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第7話 「豪雨」~記録が先に降る街~

描線眼鏡シリーズ第3部完結編

『描線眼鏡 または終末の情熱』


観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦

終末を超える鍵はあなたの中にある。


「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。

 その日は朝から湿気った風が漂い、冷房をつけても部屋の空気は蒸していた。

 

 A station の室温は下がっているはずなのに、紙の束の上に、うっすらと重さが残って紙が波打つ。


「……雨、もうちょっと強くしたいな」


 戸隠キズナが、背景ラフの一枚を指先でつつく。ビルの谷間に降り続く雨。白い筋がページの上で均一に並んでいた。


 館山ランは椅子を前に引き寄せて、そのページを覗き込む。


「普通の雨ならまだいいけどさ。豪雨って、空気ごと垂れてくる感じあるでしょ。あれ、一本一本じゃなくて、膜なんだよね」


「映像としてはわかります」


 盛沼サキがタブレットを開いた。スロー再生の雨粒が、地面に当たって跳ね返る映像が並んでいる。


「でも豪雨は粒の大きさと、地面の反射で見え方が変わります。同じ処理を全コマに流すと、嘘っぽくなります」


「出た。詩人と物理」


 上迫ケンが笑いながら、二人の間に顔を出す。


「どっちも正しいから、編集が困るやつ」


 湧口マナセは、資料写真を一枚つまみ上げた。アスファルトに水がたまりかけている路地。


「読者が“濡れた”って思ってくれたら勝ち、じゃない? ……ただ、このくらい溜まっているなら、足元の跳ね返りは欲しいよね」


「そこは入れる」


 ランが即答する。


「上から落ちてくるより、下から返ってくる水の方が怖いときあるし」


 アツは少し離れた椅子でメモを取りながら、ぼそりと漏らした。


「同じ雨の話してるのに、見てる場所が全然違うんだな……」


 隣のサチハが、小さな声で続ける。


「ランさんは空気から見てて、サキさんは条件から見てて……どっちも外せない、ってことなんですね」


「二人ともメモして、優秀、優秀」


 ケンが肩をすくめる。


「そのうち俺、要らなくなるな」


 キズナは笑いながら、空いた椅子に目をやった。


「ユズハがいたら、また変なところ先に気づきそうだけどね」


 アツとサチハが、同時にほんの少しだけ背筋を伸ばす。その変化に、誰も触れない。


 机の上のスマホが、短く震えた。


【防災】大気の状態が不安定です。急な強い雨に注意してください


「最近、これ多くない?」


 ケンが画面をちらっと見て、すぐに伏せる。


 サキは手を止めずに、タブレットの端を親指でなぞった。


「季節要因だけなら、いいんですけど」


 それ以上、話は広がらない。


 再びペンとキーボードの音が重なっていく。ページの上では、まだ「表現としての雨」の話が続いている。その窓の外で、本物の空だけが、少しずつ重たさを増していた。



 キズナは机の中央に、紙の束を置いた。レシートが数枚、0円の納品書が一枚。湿気を吸って端が丸まり、触れると指先にぬるさが残る。


 サキがその一枚を引き寄せ、印字の一部をペンで囲った。


「ここ。“未選択項目”が印字されています。普通は空欄で終わるはずです」


「選ばなかった、じゃなくて……選ばされたみたいに見えるね」


 ランが言う。


 キズナは頷いた。言葉を探す間に、窓の外から雨音が響いてきた。


「この前、ユズハの研修用キットの件で嫌だったのって、ミスでも不正でもなくてさ。“親切な顔のまま入ってくる”ことなんだよね」


 紙の束を指で揃えながら、続ける。


「便利そのものを敵にしたいわけじゃない。境目を決めたい。どこから先が、私たちの手から離れていくのか」


 ケンが腕を組み、納品書の合計欄を見た。数字があるのに、重さがない。


「“現場が楽になるため”じゃなくて、“後で集計しやすい形”に寄ってる?」


 サキは淡々と答えるが、語尾は硬い。


「今年からの規程改定で、提出ログの粒度が上がっています。現場裁量というより、上位側の管理要件に寄っている印象です」


