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(って、言っても――)
当たり前だが、仕事をするには外に出なくてはならないのだ。
今日は鈴代の知り合いの薬種商人の元へ、材料を買いに行くことになっていた。本当は鈴代も一緒に来るはずだったが、昨晩酒を飲み過ぎたせいで二日酔いになったらしい。朝になっても動けないようだった。
まぁ、そうそう昼間に殺人鬼が出てくるわけもないだろう。そう結論を出して、甘斗はいたって普通に道を歩いていた。こういう時は変に警戒している方が逆に怪しい。
それよりも――と、甘斗は現実的な問題に頭を切り替えた。
薬種屋があるのは江戸の商業の中心地、日本橋の外れである。神田から日本橋までは結構な距離があり、歩いていけば朝から昼過ぎまでかかってしまう。もちろん、船や駕籠を使う金などないので全て徒歩である。
その距離を思い浮かべて、甘斗は辟易とした。しかも往復、しかも帰りは山ほどの薬種を持って帰らなければならない。とんだ重労働だ。
今ごろ家で寝ているはずの鈴代を恨めしく思いながら、甘斗は長い道のりの、短い一歩を暗澹とした気持ちで踏み出した。
と。
幅の広い堀が見えてきた。ここでやっと折り返し地点だ。とうとうと水をたたえる水面を見て、甘斗は自分でも知らないうちに肩をこわばらせた。
江戸育ちで川も堀も見慣れている甘斗だが、水は苦手だった。とくに、泳げない甘斗にしてみれば落ちれば溺れるだけの堀は昔からあまり近づきたくない場所だ。
――こういうところは、できるだけ早く通りぬけるに限る。
そう思い、足早に橋を探して歩く。そういえば、昨日の事件もちょうどこの辺りだったかな――
「ん……?」
そこで、甘斗は眉根を寄せた。目の前の川に、奇妙なものが浮かんでいる。
船に荷が積んである。素木が組まれた箱で、ちょうどあつらえた蓋がぴったりとはまって、隙間がない。
外見にとくに変わったところもなく、中身はあらためてみなければわからない。他人の荷物を勝手に開けるほど、甘斗は失礼でも世間知らずでもなかった。
何か、変わった匂いがしたような気がしたのだ。町中の人間とは違う、山や樹の匂い。総じて言えば、土の匂いが。
けれど。なぜ、これに引かれたのだろう?
首を傾げる。ともかく、使いの途中なのだから元の道に戻った方が――
ふいに、足元が不安定に揺れた。
「っ!」
甘斗は転びそうになったところを船の浅い縁を掴み、なんとか踏みとどまった。
ほっと息をついて
櫂が水をかく、ゆるやかな音が響いている。堀を出て、川まで出るつもりなのだろう。足場の不安定な船の上では、一歩踏み出しただけで水に投げ出されてしまいそうだ。
身動きの取れないまま、甘斗は箱からちらりと視線を投げかけた。
頭の先が見えるだけだが、小さな影が船の頭に立ち、櫂を操っている。
このまま気づかれずに――
「おんやぁ、誰か乗ってるなぁ?」
笠をかぶった船頭がこっちをゆっくりと見た。笠の下には短く刈った髪と、冗談のように大きい、黒くて丸い目が光る。
「昨日の収穫に合わせて、美味そうな子供が一匹。おっと、その顔は覚えてるぜぇ。昨夜においらの毛を燃やしてくれた奴の連れだなぁ?」
橋の下に潜ると笠を落とした。その顔の一部分が焼け、真っ赤に腫れていた。焦げた髪を手で撫でている。見るも無惨な有様に、甘斗は息を飲んだ。
昨日、鈴代が追い払った影。火を避けて、屋根に登り逃げたはずだ。
「な~んてな。実はずっと付けてきたんだよぉ。昨日、燃やしてくれたお返しをしようと思ってなぁ」
笠をかぶり直し、船頭はキキキッと甲高く笑った。
甘斗は金縛りにでもあったようにうめいた。緊張で声を出すのもぎこちない。この船上では、逃げ場もどこにもない。
「な、なんで――」
「お前らのせいで、せっかく集めた気が散っちまったからだよぉ。また喰らわないとならないから面倒だぁ」
船頭は片手で櫂を固定したまま箱から何かを取り出し、やけに鋭い歯でかじる。
橋の下から抜けて、ややきつい日差しが川面を照らす。
船頭が持っていたのは、からからに乾いた乳白色の棒だ。太さは天秤棒ほどで、半分がかじりとられ、断面からは赤黒い糸のようなものが覗く。
前、鈴代たちとご馳走を食べに行ったとき、鶏の骨が似たようなものだったと甘斗は覚えていた。けれど、太さも長さもまったく比べ物にならない。大人の腕の長さほどはある。
それが、昨夜の匂いと同じものだと気づいて。
「――――っ!」
悲鳴が、橋の下に響き渡った。