第一話:新生活
ノイズが走る思考の中、厳しい訓練で身に付けさせられた気配察知の技能がゆっくりとこちらに近づいてくる者を捉えた。
どうやら、まだ自分は生きているらしい。
酷い耳鳴りと頭痛、吐き気に襲われながらも何とか上半身を起こしたアリスは、腰のナイフが無くなっていることに不安を抱きながらこちらに近づく者へと目を向ける。
その瞬間目の前に投げつけられたそれに思わず目を閉じてしまい、それが相手の攻撃ではないと言うことを一瞬後に理解して怪訝に、何かを投げつけてきた誰かを見上げた。
「……やはり、失敗したか」
聞き覚えのあるその声を発したのは、何も知らなかった自分に戦闘技術を叩き込んだ白髪紅目のあの男。
「まあ、これぐらいで死なれては困るが」
自分を通して誰かを見ていたその男は、意味ありげに口元を歪ませると膝をついてアリスの額に人差し指と中指をそっと当てる。
「ぁ…………」
「しばし眠れ。そして次に目覚めた時、お前は自由となる――――」
催眠の魔術を使われたのか、急激に襲いかかる眠気に抗えず、アリスはようやく取り戻した意識を再び手放す。
意識を失う直前、男が自分の名を口にした気がしたが、既に深い眠りに着いてしまった彼女がそれを確める術はなかった。
しばらくして目を覚ましたアリスは、木々の枝から漏れてくる朝日の眩しさに呻き声を漏らした。
まだ体の節々は痛むが、それ以外特に悪いところは見当たらず、現状把握の為にゆっくりと起き上がった。
どこかの森の中らしく、側で流れるやや増水した川が太陽の光を受けて明るく輝いている。
それをしばらくぼんやり見つめたあと、あの男が自分に何かを投げ渡してきたのを思い出し、キョロキョロと辺りを見回す。倒れていた自分のすぐ近くにあったそれは何かを詰め込んだ革袋であり、アリスは四つん這いで革袋まで移動してその中身を開いた。
中にあったのは暗殺前に渡されたものと似たような大型ナイフが一本と、2着の着替えに水筒、携帯食糧。そして革袋を開けて真っ先に目に入った手紙だ。
アリスは革袋から手紙を取り出すと、数瞬躊躇ってから折り畳まれた手紙を開く。
そこには手書きで短く、『好きに生きろ』と書かれており、あの男から解放されたことを意味していた。
「………っ、何が、好きに生きろ、よ」
アリスは声を震わせ、手紙を勢いよく破り捨てた。
はじめから利用するつもりで、自分のことすら何も知らなかった自分を拾ったのはわかっていた。あえてあの男に、あの日目覚めた頃から渇望していた何かが満たされることを期待してついていく事を決めたのだ。
形はどうあれ、アリスはあの男との生活を気に入っていた。何か足りないと感じていても、ただ依存していただけに過ぎなくとも、アリスはこれまでの生活を失いたくなかった。
「…………はぁ」
痛くなるほど拳を握り締めていたアリスは、ふと体の力を抜きため息を吐く。
結局、最後まで名を教えてくれなかったあの男を恨みはしたものの、今まで面倒を見てくれた恩もあるので心の内で愚痴を溢すだけにしておいた。一応生きる術を教えてくれた命の恩人でもあるのだ。
アリスは最早紙切れとなった手紙を一瞥すると、ややあって全ての紙片を拾い上げ、川へ捨てる。彼女なりの決別なのだろう。
それからアリスはあの男が用意した着替えの一つに着替え、一回の戦闘ですっかりボロボロになったローブを身に纏いその場を離れたのだった。
しばらく歩き続け、街道へと辿り着いたアリスはほっと一息吐いて肩に背負った革袋を担ぎ直した。そして、革袋の中にナイフを入れたままにしていたのを思い出してそれを腰元に装着し、今日中に町か村どちらかに着けるように祈りながら今度は街道に沿って歩いていく。
その最中、彼女は様々なことを思い描いていた。
初めて目を覚ました時からあの男に拾われたこと。脳裏に朧気に流れる過去の自分と思わしき、しかし今の自分と全く姿が違う記憶。男に拾われる以前のサバイバル生活に、拾われてからの贅沢ながら暗殺者としての生活。
それら全てが走馬灯の如く流れて行き、普通の生活とは全く違うことに複雑な気持ちを抱いた。
思えば、初めて目が覚めた時から普通ではなかった。それを考えれば、普通の生活が送れるはずもない。だが、アリスとしてはそんな生活でも良かったのだ。
もし暗殺が成功していたら、いつも通りに過ごせたのだろうか。自分が思い描いた形とは違っても、あの男に求めて貰えたのだろうか。
もしものことを考えると、どうしてもあの歪んでいながらも充実していた生活に戻りたくなる。だが、あの男に見限られた今ではそれは叶わぬこと。失敗すれば、殺される。あの男の側にいられなくなる。そう考えて頑張って、失敗して、自分が考えていた結果にならずこうして生きている。
そう、これからは自分の力で生きなければならないのだ。
「………どうしようかなぁ」
だが、仮にも自分は暗殺者として生きてきたのだ。普通の、所謂少女らしい生活が送れるとは考えない方がいいだろう。最悪、身体を売って生活する羽目になるかもしれない。
またあの男に拾われる前の野生生活でもしようかと考えたが、一度贅沢を覚えてしまった今では抵抗感がある。あの男がどんな立場の人間だったのか知らないが、彼はどこかの上流貴族と何ら変わらない生活を送っていた。訓練は厳しかったがそれ以外は令嬢と同じ扱いを受けていたので、そうなると、少しでも飢えを凌ぐ為に葉っぱを食べる生活をするのは果てしなく嫌だった。
