決意
流れる雲が、なんとも煩わしい。
邪魔なのだ。
ノロノロと走るのならば、私に道を譲れと言ってやりたい。
フリッツ・F・コーディ国防陸軍大佐は、車中でそう思った。
見上げた空は、蒼く透き通る色だった。その蒼を、雲が邪魔していたのが許せないらしい。
「飛べたなら、気持ちがいいのだろうな」
無意識に、そう呟いていた。
「何です?」
運転手が、振り返らずに言ってきた。
「いや」
短く返す。
今は人と話す気にはなれなかった。
これから向かう場所ではきっと疲れることになるだろうから、直前まで精神面でストレスを抱えたくはなかった。幸い、この運転手がお喋りではなかったのが救いだった。
コーディは、もう空を見上げる気にはなれず、膝の上に置いた鞄から、今日の会議の資料を取り出した。
長かった。
それも今日で終わり、今日の会議次第で始まる。
なんとしても、作戦会議は成功させねばならない。
コーディは今、ベゴニア帝国首都郊外都市グーツヘルブルクに向かって黒塗りの車を走らせていた。
パラパラと捲る資料を眺めながら、この逼迫感がうざったい時間を潰すことにした。柄にもなく、緊張しているらしい。
大丈夫だ。何も心配は無い。
そう言い聞かせて、コーディは短い溜息をついた。
(あとは用意した演出が上手くいくかどうか、だ)
そのために、郊外の場所に無理矢理会議を設定し、周辺十キロは完全に封鎖させたのだ。
もともと軍用地であるからだれも来ないだろうが、用心をして損はないだろう。
会議場であるマルード基地に続く道は、この幹線道路一本と、東に二本だけで、情報管制もしやすい手頃な場所だ。
後ろに流れていく風景を眺め、暫くして検問所が見えてきた。
「ついたか」
ゲートが開き、車は司令部の前で止まる。
ドアなど自分で開けて、コーディはさっさと降りた。
後ろでは呆然としている運転手の姿が映っていた。
そういえば名前はなんだったか。
考えて直ぐに止めた。
覚えていても仕方ない、知らなくてもいい。
「そんなものか」
呟いて、中に入った。
「フリッツ・コーディ大佐だ」
中尉の階級章を付けた衛兵に身分証を渡す。
チラリと周りを眺めやる。
高くもなく、低くもない天井に裸電球の電灯が吊るされている。
床も板張りで、何処かの王城を接収したりだとかはこの基地はしていない。
なので、高級将校などが作戦会議を開くにしては質素な建物だった。
別にどこでもいいのだが。
「失礼致しました大佐殿。会議場へは右奥へ」
そんなことを思っていると、中尉が身分証を返してくる。
若いがなかなか凛々しい顔立ちをしていた。
「ありがとう中尉」
思ってもないことを言って、会議場へ足を向けた。
開け放たれたドア。
その部屋に入った。
「フリッツ・コーディであります」
踵を揃え、右のこめかみへと指先を当てる。
コーディの声に反応して、その場にいた面々からの視線を一同に浴びた。
「着いたようだな大佐。席につきたまえ」
「はっ」
長机を囲む面々の中で、上座に座る男が口を開く。
ベゴニア帝国統合参謀本部長ミハエル・フォン・シュトゥットガルト元帥その人であった。
齢五十にして元帥の称号を皇帝陛下より授かり、史上最年少の元帥となった男である。
元帥はベゴニア飛竜騎士団の団長を努め、その名声は内外を問わず知れ渡っていた。
後ろに髪を流した風貌は、端整な顔立ちであり、下手をすれば四十代に見え、とても今年で五十六の年齢には見えない。
今日の議題を述べるためコーディは下座に着く。
開始五分前であったが、部屋に入ったのはコーディが最後だった。
開け放たれたドアが、ゆっくりと閉まった。
「開始まで少し時間があるが、皆揃ったようなので始めるとしようか」
その言葉をもって、コーディの戦いが始まった。
「では早速、対アーク連邦戦略について近況を第一部作戦部長から」
