モデルの佳恋と画家の鷹野〜ふたりの出逢い。
モデルの佳恋と画家の鷹野が初めて抱き合うシーンです。
風のない春の夜のことだった。夕刻に降った雨がアスファルトを濡らし、湿った空気がキッチンの小窓から這入り込み、煙草の煙と香水が混じり合う甘酸っぱい匂いが部屋の中に漂っている。室内は夜と溶け合うように、しんと静まり返り、時折紙を擦る鉛筆のさらさらという音が聴こえてくる。鷹野と佳恋は互いに相手の身体には触れず、無言で向き合っている。沈黙の時間は二十分以上続いていた。
佳恋は一糸纏わぬ姿でベッドに横たわっていた。鷹野は真剣な表情で、痩せた身体に似合った少し膨らんだ乳房を見つめていた。その眼差しは薄紅色の小さな蕾の上に注がれていた。ほんのり色づいた乳輪と柔らかな突起は彼の視線を捉えて離さなかった。彼女は右腕を頭上に向けて伸ばし、その腕を枕にして顔を横向きにした状態で、身じろぎもせずじっとしている。
絵画のモデルは長時間同じポーズを保ち続けなければならないが、この時の佳恋は、まだ慣れてなかった。少しでも油断をすると、顎や手先が動いてしまう。
「あ……動かないで」と、その度に鷹野から注意を受けるので、元の姿勢に戻すべく、顔の傾きや手足の位置を確かめ、彼が再び描き出す姿を目で追っていた。
時間が経つにつれて鷹野の表情は鋭さを増し、彼女の肌が作り出す陰影や緩やかな曲線に釘付けになっていた。時折、鉛筆の動きが止まり、彼の視線だけがモデルを這うように動いた。
鷹野は思っていた。――なんて美しい身体なのだろう。今後、裸婦を描く機会が何度訪れようとも、こんなにも美しい身体を目にすることはないのでは。
絵画の指導をする先生は骨格を意識して描きなさいと常々口にするが、到底信じられなかった。今目の前にしている裸体は骨などというものは一切感じられなかった。静脈の浮き出る透き通った白い肌は繊細。ほどよく肉のついた肩は、どこか頼りない印象を受ける。彼女を描写するのに骨を意識して画く必要はないように思われた。
突如思いついたように彼は、イーゼルにキャンバスを立てかけ、油絵の具を取り出し、薄い肌色を使って色彩を施し始めた。彼女の身体を再現するのには透明な肉体を表現するしかなかったのである。
鷹野の食い入るような視線に多少の戸惑いを感じてはいたが、そこに性的な感情がなかったからであろう、佳恋は自身の裸体を見られるのに抵抗はなかった。それよりも、一つの疑問を抱いていた。この人の私の身体を見る目は情熱が感じられるけれども、本当のところ私のことをどう思っているのかしらと。筆を洗う合間に時折見せる彼の微かな戸惑いを、彼女は見逃さなかった。
一時間が過ぎた頃、ちょうど休憩に入るタイミングの時だった。ーーそうだ。ちょっと、からかってやろうかな。彼女の思いつきは彼の気持ちを試すことにあった。
彼の本心を探るような瞳を見せ、ほんの少し肩をすぼめ、佳恋は口もとに悪戯っぽい笑みを浮かべた。舐めるように唇に触れた人差し指を僅かに宙で揺らす。だが、その仕草に混じる微妙な躊躇いに気づいた鷹野は思わず息を呑んだ。彼女の瞳が何かを求めていると感じたのだ。
「やめろ、佳恋」鷹野のかすれ声が静かな部屋に響いた。彼が理想とする美の世界に土足で踏み込まれたような気がしたからだった。だが、彼女の魅力に抗えないのも事実だった。
見事な八頭身のプロポーション、丸い形のいい前額に、はらりと黒髪が垂れ下がり、しどけない姿でこちらに視線を向けるその顔には少女のようなあどけさが残る。
鷹野は、考えあぐねる表情で佳恋をじっと見つめた。彼女の中にある無邪気さと大胆さの相反する要素が、『美とは何か』を追及する彼に、その答えを突き付けてきたような気がしたからである。言い知れぬ情動が彼の中で湧き起こるのを感じた。佳恋の存在そのものが彼にとって未知のキャンパスに思えたのである。