「管理しやすいように、結果を先に決めてくるってことか」


 ケンがつぶやく。


 マナセは黙っていたが、急に目を上げた。急な外の雨の暗さの中で、その視線だけが妙にまっすぐだ。


「現場って、抜ける時は抜けるんですよ。人間だから。そこをゼロにしようとすると、別のものが壊れる」


 少し間を置いて、もう一度。


「報告のために動く時間が増えると、目の前の人から先に遅れる」


 アツは胸の奥がざわつくのを押さえきれず、言葉が漏れた。


「“やったこと”より“記録されたこと”が優先されると……自分が、そっちに合わせにいくみたいで。怖いんです」


サチハはうなずき、手元のメモを握り直す。


「形が先に来ると、いやって言えないって言うか……何がしたいかより、先に道ができてしまうように感じちゃって……」


 机の上に沈黙が落ちた。雨音の向こうで、遠くの車が水を切る音がする。


 その沈黙を切るように、端末が震えた。まず行政の通知。


【防災】記録的短時間大雨情報(東京23区南部・川崎市)


続けて協会の速報。


《協会観測》嵐魔反応上昇/推定危険域更新


 最後に、丁寧すぎる文面が重なる。


『行動ログ提出のお願い(災害時対応)』


 三つ並んだ通知が、同じ雨の下で別の顔をしていた。


 サキが通知を見て一瞬だけ無言になる。


 ケンは乾いた笑いをこぼす。


「……会議、終わった?」


 キズナは画面から目を離さず、低く言った。


「終わってない。これが、始まりだよ」



 警報音が、端末ごとに違う高さで鳴っているのに、耳に届く頃には一つのざわめきになっていた。


 サキのタブレットには、防災アプリの赤い帯がいくつも重なっている。


【大雨警報(川崎市・東京23区南部)】

【洪水警報(多摩川流域)】

【記録的短時間大雨情報(品川区付近)】


 その下に、協会アプリのウィンドウが斜めにかぶさった。


《解析》情動ノイズ混濁を検出

《警告》嵐魔増幅条件の一部を充足

《推定危険域》市街地北東/河川沿い


 さらに、画面の端から、丁寧すぎる吹き出しがじわじわ広がる。


『災害時の安全確保後、行動記録の入力にご協力ください』

『ログ欠測は後日の分析精度に影響します』


 サキが指先でウィンドウを並べ替え、小さく息を吐いた。


「警報だけじゃなくて、ログも処理しろって言ってくる」


「しかも全部、“今すぐ”の顔してな」


 ケンが苦く笑う。スマホの通知欄には、同じ文言が端末の数だけ縦に増殖していた。


「優先順位の言い方が違うだけで、猶予ないのは同じだね」


 マナセが画面を見つめたまま言う。行政の文面は落ち着いていて、協会は数字と語句を淡々と並べ、ログ系だけがやたらとやさしい。


 マナセが協会アプリの画面をなぞる。


「推定危険域、気象庁の警報エリアと、微妙にずれてます……。このズレ、前に見た嵐魔のパターンに近いです」


 窓の外では、さっきまでの雨が一段階重くなっていた。ガラスを叩く音が、ぽつぽつから、どさどさへと質を変える。空気が冷えて、湿り気が足首のあたりからじわじわ這い上がってくる。


《Priority Alert/警戒レベル:SR》

《発生地点:品川区南部(立会川流域)》

《ターゲット半径:1000m±200m》

《予測時間:+00:60:00±05:00》


 ついに魔のアラートも重なった。


「……レンジ、荒いですね」


「欠測率、高のままってことだ」


 キズナは短く答え、


「出るよ」


 と続けた。短い一言に、迷いは外に置いてきたようだった。


「避難誘導は行政と消防がやる。うちは、豪雨に紛れてる“変な揺れ”だけ見る。河川沿い、まず目で確認する。ケンさん、車お願い」


「了解。冠水しそうな道は、防災のルート情報優先で見る」


 ケンがキーをつかみ、足元で非常用バッグの位置を確かめる。


「私は後方で情報整理します」


 サキがタブレットを抱え直した。


「気象庁の警報と協会の危険域、重なるところと、ずれてるところを切り分けます。ログ系は……今日は最低限に落とします」


「通信と観測は僕が」


 マナセが眼鏡を押し上げる。


「レーダーと協会側の波形、両方つなぎます。跳ね返りが変だったらすぐ投げます」


 アツは喉の奥で小さく息を飲んだ。


(“どこから先に動かすか”……)


