名もなき人達へ
【紡ぎあう絆】企画参加作品。完全なフィクションです。
いつの間にか雪が降っていた。
今日は陽が差し込まないなと窓をのぞいたら、空が近い。灰色の雲がやけに低いからだろう。頭のすぐ上に圧し掛かれている気がする。
視線を逸らすと窓に白いものが付いていた。淡々として細いガラスが絡んだようなものが、いつの間にか水となり伝わり落ちてゆく。これが音を吸収してしまう柔らかい雪の結晶だろう。音田千尋の住む地方ではあまり降らないから見たのは久しぶりだった。
結晶はふわりと窓の外を舞っていた。
「暗いと思っていたらやっぱりか」
後ろから声がした。
「この分じゃ積もりそうね」
松田良美だった。マスクをして表情はわからない。腕で身体を包み込むようにしている。
「そうなんですか。雪って私は、あまり私は知らなくて」
「千尋さんは遠くから?」
「ええ。東京の系列病院から。コロナでの手術避難民ってことになるかな」
病院の中は二十五度に設定されており、二十四時間換気と落ちないようにはめ込み式の窓になっていた。
断熱され、患者はパジャマ姿で過ごすことが多い。快適ではあるが、どこか違う世界の隔離された部屋のようだった。特に今日は温度差のせいか窓に水の薄い膜が張っており、余計に疎外感が部屋に満ちている。
このA病院は癌のホスピスも併設されている専門病院だった。
「大変ね。地元を離れたら」
「どっちにしても今はコロナでお見舞いもお世話も無理でしょうから同じよ。誰も来ない。独りよ」
「……そうね」
彼女は細くつぶやいた後、窓の外に目を彷徨わせていた。どこを見ているかはわからない。が、唇を噛んでいる。故郷への思い出を探しているような気がした。
千尋はガラスに手のひらを当て、左右に動かした。
掌はすぐに水で濡れる。幾筋も水の筋が窓に流れた。
「えっ、何するの。子供みたいなこと」と松田良美は驚いたように言った。
「温度差で曇っているからね。もうちょっとはっきり見たいんです。積もっていく所」
千尋はうふふ、と笑った。
千尋と松田良美は偶然にも同い年だった。ベッド脇に貼られた生年月日は三か月違い。同じ四十八歳で血液型も同じ。彼女は少し入院が長いせいか、あまり表情がなく、自分の症状は話さない。だけど同室ゆえに知ってしまうことも多い。
「ここは暖かいし天国やね」
この声は関西から来たという真中沙由美だ。彼女は五日前に、肺癌の手術をしたという少し先輩だった。年齢は確か七十二歳だ。
「千尋さんは手術、明日だっけ」
「はい。今晩はご飯抜きです」
「それは辛いわぁ」
声は明るいがカーテンは閉められている。記憶の中の彼女はいつも眉を顰めていた。
病室の壁紙はモスグリーン。薄いベージュのカーテンと共に血の染みが残っていた。
「少し……怖いです」
「まあねえ、身体を切るのだからね。けど千尋さんはまた初期だからなんとかなるって」
「……転移はしていますけど、ね」
「気合で治せるって」
「そう、ですよね。年金もらえるまで頑張りたいです」
四人部屋にいる三人は何らかの〈癌〉を孕んでしまっている。真中沙由美の声は手術後、枯れて来ていて、最近はざらりとした砂がまじっているような音になっている。
普段なら会うこともない患者同士だろうがコロナで転院して来た。かかっている病院が病床を提供したため、移動したのだ。松田良美も音田千尋も、そして真中沙由美もみんな前向きに頑張っているよ、と表向きの顔を演じているようだ。
千尋は前向きにと一応対応するが、心の中で(無理)とつぶやいている。
三人の中で一番自信がないのは自分だろう
心はとっくに折れていた。
千尋は乳がんだ。ステージはⅡa期にあたる。それは〈しこり+転移〉期を意味していた。
自分の身体がおかしいと思った時はおっくうで、次に変だと気がついた時はコロナ渦に巻き込まれるのが怖くて病院に行かなかった。
自分が避けていたせいとはいえ、脇のしこりがリンパへ転移してしまったのは、と後悔が止まらない。コロナが流行ってなかったら、コロナが流行っていなかったら……。
いや、仕方がない。
――仕方がないんだ。こんな時に手術できるなんて幸せなんだから……
左胸は明日、全摘になる。
千尋の気持ちに答えるように雪は積もって行った。
病床から眺めるアスファルト道路の表面はもう真っ白だ。先ほどより大きめの結晶が落ちてきている。
傘をさす人にも大きな雪が乗っているように見えた。
まだ午後四時なのに光は失われたようで暗い。元々、病院裏は人通りが少ないのか街灯の置かれている距離は遠いらしい。真下にある街灯がぽつんとだけひとつ見えるだけだ。
