめだだめだと念じながら、ニーニャはハンカチの中で布を両耳に当て、その上から両手でふさいだ。だけど、美しいメロディーは頭の中に鳴り響く。

 眠りの中に戻ったはずだった。だけど、ニーニャはいつの間にかうろの外に出ていて、白い百合のほうにフラフラと歩いていた。

 意識は夢うつつで、いつもなら声をかける所でも、声を発せなかった。女の子の影が、段々はっきりと見えてくる。今にも脱力しそうになりながら、ニーニャは女の子の瞳の色が分かる場所まで辿り着いた。ニーニャと同じ、透き通った緑色の瞳。

  しなだれるように、ニーニャは女の子の肩に首を預けた。「君の名前は?」と、囁いた。女の子は、「リタ」と答えた。そしてニーニャの体を抱擁し、聞いてくる。「貴方の名前は?」

 ニーニャが答えようと唇を動かした瞬間、女の子の背のほうに在った白い百合の茎が折れた。それと同時に、女の子の姿は悲鳴と共に掻き消えた。

 ドサリと、支えを失ったニーニャの体が土の上に倒れ込む。

「小人!」と、女戦士の一人、リオドの声がする。「しっかりしろ。これを飲め」と言って、リオドはニーニャを助け起こすと、その口に固まった蜂蜜を含ませた。

 気付け薬を飲み込んでから、ニーニャは自分が死にそうなほど疲れ切っているのに気付いた。

「リオド…。なんで、此処に…」と、途切れそうな声で聞くと、ニーニャの軽い体を横抱きに持ち上げ、リオドは「ツァルグから頼まれたんだ。ニーニャを妖精から守ってくれと」と言った。

 ニーニャは、リオドの腕の中から、ナイフで茎を切られて折れた白百合を見た。

 ニーニャは、一度目を瞬いた。そして、黙ったままリオドに連れられ、自宅のうろに戻った。


 妖精「リタ」に逢ってから、ニーニャは憂鬱に悩まされるようになった。クシャッと潰れたハンカチの上に寝ころんだまま、行動する気が起きない。

 ツァルグが聞いていない時に、何度も「リタ」と声に出して呟いてみた。しかし、少女の姿は復活するわけではない。

 リタは死んでしまったのだろうか。いや、百合の花は地面に球根があるはずだ。それなら、来年また花をつければ、またリタに逢える? と、夢のようなことを心の中で繰り返した。

 今度出逢った時は、きっと僕の名前を告げて、それから…。それから、僕はどうなるんだろう。

 ニーニャは考えていた。

 リタに触れただけで、死にそうなほどの力を失った。あのまま、彼女の抱擁を受けていたら、僕はどうなっていたんだろう。

 そんな事ばかり考えていると、ツァルグがナッツとミツロウの欠片とミントのお茶を持ってきた。

 最初は焼いた虫肉を持って来てくれていたのだが、ニーニャが「食べたくない」と言うので、このメニューになったのだ。

 のそりと起き上がり、ニーニャはナッツを齧る。ミツロウを一口二口食べて、「もう良い」と言って、お茶も飲まない。

「何も飲まないと、干上がってしまうよ。夏だって言うのに」と言っても、「別に良い」と言って、ニーニャは、また幻の少女の夢想にふける。

 ツァルグは腹を立て、カップに湯冷ましを汲むと、寝転がっていたニーニャの横顔に、ばしゃっと水を浴びせかけた。

「少しは頭が冷えたかい?」

 ツァルグが皮肉を言っても、水にむせながら、ニーニャはハンカチの上から起きない。

「自分を殺そうとした者に会えなくなったのが、そんなに悲しいのかい?」と、ツァルグは聞いた。

 ニーニャはしばらく答えなかったが、横たわったまま「死ぬべきだったんだ」と呟いた。「僕は、自分のつがいを見つけたんだ。あの子に命を与えて、僕は死ぬべきだったんだ」

 それを聞いて、ツァルグは「カマキリだね」と言った。

 言葉の意味が分からず、ニーニャは黙った。

 ツァルグは続ける。「雄は雌の所に行って、子孫を残すと雌に食べられる。カマキリの雌にとっては、雄は唯の『自分より体の小さい虫』なんだ。ニーニャ、あの妖精にとって、お前は唯の『栄養』なんだよ」

