第7章 『最悪』
AM3:27
綾南了は、暗い自室のベッドの上で、一晩中悩んでいた。
鳥羽綾糸の行動の意味を考えた。
復讐。――本当にそんな理由なのか。
鳥羽は、あいつの行動は――何故だ。
わからない。
いま感じている『痛み』は、鳥羽の復讐の『痛み』よりも辛かった。
それも、何倍も、何十倍も、何百倍も、何千倍も――きつかった。
もはや地獄だった。
「……ああ、くそ」
――これは最悪だ。
綾南は一晩のの末に、鳥羽を救うという答えを導き出した。
それが、どんなに間違っていても。
正しいのだから。
AM8:32
「あ、おはよう、おにいちゃん」
エプロン姿の真意が声をかけた。
台所へと朝食作りのために移動するところらしい。
「ばあちゃん、友達とゲートボールにいっちゃったから、朝ご飯は自分で作って食べろって。おにいちゃんはどうする? 効率的だし一緒に作る? あたしはハムエッグを――って、うわっ。おにいちゃん顔すごいわよ?!」
綾南の目元には、くっきりと隈がきざまれていた。
「ここ最近、あんまり眠れてなかったし、昨日は眠れなかったからな……」
「へー。おにいちゃん不眠症? 何かあったの?」
不安そうに聞く真意に、綾南はげんなり告げた。
「岡島を殺した犯人がわかった。てか、事件の全容が」
「え。ほんとに? やったじゃない!」
パッと真意は笑顔を見せたが、綾南の顔は暗いままだった。
「今日は沼場さんにその件を伝えに行こうと思ってる」
「そうなんだ。それじゃあ、その前にあたしにも聞かせてよ」
「……ん」
綾南は面倒くさそうに頭をかいた。
「じゃ、朝ご飯おにいちゃんの分も作ってあげるから、聞かせてよ。――事件の真相を」
「はあ」
綾南はため息をついて肯定の意思表示とした。
真意に続いて台所に入室した。
「さて、なにから話すかな……」
「まずは『犯人』の行動からじゃない? こういう推理ショーの定番では」
「推理ショーなんかじゃないけどな……」
フライパンに油を敷く真意に、綾南はイスに座ってしんどそうに話す。
「まず、『犯人』は岡島に脅されていた生徒だ」
「うん。それは以前から聞いてるわ」
「岡島に脅されていた生徒でなければ……体育教員室のドアの鍵を持っていなければ、扉が開かないし閉められないからな。――この条件は間違いない」
ハムを焼く真意に、綾南はだるそうに話す。
「だから、あの日、『そいつ』は岡島に体育教員室に呼び出されて、そこに行ったんだろう」
綾南が鳥羽に手紙で呼び出されて告白されていた時。
『犯人』は岡島に体育教員室に呼び出されていたのだ。
「ふむふむ。――呼び出された理由って言うのは、やっぱりカラダが目的なのかな?」
訊きながら真意は、フライパンのハムの上に慣れた手つきで卵を落した。
「……まあ、そうだろうな。――だから、もしかしたら前日とか、前々から岡島は『その娘』を呼び出していたのかもしれないな」
「なるほどね。準備をさせておいたってことね」
「そこで『その娘』は岡島の首を絞めた。――突発的に、な」
岡島の首の皮膚が切り裂かれていた理由。
それは殺害に使用した発覚してはならない『凶器』を隠蔽するため。
だから、犯行は突発的だったという推理だ。
「そこが不思議なのよね。ここまでの話しは、今までに聞いていたわ。でも、ちょっと矛盾してない? 呼び出されていたならば『その娘』は岡島先生に犯されることを覚悟していたってことでしょ。なんで突然に殺したのかしら。直前になって、どうしても嫌になったのかしら」
フライパンの卵の上に調味料のビンを振りながら、真意は眉にしわを寄せていた。
「さあな。『犯人』の気持ちは、その本人しか分からないよ」
「そうね」
真意はフライ返しで、完成したベーコンエッグをそれぞれの皿に乗せた。続いて、まな板と包丁を取り出して、トマトとキャベツを切り分ける。
…………。