その時、千尋のポケットから鈍い振動が微かにした。携帯だ。病院内では指定された場所でしか会話はできないが、メールのやり取りは部屋でも許されていた。
千尋は無言でチェックする。
《静香に陣痛がありました。今から病院に向かいます》
短い文面だが状況は読めた。
「……初産だから今夜か、明日かしら」
気がついたら声に出していた。
そのせいか松田良美と目が合った。
「あ、娘がね。臨月なの。どうやら陣痛が始まったみたいで」
千尋は軽く説明して、また曇った窓を手で拭いた。
暗くなったせいか街灯がついていた。そのせいか雪に轍がくっきりと見えた。自転車が通った跡だろうか。今ごろなら学生さんかも知れない。
「心配ね」
松田良美が共感してくれている。
「いいの。どうせ私は面会には行けないし。旦那さんが付いていてくれるみたい。在宅ワークらしいから」
これは不幸中の幸いというべきなのだろうか。良かった。静香は任せられる。自分に似て頑固だけど脆い所もあるから誰かがついていないと泣きだしてしまうかも知れないだろう。
そう考えて千尋は頭を振った。
「……ええと、私はもうお役御免なの」
雪が降っている。
少し風が出て来ただろうか。
「千尋さん、聞きにくいけどもしかして」
「ええ。娘は私が入院していることも知らない」
千尋は素直に認めた。
「心配かけたくないというのもあるけど、娘とは大喧嘩しちゃって連絡を取っていないの。今のメールは娘の旦那さんからよ」
誰にも尋ねられていないのに言葉がつるつると出て来た。
「娘は二十歳でね。十五も年上のバツイチと出来婚なのよ。大学中退。大切に育てたのにって私はもう大反対で。何も聞こうとせず罵っちゃった。馬鹿ね、それは子供を堕ろせということなのかって娘に反論されて……本当に私は馬鹿よ」
千尋はその娘の旦那が保証人になって入院している。そしてメールで教えてくれるのも彼だ。娘には着信拒否されてあれから声も聞いていない。
「自分の男運の悪さを娘に当てはめちゃったんだよね」
結婚させて下さいと畳に頭を擦り付けた彼は、自分の父や夫とは違って誠実だと今になって思う。
娘には幸せな家庭を築いて欲しい。彼なら大丈夫な気がする。もっと彼の中身で判断すれば良かった。
「奇しくも明日、手術とお産が重なるみたい。私はどちらでも良いけど娘は無事にすんで欲しいな」
たぶん誰かに話したかったのだろう。
千尋は窓に――遠くに目をやった。
癌は死病ではない。わかっている。だけど不安は拭えないのだ、一人は怖い。でも迷惑はかけたくなかった。ごめんねという謝罪の言葉と何で今なのという怒りが交互に来る。そして最後に考えることを放棄してしまう。
疲れた。
「千尋さん……あのね、あたしは若い時に子宮頸癌をやって子供をあきらめたの。で、今は卵巣癌よ。なんであたしばっかりと思うわ」
「……え」
「あたしはあきらめるのに慣れたけど、千尋さんはまだ早い」
「それを言うなら良美さんだって。だって私達同い年じゃない。生まれ育った場所は違うけど」
「あら、そうだっけ」
「ベッド脇に患者の情報欄って感じで貼ってあるじゃない」
「やだ。恥ずかしい。見られていたんだ」
「うふふ」
暗く重い話なのに急に照れだした松田良美に千尋は微笑めた。
人は内容に関係なく笑えるのだろう。ふと思った。
「それならワタシはあきらめて良いのかい?」
いきなりカーテン内から枯れた声がした。
「沙由美さん! あ、そんなことないですよ。年は関係ありません」
千尋は慌てて否定した。
「怒ってないよ~。ワタシは阪神淡路大震災を経験しているからねぇ。その人らの分も生きなあかんと思っとる。自分だけやったらもう命もいらんけど、生きるのは義務やね。あ、義務っていうより使命かなぁ」
「あたしは東北大震災を経験しました。わかります、わかります」
松田良美が同調した。
千尋はどちらも経験していない。頭で知っているだけだ。
「何年経っても忘れられんね。あれは。だからコロナが流行った時も『またか』としか思わんかった」
「――え?」
「人生、何かある。ワタシより上の年代は戦争を経験してるしなぁ。そりゃ大変やったと思うでぇ。事件、事故、病気、震災。生まれたら死ななあかんからな。何が来てもあんま驚かんようになった」
「そう、ですね。避けられないものはある」
確かに生まれた瞬間から死への道が始まる。確か一休宗純は〈世の中は起きて稼いで寝て食って、後は死ぬを待つばかりなり〉と言っていたっけ。
「せやけど、残せるもんもあるやろしな。戦争は平和の大切さを教えてくれたやん。震災は建物の強度や備蓄、津波の怖さや絆を残してくれた。ワタシの命は完走したら意味が見えるんやないかなと思う」
