第1章 最後の日
放課後。――PM4:46
綾南了は体育教師の岡島幸夫から体育教員室に呼び出されていたが、どうせ髪の毛を黒に染めろという内容であることは明白だったので、そのまま帰っちゃうことにした。
昇降口で上履きを仕舞うため下駄箱を開けたところ、見慣れ履き慣れたランニングシューズの上に、ちょこんとかわいらしい花柄の便箋があった。
とりあえず、便箋を開けてみる。
突然のお手紙で驚かせてしまい申し訳ありません、と始まって中略すると、放課後に南校舎裏まで来てください、という内容が可愛らしい丸文字で書かれている。名前は、差出人も受取人も書かれていない。
綾南が考え得るこの手紙の実態は三つ。
一つ、文字はフェイクであり、指定の場所で待っているのは不良たちで、オイてめえムカつくんだよ、と吹っかけられる果たし状(リンチ付き)。
二つ、女子グループの悪ふざけで、綾南に告る真似をする、という何らかの罰ゲーム(カメラ撮影有り)。
三つ、下駄箱を間違えた。
その手紙の実態を大まかに推理した綾南は、冷静になって、げんなりした。
――ああ、まったく。めんどうくさい。
――でもしかし、三つ目だったら、かわいそうだよな。
なけなしの親切心を働かせて――覗くだけ覗いてみるか――手紙をブレザーのポケットへ押し込み指定場所へむかう。
南校舎の角から陰に隠れて校舎裏の様子を窺う。
少女がいた。
芽吹きだした葉桜の木々の間に、ぽつりと立っている。
黒髪を白いリボンで結って束ねたポニーテール。遠目から見てもわかる、ぱちりとした大きな眼。勝石高校指定のセーラー服。胸の赤いリボンから一年生であるとわかる。
左腕の腕時計で時間を確認している。そのしぐさは緊張と不安と少しの希望を織り交ぜている。誰かを待っているように見えなくも無い。
校舎の影から出て少女の方に歩き出す。少女もすぐに綾南に気が付き、笑顔を浮かべて、歩み寄ってくる。
綾南は歩きながら、木の影や茂みの闇に目線を走らせ、注意を払う。しかし、拳を構えた不良も、携帯のカメラを構えた女子も、見つけられない。
じゃあ、――三つ目だな。
そう結論付けた。事情を話して手紙を返した方がいいだろう。
同時に思った。――あれ? でも、じゃあ、おかしいぞ?
手紙を入れる下駄箱を間違えたなら、綾南が手紙の受取人ではないとひと目でわかるはずなのだが……なぜ笑顔でむかって来るのだろうか。
「綾南了さんですね」
少女の通る声と輝くような笑顔に、その思考はかき消された。
「ああ、そうだけど」
なぜ名前を知っている、と綾南は警戒する。
ポニーテールの少女は緊張したような声音で、それでも笑顔で、
「わたしは、鳥羽綾糸といいます。鳥羽は鳥の羽と書いて鳥羽。綾糸は綾取りの綾――いえ、了さんの苗字であるところの綾南のリョウと同じ字です。糸は運命の赤い糸の糸で、シと読み、ま…す」
話している途中で見詰め合っていることに恥ずかしさを覚えたようで、鳥羽という少女は赤くした顔を綾南からそらし、最後が少し尻すぼみになったが、意味は通じた。
「はあ」
そう返した綾南は、随分と乙女チックな例えだという感想を持った。
が、疑問は解決しない。
だが次の瞬間、意を決した表情で繰り出された鳥羽の言葉で、すべての謎は解けた。
「綾南了さん。わたしはあなたのことが好きです。わたしと、結婚を前提としたお付き合いをしてください」
「わりぃ。無理」
一刀両断。
鳥羽は、真っ青な絶望を顔に示した。そして、それを隠すようにうつむく。
罰ゲームのほうだったか、と思って綾南はもう一度当たりも見回すが、人の気配は感じられない。マジの告白か、だとしても綾南の返答は変わらないのだが。
「…………どうしてですか?」
下を向いたまま震える声で訊ねてきた。
「俺、二年に妹がいるんだ」
「ええ。知ってます」
知っているのか。まあ、あいつはあいつで有名人だからな、と綾南は勝手に納得する。
そして続きを話す。
「だから、妹よりも年下っていうのは、恋愛対象外なんだ。悪いな」
「それは、理由になっていないと思います」
鳥羽は顔を上げ反論してきた。