「え。おしまい? 岡島先生が殺されて、もう終わっちゃったじゃない。終了なの?」
真意は包丁を握る手を止めずに、ノリツッコミのように驚いて訊く。
「……んなわけないだろ」
綾南はイスの背もたれに深く体重を預けて、げんなり話す。
「そもそも、俺はまだ岡島が殺されたとか、死んだとか、言ってないだろ」
「へ?」
切り分けた野菜を皿に飾りつけながら、真意はいぶかしげな顔をする。
「どういうこと?」
「岡島は、まだ生きていたんだよ」
綾南は立ち上がり、真意の作った朝食セットを盆の上に載せて持った。真意はお椀にジャーからご飯を装い、綾南の盆の上に載せた。綾南は二人分の朝食を持って、居間に移動しながら話す。
「『犯人』が岡島の首を絞めた後、まだ岡島は生きていたんだ。岡島は絞め落とされた、気絶した状態だった。だが、犯人はそれに気が付かずに、殺したと思って、その場から逃げ出した」
「ん? なんだか色々矛盾してない?」
「いや、矛盾してないよ」
灰本が入手した萩下冴子や菊田京助の証言。
午後七時ごろ体育教員室の照明は消えていたというのは、そういうことだったのだ。
その暗い体育教員室の中で、岡島は気絶していたのだ。
綾南と真意は居間のテーブルに朝食を並べてイスに座る。
いただきます。――食べ始める。
「いや、矛盾しまくりよ!」
少し遅れて、真意が鋭く突っ込んだ。綾南はトマトを口に運びながら聞く。
「たしか、死体が発見された時、部屋の電気は点いていたんじゃなかったかしら? 照明が点灯していたから荻上先輩が『電気の消し忘れ』と思って、岡島先生が病院で――人間ドックで――1日いないから、消した方がいいと判断して、保健室の大路先生に声をかけたのよ。――さっきの話しだったら、電気は犯人が出ていって、消えたままのはずでしょ?」
綾南は千切りキャベツを咀嚼しながら、真意の意見を聞く。
「そもそも、岡島先生の死亡時刻が矛盾してるわ。――いや、おにいちゃんの話しだと、岡島先生はまだ生きているじゃない。荻上先輩と大路先生がドア開けたら、岡島先生が気絶していて『ありゃ岡島せんせ何やってんですか?』ってことになるわよ」
真意はそこまで話して、一息入れる。
自分の皿の卵を箸でつまんで口に運んだ。
そんな真意に、綾南は告げる。
「ああ、そうだな。――だから、ここからが事件の核心だ」
――覚悟して聞けよ。
そんな綾南の真剣な注意に、真意はうっすら笑いを浮かべて「どうぞ」とつづきを促した。
「岡島先生の首を絞めた犯人は、その後また体育教員室に戻ってきたんだ」
そこでおそらく『犯人』は驚いたはずだ。
殺したはずの岡島が生きていたんだから。
「でも、なんで戻ってきたのかしら?」
「証拠を隠滅しようと思ったんだろうな。岡島の首には、絞殺痕が残っているし、体育教員室内に『犯人』の痕跡が何かしら残っている可能性もある。指紋とか。それらを始末しようとしたんだろ」
岡島を殺した『犯人』は一度逃げて、落ち着いたのだろう。
冷静になったのだろう。
殺人現場から逃走して、もう一度『日常』に触れてしまえば、その『大切なもの』を失いたくないと考えて、裏工作を目論んでも不思議ではない。
「なるほどねぇ。そこで、もう一度、岡島先生を殺したのね」と納得した真意だったが――「ん? でも、ちょっと待ってよ……それ、きびしくない? 無理じゃない? おかしいわ」
真意は再度、反論を見つけた。
「岡島先生は一度、首を絞められて殺されかけているのよ? その『相手』に。普通だったら警戒するんじゃない? また狙ってくると思って」
綾南は気分が悪くなってきた。
体調をごまかすように、半熟のハムエッグを口に運んで飲み下しながら、真意の反論を聞く。
「それに、岡島先生の死亡時刻が大幅にずれるわ。たしか岡島先生が殺されたのは、午後6時ごろのはず……。犯人がもう一度、戻ってきた時に殺したなら――」