「はっ」
いよいよだ。
そう胸の内で渇をいれ立ち上がる。
「ではまず、大陸海戦線の報告から申し上げます」
机に置かれた大陸海の図上に、従兵が指示棒を当て注意を向ける。
「結論を申し上げますと、我が軍初となる水上機母艦が先の小競り合いで撃沈されました」
「何?」
静電気に似た、静かな衝撃が会議場を駆け抜ける。
「まさか……」
「そうです。アーク連邦が航空機の実用化に成功した模様です」
大陸海――
アーク連邦とベゴニア帝国の間にある、オスティオ大陸西北に位置する三日月のような形をした海である。
西から東へと穿つ様な形成をされており、別名“三日月海”とも呼ばれている。
ベゴニア戦争時、名も無き自動車技術者が、車のエンジンを使って初飛行を遂げた瞬間から全ては始まる。
いち早く航空機の軍事的利用価値に気がついたベゴニア帝国は、アーク連邦を含め、他の国よりもいち早く航空機を実用段階までにこぎ着けた。
しかしそれは、ベゴニア戦争終結から九年も後の事だった。
そして大陸海に面す、アーク連邦加盟国エルモア共和国において、連邦離脱を巡る内戦をきっかけに、大陸海紛争が勃発する。
そこで初めて実戦に航空機が使用されたのだ。
紛争勃発から一年が経とうとしている。
その中で、連邦もいよいよ本格的に航空機の投入を始めたようだった。
「搭載水上機六機中五機が撃墜され、残りの一機は後方の水上機基地まで帰還しました。母艦は沈没、生存者三十六名。生き残った飛行士によると、飛竜に助けられたようです」
言い終わると、どことなく小さな息づかいが議場に流れる。
その中の一人が重々しく、口を開いた。
「それで、敵の航空機の性能は?」
「はっ、写真等がなくはっきりとはしておりませんが、生き残った飛行士からの証言によれば、敵の航空機は翼は複葉、動力方式は推進式で、機体後部は骨組みのみ、機体色は群青色だそうです」
議場を唸り声が支配した。
見渡してみると中々面白い。
つまらなさそうにしている者は、主に、というか全員が、飛竜騎士団出の所謂エリート中のエリートだ。
有史以来、竜騎士というものは、崇高なる偉大な空の支配者として君臨している。
それはまさしく選ばれた者であり、飛竜に見初められた栄光ある騎士団なのだ。
その空が今、汚されそうになっているのだから無理もない。
気持ちは分かる。
だが、とコーディは思う。
精神の硬直化は避けねばならぬ。
伝統を活かす、それは今を生きる我々にしか出来ない。
受け継がれるものがあるとすれば、栄華、栄光、傲慢、それら全てを除外した前進的な合理性を忘れぬ事であるとコーディは信じている。
「諸君聞いてくれ」
上座に座る元帥がそれとない口調で話す。
私を含め、一同の視線は一人の男へと向けられた。
「実は先日の皇帝陛下を招いて行われた御前会議において、陛下は我がベゴニア、アウスメリカディス両国の紛争解決の糸口が見られぬ場合、アウスメリカディス連邦共和国に宣戦布告する旨を勅令として認可なされた」
衝撃が走ったのは言うまでもない。
コーディは作戦立案の立場から、このことを知ってはいたが、最初に聞かされたときには鳥肌がたったものだ。
そして今、目の前でその事を告げられた面々は、困惑の表情を一瞬に浮かべた後に「いよいよか」といった表情を元帥へと向ける。
「その事を踏まえ、コーディ大佐の話を聞いてほしい。では大佐、続きを」
「はっ、閣下が仰られた事に補足を付け足しますと、開戦は来年の二月初旬を予定しております。そこで私が提案する作戦は、雪解け前のヨジェクト山脈を越え、水位の減ったラーク大河を横断する事であります」
「なっ!?」
言い終わると一斉に議場がざわめく。
その中に、身を乗り出して詰め寄る、私と同階級の大佐が言った。
