第4話 「拡散」~反響と誤作動~
描線眼鏡シリーズ第3部完結編
『描線眼鏡 または終末の情熱』
観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦う
終末を超える鍵はあなたの中にある。
「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。
九月一日の午前、A station の窓から射し込む陽気は、いまだ真夏を引き摺っている。
エアコンの冷気が天井近くで渦を巻き、机の上のコピー用紙をかすかに揺らす。
インクと消しゴムとコーヒーが混ざった匂いが、薄く、いつもの「仕事の日」の温度を作っていた。
戸隠キズナは、モニターに映した単行本用データをじっと睨んでいた。画面には帯の案がいくつも並んでいる。
「“世界を守る線”……“平和を切り抜く眼鏡”……どっちも言い過ぎな気がするな……」
文字を一語削るたびに、意味が尖っていくのが分かる。
短くすればするほど、読者の胸にまっすぐ刺さる代わりに、外したときの痛さも増す。編集者側の顔でそんなことを考えながら、ペン先についたホワイトをティッシュでそっと拭った。
スタジオの隅では、盛沼サキがタブレットを膝に、今日のタスクを整理している。画面の上で予定表の線がするすると動き、締切と会議と買い出しのブロックがパズルのように組み替えられていく。
テーブルの上のスマホが、ぴ、と短く鳴った。協会アプリの通知音に似た高さの電子音。
サキの肩が、反射的に一センチほど跳ねる。
「……ただのニュースアプリです」
自分に言い聞かせるように呟いて、通知をスワイプで消した。指先にだけ、先日の切り抜き動画のざらざらした感触が、まだ残っている。
「さてと、本日の買い出し係・上迫ケンさんでーす」
奥の机から現れたケンが、メモ帳をひらひらさせる。
「トーン、ペン先、インク、防災グッズの在庫チェック。印刷所には昼前に一報。あと夕方からガス点検だから、換気扇回しっぱなし禁止ね」
言いながらリモコンでテレビを点けると、スタジオにアナウンサーの落ち着いた声が流れ込んできた。
『本日は、防災の日です。各地で訓練が行われ――』
『慌てず、落ち着いて行動を――』
どこかで聞き慣れた定型文。映像の中ではヘルメット姿の人々が、マニュアル通りの速度で階段を降りている。
「台本のあるパニックってやつだな」
ケンが缶コーヒーを開けながら笑うと、プシュという音と一緒に甘い匂いが広がった。
「非常食って、あのアルファ米ですよね」
村上サチハがペンを止めて首を傾げる。
「前に自治会の炊き出し手伝ったんですけど、お湯の温度ミスるとおかゆみたいになるんですよ。……でも、それはそれで美味しかったです」
その言葉に、スタジオの空気が少しだけ和らぐ。
自治会は人手が足らず、日中に若者が出入りするA stationは地域で頼りにされているらしい。
窓際の机では、湧口マナセがタブレットの天気図を見つめていた。等圧線の白い曲線が、画面の中で細かくうねっている。
「……今日は、空気が変」
「ん?」
キズナが顔だけ向けると、マナセは画面を指先で拡大しながら、小さく続けた。
「湿度と、気圧配置。数値はそんなに変じゃないのに、図の“詰まり方”がイヤな感じです」
説明はそれきりで、また黙って図に目を戻す。理科準備室から抜け出してきたみたいなその横顔に、キズナは「嵐の前触れ」という言葉を思い出しかけて、慌てて頭を振った。
そのときだった。
スタジオの外から、微かなノイズを伴ったスピーカーの試験音が流れ込んでくる。キン、と高い電子音のあと、かすれた女声のアナウンスが一文だけ途切れ途切れに流れた。
『こちらは──区です。ただいま、防災無線の──験放送を──』
インクの匂いとエアコンの風の向こう側で、街全体が軽く咳払いをしたような音。
「はいはい防災訓練ね」
ケンがそう言って、特に気にする様子もなくテレビの音量を少し下げる。サチハもペンを再び走らせ、マナセも天気図に視線を戻した。
サキだけが、手を止めた。
音の余韻が耳の奥に薄くこびりついたまま、彼女は窓の外を一瞬だけ振り返る。
「……今の、聞こえ方が嫌だ」
ぽつりと言葉がこぼれる。