「ああ、だが、それで間違いないんだ」
綾南は、意を決して話す。
「それが『犯人』の仕組んだ悪魔のようなトリックだよ」
「トリック?」
「ああ、岡島を信用させ、なおかつ死亡推定時刻を大幅にずらす、からくりだ」
「へー。すごい。一体、どんな方法?」
真意は嬉々として訊いてくる。
綾南は忌まわしく思いながら、答えた。
「……岡島に身体を売ったんだ。性交させたんだ」
真意はとても嫌な顔をした。
「おにいちゃん。あたし、食事中なんだけど……」
「俺もだよ。だから、覚悟しろって言っただろ……」
綾南はげんなりしながら、コップのお茶をのどに流し込んだ。
「だいたい、真意も慣れているから平気だろ。今まで散々、調理中、食事中に殺人事件の話をして、何食わぬ顔していただろ……」
「殺人事件の話と、そういう下品な話は、ジャンルが別でしょ」
まったく……。とぼやいて、真意は茶碗から白米を口に運んだ。
――平気じゃねえか。
「まあ、理由は、理解できたわ。そうやって岡島先生を信用させたのね……」
おそらく『犯人』は岡島に頼み込んだのだろう。
何でもしますから、今日の事を水に流して下さい、と。
懇願したのだろう。涙でも流していれば、痛々しく、情も涌いてくる。劣情も。
そうすれば岡島は、まさかもう一度殺害を実行してくるなど、露ほども思わないだろう。
「でも、セック……いや、それが、どうして死亡推定時刻をずらすことに繋がるの?」
口を濁して疑問を尋ねる真意に、綾南は解説する。
「ちょっと化学的な話になるんだが、死後硬直って筋肉中のタンパク質が凝固して発生するんだ。まず死亡した場合、呼吸の停止によって酸素が運ばれなくなり、基礎代謝が止まる。そうなると、徐々に体が硬くなっていく。だが、激しい運動中や直後に死亡した場合、すでにATPが消費された状態、酸素濃度が低くなり筋肉が疲労した状態になる。だから、通常よりも――」
「おにいちゃん。かなり難しい。もういい」
真意が綾南の言葉を止めた。
「まどろっこしいわ。手早く1文で説明してよ」
「……1文って……」
真意の無茶な振りに、綾南はげんなりと、ぼやいた。
綾南はランニングシューズをこよなく愛しているので、ランニングを好んで行う。ランニングは、肉体人体の知識があれば、練習効率が格段に上がる。そこで、人体的エネルギーや状態変化について、綾南は一般よりも詳しいのだ。
そんな綾南は簡潔にまとめて解説する。
「とにかく簡単にいえば、運動直後に死亡すると、死後硬直が早く強くでるってことだよ」
「うん。なるほど。その説明の方がわかりやすいわ」
真意は納得した。
「だから、犯人は岡島の死後硬直が早く始まるように、人体的仕掛けをしたんだ」
岡島は翌日、人間ドックを受ける予定だった。絶食していた。
胃の内容物から死亡推定時刻が割り出せないことを考慮した、頭脳的なトリックだ。
それに、人間的ではない。――こんな手段、普通は思いつかない。
「そして、安心そして疲労しきっている岡島の首を絞めて殺害。その後、体育教員室の痕跡――指紋とかを消して、部屋の蛍光灯をつけたままにして、鍵を閉めて出ていったんだ」
このトリックは、岡島の死体の発見が遅くなりすぎると崩れてしまう。
死後硬直が完全に解けてしまうと、大まかな死亡推定時刻しか割り出せない。
岡島は人間ドックで病院に行くために学校を休むはずだった。照明を消したままにすると、体育教員室は岡島以外の利用者がいないため、死体の発見は大幅に遅れる。だから、あえて照明を点けることで、岡島の死体を発見させたのだ。
真意が再び疑問を口にした。
「でも、なんで、岡島先生の死亡推定時刻をずらすなんて考えたのかしら? その時間――死亡推定時刻になった午後6時は『その娘』が岡島先生に呼び出されていた時間でしょ?」
