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 浅草の町を照らす月は、まるで猫の目のように細い。

 甘斗たちが江戸にいる間に滞在している家は神田にある。浅草からは少し時間がかかるが、それも夏の宵ならばそれほど苦でもない。

「よーしよし。輪廻、怖かった? 大丈夫だよ、みーんな猫町の作り話だから」

「うう……ほんと?」

 柔らかく微笑む鈴代を、輪廻は碧い瞳で見上げた。よほど怖かったのか、目に涙が滲んでいる。

 江戸も夜中は物騒だ。なるべく早いうちに帰っておきたい。

 甘斗は少しだけ足を速めた。いや、別に怪談話を聞いて怖くなったわけではなく。

 そうして、ちょうど川のそばに面した通りに出た。水のせせらぎが夏の夜に涼しく響く。

 繁華街からも離れ、蔵が立ち並んでいる。川から上げた荷物を管理しておくためだろう。仕事の終わった今は人の気もなく、ひっそりと静まり返っていた。

 息を吸い込むと胸を透かすような水の香と、むせるかえるように濃い草の匂いが漂っている。つまりは、夏の匂いということだ。

 が。

「ん?」

 ふと風に乗ってきた匂いが鼻をくすぐり、甘斗の背筋に寒気が走る。水や草の匂いに混じって、別種のものが近くにある。

 猫町の怪談話でも、ここまで嫌な感じはしなかった。

 思わず立ち止まり、石を飲み込んだような声音で、甘斗はつぶやいた。

「……なんか、嫌な匂いしませんか? 魚か、鉄みたいな匂い」

「え?」

 聞き返した鈴代の顔が、間を置かずに引き締まる。

 甘斗の言葉を気のせいだと笑いはしない。甘斗が感じる匂いが、そのまま良からぬものであることは鈴代もよく知っている。一種の霊感のようなもので、甘斗は人ならざるものの匂いがわかる。

昔は、嗅ぎ取ったとしても見て見ぬふりをしてやり過ごすしかなかった。霊の存在を頭から信じずにいることで何とか恐怖を紛らわせてきた。

だが、今は違う。見て見ぬふりをしてはいけないものがあるとわかったから。

「どの辺りから匂うか、わかるかい?」

 甘斗は頷いて周りを見渡した。立ち並んだ家と家の隙間。そのひとつ、真っ暗で奥の見えない路地。

 ここからは見えないが――いや見えてしまいそうなほど、赤黒い鉄錆の匂い。

 視線が一点に吸い込まれたのを見て、鈴代は駆けだした。

「甘斗、輪廻を頼んだよ」

「あ、先生! ちょっと待ってくださいよ!」

 呼びとめには答えず、鈴代の黒羽織はそのまま夜へと溶けていった。



「ったく、一人だけで行くなんて信じらんねえ。って、輪廻さん、あんまりくっつかないでくださいよ。歩きにくいでしょうが」

「う、ううう……甘ちゃん、これぇぇぇ」

 泣きそうな顔をして、甘斗にしがみついている輪廻は足元を指さした。そこに目を落として、甘斗は絶句した。

笹紅を打ったように点々とした血の跡だ。何かを引きずっていったようにも、奥へと何かを誘い込むようにも見えてひどく気味が悪い。

 黒く乾いている血痕は川に沿い、路地の奥まで続いている。

 と、足音が聞こえて、甘斗はぎくりとした。隙間から出てきた人影に身を固くして、すぐに安堵の息をこぼす。

「先生……」

 鈴代は頭を振った。月に照らされ、藍の浴衣はさらに青く映える。白い肌はいや白く。

「見ない方がいい」

 その表情に甘斗は言葉を失った。さきほど笑っていた時とは別人のように、鈴代は厳しい表情を浮かべている。

 じゃり……

 静まり返った夜に、何か耳障りな音が聞こえた。

 刹那。

 キキキッ!

 頭上の月を遮り、影が横切った。


 ――天の川 あふぎの風に露はれて 空すみわたるかささぎの橋


 ごおっ!

 闇に慣れた目を灼く光に、甘斗は思わず手をかざした。

 うっすら開いた目に映るのは紅蓮色の炎。

狭い路地を撫でた火衣の勢いは、表まで明るく照らすほどだ。けれど、その炎は周りの家を焼くことはない。邪のものを焼く、幻じみた炎。

 風が巻き上けた砂埃が白く舞う中、鈴代は懐から扇を水平に構えている。黒い扇骨に裏表が真っ赤に染まった一尺あまりの扇。紅の片を重ねた、鈴代の持つ神宝のひとつ。

「神域・《皆紅扇みなぐれないのおうぎ》」

 名の通りの緋扇を、鈴代は横薙ぎに大きく煽いだ。

 キィィィ!

 炎に炙られ、影はたまらずに屋根へと飛び乗った。ほとんど助走もないまま、一足で炎の届かない場所まで飛び退った。

 そのまま木をぶち抜くような音がして、それも徐々に遠くなっていく。

 甘斗は地面に座り込んだまま、大きく息を吐いた。あの影は、逃げたようだ。

「はぁ、びっくりした。二人とも、大丈夫?」

「いや……今のを『びっくり』で済ませられるあんたが一番びっくりですけど」

 ぱちん、と扇を収める鈴代に甘斗はうめいた。腰が抜けてしまったようだ。

 と、闇夜に軽やかな足音が聞こえてきた。戻ってきたのかと思ったが、現れたのは知っている顔だった。

「大丈夫か!?」

 風よりも早く、息を切らして走ってきたのは猫町であった。泡を食って出てきたようで、心底慌てた顔をしている。

「嫌な匂いがしたから走ってきたんだが……何かあったみたいだな。こんちくしょうが」

 奥を覗きこみ、小さく舌打ちした。顔を思い切りしかめているから彼も匂いを感じ取ってきたのだろう。ここまで来れば、誰でもはっきりとわかるほどの血の匂いがする。

「…………」

 猫町はじっとそれを見つめて、黙り込んだ。

「どうしたんだい?」

「いや、お前らに話しときたいことがあってな」

 かんかんかん、と激しい鐘の音が鳴り響いた。火消しが叩く半鐘の音だ。

「なんか、まずいことになってる気がするんですけど」

「ん~、さっきの火を見た誰かが火消しを呼んだのかな? ちょっと派手にやりすぎたかもしれないね。次はもうちょっと上手く舞えるようにしておかないと……」

「って、そりゃこんな夜中に火使ったら目立ちますよ! どうするんすか!?」

 顎に手を添えて思案する鈴代に、甘斗は声を裏返らせた。

「しゃあねえ、人が来る前にさっさとずらかるぞ。あん? 何だちびっ子、立てねぇのかよ。しょうがねぇなあ――」

 輪廻を背負っている猫町をちらりと見て、甘斗は首を傾げる。

 炎に照らされ、一瞬だけ人影の姿が見えた。

 それは人間に似ていたが、人間ではなかった。

 人の服を着た異形、毛むくじゃらの生き物を見た気がしたのだ。

 少なくとも猫町の話していたような骸骨ではないようだった。

(あれは、何だったんだ?)

 考えてもわかりそうにない。

 疑問に思ったのも一瞬。すぐに鈴代と猫町の後を追って、甘斗は走り出した。


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