「だって、生まれた時なんて関係ないじゃないですか。三月生まれと四月生まれなんて生まれたのが一日違うだけで学年が違っちゃったりするんですよ。成長も早い子もいれば、遅い子だっている。三十以上歳の離れた俳優女優が結婚したってニュースもよくあります。生まれた時期なんて関係ありません」
「お前は恋愛に年の差は関係ないって言ってるけど、それはお前の意見であって誰もがみんな同じじゃないんだ。俺は年下対象外って言っているんだ。だから、お前とは付き合えない」
「でも、わたし、五月生まれです!」
「それがどうした?」
「だから、わたしは了さんと、一年と五ヶ月しか年の差ありません!」
「でも、年下だろ」
冷たい声だ。でも、諦めてもらうには冷たいくらいが良いだろう。変に希望という未練を残してしまうより余程いい、と綾南は考える。だから、これでいい。
「……つまり、年下は恋愛対象外で年上にしか興味が無いってことですか?」
「まあ、そうだな」
「嘘です! だって昨年の三年生の隠岐さんからの告白を断ったって聞きました!」
綾南は警戒の色をより濃くする。
「……何でそのことを知っている? てか、誕生日のことも」
「灰本先輩に聞きました」
あの野郎! なんてことを漏らしてんだよ!
綾南は心の中で、悪なる悪友に悪態をついた。
悪すぎだろ! とか。
が、怒りは顔には出さなかった。
一旦落ち着くために一呼吸入れる。肺の中の空気を吐き出して、感情を沈める。目の前の鳥羽に怒気をぶつけても、何の意味も無い。心をセーブする。そういうことに綾南は長けていた。
涼しい顔で応え返す。
「ふーん。でも、他人のプライベートをあれこれ探るのは、趣味がいいとは言えないな。お前、何様だよ」
怒っていないわけではないけれど。
「それは、あなたが言えることじゃありません」
「……なるほど。そういうことも知ってるわけか……」
綾南は溜め息が混ざったような独り言をつぶやいた。
「それに他人じゃありません。好きな人です。好きな人のことを知りたいと思うのは人として当然でしょう」
当然のようだった。当然に、当たり前だと少女は発言する。
「了さんはわたしの好きな人なんですから――好きな人の過去を知りたいと思うことは、罪ですか。そんなことないですよね。知りたいと思うことは誰にも止められません」
ただ知りたいと思っているだけと、実際に行動して知ることとでは、雲泥の差があるのだということを少女は理解されていないようだった。
そういう発言から、綾南がこの少女・鳥羽に抱く感情は、懐疑や猜疑だった。
「おまえ、うざい」
それは恋する少女にはかなり辛辣な言葉だったろう。
恋愛対象から言われれば、なおのことだ。
「なんかたくらんでるのか? 俺に関わったところで別に良いこと無いぞ」
むしろ悪いことが増える、と綾南は言葉尻に付け足す。
それでも鳥羽は反発する。
「……そんなことありません。好きな人と一緒にいられないことのほうが、私にとっては酷です。最愛の人と一緒にいられることは、それだけで最高の幸せです!」
――よくもまあ臆面もなく好きな人とか最愛の人とか言えるな。
綾南は更にげんなりする。
ここまで否定を口にしてよく食い下がってくるものだ。
「無理なモンは無理だから」
「そこを何とか! お願いします」
綾南は新聞の購読契約の人を連想した。このまま言わせておけば「お米も付けますから」とか「始めの一カ月は無料にしますから」とか言いそうだ。
「何でもしますから!」
――大安売りだった……。
「とにかくお前とは付き合えない。じゃあな」
そう言って綾南は鳥羽の横を通り過ぎて裏門を目指し歩き出す。
が、
「ま、待ってください!」
鳥羽は綾南を追い駆けて、追い抜いて、再び前に出ると、行かせまいと手を広げて大の字で立ち塞がった。その目は涙が溜まっていたが、何か強い意志を宿していた。
「なんだよ? もう話すこと無いだろ」
「じゃ、じゃあ、おともだち。そう、お友達から始めてください。そういう関係になってください」
「間に合ってるから」
「それも嘘です! 了さん、灰本先輩以外に友達いないじゃないですか」
考え付く返答は三つ。
・なんでそんなことまで知っているんだ。
・灰本は友達とかじゃねえ。
・好きな相手に「友達いない」とか酷いことを言うな。ホントは俺が嫌いなのか?