「正気ですか!?確かに時期はいいかもしれない。しかし、現兵力でラーク大河を越えようとすれば、南のコークスは無防備になってしまいます」
彼の言っていることはもっともであった。
南のコークス地方は平坦な地形により、大部隊の展開が必要である。
その比率はベゴニア帝国陸軍の三割もの数ををこの一地方に展開させていなければならないのだ。
ラーク大河は、オスティオ大陸南東のシラク大湖から流れ、アウスメリカディス連邦共和国とベゴニア帝国の自然の国境線とされている。
緩やかに大陸を北西へカーブを取り、やがては大陸海に流れでるこの大河は、コークス地方では川幅六キロ、オーランド地方にいたっては川幅が八キロにも及ぶのだ。
オーランドに抜けるにはラーク大河を渡り、ヨジェクト山脈を越えねばならない。
標高二千メートル級の峰々が連なる場所には、唯一の侵入路であるミネラフ峠があり、アーク連邦の要塞がその行く手を阻んでいる。
天然の要塞は、少ない人員で最大限の効力を発揮でき、突破するのはまず不可能であるとの見解がベゴニアでは常識であった。
「むろん、承知しております。そこで私が提案致しますのは、大規模航空戦力の投入による一過閃攻撃であります」
議場のどよめきは更にも増して強くなる。
その中で、一人腕を顔の前で組み、静かにコーディを見つめる元帥の姿が不気味であった。
反論は竜騎士出の准将から始まる。
「少し、いや、かなりの確率で不可能ではないのかね?十年前の、あのオーランドの戦いを忘れたわけではあるまい」
竜騎士出にしては落ち着いた物言いをする人だな、と思いながらもコーディは彼の思考を追う。
十年前、まだ航空機が戦場に現れる前のベゴニア戦争末期にベゴニア側の大反攻作戦が発動された。
作戦名“テルミッツ”
この大陸の公用語であるオスティオ語の基礎となったマーシャン語で“反撃”と言う意味だ。
これはアークにオーランドが落とされた四百年前から存在する、ある作戦計画が元になっている。
「まさか貴様――」
その准将が次の句を述べようとした時だ、突然、腹に響く、威圧感にも似た低く重い振動が、机を揺らした。
「な、なんだ!?」
違う意味で、また議場は喧騒に包まれる。
「いいタイミングだ」
聞こえないように呟いて、コーディは口角がつり上がるのを自覚した。
威圧感はうねりの音を伴って近づいてくる。
「上か!?」
一人が叫んで、つられて何人かが窓辺へと駆けよって行った。
正体を伏せるその不快な威圧感は、一グラムの重さも感じぬ空気を震わせ、その振動の余波はコーディ達を下へ押し潰すように高圧的だった。
蒼空の空に浮かぶ雲の間から覗く、巨大な質量を浮かす推進機の音。
その切れ間から、白鯨が姿を現した。
「なんだ、あれは……」
本能が危険を察知し、それを後退りさせる。
高度を下ろし、その推進機の奏でる重力が増すなかで、コーディは立ち上がり、言った。怪しく光る目が、不気味であった。
「航空戦艦です」
コーディの声に、見入る面々の、戦慄に染まる顔が向けられた。
「何を言っているのだ?」
そう言っているように思えた。
人は理解の範囲を超えると、思考が停止するようだ。
魔法使いが、初めて科学を用いる錬金術師にであった時、人々はある種の精神崩壊を起こしたものだ。
科学がもたらした合理性は、力だけが全てであった魔法世界を、力と理性の世界へと変遷させ、これまでの厳格な身分制度の意味さえも、破壊したのだ。
その中で、一人の男が魔導機械と呼ばれるものを生み出した。
魔法と科学の融合。
何人もの魔術師や錬金術師が挑み、挫折した、絶対に不可能とまで言われた伝説の理論を、この男はたった一人でやってのけたのだ。
その男の名は、レイティクル。
レイティクル・フローレン。
科学との出会い、魔法との出会い。
その両者の出会いより以前、オスティオ神話に出てくる程の昔の人物が、彼であった。
