第3話 「切抜」~残響とタイムライン~
描線眼鏡シリーズ第3部完結編
『描線眼鏡 または終末の情熱』
観測は終末を告げ、監視は優しく首を締める。それでも創作で現実と戦う
終末を超える鍵はあなたの中にある。
「小説家になろう」では毎週水曜・日曜の21:30更新予定です。
午後のA stationでは、冷房の風が紙の端をめくり、どのページにも“外の世界”の気配が入ってきていた。
昨日の祝杯の跡も綺麗に拭かれ、机の上に週刊誌の原稿と単行本用のネームが、折り重なるように広がる。
アツとサチハは外回り。マナセとランは協会の補講。今日は“内側担当”だけが残っている。
『眼鏡の女の子 ―Save your peace!―』第1巻。
背表紙に入る予定のロゴと、帯のキャッチ。描き直したコマと、そのまま残すコマ。
戸隠キズナは、ペン先をティッシュで軽く拭いながら、モニターに映した原稿データを睨んだ。
「ここ、単行本だと前のページと間が空きすぎるな……」
描線で炎魔を一刀両断したコマと、その直後のツッコミギャグ。週刊誌では勢いで読めた間も、単行本で続けて読むと、急に呼吸のリズムが変わる。
「一コマ、間の抜き絵を挟みます?」
後ろから覗き込んだ盛沼サキが、モニターを指さした。
キズナは、うん、と短く頷く。
「主人公が眼鏡をくいっと上げるコマ、増やそう。単行本だと、ああいう“間”がないと読者が息継ぎできないから」
そう言いながらも、胸のどこかで、別の“間”が気になっていた。
観測の欠測。式典の拍手。味噌汁の湯気。いろんな間が、目に見えないところでズレ始めている気がする。
*
ドアの方で、軽いノックの音がした。
「失礼します! ……あ、なんか不思議な匂いがしますね、インクと消しゴムが混ざったような」
蝶野ユズハだった。
中学時代、キズナがいた美術部の後輩。制服からパーカーに変わっても、笑うと目尻にしわが寄る感じは昔のままだ。
「見学の許可、正式に降りました! 本日は、お世話になります!」
そう言って、彼女はきちんとした角度でお辞儀をした。
「びっくりしたよユズハ。ライセンスも一発で取ったんだって」
「小学生で取った先輩……あ、先生にはかないません」
手には、きちんとした角度で揃えられた名刺。
「……名刺?」
「はい。ジュニアポータルの研修生用テンプレだそうです。氏名、所属学校、協会ID、確認事項……」
そこまで一気に言ってから、ユズハは照れ笑いを浮かべた。
「なんか、ちゃんとしてないといけない気がして」
「ちゃんとしてるよ、十分に」
名刺の裏には「撮影・録音の同意」「守秘」「違反時対応」みたいな細目が小さく並んでいて、ユズハが一瞬だけ指で撫でる。
スタジオの奥から上迫ケンが顔を出した。
「いや〜すごいね最近の中高生は。俺なんか初めてスタジオ来たとき、名刺どころか手ぶらで来たのに」
「それ普通にダメだと思いますけど」
サキの冷静なツッコミに、ケンが肩をすくめる。
*
そのとき、ユズハが名刺の裏を指でなぞりながら、小さく咳払いをした。
「あの……、研修で“情報発信と炎上対応”の講義があって。見学だけじゃなく、現場の人の話も聞けって言われました」
「協会の研修に、炎上対応まであるの?」
キズナが眉を上げると、ユズハは気まずそうに笑った。
「“撮影・録音の同意”って項目があるじゃないですか。……それの延長、みたいで」
ユズハが壁際のノートPCを開き、ケーブルを差し替える。画面の隅に、会議アプリの待機画面。
『文潮社/編集 福原エリック 入室しました』
パネルに小さなウィンドウが現れ、フクハラの顔が映った。
『おつかれさまです。——今日の研修の担当、僕です。
“炎上しない単行本の作り方講座”、開講します』
背後には、文潮社の会議室らしい白い壁と本棚が見える。
「そんな講座、存在していいんですか」
サキがぼそりと呟く。画面の端に“録画中”。サキは反射でそれを消した。
『炎上の火種はね、大体決まってるんですよ。切り抜き、説明不足、逆ギレ訂正。この三点セット』
フクハラは、テキストエディタにその三つの言葉を打ち込みながら話す。
『なので今日は、そのへんも含めて――』
「炎上って言ったらさ、やっぱり初動が肝心なわけよ」
フクハラの説明にかぶせるように、ケンが立ち上がった。
「火事が起きたとき、まずやるべきことは何か! ――そう、ガスの元栓を閉める! そして消火器のピンを抜いて、ホースをこう構えて……」