「………………」
しかし、綾南はどの返答もしなかった。道を塞ぐ少女を無視して迂回して再び歩き出す。
「だ・か・ら! 待ってくださ、いぃ!」
話す言葉の最後の一節で、鳥羽は綾南の腕に跳び付いた。
「うおっ!」
綾南の腕を自分の両腕で抱き締め、綾南をその場に拘引した。
「勝手に行かないでください! 話しはまだ終わってません!」
「もうお前と話すことなんてない」
「そんなことないです! それでも行くというならわたしを倒して行ってください!」
それは本来なら敵が言うべき台詞であろう。この少女は敵なのか――明らかに敵だった。
その少女の頬を殴りつけ気絶させ、土の地面に伏臥させる。腕を振りほどいた程度ではこの女はまた絡んでくるだろう。そして、そのまま正門から家に帰る。次の日の学校では綾南が下級生の女子を暴行したという話しが飛び交うだろう。しかし、先に手を出してきたのは少女だし、すでに綾南了に対する悪い噂は数多く存在しているので気にはならないだろう。
そういう想像をしたが、行動はしなかった。
妹よりも幼い女子は恋愛対象外というのと同様に、そういう女子には手を上げてはならないという倫理観が綾南にはあった。女の子は絶対に叩くな、と幼いころ父に言われたことも要因だった。
「わたし、了さんのことが大好きなんです! その真っ白い髪も、絶対女の子に暴力振るわないところも――ここで拒否されても、わたし絶対あきらめませんから! ずっとあなたの事を見つめ続けます!」
最早それは脅迫に近いモノのような気もしたが(っていうか脅迫か?)、下級生の女子に脅されたなど、綾南了の男のプライドが邪魔をして誰にも言えない。
綾南了はあきらめた。
「はあ……。わかった……。じゃあ、どうしたら納得する? 付き合うのは無理だぞ。俺は一刻も早く帰りたいんだ」
別に用事があるわけではなかったが、帰って休みたかった。この鳥羽綾糸の件で、綾南はもうクタクタだった。体育教員室に行って岡島に髪染めろと説教くらっていた方がまだ疲労が少なかったと思う。
鳥羽綾糸は涙の溜まった目を拭くことなくはにかんで、
「わたしとお友達になってください」
と言った。
「わかったよ」
綾南了は諦めたら諦めのいい男だった。
「だから、そろそろ放してくれ。――頼むから」
誠心誠意でお願いする。――綾南の腕には鳥羽が絡みついたままだった。
「あ。――そっ、その、あの、失礼しました」
そう言って鳥羽は離れた。
急激に赤く変色していく顔を俯くことで隠した。
誰のどこがどのように誰のどこに当たっているのを理解したのだろう。
――まあつまり、鳥羽の胸が押し付けるように綾南の腕に当たっていることを理解したのだろう。
さて。
ボストンバッグを担ぎ直し、今度こそ帰ろうとする綾南に、
「あ、あの……」
「ん?」
まだ何かあるようで、少女は問いかけた。
「…………か、かか、かんそうは、どうですか?」
「…………」
様々な意味で、綾南には何も言うことはなかった。
PM5:32
鳥羽綾糸から逃れるように、いや逃れるため走り歩きを繰り返しながら家に帰ってきた。
田舎なので、公共の交通機関というものがないのだ。自転車通学でもよいのだが、自宅の場所がある程度近いので、学校から自転車通学許可が下りなかった。
「よっ。おっかえりー」
「……………………」
自室で綾南を待っていたのはクラスメートであるところの灰本道志だった。ブレザー姿でベッドに寝そべったまま読んでいた雑誌から顔を上げ、帰宅してきた者への定番を口にした。
そんな状況に、綾南は疲労が増大するのを感じた。
「おー。どーした? そんな疲れたような顔してさー」
灰本は軽い口調で話す。
「……疲れたんだよ」
「そっかー、そりゃーごくろうさん」
興味なさそうに、軽い返事が返ってきた。そして――本の続きを読み始めた。
綾南は担いでいたバッグを自分の部屋の床に置き、ため息をつく。
――まだ俺を休ませてくれないのか、と。
