血道
支配者は空。
空には、血と硝煙と燃料の匂いが混ざり合い、溶け合っている。
そこでは、透き通る蒼色のキャンパスに、細切れの肉と黒煙を上げ墜ちていく、無骨な鉄鳥が彩りを加えていた。
「くっ……」
雲を突き抜け、一機の紅色の複葉機が蒼空を駆け抜ける。
そのすぐ後に、群青色の複葉機三機が続いていく。
空は今、無力な一人の少年飛行士を飲み込もうとしていた。
「三機だなんて、反則、だろ……!!」
右に急旋回。
世界が横向きになり、紅色の翼が鈍く翻る。
それを三機の群青色の複葉機は、必死に逃げ惑う小鳥を嘲笑うかのごとく、難なく紅色の翼に追いついていった。
(やられる、のか?)
必死に機を操る少年は、眼下に広がる大海原を見て思う。機を撃墜され、落下傘で脱出できたとしても下が海なのだ。母艦が沈んだ今、恐らくは拾ってはもらえないだろう。
少年はただひたすら味方のいる陸地へと向かっている。それが唯一自分が生き残れる方法であった。尻に食らいつく三機の群青色の敵機に墜とされれば、空の塵となり、少年は死ぬ。
(死ぬのか、僕は?)
操縦桿を握り直す。
剥き出しのエンジンが、苦しそうにうねりを上げる。
それは悲鳴であり、限界高度を意味していた。
(敵は?)
後ろを振り返る。
三機の群青色の翼は、相も変わらずピタリと少年の後ろにくっついていた。
機を左右に振って、射線を確保されないようにする。
これを何度も繰り返して持ちこたえてはいるが、そろそろ限界のようだった。
「ハァ、ハァ……」
体が重い。
ペダルを踏む足の感覚は、とうになくなっている。
いっそ楽になりたい。
体の力を抜いて、楽に飛びたい。
だが少年の拙い願いは、現実が許さない。
気を抜けば、待つのは死だけだ。
今、僕は生きたいと思う。
少年は、薄れゆく意識の中で、そんなことを思う。
死にたくて、死にたくて、どうしようもなかった。
だけど、今は、生きたいと、生きていたいと思った。
生への執着。
生きているという実感。
死を前にして、高まる高揚感。
生きている。
生きている。
生きていると、感じられる。
“世界は矛盾だらけだ”
白濁の意識は、何処からか言葉をもたらす。
“狂ってると思う?”
少年は気づいた。
そうだ、これはいつしかの…誰だかは忘れたけど、誰かが言ってた言葉だ。
(誰の?)
分からないな。
知らないんじゃない、分からないんだ。
そう、言葉では言い表せない、頭の中で響くあれなんだ。
理解はしている。
それがなんなのかも知っている。
ただ、何と言えばいいか、分からないんだ。
例えば、こんな時みたいに……。
バリバリ、空の声が、裂けた。
甲高い声音が、空色の空間を切り裂いていく。
群青色の敵機が放つ、機銃弾だった。
「殺すのか、この僕を?」
操縦桿を手前にぐっと引き寄せた。
世界が反転し、太陽が陰る。
そのまま機体を水平に立て直した時だ、上面に、一機の群青色の複葉機が、冷たく少年を見下ろしていた。
“ようこそ、狂気に満ちた、大いなる空へ――”
声が、聞こえた。
男なのか、女なのか、ただ声が、僕には聞こえた。
“そしてさようなら、まだ見ぬ、大いなる空の彼方へ――”
霞むような意識に、この声だけははっきりと聞こえた。
低く、突き放すような、そんな声。
(空は、僕を見捨てるのか?)
操縦席には前方にちょこんとある風防だけ、中は吹きっさらしだ。
焦げ臭い空気が少年の頬を撫で、後ろへと流れていく。
「まだだ」
群青色の複葉機が、少年を上から静かに睨んでいる。
逃げられない。
少年の運命は決まっている。
避けられない運命。
「まだなんだ……」
群青色の複葉機のパイロットが笑っているように見えた。
「まだ僕は、生きているんだ!!」
爆音。
灼熱の熱波が少年の心を焦がした。
なにが起こったのか、理解できなかった。
群青色の複葉機が、膨張し、目の前で爆ぜたのだ。
「え?」
群青色の複葉機だった部品が、少年の赤色の複葉機をノックする。
「……え?」
声帯から発せられる言語が、少年が生きていることを確かなものにした。
下から二回の爆音、空は、少年を選んだようだった。
周囲を見渡して、少年はそれを見た。
「飛竜……」
全く、敵わないな。
少年は可笑しくなって、笑った。
幾ら空を飛行機が埋めようとも、飛竜は空の支配者が誰なのか思い知らせる。
左に軟旋回して、滞空する飛竜を斜めに眺めやる。
雲の上に佇む、黒い飛竜。
誇り高き、ベゴニア飛竜騎士団。
それも、皇帝近衛飛竜騎士団の紋章をつけたマントを、竜騎士が羽織っていた。
少年が乗る赤色の複葉機の胴体には、傾いた十字架が描かれていた。
“傾いた十字架”
飛行士は“騎士落ち”と呼ばれている。
飛行機が空の主役になった今でも、飛行士は劣各の印を押されるのだ。
少年は己の無力を思い知らされる。
鋭い牙、甲冑からエメラルドに光る眼光が覗き、鱗にあわせ鎌首を覆っている。
さらに、四足の鋭い鉤爪、ゆらゆらと尻尾が振れていた。
羽ばたく翼は雲を吹き上げ、波打つは白雲の絹の如く優しく、神々しいまでのその威光の上に、僕を眺める竜騎士の双眸があった。
(生きてる?)
そう言っているような気がした。
この時初めて、少年は空を飛んでいることに気づいた。
飛ぶことは空気を吸うことと同じだとか、そんな自惚れたことじゃない。
情けないが、見とれていたんだと、分かった。
「生きてる」
生を実感できる。
そのことが、
なんとも、
少年を苛立たせた。
一際大きな風が吹き荒れる。
視線の先に、飛竜が翼を広げ去っていく姿が映っていた。
「……生きている――」
少年は今日の運命に、絶望した。