いつの間にか手に持っていた赤い消火器(スタジオの備品)を振り回しながら、ケンは得意げに実演を始める。
「なんで単行本が消火器に結びつくんですか」
「炎上=火事=まず火を消そう、っていう啓蒙マンガ的アプローチだよ。安全第一!」
ユズハは、真剣な顔でメモ帳を取り出していた。
「“炎上対策=元栓を閉める”……なるほど……」
「いや、そこまで真に受けなくて大丈夫だからね?」
キズナは苦笑したが、胸の奥で「炎上対策を学ぶ時点で、普通の漫画スタジオじゃないよな」と、別の声が囁いていた。
そのときだった。
机の上のスマホ。
サキのタブレット。
パネルに繋がったノートPC。
バイブレーションと、短い通知音が、ほぼ同時に鳴り響いた。
「……あ」
サキが画面を見て、小さく息を呑む。
「師匠。例の、式典の切り抜きが……回ってきました」
*
縦長の画面の中で、ホールの照明がゆらゆらと揺れていた。
スマホを縦にしたまま撮られた動画。画面の上下には黒い帯。中央には、スポットライトに照らされた栗原アンナの横顔。手ブレした瞬間に赤いインジケーターが映り込んでいるのも内部配信のままだ。
画面下部には、一瞬だけテロップの断片が映り込む。
《※本式典は会員限定でアーカイブ配信されます》
《視聴ログは安全管理のため記録・保管されます》
テロップはすぐにフレームアウトし、代わりにアンナの首元が大きく映る。
金色の円環。中央の紋章。肌に触れた金属の冷たさまで伝わってきそうな、妙に生々しい映像だ。
指先が、かすかに震えていた。
「……そこだけ、切り抜かれてる」
サキが低い声で言った。
タイムラインをスクロールすると、同じ動画が複数のアカウントから上がっている。
コメントの流れは、まだ“炎”というほどではない。それでも、ところどころに引っかかる単語が並んでいた。
「『首輪っぽくて笑った』……」
「『視聴ログって何?』」
「『ログって災害でも取るやつ?』」
「『こういうの、ちょっと怖いな』」
ユズハが、読み上げる声を途中で止めた。
動画そのものより、コメント欄の温度差の方が、じわじわと指先に汗を滲ませる。
『これはまだ、炎上ってほどじゃないですね』
スピーカー越しに、フクハラの声が落ち着いて響いた。
『でも、“笑いネタ”と“怖いかも”が混ざり始めてる。このタイプは、誰かが長文の説明文をつけた瞬間、火の回り方が変わります』
「長文の、説明文……」
キズナは、画面の端を指先でなぞった。
漫画家としては見慣れた光景だ。バズるネタ。切り抜き。後から乗っかる解説。
ただ、今回は協会自体が、その素材にされている。
「流出経路、何か心当たりは?」
サキが、フクハラに向かって問いかける。
『今のところ、確定ではないですが……』
画面の向こうで、彼は眼鏡のフレームを押し上げた。
『式典自体は会員限定内部配信。そのアーカイブを、スポンサー向けの資料に使おうとした可能性はあります。外部の映像業者にチェック用リンクを出して、そのURLがどこかで転がった、とか』
「悪意のリーク、っていうより……」
「“便利さ”と“雑さ”が手を組んだ結果、みたいな」
サキの言葉に、フクハラが小さく頷いた。
『誰か一人の悪意のせいにできるなら、まだ楽なんですけどね。こういうのは大体、みんなちょっとずつ楽をした結果として出てくる』
「……もし、動画の内容が本当なら」
ユズハが、ぽつりと呟いた。
その声には、好奇心と不安と、少しの憧れがごちゃ混ぜになっている。
「ユズハちゃん」
サキが、一拍置いて呼びかける。
「今は、事実関係を外に出す立場じゃありません。少なくともここでは、“もし”の話は、慎重に」
「あ、すみません……」
ユズハは、慌てて頭を下げた。
その仕草にも、さっき名刺を出したときと同じ、“教育された”ぎこちなさが滲んでいる。
『とはいえ、協会も何かしら動かざるを得ないでしょう』
フクハラが、画面共有を切り替えた。
ニュースサイトのトップページが映る。そこには、まだ協会の名前もアンナの名前も出ていない。
『この段階で、“先に”動いてくるかどうか。そこを見ておきたい』
小火はまだ、小火のままだ。
けれど、煙の匂いは、確かにスタジオの空気に混ざり始めていた。
*
その「先に」が来るまで、そう時間はかからなかった。
午後の光が少し傾き始めたころ、サキのタブレットに、新しい通知が滑り込んだ。
《協会公式:お知らせ動画を公開しました》
《先日の表彰式に関する、ご報告とお願い》