それまでは、自然科学の存在が知れわたるまで、その存在は単なる伝説上の人物でしかなかった。
しかし、科学の実在が確認されるや否や、人々は漠然とした推測を明瞭化して囁き始める。
「レイティクル・フローレンは実在した?」
思考の後、まさか、と自らの考えを振り払うのが大半であったが、中には本気で信じる者もいた。
そして時は流れ、永きに渡る戦乱の中、それは偶然に発見された。
その発見は、「レイティクル・フローレンは実在した?」という漠然としたものから「レイティクル・フローレンは実在する」という確信的なものへと変えた。
それが、魔導機械。
『力を授かったイレーチェ人は、岩石で出来た人形に魂の代わりとして“火”を吹き込んだ』
オスティオ神話の一節にこのような文が書かれている。
この“火”とは、一般に魔力と呼ばれるものだ。
錬金術師が呼ぶには、我々のいう魔力は第五元素というものらしい。
錬金術師もまた、そんなものがこの世に存在するとは思っていなかったのである。
その魔導機械は所謂永久機関と呼ばれる。
第五元素――魔力を永続的に取り込む事によって無限の動力を生み出すこの機械は、ベゴニア戦争時のヨジェクト山脈の洞窟から発見された。
それはまさに運命的な出会いと言っていいだろう。
直径三メートルの球形をしており、長らく人の手がつけられていない完璧な形で発見され、その解析が行われた。
その結果は“解析不能”と何とも情けないものであったが、幾つか判明したことがある。
その内の一つは、これは魔力を込める事により、それが始動キーの役割を果たすこと。
幸いにも、これは個体識別用の安全装置ではなく、単なる機関の運転を開始させるだけのものであるとの事だった。
後の判明した事と言えば、この機関は膨大なエネルギーを半永久的に生み出すこと、その位しか分からないのが実情であった。
それを運び出し、その膨大なエネルギーを包み込むために雛型として造られたのが、目の前に浮かぶ航空戦艦であった。
全長二百七十メートル、艦幅最大三十七メートルの超弩級戦艦であるシャルベントは、下腹部に連装三十五・六センチ砲三基六門、両舷下部に単装十五センチ砲六門。
艦中心上より上の位置にも十五センチ砲六門、艦首艦尾に一門づつの計八門。
これは着水時に、海戦を行うためのものである。
そして甲板に三十五・六センチ砲連装二基四門、艦尾には水上機発進用の射出機を両舷六十度の角度で設置され、収納式クレーンが格納庫の水上機を出し入れする。
《シャルベント》は他に類を見ない、全く新しい兵器である。
三次元戦闘をし、航空機対策のために、機銃を単装、連装、計百十四基搭載し、更に十二・七センチ単装高角砲十基を搭載した、まさに空中要塞である。
「この航空戦艦を中核に、陸海航空隊から単発戦爆連合四百二十機、双発爆撃機七十二機を投入し、渡河上陸兵力四万五千人と空挺部隊三千人を敵地上要塞『ペリノティス』に降下、占拠、オーランド方面侵攻の足掛かりとし、首都バリチェノイラ侵攻への血路を開く……」
顔が強ばるのが分かる。
これは賭けだ。
アーク連邦国境線のベゴニア帝国陸海軍全航空戦力の七割を投入する大作戦、外れれば待つのは破滅だ。
航空戦力とは機体の数ではない。
乗員の練度がその数値を決める。
双発機はこの際誰でも扱える。
だが、単発の戦闘機乗りは別であった。
「……あれで、出来るのだな?」
そう聞いてきたのは、長らく沈黙を貫いていた元帥からであった。
冷たい眼光が、この場では異質な物に見えるのはおかしいのだろうか……。
「それが帝国四百年の悲願を達成することと存じます」
四百年間、幾度となく実行され、その都度失敗に終わる、呪われた作戦計画。
その忌々しい呪縛から、ベゴニアを解き放つのだ。
「“シュリーフェン・プラン”の発動を進言致します」