協会アプリのあの提出音に似ているせいだろうか?同じ音声会社の音源庫を使ってる、って前に聞いたっけ。音の高域だけが刺さる。耳の奥で何かが混ざった気がした。
*
昼前のスタジオのあるマンションの中庭は、いつもより少しだけざわついていた。白いヘルメットをかぶった自治会の人たちが、コーンとロープで導線を作り、子どもたちは黄色い帽子を握りしめて列を作っている。遠くの小学校からも、防災訓練の笛の音が風に乗って届いてきた。アスファルトの熱気に、湿った空気がまとわりつく。
『こちらは、防災行政無線です。本日は、防災の日の訓練として――』
スピーカーの女声が、マンションの壁に反射して少しこもる。大人たちは、その声を片耳で聞きながらスマホを親指でなぞっている。タイムラインと、頭上の声と、子どもの手の感触。どれもが「いつもの九月一日」の一部だ。
「列、もうちょいこっちに寄せた方がいいですね」
オレンジ色のビブスを着た加藤アツが、コーンの位置を二歩分だけずらした。ロープのカーブがなめらかになり、さっきまでつっかえていた人の流れが、するりと流れ始める。
「ここ、詰まるんだよな……線を一本変えると、水みたいに流れる」
自治会の応援要員に駆り出されていたアツは、自分だけに聞こえるくらいの声で呟いて、最後のコーンをぐっと足で押さえた。
その頭上で、スピーカーの音量が少しだけ上がる。
『あわてずに、落ち着いて避難してください。……ログを送信してください。繰り返します。……ログを送──』
一瞬、空気が固まった。
言葉は途中でぷつりと途切れ、すぐに元の訓練用の文言に戻る。
『指定の場所まで避難し、係員の指示に従ってください――』
「今の、聞いた?」
子どもを連れた母親が、隣の友人に笑い混じりに言う。
「なんか“ログ”とか言わなかった? ゲームの話?」
「えー、聞き間違いじゃない?」
笑い声がかき消すように広がる。
音声テンプレの切り替えミス?と誰かが言った。
何も気づかないで、そのまま列を進める人もいる。
眉をひそめて空を見上げてから、何も言わずに足を速める人もいる。
「変だ」と感じたことだけが、うまく言葉にならないまま胸の奥で沈殿していく。
中庭の端、花壇のそばで、一人の若い父親がスマホを縦に構えていた。自治会から「記録用にちょっと撮っておいて」と頼まれたのもあるし、家に帰ってから子どもと一緒に見返したら少しは防災の話もしやすいだろう、というくらいの軽い気持ちだった。
さっきの「ログを送信してください」という部分に、録画中の赤い丸が重なる。
「……今の、なんだ?」
小さく首を傾げるが、行列の動きに押されて撮影を止めるタイミングを失う。訓練は、マニュアル通りに進行していく。
サイレンの試験音。消火器の使い方の説明。拍手。
すべてが終わり、人の列が解けて日常のざわめきに戻っていく頃、父親はようやく録画ボタンをタップした。
団地のベンチに腰を下ろす。蝉の声と、遠くの工事現場のドリル音が混じり合う中で、さっき撮った動画を再生する。画面の中では、スピーカーと空が小さく揺れている。
「落ち着いて避難してください。……ログを送信してください。繰り返します。……ログを送──」
そこだけ、耳に残る。
親指が自然と編集画面を開いていた。
最初の説明部分を、スライダーでざくっと切り落とす。
最後の拍手もいらないと判断して、また切る。
問題の一文だけが、波形の真ん中にぽつんと残った。
音量を少し上げ、聞き取りやすくする。
「テロップ、入れとくか……」
画面の下に、「防災無線『ログを送信してください』って何?」という白い字幕が打ち込まれていく。
再生ボタンを押す。
今度は、画面の中の空と、「ログを送信してください」の一文だけが、やけにくっきりと耳と目に染み込んできた。
家族のグループLINEに送ってみる。
「これ前にニュースで見た“協会”の音っぽくね?」
切り取られたその断片が、ポケットの中の小さな画面で、独立した意味を持ち始める。
*
午後のA stationには、ペン先が紙をこする音と、複合機の低い唸りだけが満ちていた。窓の外では、さっきの防災訓練の列が解けたらしく、子どもの笑い声が遠くに散っていく。
「……あの、キズナさん」
ポットのお湯を注いでいた村上サチハが、おずおずとスマホを掲げた。
「これ、ちょっと変じゃないですか?」