「おそらく『犯人』は、その時間にはアリバイがあったんだ。いや、岡島に呼び出されていたから、前々からアリバイ工作をしていたんだ。その時間に『自分』がいないから、と怪しまれないように……」
「怪しまれないように、って一体なんで? そもそも岡島先生と密会するのをバレないようするって、どうして? 誰に、どんな理由で?」
「……『その娘』の家族にとびきりカンのいい名探偵がいて、そいつに岡島に脅されていることをバレないようにするためじゃないか?」
「おにいちゃん? いったい、何を言ってるの?」
綾南はポーカーフェイスで取り繕おうと思ったが、無理だった。
悲痛に顔を歪ませながら、
「…………ほんとは、自分から言ってほしかったんだけどな……」
――――本当は、俺が気づいてやるべきだったんだろうな……。
告げた。
「真意。おまえが岡島を殺した『犯人』なんだろ?」
……………………。
空気が止まった。
だが、ゆっくりと動きだす。
「おにいちゃん。あんまり笑えない冗談よ」
「……冗談じゃねえよ……」
二重の意味を込めて、綾南は苦しそうに言葉を吐き出した。
「だって、あたし、その時間は家にいたじゃない。――おにいちゃんも居たでしょ、聞いたでしょ? あたし、部屋にいたんだけど」
「ああ、聞いたよ。だから真意は部屋にいると思っていたよ」
その時刻、午後6時ごろ、綾南は灰本と部屋で雑談していた。
そこで隣の部屋から真意の声がした。祖母のみさこに夕食の献立を聞いていた。
そう思っていた。
――だが、しかし、
「真意。あの日の夕飯。何だったか覚えてるか?」
「え? 何だったかって、えーっと。灰本先輩が夕飯を一緒に食べた日よね…………あ、っていうか昨日の晩御飯も一緒だったじゃない。――焼き飯よ。あと餃子もあったわよね?」
――ああ、
綾南は信じたくなかったが、心を刻みながら再度確信した。
岡島を殺した『犯人』は真意であると。
だから綾南は『この真相』にたどり着いたのだ。
「……チャーハン」
「へ?」
「あの日の夕飯は『焼き飯』じゃなくて『チャーハン』だったんだよ。真意が訊いたんだろ。だから、ばあちゃんが言ったんだ。――『チャーハン』って……それを尋ねた真意が忘れちゃダメだろ」
「でも、チャーハンも焼き飯も同じ料理だし、漢字で書けば同じよ」
「ああ、そうだな。でも、おまえが『焼き飯』って発言したことが問題なんだ。ばあちゃんは『チャーハン』って言ったからな。――真意はそれを聞いていたんだろ?」
たずねておきながら、その答えが違う。
それは、真意がみさこの声を聞いていなかったからだ。
つまり、真意に祖母の声は届いていなかったからだ。
その時、真意は部屋にいなかったからだ。
あれは、アリバイ工作だったのだ。
綾南やみさこに、自分が部屋にいないことを悟られないようにするための。
あの時、真意は家にはおらず、学校にいたのだ。
体育教員室に。――岡島幸夫に脅されて呼び出されていたのだ。
「でも、あたしの声したでしょ? ばあちゃんに話していたじゃない」
「あれは、録音だったんだ。タイマーをしかけておいたんだろう。発言だけで返答もなかったようだしな……」
「…………」
綾南が真意を夕食に呼びに行った時、部屋に入った時。
音楽は流れていなかったが、スピーカーの電源が入っていた。
それが真意の声を発していたのだ。――自分が部屋にいたという根拠を作るために。
それに、だ。
あの時、綾南が真意の部屋に入った時。
真意は着替えをしていた。
それはなぜか? ――必要のない行動だ。
ご飯を食べて、風呂に入って眠るだけだ。入浴してから寝巻に着替えればいいのに。
だが、一つ思い当たる。
人を殺してしまった時の服装は、早く脱ぎ去りたいと考えるのが、普通の心理だ。
「なる、ほどね」
少々動揺した様子で真意は話す。
「妹を『犯人』にするとか、すごい名探偵よね……」
もし間違ってたら、一生ネタにして、あたしの奴隷として生きてもらうんだからね。