どこかの貴族に取り入ろうかとふと思う。
幸い、幼いながらも自分の容姿は優れているのでそれを武器にすれば簡単に取り入ることもできるだろう。しかし、そうなるとよっぽどでない限り自分の身体目当ての貴族の下で暮らすこととなってしまう。生きる為にはそれも仕方ないのだろうが、好きでも何でもない誰かに自分の身体を好き勝手されるのを想像すると激しい嫌悪を抱いた。よってこれは最終手段として考えよう。そう考えると、自分に手を出さなかったあの男はかなりの好感が持てる。
一度、それを覚悟して望んで、身体を一瞥し鼻で笑われたのは非常に屈辱ではあるが。
ならば、ギルドの傭兵として過ごすのはどうか。
どう見ても10歳児な自分に風当たりが強そうな選択ではあるが、戦闘技術はそこらの傭兵や騎士より自信があるし、町の清掃やらお店の手伝いと言った簡単手頃なものもあるので、欲張らなければこれが一番妥当ではあるだろう。しかし……どこの一流シェフが作ったのかという美味しい料理を思い出すと、やはり悩んでしまうものがある。同時に、自分はこんな性格だったのかと知り、微かな苦笑を浮かべた。
「……やっぱり、傭兵としての生活かなぁ」
暗殺者として生きることは敢えて考えなかった。殺しに疲れたのか、それともそれを選ぶと長く生きられないということをどこかでわかっていたのか。恐らくはその両方であるだろう。なるべく普通の生活がしたい、という密かな願望があったからなのかもしれない。とにかく、彼女は暗殺者としての道を選ぶことはついぞ考えなかった。
時折休憩を挟みながら街道を歩き続け、特に野獣や賊の類いに襲われることなく、アリスはようやく見えてきた町にほっとため息を吐いた。既に日は高く登り、お昼を過ぎた時間帯だ。
だが、ようやく辿り着いたその町でアリスは重大な問題にぶち当たった。
町の少し手前に関所があるのだが、そこを通る際必ず何かしら個人の証明となるものを提示しなければならない。各町、村で発行される関所手形、もしくはギルドで発行されるギルドカードがこれにあたる。
これはどこの国でも共通の事柄で、村でもない限りこれらが提示できなければ町に入ることができないのだ。
一応あの男に色々なことを教えてもらったとは言え、それを知らなかったアリスは関所を潜ろうとして馬車に乗った商人が警備員に関所手形を提示しているところを目撃して慌てて引き返した。もしそれを見ることなく関所を潜っていたら、不法に町に入ろうとした重罪人として警備員に捕らえられていただろう。そうなった時の光景を頭に思い浮かべ、アリスは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「……どうしよう。あっ、そうだ」
もしかしたら、そんな希望を胸に抱いてアリスは革袋の中身を漁ったが、残念ながらそれらしいものは見当たらなかった。何で関所手形を用意してくれなかったのかとアリスは小さく不満を洩らし、次々に関所を潜っていく人達を見て焦りを募らせていく。しかも一度潜ろうとして慌てて引き返したのが悪い印象を与えたのか、強面の警備員さんがこちらを若干注視しているものだから、焦らずにはいられなかった。
実際、すっぽり深くローブを被ったアリスはこの上無く怪しく、どう見ても子供な容姿と相まって彼女は必要以上に注目を集めてしまっていた。
「あ、あのー……」
「何だ?」
「えと、その…………………何でもないです」
もしかしたら、臨時手形とかを発行してくれるかもしれない。そんな淡い希望を胸に、勇気を出して強面の警備員に話しかけたが、どう見ても怪しい自分の姿を思い出して自分から諦めた。
しかし、ここで諦めたら町に入れない。そう考え、もう一度アリスは警備員に話しかけた。
「あのー……その、手形を無くしてしまって……それで、できれば―――」
「なら残念だったな。諦めて村に帰るがいい」
素直にはじめから持って無いことを言ってしまえばあらぬ疑いを持ってしまうかもしれない。しかし、疑いとかの問題でなく、言葉の途中で無慈悲にそう切って捨てられてしまう。そしてその言いぐさに少しむっとしたアリスが警備員をじっと睨み付けた。その態度が警備員の感に障り、アリスを打とうと手を振り上げ―――
「お? なんだ、お前も来てたのか!」
アリスの背後から響いたハスキーな声に警備員の手が止まった。
その声に反応したアリスは、何気なく背後を振り返る。そして、見覚えのありすぎるその姿に凍りついた。
そこにいたのは、自分と似たようにボロボロのローブを纏った黒髪紅目の冒険者。それは紛れもなく、つい最近殺し合いをした人物と同じ特徴で、紛れもない本人であった。
「はい、これ俺のギルドカード。あー、こいつ俺の知り合いだから、別に一緒でもいいだろ?」
凍りついたアリスを余所に、冒険者――ミズキはギルドカードを見せて警備員の返事を待たずにアリスの肩を抱き寄せた。思わず悲鳴を上げかけたアリスだが、バランスを崩して彼のお腹にもたれ掛かった時、自分の頭に乗った何やら柔らかい二つの感触に思考を停止させ、混乱させる。
そうこうしている内にミズキは通行の許可を貰い、彼に引っ張られる形でアリスは関所を無事通過できたのだった。