「……来ましたね」
サキが画面をタップすると、スタジオのパネルに動画が映し出される。
柔らかいピアノのBGM。
笹崎会長の穏やかな声。
トキワ荘の古い写真。笑顔で並ぶ伝説の漫画家たち。
『本日は、日頃より協会の活動を支えてくださっている皆さまに、感謝の気持ちをお伝えしたく――』
画面には、栗原アンナの名前も映る。
ただ、その横に並ぶのは、「近年の旺盛な創作活動に対する功績」「若手育成への貢献」といった、曖昧で、どこにでも当てはまりそうな言葉ばかりだった。
誰も、「魔」のことは言わない。
誰も、「戦い」のことは言わない。
式典の映像も、一部が使われていた。
ただし、例の頸飾のクローズアップはなく、カメラは少し引き気味で、きれいな角度からの全体ショットになっている。
画面下部のテロップには、依然として小さく、
《※本映像は会員限定アーカイブを再編集したものです》
とだけ書かれていた。
「……理由、ぼかしましたね」
サキが呟く。
『“功績を称える”って書いておけば、大体なんとでもなるんですよ』
フクハラの声にも、苦い笑いが混じっていた。
『説明じゃなくて、印象を上書きしている』
「上書き、ですか」
『こっちが見ている“現実”に、ふわっとしたフィルターをかけて、“こう見ていてくださいね”って誘導する。そういう映像です』
ケンが、腕を組んだまま画面を見上げる。
「……これで安心する人も、いるんだろうな」
「安心“させられる”人、ですね」
サキが即座に言い換えた。
「どっちにしろ、“首輪っぽい”って言われてた部分には、一切触れてません」
『そこに触れたら、“説明”になっちゃいますから』
フクハラが、淡々と言う。
『これはあくまで、“安心してくださいね動画”です。“考えましょう動画”ではない』
そのとき、ユズハの手元のスマホが震いた。
「あ……」
画面には、協会アプリからの通知が表示されている。
《研修生の皆さまへ》
《不安を広げないために、切り抜き映像の拡散は控えましょう》
《正しい情報は、協会公式の発信をご確認ください》
丸いアイコン。優しい文体。
どこにも「禁止」「処罰」といった言葉はない。
「……“控えましょう”、か」
ユズハは、小さく読み上げた。
指先が、反射的に「了解」のボタンをタップしそうになる。
その動きを、自分で途中で止めた。
画面のガラスに、自分の顔が薄く映る。
さっきまで笑っていた表情が、少し引きつって見えた。
「どうしたの?」
「いえ……なんか、“いい人でいなきゃ”って、勝手に体が動きそうになって」
その言葉に、サキとキズナとケンの視線が、同時にユズハのスマホに集まった。
誰も「押すな」とは言わない。
誰も「押せ」とも言わない。
ただ、動画の中で流れる穏やかなBGMと、通知の文面の柔らかさが、スタジオの空気をじわじわと塗り替えていく。説明のない安心。安心の形をした、別の何かが。
*
窓の外の空が橙から群青に変わりつつある時間。
A stationのスピーカーが、小さく電子音を鳴らす。
《Priority Alert/警戒レベル:L 》
《発生地点:宮前平団地周辺/ターゲット半径200m±50m》
《予測時間:+00:30:00±10:00》
「……近いですね」
近隣の商店街のある団地だ。
「行きます」
言う前に立ち上がっていたキズナにユズハが、
「ワタシもついて行って良いですか?」
一瞬だけ躊躇したが、うなずいた。
「Lなら“封じ”より“退避誘導”が優先。ユズハは境界線の外、見学距離だけ守って」
「私は残って、連絡窓口に回ります」
サキが端末を持ち直し、フクハラとの通話を繋いだまま言う。
装備を整え徒歩で十数分。馴染み深い宮前平団地の中庭は、明らかなガス臭と、ざわめきで満ちていた。
夕飯の支度の時間帯。各家庭のキッチンから漏れ出る匂いに、別の、鼻の奥を刺すような臭いが混じっている。迂闊にスイッチも入れられない。火花が怖い。
「ガス会社は?」
「もう呼んでるよ! でも警報器が止まらなくて!」
見知った文房具店の店主が、焦った様子で答えた。その横では、奥さんがスマホを握ったまま、カメラを向けるかどうか迷っている。
「あら、あなた達いつかの漫画家さん……」
周囲から、小さな声が漏れ聞こえる。
誰かが、スマホを高く掲げた。
キズナは、深く息を吸い込んだ。
空気の匂い。その揺らぎ。視界に、眼鏡越しの別の層がうっすらと重なる。
団地の配管のあたりに、淡い橙色のゆらめき。