そんな風に言って、真意はからかうように笑った。
「でもね。おにいちゃんの推理なら、別にあたしじゃなくても可能なんじゃない? 岡島先生の死亡時刻は午後6時ごろじゃなくて、もっと遅い時間、深夜なんでしょ? たしかに、その夜に、あたしのアリバイはないけれど、それは多くの人がそうなんじゃないかしら?」
「ああ。でも、おまえがあの夜、家にいなかったという根拠があるんだ……」
「根拠?」
綾南は食べ終わった朝食の食器を重ねながら話した。
「アイスクリームだよ」
「あ、あいすくりーむ?」
「あの日、おまえが俺に買ってこさせたアイスクリームだよ。――未開封で蓋のついたまま、冷凍庫の中に入ってた」
「…………あー。そういえば、おにいちゃんにお願いしていたっけ?」
「買ってこさせたもの、忘れんなよ。……まあ、無理もないかもな」
真意は、家を抜け出したのだ。
裏工作をするために学校へ。
そのために、綾南をコンビニへ向かわせた。
外出に気づかれないように、コンビニへ行かせた間に、家を抜け出したのだ。
祖母は早寝早起きだ。部屋の電気が消えていれば、眠っている。バレることはない。
体育教員室に向かった。
だが、岡島は生きていた。首を絞められて、気絶していただけだった。
恐らく目を覚ましていたのだろう。
だからもう一度、殺すことにした。
そもそも、もう一度は殺しているのだ。決意するのは簡単だったのだろう。
だが、一度殺されかけて警戒している成人男性の体育教師に、女子高校生が力で勝てる訳がない。だが、『彼女』は一つ妙案を思い付いた。それがどれほど汚れた手段であろうとも。
だから真意は…………。
……。
そんな事があったから、忘れていたのだ。
綾南に買いに行かせたアイスクリームの事を。
「俺に買いに行かせといて、眠ってやがるとは何事だ、とか思ったけど……そういうことだったのかよ」
そして、もうひとつ。
これは自惚れかもしれないが、恐らく正しい一つの事柄を綾南は確認する。
「体育教員室の鍵を閉めたのは、俺のためだったんだろ?」
岡島の殺されていた体育教員室は、鍵がかかっていた。
「あれは、俺を守ろうとしたんだな」
あの日の放課後、綾南は岡島に体育教員室に呼び出されていた。
通常、真っ先に容疑の対象になる。だが、綾南は早々に容疑者リストから外れた。
沼場の計らいや、灰本と一緒にいたという完璧なアリバイも理由だが、体育教員室の鍵を持っていなければ犯行は不可能という事情が大きい。
つまり真意は綾南を容疑の対象から外すため、守るために、体育教員室の鍵を閉めたのだ。
「なるほど。すべて筋は通っているわね……」
綾南の推理に、真意は納得した。
「でも、決定的な証拠がないでしょ? ――あたしが岡島先生を殺したっていう確証が、ね」
だが、認めはしない。まだ決定的な証拠はなにもないのだ。
「真意。いい加減、ハッキリ言ってくれ……」
綾南は真意に促す。
しかし、自白させようとしているわけではない。
「……そうすれば、俺は戦える。真意が『あたしはやっていない』って、否定してくれれば、俺はこの推理を全部覆してして、真意が犯人じゃないって考えて、別の本物の犯人を見つけるためにどんなことだって、できるから、さ」
だから、やっていないとハッキリ言ってくれ。
あいまいな態度で、ごまかすのはやめてくれ。
綾南は、引きちぎれそうな痛みをこらえて、頼んだ。
真意は認めていないだけで、一度も否定していない。
推理の疑問と矛盾を振りかざすだけで、自分が犯人ではないと一度も否定していないのだ。
綾南は真意を見据える。そして願っていた。
否定の言葉が出てくることを。
「あたしは、やっていない……」
真意はゆっくりと答えた。
「――そんなこと、言えないよ……」
――それを言ったら、おにいちゃんはずーっと苦しんじゃうからね。
