第26話 「希望」~続きが描ける世界~
描線眼鏡シリーズ第3部完結編
『描線眼鏡 または終末の情熱』
今回が第3部、そしてシリーズを通しての完結編となります。
ぜひ見届けてください。
最終配置は、すでに始まっていた。
母艦は背後に残り、前進ノードはその前方へ出ている。接触機は、前進ノードの外側に抱かれていた。
黒い宇宙には、前進アンカー群の光点が散っている。星にしては人工的で、標識にしては頼りなかった。
前進ノード内の空気は乾いていた。金属と樹脂の匂いに、宇宙服の内側から漏れるわずかな熱が混じっている。
キズナ、アツ、マナセは、接触機へ移るためのハッチ前にいた。白いロシア系のオーラン改装服は、地上で見た時よりも重く見えた。戦うためではなく、生きて戻るための殻だった。
「帰れる方、見ているよ」
サチハが言った。声は小さかったが、震えてはいなかった。
「頼む」
アツはそれだけ答えた。ヘルメットを抱えた手に、少しだけ力が入っていた。
「先生」
ケンがキズナを見た。
「戻る道は、こっちで残しときます」
「じゃあ、行く道はこっちで描く」
キズナはそう答え、手甲型ペンの接続部を確かめた。
キューポラの向こうに、KS1があった。
肉眼では、黒い核と淡い媒質層に見えた。光を吸う石。その周囲に揺らぐ、薄い殻。けれど、描線眼鏡を通すと違った。
そこにあったものが、見えてしまった。
黒い核の周囲に、人の顔のような影が重なっていた。燃える街の輪郭。崩れる海岸線。叫びにも似たノイズ。誰にも届かなかった声の断片。ひとつの形にはならない。
だからこそ、それは人類が背負ってきた業に見えた。
《Priority Alert》
《危険度=SSR+α》
《再判定中》
表示が、一瞬途切れた。
《再判定中》
《危険度=Ω》
《対象=分類不能》
《ターゲットレンジ=周辺宙域/地球近傍影響域》
《予測時間=+00:45:00±05:00》
《警告:帰還経路不安定化リスク》
『危険度、既存分類を外れました』
母艦側から、サキの声が届く。冷静な声だった。だが、その奥に硬い緊張があった。
『それは戦闘服ではない』
続いて、アレクセイの声が通信に乗った。
『生きて帰るための服だ。間違えるな』
マナセが、笑おうとして、失敗した。
「斬るためじゃなくて、戻るため、ですね」
『その理解なら、まだよい』
接触機へ続くハッチが開いた。向こう側の空気はさらに狭く、さらに冷たく感じられた。
眼鏡越しに見えたそれは怪物ではなかった。
けれど、怪物と呼ぶしかないものだった。
*
接触機のハッチが閉じると、前進ノードの音が遠くなった。
かわりに、ヘルメットの内側で自分の呼吸が大きくなる。吸う音。吐く音。通信の底で微かに走るノイズ。接触機の狭い船内には、キズナ、アツ、マナセの三人分の体温がこもっていた。宇宙服越しなのに、誰かが隣にいることだけは分かる。
『母艦より各系統確認』
ジョナサンの声が、短く入った。
『姿勢制御、接続確認』
『接触機側、EVA手順確認済み』
ヤンとアレクセイの声が続く。母艦は遠い。けれど、まだ声は届いていた。
前進ノード側では、ケンが経路表示に張りつき、サチハがキューポラの前で眼鏡越しの黒い殻を見ていた。
「……細い」
サチハが呟いた。
「何がだ」
ケンが訊く。
「帰れる方。まだ切れてない。でも、糸みたいに細い」
ケンは一瞬だけ黙り、いつもの調子に少しだけ真面目さを混ぜて言った。
「糸なら、切らなきゃいい」
接触機内で、アツが目を細めた。目の前にあるのは計器と隔壁だけのはずなのに、もっと遠いものが、身体の奥へ触れてくる。