そういえば。――綾南は灰本に関する案件を一つ思いだした。
「灰本。おまえ、俺の個人情報を勝手に売るんじゃねえよ」
「は?」
「あの鳥羽とかいう一年に俺のこと話しただろ?」
「え。うん」
返事は軽かった。基本的に軽い男なのだった。灰本道志は。
「そういうこと軽々しく話すな」
「別にいいじゃん」
「よくない。――灰本、俺がどういう人間か知ってるだろ?」
そう。自分自身がどういう人間でどういう存在でどういうあり方をしてきたのかを考えると、綾南は人間関係を積極的に広めたいとは思わないのだった。
「関係なくね?」
「関係あるんだよ。お前だって俺と関わってどういう目にあって来た? そうだろ?」
「……………………」
灰本は言葉を出さない。
「俺に関係なくても、俺が関係してるから――そういうことが起きるんだよ」
「…………」
「だから仲間、友人、知り合いとか無闇矢鱈に増やすべきじゃないし、増やしたくもない。人間関係を――俺なんかと関わる人を増やすべきじゃない。俺と関わったら不幸になるだけだ」
「……」
ぺらり。
「おい、灰本。本を読んでないで聞け」
真剣さはこの男には通じていなかった。
「んー。あー。別にいいんじゃね? 知ってるけど、綾南了の特殊な事情くらい。――でも、俺がお前の個人情報を誰にいくらで売っても、それは了には関係ないだろ?」
「関係あるだろ! プライバシー問題だろ。あと金で俺の個人情報を売ったのか!」
たしかにあの鳥羽という少女なら金で情報を買いかねない気がする。
「いい儲けになったぜ」
灰本は拇指と食指で円を表すと、本に視線を落したまま、にやりと笑った。
「マジで金で売ったのかよ!」
「いや。冗談だよ。あんな可愛い後輩から金を取るわけないだろ」
「お前は鳥羽が可愛かったからという理由で俺を売ったのか?」
「ああ。その通りだ。だってめっちゃ可愛いじゃん!」
あれだけ話しそっちのけで真剣に読んでいた本から、灰本は顔を上げた。
「あんなに可愛い子に『先輩教えてください』とか頼まれてみろ? な? どんな情報でも教えたくなっちゃうだろ?」
「…………」
「勝高の中でも五指に入るオンナノコだと俺は思う訳だ。いや、指三本でも入るかな? ちなみに他の子のことも聞きたいか? なあ、聞きたいか? よし、情報料はタダで良いぞ」
綾南は別に聞く気はなかったが、灰本は勝手に語り出した。
「各学年から一人選ぶとしたら、まず三年は荻上だろう。ショートカットの活発そうな小柄な。休み時間とか時々うちのクラスの萩下を訪ねてくんじゃん? どうも女子ソフトでバッテリー組んでるらしい。荻上が捕手で萩下が投手。作戦会議をしてるらしいんだけどさあ、その聞こえてくる元気な声が可愛いのなんのって――
で、二年だったらマイちゃんかな。荻上とは対称的に綺麗なロングヘアーの子だ。緑の黒髪っていうのはああいうのを言うんだろうなー。普段は大人しめで丁寧な感じなんだけど、時々ヒマワリのごとく元気に笑って、その笑顔に落とされたという男子が後を絶えない。妹属性ってのもポイント高いよな。お兄ちゃんとか呼ばれてみたいよな。あこがれのシチュエーションだよな。
そんで、一年がすでに話題に上がった鳥羽綾糸ちゃんだ。セミロングで最近はポニーテールにしてることが多いな。ショートポニーっての? ぱっちりした眼に儚げなオーラ。ほら、守ってあげたくなるタイプってやつ。上目遣いで話しかけられたら大抵の男は落ちるだろう。
そして番外編なら保健室の大路美沙子先生だ。おとなの魅力ってーのかなぁ。白衣とは天使を模した装飾であると錯覚させるその着こなし! 美沙子先生に手当てされたいという理由で保健室を訪れる男子急増中。ここだけのシークレットな情報だが、どうやら27歳らしいぜ」
「………………」
ぺらり。
「おいぃ。了ぉ! 本読んでないで聞きやがれ! こら!」
「――おい、灰本。ブーメランってものを知っているか……?」