「……」
残せるもの。
千尋は何が残せるのだろうと思った。すぐに思い浮かばない。
「命は、例えば山の水が海に向かって流れるようなものかと思っていました」
松田良美がぽつんと口にした。
「あたしはそれで良いと。残せるものなんて……ない」
どうやら彼女は千尋と同じようだった。彼女は子供をあきらめたと言っていたから、余計に残すものについて考えがおよばなかったのだろう。
「それ、な。気ぃついてへんだけやで。人間はなんか残すように出来てる。次につながるモンをな。ほな、アンタらはコロナで亡くなった方らは無駄死にやと思うか?」
「いいえ」
二人はほぼ同時に否定した。
感染症の怖さや医療の取り組み方を考えさせてくれた。距離を取る対策も、心構えの甘さも教えてくれた。社会の働き方まで変えているのだ。
そういえば罹ったら死ぬと言われていた癌も薬や手術で治る時代になっている。それらは先人達の屍の上に成り立っているのだ。
コロナのワクチンや薬もきっと出来るだろう。それらは逝った人達のおかげだ。そしてその声を救い上げ努力した医療人達の。
もしかしたら娘の子供が大きくなる頃にはもうコロナは驚くこともない病気になっているかも知れない。だとしたら、それらは世界で何千万とも知れない命が残してくれたお陰に違いない。
先人達には色々とお世話になっているのに、千尋は名前も知らない。しかしその名もなき人達が次代を作る礎となっている。
完全には風化していない。
「命の川は真っすぐやない。カーブしたり他の川と合流したりしてなぁ。せやから海に辿り着くまで色々な模様を紡いどる。自分では見られへんのが惜しいけどなぁ」
真中沙由美のゆっくりとしたしゃべり方は本当に明るくて本当に残念そうだった。
「……」
千尋は松田良美と目を合わせた。彼女の瞳はひどく穏やかだった。千尋もたぶん同じだろう。
「そういえば退院したら保護猫を飼おうと思っていました。単なる夢だったんだけど実行してみようかな」
彼女が言った。
小さな命を助けたいと。
「私は――まず娘に向かい合って謝らなければいけませんね」
千尋は窓を通して静香のことを考えた。今、娘は人生が変わるような節目を迎えている。無事に産まれたら母として家族を守って行くだろう。
では千尋は千尋として何ができるだろう。
孫に恥ずかしくない人間になりたい。少しでも優しい世界になるように手伝いたい。もし、もし僅かでも命に残りがあれば。
「……あかん。柄にもなくええこと話しすぎたわ。しんどなってもた。あんたらまず看護師さんらに感謝しぃや」
カーテンの向こうで真中沙由美の咳き込む音がした。そして照れるように掠れた笑い声も。
「看護師さんか。確かに今は一番身近な人ですしね。忘れていました」
松田良美が言った。
「そうね。よく励ましてくれるのに」
駄目だな。
千尋は自分のことだけしか考えていなかったことに気づいた。一杯一杯だった。ネガティブになって不幸に酔っていた気がする。
真中沙由美の言葉はとても痛かった。
この病院の性質を考えると最後を看取った人もいるだろう。逝った人の声を届けてくれるのは彼女や彼らだ。患者の家族にとって忘れられてしまうかも知れないが、まず敬意を表さなければいけないのではないだろうか。
「病気が傲慢さを教えてくれたのかも……だったら癌も無意味じゃない。なんてね、私も結構良いこと言えるでしょ」
「千尋さん、やっぱり子供みたいよ」
「私は大人にはなりにくいタイプかしら」
命を半分あきらめた時から始まる〈生〉もあるかも知れない。
きっとそこからが試されている時間になるのだろう、自分自身に。
何を残せるのだろう、人として。
「雪、本当に積もるんですね」
「あたしの住んでいた所では屋根の雪下ろしが大変だったのよ。停電にもなったし水道管も凍るし」
「……」
「大嫌いなんだけどね。離れた今は何故か懐かしいわ」
いつの間にか轍も消え、白い世界が電灯の下、ぼんやりと浮かんで見えた。
帳が降りた夜のような中で、音が止まっている。ただ綿雲のようなものがはらりと落ちていく。
綺麗だ。
雪は恐ろしく、また危険な面もあるが、すべてを覆い隠す美しさも持っている。朝にはもっと違う風景を見せてくれるだろう。そう思うと明日の手術の怖さが吹っ切れた気がした。
孫に伝えたい。
生まれて来てくれてありがとう。世の中にはあなたの知らないことはまだ沢山ある。忘れてはいけないことも多い。
――そう、たとえば感謝の気持ちとか。一人だけで生きているんじゃないだとか。
読んでいただきありがとうございました。
色々な考え方があると思います。お気にさわったら申し訳ございません。