悲しそうに笑いながら付け足した。
それは、もう認めたような言葉だった。
「でもね、おにいちゃん。決定的な証拠がないでしょ? 『あたし』が『犯人』である証拠が。それがないと、あたしは認めようにも認めようがないわ。そう。岡島先生を殺したという凶器とか――」
凶器、か。
――彼は、その答えに至っていた。
綾南は真意に手を伸ばした。
真意はその手を受け入れて動かなかった。
その手は真意の頭に優しく触れた。愛おしく頭に手を置いた。
「……お、おにいちゃん。何やってるの?」
真意は、恐れを抱いたような声色で綾南に問う。
「凶器は、これだろ? 真意」
そしておそらく、原因もこれなのだ。
真意の長くてきれいな黒髪に触れながら、綾南は話す。
「岡島を殺した凶器は、おまえの髪の毛なんだろ」
「な、なにを……髪の毛って、髪の毛よ。そんなもので、どうやって……」
真意は動揺しながら、話しだすが、その言葉は途中で止まった。
観念したのだ。
「おにいちゃん。…………知っていたの?」
真意は絶望しながら、問うた。
「……ああ」
綾南は冷静に、答えた。
「いつから?」
「始めからだよ。――気付かないフリしてた」
「……そっか。なんか、あたし、バカみたいね……」
真意は笑うが、その瞳から涙がこぼれていた。
「あたしの一番の秘密だったんだけどな……」
綾南は真意の髪の毛が、ウィッグ――かつらであることに気がついていた。
真意はこの長いウィッグを使用して、岡島の首を絞めたのだ。
綾南了の髪毛は真っ白だ。
混じりけのない白髪だ。
だが、出生時からこの髪色だったわけではない。
綾南了は幼いころから何度も事件に巻き込まれ、それを解決してきた。
人間が、傷付き、亡くなり、殺され、騙され、欺かれるのを、近くで見てきた。
その中で、徐々に綾南了の髪の毛は、色を失っていったのだ。
ストレス。精神的負荷。警告反応。
生物学的にも過剰な負荷がかかることによって、生物体は異常な身体変化を起こすことが認められている。
綾南了の髪の毛は白くなった。
しかし、それは綾南了にだけ発生する現象ではない。
同じように、幼いころから綾南了のそばにいた、事件に近い位置にいた妹の真意も、ストレスによって異常な身体変化を起こしても不思議ではないのだ。
ただし、それには個人差がある。
「おにいちゃんみたいに、白く染まるだけだったら、染め直すとかできるんだろうけどね。――まあ、全部抜けちゃったら、そんな事もできないし……」
真意は笑いながら悲しげに話した。
おそらく真意が岡島に脅されていたのも、この件だったのだ。
鳥羽綾糸が取調室で話していたように、女子更衣室にカメラをしかけるなどという性的な脅迫ならば、反撃も対処もできる。――それは明らかな非合法だからだ。
だが、真意の髪の毛について――この案件は、反撃も対処もできない。
真意の髪の毛が偽物だと吹聴したところで、それを咎めることは難しい。
しかし、真意はそれを知られたくなかった。髪は女の命、というくらいだ。
だから岡島に脅迫されたのだろう。
岡島は体育教師だ。授業の監督という業務から、真意の秘密に気がついたのだろう。
「……まったく、まさか、知られていた、なんてね……」
真意は泣きながらだが、いつもの明るい声で笑って話した。
「……これだけは、どうしても、おにいちゃんだけには、知られたくなかったのになぁ……」
しかし、その声は震えていた。
「無茶を言うな。俺を誰だと思っているんだよ……」
「そっか。そうだね……名探偵だもんね」
そうじゃない。
そうじゃないんだよ、真意。
「……俺は真意の家族だからな。アニキにそんなことを隠し通せると思うなよ」
綾南は本当の感情を隠して、大切な女の子にそう言った。
「……そうだね」
真意はグシグシと涙をぬぐった。
おそらく鳥羽は、真意の秘密に、気がついていたのではないだろうか?