 そう言ってから、ツァルグはニーニャに水をかぶせたコップを、わざと木の壁にごつんとぶつけた。

「でも、ニーニャ。私にとっては、お前は家族だ。何年も一緒に命を長らえた、仲間なんだ。この違いが分からないんだったら、このうろから出て行きなさい」

 そう残して、ツァルグは寝室を後にした。

 ニーニャの乾いていた目に、涙が滲んだ。

 いくら名前を呼んでも、「リタ」のために命を差し出しても、彼女の心は僕と同じにはならない。リタにとっては、僕は唯の養分。取るに足りない、唯の土くれと同じなんだ。

 ハンカチに包まったまま、ニーニャは声を押し殺して涙を流した。何故涙が出るのか、理由は分からないまま。


 夏が終わる頃、ツァルグ達の住んでいた木のうろから、荷物が運び出されていた。

 オオグモのヘルメが、木の皮に包まれた荷物を持って、森の中をゆっくり移動している。行先は、少し南のほうの、どうやら木の根の下らしい。

 昔、兎が住んでいたと思われる、蜘蛛には十分な広さを持った空間に、荷物を下ろす。それまで運んできた荷物を、誰かが丁寧に解いて、兎穴の中の内装を整えていた。

 灰色のぼさぼさの髪と、土と砂で汚れた灰色の皮膚をした、フキの葉を雨傘にしたら丁度良いような、小さな男の子。ボロボロの灰色の服は少しつんつるてんだが、笑みを浮かべた口元の両側で、頬がほんのりピンク色に染まっている。

 此処で、彼等は新しい生活を始めるのだ。

 黒猫のミーニーが、彼等にはサイズの合う、人形の家の家具を持って来てくれた。それから、男の子の体を覆うのに丁度良い、大きなタオルの切れ端も。形が合うように切って、腰をツルクサのロープで止めれば、新しい服が作れるだろう。

 唯のがらんとした「洞穴」だった場所に、石や土や木の皮で仕切りを作って、床には枯葉と木の皮のカーペットを敷いて、部屋ごとに暖かさを保てるようにした。

 新しい水瓶であるミルクの空き瓶と、手頃な石を集めて新品のかまども用意した。

 もし、悪い巨人がその家を覗きこんだら、誰がこんな所で人形遊びをしているんだ? なんて思うかもしれない。

 その、少しだけ広くなった家に、トカゲのツァルグが来た。「やぁ、やっと着いた」と言って、サラサラとした砂の床にどっかと座り込む。

「用事は済んだの?」と、男の子は聞く。

「ああ、もちろんだ」と言って、ツァルグは抱えて来た枯葉の包みを開けた。

 そこには、女戦士達からもらった、男の子の手に丁度良いナイフが包まれていた。

「すごい。綺麗だね」と、男の子は言い、トカゲからナイフを受け取って、その光を鋭く返す刃の美しさに見入った。

「10歳の記念だ」

 ツァルグは言う。

「お誕生日おめでとう、ニーニャ」と。

 灰色の男の子は、髪の隙間から見える緑色の瞳を輝かせて、微笑んだ。

 今年も、一匹のトカゲと一人の男の子は、同じねぐらの中で寄り添って眠っている。

「小説家になろう」での、短編第一作目になった、「シダの木陰で」ですが、フキの葉の下に隠れられるくらい小さな男の子、ニーニャの青春記ですね。

僕としてはローファンタジーであると思っているのですが、ジャンルを見るとヒューマンドラマに近いのかと、僕本人も意外に思いました。

世界観がファンタジーなだけで、その中で行動するキャラクター達は確かに、人間くさくてほほえまし連中です。

一見してシダの森の虫達に悪い事をしている「悪い巨人」ですが、巨人達は巨人達で「普通」に暮らしているんですよ。

捕まえた生き物を玩具にして餌もあげずに殺しちゃうなんて、なんとも「人間くさい」でしょう?

沼川に汚染されつつあるシダの森で、ニーニャ達は、これからもたくましく生きて行くでしょう。

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