ガスの粒子に寄生するようにまとわりついている、“爆魔”の影。
(まだ、小さい)
“影”というより、汚れの輪郭に近い。彼女は、腰のホルダーから描線ペンを抜いた。
現実の空気と、仮想の位相との境目に、一本の線を描く。
白く、細い線。
線が走った瞬間、橙のゆらめきが切り離され、ぱちぱちと音を立てて霧散した。
ガス臭が、少しだけ薄くなる。
警報器の鳴り方も、徐々に落ち着いていく。
「爆発には至ってません。元栓を閉めれば、実害は出ないはずです」
サキの声が、イヤホン越しに届いた。
「ただ、“もし”火花が飛んでいたら……」
キズナは、視線を上げた。
ベランダの一つ。そこから身を乗り出すように、スマホを構えている住人の姿。
レンズが、自分たちを捉えている。
さっき逃がした橙色の影は、もう写っていない。けれど、その手前で描かれた線の一部は、きっと何かの「光の筋」として記録される。
「危険な作業ですから、離れていてください」
そう声をかけると、住人は一歩だけ下がった。
それでも、スマホは下ろさない。
“爆魔”は消えた。
ガスも止まった。
けれど、画面の向こう側で燃え始めた何かまでは、ここからは見えない。
皮肉めいているが、自治会の掲示板に来月の防災訓練の予定の紙が貼られていた。
「……戻ろうか、ユズハ」
「はい」
返事の声が、わずかに震えていた。
それが、緊張のせいなのか、別の何かのせいなのかは、まだ分からなかった。
*
夜のA stationは、昼間よりも静かだった。
窓の外では、家々の灯りがぽつぽつと瞬いている。さっきの騒ぎは、もう日常のノイズの中に溶け始めていた。
一方で開きっぱなしのSNSのタイムライン。
式典の切り抜き動画は、さっきよりも少しだけ再生数を伸ばしていた。
協会の訂正動画も、「いいね」と「なんか怖い」のコメントが並んでいる。
『現場は、火を消したわけですが』
スピーカーから、フクハラの声が聞こえた。
通話は、さっきから繋ぎっぱなしだ。
『“見られ方”の火は、僕らの手の届かないところで勝手に燃え続けるんですよね』
「……そうですね」
「私たちは、戦い方は選べても」
ペン先を指で撫でながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「見られ方は、選べない」
サキが、少しだけ息を飲んだ。
「それでも、描くんですね」
「描かないと、もっと選べなくなる気がするから」
キズナは、苦笑いとも溜息ともつかない息を吐いた。
「描いた線が、せめてどこかで“証言”になればいいな、とは思ってます」
ユズハは、両手でマグカップを包み込むように持っていた。
中身のお茶は、もうぬるくなっている。
「……こわいです」
ぽつりと落ちた言葉は重たく、静かだった。
「さっきの団地で、みんなスマホ向けてて。“守られてる”っていうより、“見られてる”って感じがして」
「怖いって思えるのは、大事な感覚ですよ」
フクハラが、珍しく真面目な声を出す。
『だからこそ、“どう記録するか”を決めないといけない。観測の穴と、現場の穴を、少しでも埋めるために』
「“記録の形”、ですね」
サキが言った。
『そう。型。書式。手順。——呼び名は後でいい。僕とサキさんと谷保博士、それに黒部君。できればキズナさんも同席で』
「スケジュールは、私が調整します」
サキがタブレットに予定を書き込み始める。
画面の端に、小さなニュースの速報が表示された。
《週刊文潮:政府と協会の関係について続報準備中》
詳細は、まだ「準備中」の一行だけ。
それでも、その一行が、今いる場所と外の世界の温度差を、はっきりと形にしていた。
キズナは、眼鏡のフレームにそっと触れた。
視界の隅で、ほんの一瞬だけ、ノイズのような揺らぎが走る。
(……混ざってくる)
声には出さず、心の中でだけ呟く。
画面の中の数字は増えていく。
そのどちらにも、まだ、はっきりとした“終わり”の気配はなかった。
今回は戦闘の派手さではなく、「記録されること/切り抜かれること」の怖さがじわじわと沁みてくる回です。
単行本作業の“間”を整える静かな午後から始まり、研修生ユズハの合流、そして――届く「切り抜き」。
まだ炎上ではない。けれど、笑いと不安が混ざりはじめた時点で、もう火はついている。
そんな温度を意識して書きました。
次回では同じ“音”が別の形で社会に染み出していきます。
引き続き、よろしくお願いします。




