最悪な目覚め
彼女は、美しかった。そしていつも、孤独だ、死にたいと呟いていた。
彼女のことを知ったのは、卒業を間近に控え、“高校生”という大人の響きに少しの不安を抱きはじめた頃だった。
この小さな村に引っ越してきた彼女は、田舎の地味な空気には不釣り合いな程に、美しかったらしい。
引越してきた初日に2、3人が姿を見たきりにもかかわらず、彼女の存在はすぐに、村中に広まった。
せめて隣の村に引っ越していれば、こんなことにはならなかったのに。
ここは、三方を山に囲まれた閉鎖的な村。この村に住む人達にとっての世間は、村そのものなのだ。
だから、ちょっとした噂であってもすぐに広まる。そして、何よりも、余所者には厳しい。
彼女も例外じゃなかった。
いや、美しすぎるが故に、特に酷い言われようだったかもしれない。
「なぁ、知ってるか。あの美人の噂。」
“あの美人”。彼女はいつからか、そう呼ばれるようになっていた。
まるで、彼女を見たことがあるかのような呼び方。
でも、この目の前にいるソバカスだらけの男だって、彼女の姿を目にしたことはない。
噂が重なるにつれて、彼女の姿は個々の想像で好き勝手に描かれていたのだ。
「何?次はどんな噂?」
「なんと、一緒に越してきたおばさんって実は単なる家政婦らしい。」
「…聞いたの?」
母親だと思われていた女の人は、彼女と違って、買い物やら何やらでよく外に出ていた。
一人歩きしているいつもの噂とは違って、本人に直接聞いた可能性もある。
「いや、違うんじゃない?見るからに似てないからだろ。」
自分の反応が思っていたものと違ったからか、そばかす男はそっけなく答えた。
「そっか…。」
彼女が来てから二週間。
自分にとって“唯一の話し相手”であるこの男から、彼女の噂を聞かない日は一日もなかった。
今日みたいな噂ならまだましな方だ。
綺麗すぎて母親から虐待を受けていたんじゃないかという、あのおとぎ話のような噂。
綺麗すぎて父親が手を出してしまったんじゃないかという、下世話な噂。
そんな完全なる憶測が飛び交うこともあった。
…とにかく、彼女はこの村には不釣り合いすぎたのだ。
美しすぎる彼女。たくさんの噂をもつ彼女。一度きりしか姿を現していない彼女。
彼女のことを知ったその瞬間から、自分の興味はすべて彼女へと向けられていた。
大袈裟だと思われるかもしれない。
だけど、人生を左右する高校入試で失敗するぐらいには、彼女に夢中だったんだ。
試験本番、自分が書いたのは、噂で聞いた彼女の名前だけだった。
そのせいで、もちろんすべての高校に落ちた。
結局入学することになった高校は、隣の村にある、名前を書けば入れる“バカ学校”。
でも、見たこともない彼女に夢中になっている自分も単なるバカに違いないのだから、当然のことだったのかもしれない。
「お前って、そんなにバカだったっけ?」
ソバカス男は、いつだって直球。
人のベッドの上に座って、真っ直ぐとこっちを見ていた。
「…君よりは頭いい。」
他人の家でこんな風に時間をつぶしているソバカス男と違って、自分は誰よりも勉強だけはしてきた。
彼女のことを知るまでは。
「だよな。でもなんであの学校?どうせレベル低いところに行くなら、俺と同じ学校にしろよ。」
「それは一番嫌だ。」
そう。目の前の男は、普通に受験をしたはずだった。
それなのに受かったのは、自分が行く学校と同じくらいの“バカ学校”だけだったのだ。
「なんでだよ。話し相手、俺しかいないくせに。」
「だからだよ。」
「…巣立ちか?」
「……。」
“巣立ちができないでいるのは君の方。”
その言葉を口から出すことはどうしてもできなくて、ただ沈黙だけを紡いだ。
15歳になってしまった自分には、言いたいことをそのまま口に出す不器用さも素直さも、残ってはいなかった。
「…俺、帰るわ。」
でも、ソバカスはバカだけど“馬鹿”じゃないから、きっと分かってる。
自分が言おうとしていたことも、違う学校を選んだ理由も。
何も言わないで相手が理解することを期待している自分には、狡さしか残っていない。
それから数週間、ソバカス男が自分の部屋に来ることも、学校で話しかけてくることもないまま、入学式の日を迎えた。
唯一の情報源を手放したから、あれ以来、彼女の噂は聞いていない。
それでも、彼女の存在が自分から消えることはなかった。
それどころか、ますます彼女の正体が分からなくなって、より気になる存在になっていた。
「ねぇ、隣の村から来たんでしょ?」
懲りずに彼女のことばかり考えていたら、久々に人から話しかけられた。
初日の朝にも関わらず、それとなくいくつかのグループができ始めてざわつく教室の中。
ショートカットの気が強そうな女の声だけが自分に向けられていた。
「どうかした?」
話しかけられた驚きで何も答えられなかった自分に、首をかしげる。
「…いや、なんでもない。」
「え~変なの~。」
ケラケラと、何が楽しいのか笑っている。
でも、このショートカットの女も、きっと恒例の自己紹介が終われば話し掛けてこない。
中学も、そうして一人になったのだから。
「あっ…」
女は突然小さく声を上げた。
さっきまでの表情から一転して、驚きと恐れ、羨望、嫉妬が入り交じったような顔をしている。