自分勝手さでは灰本の右に出るものはいない。そう綾南は常々思う。しかし、今日、鳥羽という人物を知ってしまった。綾南は実感する。灰本に並ぶほどの自分勝手さはそういるものじゃないと思っていたのだが――世の中広いなあ、と。
そんなところで、
「ばーちゃーん! 晩御飯なにぃー?」
叫ぶ声が聞こえた。妹が隣の部屋から下の階層に居る祖母に問いかけているようだ。
祖母のおらび声がした。
「チャーハン!」
今日の世界は平和だと、綾南了は思った。
PM7:15
綾南了は夕飯の炒飯を咀嚼しながら、気まずい空気も味わっていた。
「いやあ、うまいっすね。コレ。この海鮮炒飯。めっちゃうまい。みさこさんサイコーです。毎日食いたいからお嫁に来てほしいくらいっすよ」
灰本が出された晩飯を喰らいながら、綾南の祖母を口説いていた。
「口がうまいねえ、灰本ちゃん。やけど残念。あたしは死んだじーちゃん一筋やけん嫁にはいけんわ」
祖母の綾南みさこは照れ笑いしながら灰本に答え返す。
いやお世辞だろ、と思わないでもないが、灰本が熟女好きなのを知っている綾南は、もしかしたら本気で祖母を狙っているのではないかと多少の遣る瀬無さを感じていた。
しかし、綾南が気まずいと感じている原因はそこではなかった。
「うん。ほんとにおいしいわよ、この焼き飯。ばあちゃん年金生活とかやめて店とか開いた方がいいんじゃない? きっと儲かるわ」
その原因が口を開いたので、綾南は背筋が寒くなった。
「ねえ。――りょうくん」
そう嗤いかけてきた妹の真意に綾南はビビりながら「そうだな」と答えた。
正直、夕飯の味など分からなかった。
――何だココは、生き地獄か?
先ほど。数分前のことだ。
みさこから「ご飯できたけん降りてきなさーい」という号令のもと、綾南と灰本は私室からダイニングのある一階に降りてきた。灰本が滑らかに居間に入室するので、「いやお前も食うのかよ」と綾南は思わないでもなかったが、恐らく祖母が夕飯に招いたのだろう。何だかんだでみさこは灰本のことを気に入っているのだ。
夕食の準備は完了してあとは食べるだけなのだが、妹が二階の自室から降りてこない。夕飯はみんなでそろって『いただきます』して食べるのが、綾南家のハウスルールだ。そこでみさこが「りょう。呼んできぃ」と綾南を使いに出した。
そこからが良くなかった。
綾南は妹の部屋のドアをノックしたが返事がなかった。眠っているかヘッドホンで音楽でも聴いているかのどちらかと判断して、綾南はドアを開けた。
部屋に入ってまず目に入るのはスピーカー。ライトの点灯具合から電源は付いているようだが、音楽は流れていなかった。やはりヘッドホンかと綾南は思ったが、違った。
――妹は鏡の前に下着姿で立っていた。
白いレースの下着のみを身につけ、眼を点にして綾南を見ていた。
そこで綾南は理解した。ああ着替え中だ、と。
「すまんわるい」とドアを閉め、ここに来た要件を思い出し「ばあちゃん呼んでる。ご飯だってさ」とドア越しに呼びかけて「……すぐいく」と返事が返ってきたので、居間に戻った。
そして、今だ。
気まずい。
漫画やアニメなんかではヒロインの着替えや入浴シーンを覗いてしまったら「キャーえっち、ちかん、このヘンタイ」とかキレられてモノを投げられながら、それを喰らって痛がりながら退散するのが普通。
だが、現実は違う。
ただ気まずいだけなのだ。
ただ気まずい空気を感じているのは綾南だけかと思いきや、そうでもないのだ。
妹方も少なからず不穏な空気を醸し出しているのだ。普段よりも余計に不自然に明るい。
「いやあ、おいしいおいしい。あたし、ばあちゃんの孫に生まれてよかったわ」
とか、普段言わないお世辞を言っている。いつも食べている夕飯とそう大差はないが。
「まったくもお。とっとと食べちゃいなさいよもぉー」
ちなみに祖母は、おだてられて浮かれているようで、その空気になにも気が付いていない。
「でも、お腹膨れてきたから、この餃子一つりょうくんにあげる」
と綾南の皿に餃子が増える。