先日、鳥羽は、綾南にいたずらをされていないか確認のため、真意に身体をまさぐられていた。
鳥羽と真意が接触した時、鳥羽は真意の秘密について、知ってしまったのだ。
だから帰り際、玄関で綾南に凶器についての話しを持ちだしたのだ。
いや。
――もしかしたら、鳥羽は早い段階から、岡島を殺した犯人が真意だということに気がついていたのかもしれない。
しかし、その行動原理は、綾南には理解しがたかった。
だが、そんな事を考えるのは、無理だとわかっていた。
もっとも身近な人間の心の中もわからなかったのに、鳥羽の心なんてわかるわけない。
だから、せめて、もっとも身近な人間の心を理解したいと思う。
「真意。――教えてほしいことがあるんだ」
綾南は真意に尋ねる。
「一番初めに岡島の首を絞めてしまった原因はなんだったんだ?」
「…………」
真意は黙っていたが、やがて話しだした。
「……あたし、好きな男の子がいたのよね」
「…………」
「……でも、岡島先生が、その男子に、関係をバラすって、脅してきて……プレイが盛り上がるからって、理由で。……髪の事は、バラさないから無関係だって言って。……それで、その男子を呼び出そうとしたの……だから……」
「そうか……。ごめん。もういいよ」
綾南はイスに座って震えている真意を抱きしめた。
「気付いてやれなくて、ごめんな」
綾南の言葉に、真意は首を横に振った。
「違うよ。おにいちゃんは何も悪くない……悪かったのは――」
「真意。……言わなくていい」
綾南は真意の言葉を止めたが、
「違うわ。その通りだもん。――だから、おにいちゃんからも、言っておいてほしいな」
その方が踏ん切りがつくから。と。
真意は、未練を断ち切るように訴えた。
そして、笑いながら、いう。
「それに、あたしが今まで自首をしなかったのは、来週、誕生日だから、それまではいいかな、とか思っていたからよ。みんなからプレゼントをもらって、良い気分になってからでもいいやと、思っていたからよ。――ね? おにいちゃん」
――ああ。そうだな。
綾南は覚悟を決めて、げんなりと、いつものように言った。
「……お前最悪だな」
綾南がそういうと、妹は「あはは」と笑って、――綾南の身体にしがみついた。
糸の切れた人形ように、綾南に体重を預けて縋りついた。
「…………警察に行くの、ちょっと、泣いてからでも……いいかな?」
「……いいんじゃないか」
綾南がそう返すと、真意は綾南の胸の中で声を上げて泣き始めた。
えんえんと、あんあんと。彼女は泣き続ける。
綾南は、絶対に泣かないと決めた。
――辛いのは妹の方なのだから、兄貴が泣いてはダメだ。
綾南は何も言わずに、兄として妹の頭を撫でてやった。
延々と、暗々と。彼女は泣き続けた。