「アツとサチハは現場補助班」


 キズナが二人を見る。


「私の後ろからでもいいし、避難導線にくっついてもいい。人の流れが止まってる場所に魔や影の集束を見つけたら、そこの情報を優先して渡して」


「はい」


 声が重なる。緊張で少し上ずったアツの返事と、わずかに低いサチハの返事が、奇妙にぴたりと揃った。

 その間にも、端末の通知は増え続ける。


【避難指示 低地・河川沿い】

《嵐魔反応:上昇中》


『ログの欠測は——』


 誰も最後の一文まで読まず、“ログ通知だけ”をミュートにした。着信も地図も残し、協会アプリの提出窓だけが静かになった。


 玄関のドアを開けると、むっとする湿気と、地面を叩く雨音が一気に流れ込んできた。スタジオの中で鳴っていたあらゆるアラートが、外の轟きに飲み込まれ、ただ「行かなきゃ」という一点だけが、全員の足を前に押した。



 道路はもう、雨というより濁った水の面だった。デリカのタイヤが水を割るたび、ハンドルに鈍い抵抗が返ってくる。ワイパーは最速でも追いつかず、フロントガラスの向こうが一瞬ごとに白く塗りつぶされた。


 テープとパイロンで封鎖された交差点に行き着き、車を止める。ヘッドライトの先では蛍光ベストの消防団員が、膝下まで浸かりながら車両を押し返している。


「ここから先、住民と関係車両以外は立入禁止です。引き返してください」


 近づいてきた団員の声は疲れているのに硬かった。


「日本科学漫画協会の現場班です」


 キズナが身分証を出す。雨粒が即座に滲みを作った。


「雨量じゃなくて、“別の揺れ”を観測しています。河川沿いの導線だけ確認させてください」


「漫画協会?」


 団員の眉が露骨に寄る。


「水防訓練じゃないんですよ。取材だか——」


「そのチーム、通してくれ」


 奥から割って入った声に、現場の空気が一段変わった。オレンジ色の防火服の男が歩いてくる。ヘルメットの横に東京消防庁の文字。


「上から協力要請が出ている。指定協力団体だ。こちらで責任を持つ」


 団員は言い返しかけて、男の襟元に付いた三ツ星の消防司令長の襟章に気づき、言葉を飲み込んだ。


「……了解しました」


 パイロンがどかされ、テープが持ち上げられる。


 その瞬間を、自治会の腕章を巻いた男が少し離れたところからスマホで押さえていた。画面には隊員が端末を示しながら言った『協力要請』という言葉が、雨粒越しに拾われる。次の瞬間、画面の端に『行動ログ』の文字が一瞬だけ映った。


 デリカは数分だけ、封鎖の内側を進んだ。冠水した路面に車体が揺れ、タイヤが縁石を踏むたび底が擦れそうになる。


「もう少しなんだけどな」


 ケンが息を吐き、少し高い歩道に車体を乗り上げた。


 すると皆の眼鏡に、さっきの粗い警報が“現地の数字”に書き換わって映る。


《危険度=SR》

《ターゲットレンジ=300m±50m》

《方角=北東》

《予測時間=+00:10:00±02:00》


「北東。立会川のカーブ、一本手前」


 ケンが地図と見比べる。


「あの低い歩道橋のあたりだ」


「避難誘導は消防と自治会が主。私たちは“揺れ”だけ見る」


 キズナがフードをかぶり直し、声を短く揃えた。


「みんな安全は確保しながら。人の流れを壊さない。危ない場所は、向こうに渡す」


 徒歩に切り替え、膝下まで浸かりながら進む。側溝が逆流し、靴底を持っていこうとする。雨音の下で、ときどき「踏み外す」気配だけが不自然に混じった。


(ここ……音が途中で切れてる)