そんな妹の些細な言動にも綾南は内心でソワソワしていた。決して表情には出さないが。妹に「ああ。」と答えて、味の分からない餃子を口に運ぶ。
「みさこさん。おかわり貰っていいっすか?」
「いいわよ。じゃんじゃん食べて行きなさいや」
明るい雰囲気の夕食に隠された裏の不穏な空気を感じつつ、食事時間は終盤に近づいてゆく。そんな中で綾南の思うことはただ一つ。この地獄から脱するために――
もう、早く寝たい。――それだけだった。
PM8:21
夕飯が終わると灰本は帰路についた。
そして綾南は部屋に戻りベッドにうつ伏せに寝転んだ。
襲ってくる痛烈なイメージと戦いながら、心を平静に保とうとする。
別に妹の裸かとか別になんともない別につまらないものなのだ。昔は一緒に風呂とか入ったのだ。そりゃ胸が膨らんできたころからそういうことはしなくなったが、まあ見慣れたものなのだ。だから普通だし。
あまり保てていないのが現状のようだが。
このままでは眠れない。
「…………どうすっかなぁ…………」
「とりあえずお風呂入ってきたらいいんじゃない?」
独り言に返答があり、綾南は驚いた。
がばっと身を起こすと、寝そべるベッドの上に妹御が腰かけているのだ。
「お前、なんでココにいんだよ。ノックしろよ」
「え? いや、もしかしたらお兄ちゃんが自慰してるかもしれないと思って。もしそうだったら大変でしょ?」
綾南はドキリとしたが、自慢のポーカーフェイスで「お前何言ってんの?」という無表情を貫いた。
「だーかーらぁ、できる妹のあたしは、例えそうだった場合に、妹の身体に欲情した兄をそっと見守ってなにも言わずに部屋を出ていくつもりだったの」
それは確かに『できる妹』の行動であるが、それを口に出すことで台無しだった。
「お前もう中学生じゃないんだから、そういう発言は控えろよ。慎むことを覚えろ」
「それはおにいちゃんの方でしょ。妹の部屋に不法侵入しておいて良く言うわ」
確かにそれを言われると綾南は返す言葉がない。が、この女、自分のことは棚上げた。
妹は現在、兄の部屋に無許可で進入中なのだ。
「で、何の用だよ」
これ以上部屋への入室の話題を進めると不利になるのは明らかだったので、綾南は話を逸らす目的で、妹に用事を確認する。
「ああ。おにいちゃんが悶々としているのを影で見て楽しもうと思ってね」
「お前最悪だな」
綾南がそういうと、妹は「あはは」と笑って、
「うそうそ。お風呂あいたから、呼びに来てあげたのよ」
彼女はパジャマ姿で湯上りだった。風呂の順番が回ってきたのは事実なのだろう。
先ほどまでは気まずかったが彼女の中ではもう水に流したようだ。そういうところサバサバした奴なのだ。あの事件をもう兄をからかうためのネタにしている。
「そうか。はいはいありがとな」
答え返すと綾南は立ち上がり、引き出しから寝巻を取り出しにかかる。
その立ちあがった綾南の姿を見て妹はニヤリと笑った。
「おにいちゃん」
「ん?」
「アイスクリーム。カップのやつね」
「…………買って来いってことかよ。やだよ。自分でいけ」
「オカズを提供してあげたんだからそれくらい買ってきてよ」
「……………………」
綾南了は妹の綾南真意を本当に恐ろしい奴だと思った。
PM9:35
風呂に入って、近くのコンビニへ行き、家に戻る。
外から見える自宅の明かりは、すべて消えていた。
もう家族はみんな――祖母も妹も眠ったのだろう。
綾南もベッドに入ると、すぐに眠りに落ちた。
お読みいただきありがとうございました。
お疲れ様です。
――はじまります。
今作はミステリです。(今作も?)
既にご存知かもしれませんが……
殺人事件が起こります。
「え? 死ぬの、この人?」
みたいなことがあるかもしれませんが、
文句や苦情は一切合切、
受け付けております!
励みになりますので、どうぞ遠慮なく。
あ、感想や賞賛も、もちろん嬉しいのです。
よろしければ、最後までお付き合いください。