画面には、団地の空とスピーカーを映した十数秒の縦動画。
『落ち着いて避難してください。……ログを送信してください。繰り返します。……ログを送──』
そこでぷつりと切れて、真っ黒なフェードアウト。前も後ろもない。
「前後、ないの?」
「最初と最後、切られてて……元の投稿も、これだけでした」
コメント欄が勝手に動いていく。
『協会って政府なん?』
『あの首輪の団体じゃね?』
『災害ログ取ってるの普通に怖』
『当ててるらしいよ。友達が言ってた』
根拠の薄い一文一文が、画面の下で積み木みたいに積み上がっていく。
「……うわ、出てる」
ケンが別のアカウントで同じ動画を開き、眉をしかめた。
『防災無線「ログを送信」←これ何?』
『首輪の団体、今度は防災無線?』
まとめ系の孫引き見出しが、太字で踊っている。
「これ、野田記者の記事ですよね……」
サチハがそっと別タブを開く。週刊文潮のロゴ。数日前付けのウェブ版見出しが並ぶ。
『“協会”は自衛隊だけでなく自治体とも繋がっている? 美人漫画家流出動画の裏側』
本文では「可能性」「関係者は否定」と、慎重な言葉が丁寧に並んでいるのに、リンクを貼った誰かの一文が、それをまるごと「そうらしい」に変えてしまう。
「野田記者、断定はしてないんですけどね」
キズナは画面をスクロールしながら言った。
「“断定に見える角度”で疑いを整えてる、って感じかな。否定の文が本文にあるほど、見出しが強く見えるやつだ」
机の上で、端末が一度だけ震えた。通話アプリの着信表示。
「スピーカーにしますね」
サキがタップすると、フクハラの声が、少しこもった音で部屋に広がった。
『状況は、大体見ました。――まあ、予想通りというか』
「予想通り?」
『断片は、勝手に合成されます。防災無線の一文と、数日前の週刊誌の見出しと、式典の切り抜き動画と。バラバラのピースが、“そういうことにしてほしい人”の頭の中で一枚絵になる』
キズナは、胸の中でざらりとした感触を覚えた。
「先に“見出し”が作られて、本文が後から追いかける。……最悪の順番だね」
『だからこそ、原因究明より先に“記録の型”を決めろ、と言いたいんです』
フクハラの声が、いつになく硬い。
『誰が、どの範囲を、どの書式で残して、どこまで開示するか。そのレールがないと、全部“都合よく切り抜かれた証拠”にされる』
サキはタブレットの画面を見つめながら、小さく息を吐いた。
「誰かが、災害と“協会アラート”を結び付け始めています。勘違いか、リークか、第三の何かか……まだ掴めません」
『犯人探しを先にやると、必ず取りこぼしますよ』
「分かってます。ただ――」
言いかけて、サキの指が止まった。端末の隅に、小さな警告アイコンが点る。
《一部ログが取得できませんでした/補間データを使用しています》
さっき見たばかりの言葉と、同じ匂い。
表示はすぐに消えた。
でも、耳の奥に残る“欠けた音”だけが、いつまでも抜けない。
サキは顔を上げずに、ただほんの少しだけ唇を引き結んだ。その表情の変化だけが、この場で起きている別種の異常を、静かに告げていた。
*
夕方には、昼のざわつきが嘘みたいに静かだった。訓練用のカラーコーンが半分片付けられ、商店街のシャッターが一枚ずつ閉まり始めている。油と出汁の匂いに、夕焼けの埃っぽい温度が混じっていた。
「さっきの“ログ放送”、現場で確認してきてくれって」
ケンが腕章をつけ直しながら、自治会会館の前で振り返る。
「という事で自治会さんの方で、何処で何人くらい聞いたのか、わかる範囲で良いんで教えて欲しいと」
そのときだった。
街路灯に取り付けられたスピーカーから、またあの電子チャイムが流れた。
『本日の防災訓練は――……ログを送信してください。繰り返します。……ログを送──』
途中でぶつりと途切れ、別の自治体アナウンスに上書きされる。
「……場所、さっきと違いますね」
サキの声が、イヤホン越しに届く。
「系統も別です。偶然、とは言いにくい」
近くで片付けをしていた自治会役員が、慌てて駆け寄ってきた。
「こっちは業者さん任せでねえ……設定は触ってないんですよ」
呼び出された市の担当者は、タブレットを握りしめて苦笑する。
「この辺、一部回線が共用なんです。切り替えは自動で……ログも、詳細までは残ってなくて」