 アツの口が先に動く。


「右、深いです。足音がそこで消えてる。左の高い方、手すり沿いで行きましょう」


 すぐ後ろで、消防の隊員が無線に向かって叫ぶ。


「誘導ライン、一列左に寄せろ! 落ち込みだ!」


 サチハが最後尾で段差を確認し、短く答える。


「二十センチ弱。ここだけ私が見ます」


 キズナは水の膜の揺れを睨み、描線ペンを握った。

影のような歪みが、足元の“怖さ”を増幅している。倒すのではなく、切り分ける。人が踏む場所と、踏んではいけない場所を。


 護岸堤のように一本の線を引く。水の膜に混じっていた“影の揺れ”が、線に沿って澱みがほどけていく。水の流れも一定の方向に流れ出し、雨音の中に混ざっていた「踏み外す気配」が、すっと薄れた。


《情動ノイズ:やや低下》

《増幅条件:一部解消》


 流れが少しだけ整い、隊列の呼吸が戻る。水位は変わらない。それでも、同じ場所が急に“通れる場所”に変わった。


「……今は、これでいい」


 キズナが前を見る。


「完全に決着をつけるのは、後で考える。今は、被害が出ないように」


 遠くでサイレンが鳴り、雨は相変わらず街を叩き続ける。だが足元の恐怖だけが、ほんの少し形を失っていった。



 嵐魔は遠のき、キズナたちは引き上げた。


 スタジオに残っていたマナセが皆にタオルを配り、サキはドライヤーでサチハの長い髪をケアしてあげていたが、床にはしばらく、小さな水たまりが増え続けた。


 靴下はまだ冷たく、替えのスリッパの中で指先がしわしわにふやけている。タオルもとうに限界で、髪から落ちた雫が机の角にぽた、ぽた、と音を立てた。


「……ほんじゃ、ログ通知戻しとくかね」


 ケンが声をかけ、各自がポケットから端末を取り出し、テーブルの真ん中に伏せて並べて、ミュートを解除した。


 ほぼ同時に、通知音が重なった。


「未送信ログ:12件」「簡易入力:残り9」「推奨:今すぐ」

『行動ログ提出のお願い(災害対応)』

『欠測箇所があります。再入力にご協力ください』

『位置情報の不整合を検出しました。確認をお願いします』


「早いな……」


 アツが苦笑ともため息ともつかない声を漏らす。指先はまだ濡れていて、スクロールのたびに画面に薄い跡が残った。


「現場で起きたことより、現場で起きたことに“見える形”を先に揃えたがってる、って感じですね」


 マナセが端末を見下ろしたまま言う。


「ログがないと、本当にあったことまで“なかったこと”にされそうで」


「欠測を嫌ってるんじゃなくて、欠測がある世界を嫌ってるのかもしれません」


 サキが静かに続けた。


「穴があると、不安定で、見通しが立たないから。だから埋められるものは全部、“埋める側”に回ろうとしている」


 そのとき、窓の外で再び雷が光った。ほぼ同時に、全員の端末に新しい通知が重なる。


《外部観測モジュール:稼働》

《情動ノイズ:上昇傾向》

《相関候補:災害対応ログ》

《注視:推奨》


「……名前は出してこないのに、見てるってことだけは言ってくるんだ」


 キズナが乾いた笑いを漏らす。画面上の文字はどこまでも丁寧で、その丁寧さがかえって体温を奪っていく。


 サキの端末が、さらに一件だけ別の通知を弾いた。送信者は「Goro.Y」。


 短いテキストが表示される。


『周期ズレ、単発じゃない。そろそろ“連続”に入ってる』


 サキは唇を噛み、皆に見えるよう画面を傾けた。


「……これ、豪雨の件だけじゃないです。空の揺れ方と、こっちのログの積み上がり方、前回までと違う」


 机の上では、未読のログ提出依頼がまだ点滅している。


 濡れた靴下の冷たさと、画面の白い光の冷たさが、どこか同じ温度で並んでいた。


「……構造の話を、一回ちゃんと聞こう」


 キズナが小さく息を吸い込み、そう結んだ。


 外では、さっきより少しだけ静かな雨が、途切れずに街を洗い続けていた。



今回は“豪雨”そのものの怖さに、別の「揺れ」が混ざっていく回です。


防災の声、協会の警報、ログの要求——同時に鳴る「正しさ」に押されながら、現場では順番だけが頼りになります。


記録と欠測と監視。それぞれ違う線が、日常と災害の境目で重なっていくパートでもあります。

お読みいただけたら嬉しいです。


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