教室にいた数人も、男女関係なく、一点を見て同じ表情をしていた。
その異様な空気はすぐに波及して、気づけば、誰も声を出せず動けない程に重くなっていた。
カタンッ
静かな教室に響いた、たった一つの動き。
それを合図に、全員が呼吸の仕方を思い出したように、ゆっくりと息を吐き出した。
ほんの少し軽くなった空気の中、自分は音がした方に目を遣る。
……それはもう“異空間”だった。
窓際の後ろから二番目に座る自分の、ちょうど死角。廊下側の一番後ろの席。
そこだけ、切って貼ったような不自然さがあった。
教室の中心なのではないかと思ってしまうぐらいに、集まる視線。
そこに存在していてはいけないのではないかとさえ思ってしまうぐらいに、浮世離れした輝き。
すぐに彼女だと分かった。
自分は、彼女と会えた喜びで頭がぼーっとしたまま、ふらふらと立ち上がった。
いまだに静まり返る教室でただ一人大きな動きをみせた自分に、この止まった時間を再び動かしてくれるのではという期待の目が向けられた。
その目に気づきながらも、やっぱり何も考えられなくて。
近づく、彼女の凛とした姿。内から放たれる、誰も寄せつけまいという彼女の意思。
それだけを目に焼き付けた。
一歩一歩、彼女との距離を縮めるにつれて足が遅くなる。
「名前は?」
やっと彼女の目の前まで来たとき、気づけばそう声をかけていた。
彼女は、ゆっくりと目だけを動かして
「自分から名乗るものでしょ。」
あぁ、やっぱり自分の勘は正しかったのだと、彼女の第一声を聞いてすぐに思った。
彼女に惹かれていた自分は正しかった。
「自分の名前は……」
そう続けようとしたとき、邪魔が入った。
気づけばホームルームの時間になっていたらしく、このクラスの担任であろう人が席に着くように呼びかる声が耳に入った。
その声に反応した、彼女と自分の話に耳を傾けていた人たち、廊下で騒いでいた人たち、それぞれが決められた席へと向かう足音がする。
本当に、自分らしくない。このときは、ほんの一瞬だけ、“感情的”になった。
邪魔が入った…そんなことを思ったことは一度もなかったのに。感情的っていうものが自分にはよく分からないけれど、これを世の中では感情的と呼ぶのかもしれない。
彼女もすでに凛と前を向いていて、自分の方を見ていない。
でもそれは、自分のことを無視したというより、ただ周りの行動に合わせただけのような自然さだった。
その自然さに、なぜか自分は、不自然さというか違和感を感じた。
最後まで突っ立っていた自分に名指しで注意が向けられ、はっとして周りを見ると、教室の席がひとつを除いてすべて埋まっていた。この足並みをそろえたような行動に、少し息苦しくなった。
自分がゆっくりと席に着くと、担任の簡単なあいさつが始まる。
32歳、男性、趣味は家庭菜園……やっぱり、興味なんて湧かない。
窓の外をなんとなく見ながらそれぞれの自己紹介を聞き流していると、彼女の声が聞こえた。
澄んでいて、強くて、それでいて耳に優しい響き。
その響きが自分に届けたのは、確かにソバカスから聞いた“彼女の名前”だった。
彼女は“彼女”だった。このとき、確信した。
でも、この村には彼女の噂は届いていないらしい。
ただその美しさに圧倒されているだけで、彼女の名前に反応する人間は自分だけだった。
そのあとも続けられた彼女の自己紹介は、こうだった。
「趣味は音楽鑑賞です。Jポップもクラシックも何でも好きです。特技って言えるほどではないけど、ピアノが得意です。」
いたって普通の女の子がするような自己紹介。
どんな言葉が飛び出すのかと身構えていたクラス全体は、彼女のその普通さに安心しているように見える。
でも、このときも自分は、違和感を感じた…。
それからまたぼーっとしていると自分の名前が呼ばれたので、自己紹介をするために立ち上がる。
ぐるっと視線だけで見渡すと、探るような視線を向けている人が数人いた。多分、彼女とのやり取りを見ていた人たち。
でもきっと、この視線も違うものに変わる。
自分がこれから言おうとしていることを聞けば、探る視線ではなく………
あぁ、そうか。
さっきから彼女に感じていた違和感の正体が、わかった。
「自分は――――――――です。」
ほら、視線の意味するものが変わった。たった一言なのに。
さっき話したショートカットの気が強そうな女も、嫌悪するような視線をこっちに向けている。
大方、気持ち悪いだとか、話しかけなければよかっただとか思っているんだろう。
でも、自分はこの視線を待っていたのだ。
こうして嫌がられて、周りとの間に溝ができることを。
……彼女にも、それを望んでいた。
“他の人間なんてどうでもいい、関係ない。”
そう思って周囲を撥ね付け、他とは違う行動をしてくれることを望んでいた。
だから、彼女の普通な行動一つ一つに違和感を覚えていたのだ。
…そう、実際の彼女は違った。
噂から想像していたよりも、ただただ“普通の女の子”だった。
自分が惹かれていた理想的な彼女は、どこにもいない。
それに気づいた瞬間、数ヶ月もの間見続けていた夢から、突然醒めた。
無理やり目を醒まされた時に感じるようなイラつきとダルさ、という最悪な特典つきで。