惹き込まれるような感覚に襲われ、パレットを放り出し立ち上がった。手もとの毛布を掴んで、彼女の方に近づく。裸身を包むはずの毛布が二人を引き寄せたのは、ほとんど偶然のように思えた。二人の距離が予期せず縮まる。彼女の指先が彼のシャツに触れる。その触れかたがあまりにも無垢で、そして求めるようで、鷹野の中で崩れ落ちる何かを感じていた。禁じられた欲望に火が付いたのか、あるいは彼女の肉体に救いを求めたのか。彼の美意識が佳恋の魅力に敗北した瞬間だった。
鷹野は夢中で彼女を抱いた。羞じらうように微笑む佳恋。心の壁が崩れ、隠していた彼の感情が露わになる。二人は互いの熱を感じながらも、言葉より先に体で理解し合った。初めはどこかぎこちなかったが、次第にキャンパスに線を描くように鷹野の手が動き始める。そうして、どちらからともなく唇を重ね合わせた。
彼の唇が触れた瞬間、佳恋は胸の奥でチクリと小さな痛みを感じた。それは、心地よさと罪悪感の入り混じったものだった。ふいに脳裏によぎる母との記憶。小さなテーブルを挟んで笑い合った幼い自分と若々しい母の姿が甦る。ーー私が求めているのは、これなの? 高野に抱かれる感覚は、あの時のぬくもりとは全く異なるけれど、どこか満たされたいという思いが似ている気がした。彼の優しい愛撫と激しい情熱に身を委ねる自分がそこにいた。
四月の上旬、桜花の頃は佳恋の生まれた季節だった。彼女は今、二十歳の春を迎えていた。七歳年上の鷹野と出逢ったのは、まだ十代の頃のこと。画家という職業に畏怖と尊敬の念を抱き、彼のミステリアスな魅力に心惹かれたのだった。
母子家庭で育った彼女は、大抵母と二人だけで誕生日を祝った。幼少の頃は、近所の洋菓子店で注文したケーキを頂くのが年に一度の贅沢だった。板チョコで作ったプレートには『佳恋ちゃん、お誕生日おめでとう』とデコレーションされていて、その丸いケーキを二人で切り分けて食べるのがささやかな楽しみだった。スマホのライブラリに保存された動画は母と共に写るツーショットが殆どである。伊豆にドライヴに行った時のこと、沖縄に二泊三日の旅行へ行った時のことなど、指先で画面をスライドする度にあの頃のことを思い出す。
動画の中の二人は、親子というよりは年の離れた姉妹のような関係を思わせる。実際、佳恋の母未知子は、年齢よりずっと若く見えた。美しい鼻筋、きめ細やかな肌、すらりとした姿形、流行りの髪型、そのどれもが華やかさを演出しており、四十代前半であることを少しも感じさせなかった。そんな彼女と一緒に歩くと、佳恋自身も自然と目立つ側に引き込まれてしまうのだった。歩く姿勢や優雅な身のこなし、上品な仕草などは見習うべきものがあった。仕事に家事と毎日忙しいはずなのに、いつも笑顔を絶やさず、就寝前には必ず私のことを抱き締めてくれた、あの母のぬくもり。彼女のような素敵な大人の女性になりたい。その一途な気持ちが佳恋の心の支えになっていた。
背やスタイルもほとんど同じだった二人は互いの服を交換し、ファッションショーの真似事をして遊んだ。部屋のテーブルを退け、カーペットでステージを作り、音楽を流し、モデル歩きをして振り返ってみせる。二人の好きなJILL by JILL STUARTの洋服こそ未知子には多少若向きのように思われたが、並んで歩いている姿は、まるでファッション雑誌から抜け出てきたような輝きを放っていた。母娘でウインドウショッピングなどをしていると、よく声をかけられたものだった。「これから、お茶でもいかがですか?」と、誘ってくる男や、「芸能事務所の者ですが、少しお話しを」などの怪しげな年配の男性、そして、キャバクラのスカウトマンがしつこく付き纏ってくる。これを追い払うのが大変で、その度に近くのブランドショップへ逃げるように駆け込むのだった。
だが、どんなに笑顔を見せても母の淋しさは拭えなかった。深夜にキッチンから漏れる光でふと目覚めると、食事の下ごしらえをする彼女の後ろ姿をよく見かけた。誰にも見せない孤独を抱えながら、それでも私を優しく包み込む母。その姿に気づいたのは、もっと後になってからだった。
渋谷ハロウィンでふたりは出逢います