遅れて来たスピーカー業者は、ヘルメットを脱ぎながら首を振った。
「試験もマニュアル通りです。録音は……すみません、取ってないことになってます」
誰もサボっていない。誰も「悪いことをした」自覚がない。ただ、全員が自分の“持ち場”の外側を知らないままに、灰色の揺らぎが黒く堆積していく。
「穴を埋めるための補間が、別の場所に染み出してる」
サキが小さく呟いた。
「誰か一人のミスじゃない分、余計に質が悪いですね」
その瞬間、商店街の角で、数人が空を見上げてざわついた。
「今の、録れた?」「バズりそうじゃない?」
何本かのスマホが、一斉に掲げられる。視線が一点に集まり、空気がきゅっと細くなる。
アツは、その“詰まり”に最初に気づく。視線が集まると、音が硬くなる気がした。
訓練のときと同じだ、と体が先に反応する。
「すみません、一列だけこっちにずれてもらっていいですか」
彼はコーンを二つ動かし、人の流れを斜めに切るようにロープを張り直した。
撮影していた若い男性には、責めるでもなく声をかける。
「もうちょい、あっち寄った方が、全体入って撮りやすいですよ」
スマホの向きが変わる。
視線の束がほぐれ、上空に収束しかけていた何かが、霧のように解けていく。
キズナの眼鏡越しには、スピーカーの根元にまとわりついていた灰色の揺らぎが、痩せていくのが見えた。正式なアラートにもならない、R未満の小さな歪み。
「……派手に倒すほどじゃないけど」
アツが息を吐く。
「線を一本変えるだけで、こういうのは流れ方が違うんだと思います」
自治会会館のテレビが、かすかなノイズを挟んでニュースに切り替わった。
《防災放送の一部に不明な文言 自治体「原因調査中」》
アナウンサーの声が、商店街の夕暮れに薄く溶けていく。その横のワイプには、さっきと同じ「ログを送信してください」の切り抜き動画が、小さく再生されていた。その言葉は“耳に残る”を超えて、“耳を占領していく”。
「……これ、現場の事件っていうより」
キズナは、画面と、その前で足を止めた人々を見比べる。
「“社会の原稿”だね。誰が書いてる?って聞くと、たぶん“みんな”って答えになるやつ」
誰も笑わなかった。
代わりに、油の匂いと、電子音の残響と、説明のつかない嫌な予感だけが、じわじわとあたりに染み広がっていった。
*
夜のA stationには、戦闘のあととは違う疲れが沈んでいた。
喉は乾いていないのに声が出にくくて、指先は無傷なのにキーを叩く気が起きない。モニターの白い光だけが、机の上のコーヒー跡とプリントの端をじわじわと焼いていく。
サキの端末が、控えめな通知音を鳴らした。
《切り抜きが連続で出る前に、“記録の型”を決めたい》
《次の火種が来る前に、最低限の書式だけでも》
フクハラからのメッセージは、それだけだった。長文でも説教でもない、行き場のない切実さだけがにじんでいる。
返信を打とうとしたサキの画面に、一瞬だけ見慣れない文字列が走る。
《外部観測ログ:一部欠測》
読み切る前に、表示は消えた。
『……地上だけじゃないんですよ、本当は』
通話の向こうで、フクハラがそこまで言いかけて口をつぐむ。サキは「今は聞かないで」と言いたげな顔をして、画面の明るさを一段落とした。
キズナは、その表情の揺れを横目で拾いながらも、追及はしなかった。
代わりに、机の端に置いた原稿の束に手を伸ばす。
印刷のインクの匂いが、さっきのスピーカーの声と、SNSの見出しの残響と、同じ層で鼻の奥に絡みついている。
「訓練は終わったのにさ」
自分でも気づかないうちに、声が漏れていた。
「“文言”だけが、勝手に歩き回ってる」
訂正は静かで、拡散はうるさい。
窓の外では、何事もなかったように、防災の日の夜が静まっていく。
画面の向こうでは、「ログ」と「首輪」と「協会」の文字列だけが、誰の手綱もつかまないまま、タイムラインの上を走り続けていた。
防災訓練の放送に“ほんの一文”が混ざっただけなのに、切り取られ、見出しになり、断定に変換されていく——
そんな「社会に響く音」を描いた回です。
戦闘の疲れとは違う、説明できない疲れ。
そして“記録の型”が必要になる必然。
次話では、現場×群衆心理へ繋がっていきます。
読んでいただけたら嬉しいです。




