冷たい夜に
冷たい雨の降る夜だった。
「お前には何ができる?」
男は、幼い少女に問いかけた。雨音よりは大きい、しかし静かな声で。
少女は裏路地のビル壁に身をもたれさせている。頭からはこんこんと血が流れ、腕はだらりと脱力し、足は投げ出されていた。
男は少女の目の前でしゃがみ込み、目線を合わせている。
「お前には何ができる?」
今にも少女が死にそうな状況だというのにそれをまったく気にすることもなく男は抑揚なく繰り返した。
いや、死にそうなのは少女だけではなかった。男も強く血の匂いを発していたし、堪えてはいるが息は絶え絶えだ。
「時間がないわ。追っ手も来る」
「分かっている」
男の後ろに立つ女が呆れたように深くため息をついたが、やはり少女を助けようとはしない。
捨てられた動物へ話しかける同行者に仕方なく付き合ってやっている、そんな雰囲気だ。
どうして、と少女は思う。
どうして助けてくれないのか、ではない。
死にゆく子供にどうしてそのような問いをするのかが理解できなかった。
見ればわかるだろう。もはや死ぬだけ。何もできないまま、何もなさないままに死肉となる。
怖くはない。
その感情を万が一にでも抱かないように育てられてきた。
だから、少女は死神の足音がすぐそばまで聞こえてきたとしても冷静そのものだった。
死にたいわけではないが、生きるためにどうすればいいのか考え付かない。
「お前には、何ができる?」
三度目の質問。
少女は回らない頭でぼんやりと考えた。
「…わたしは、」
男と同じ言語――日本語で少女は答えようとする。
ずいぶんと久しぶりの母国語に苦心しながら頭の中で文を組み立てていく。
それなりに長い沈黙であったが男女は焦れる様子はなく、じっと少女の次の言葉を待っていた。
「わたしは、ころし、できます」
表情を変えることなく男は聞く。
「殺し。人を?」
「はい、わたしは、それを、する、できます」
「では、これはすべてお前がしたのか?」
男は裏路地の惨状を指さす。
少女よりもすこし年上らしい子供たちの死体が五つほど転がっていた。
すべての死体には深い刃物傷がついており、それが致命傷となったのだろう。そして少女の手元には刃の折れたナイフの柄が転がっている。
「はい」
「なぜ?」
少女は答えに窮する。
殺せと言われたなら、殺すように少女はずっと教えられてきた。
だから理由はほとんどない。
「わたしを、ころしに、きました。だから、ころしました」
「そうか」
簡素な答えであったが男は一応の納得はしたようだった。
彼はゆっくりと手を伸ばし、少女の長い前髪を梳いて持ちあげる。
左側の眉から頬骨まで広がっている大きな痣が露出した。ごまかしようがないほどにくっきりと存在している。
普段は抵抗するが、睡魔に襲われる少女はもはや痣を隠す気力もなく成すがままだ。
ゆるりと痣を撫ぜると、男は短く問う。
「意味のある死が、欲しいか」
少女はぼんやりと口の中で選択肢を反芻した後に、ぽつりと答えを零した。
――冷たい雨の降る夜だった。
握られた手の温かさを、少女はまるで宝物のように覚えている。例えそれが、偽りの優しさだとしても。