「向こうから引いてる」
「重力?」
マナセが訊いた。
「違う。重さじゃない。呼ばれてるみたいな向きです」
キズナが、アツを見る。
「呼ばれてるって、誰に」
「分からない。……でも、地球からも、向こうへ伸びてる」
その言葉に、通信の向こうが一瞬だけ静かになった。
KS1が地球へ落ちてくるだけではない。地球の側からも、あの黒い殻へ何かが伸びている。
恐怖。怒り。諦め。終わってしまえという声。終わらないでほしいという声。それらが、暗い宇宙で絡まり合っていた。
『接触機、分離準備』
アレクセイの声がした。
『帰還線、維持。前進アンカー群、同期』
サキの声が重なる。
『退避方向リスク、許容範囲内。ただし細いです』
ジョナサンが短く告げた。
「接触機、分離を許可します」
キズナは手甲型ペンに触れた。冷たいはずの接続部が、指先だけ熱を持ったように感じる。
「行きます」
小さな衝撃が伝わった。
接触機が、前進ノードを離れた。
帰る場所を背に、刃は黒い殻へ向かっていく。
*
接触機の船内は狭い。膝も肘も、どこかに触れる。その狭さが、いまはかえってありがたかった。まだ、戻る場所がある。
《導電性ダスト雲:荷電密度上昇》
《通信位相補正:遅延》
《姿勢制御補正:手動介入推奨》
『姿勢制御、こちらから補助します。接触機、自律制御を維持』
ヤンの声がノイズの奥から届く。
『焦るな。宇宙で焦る者は、二度同じ場所へ戻れない』
アレクセイの声は硬かった。だが、その硬さが命綱のように感じられた。
《ターゲットレンジ=変動》
《帰還経路:再計算》
《帰還経路:再計算》
《帰還経路:一部不定》
『戻れる方が、曇ってる』
サチハの声が細く入った。
『曇ってるだけなら、まだ道はある』
ケンが即座に返す。
接触機の中から伸ばす線だけでは、もう届かない。黒い媒質殻の表面で、線が滑っていく。近づくほど、向こうから引く力が強くなる。
『外へ出る。だが、自由になったと思うな』
アレクセイが言った。
『宇宙では、自由に動いた者から帰れなくなる』
「押すな、は得意じゃないかも」
マナセが呟いた。
「今日は、止める日だよ」
キズナが答えた。
ハッチが開いた。空気の音はしない。ただ、ヘルメットの内側で、呼吸が一つ大きくなる。黒い空間が、すぐそこにあった。
『最初の一歩は、足ではなく手で出ろ』
「了解」
キズナが外へ出た。続いてアツ。最後にマナセ。三本の命綱が、接触機と三人を細く繋いだ。
《描線ペン接続》
《手甲型インターフェース:同期》
《描線出力:制限解除》
「線を入れる。マナセ、留めて。アツ、流れを読んで」
「斬るんじゃない。留める」
マナセの手に、白い斧の線が広がった。斬るために大きくなったのではない。流れの端を引っかけ、留めるために、広い弧を描いた。
アツの手元では、日本刀の線が伸びていく。地上なら長すぎる線だった。けれど、ここには床も壁もない。白い刃は、黒い媒質層の流れを読むための針のように伸びた。
「引かれる向き、右下……いや、内側だ」
キズナの手甲型ペンから、一本の線が走った。
だが、黒い殻はそれを受け入れなかった。
線が触れた瞬間、媒質層の表面が波打つ。水面ではない。雲でもない。そこにあるのは、重さを持ち始めた感情だった。
燃える街の熱が、ヘルメット越しに肌を焦がすように迫る。
崩れる海岸線の轟きが、音のない宇宙で耳の奥を揺らす。
誰かを責める声。
誰にも届かなかった謝罪。
終わってしまえ、という呟き。
それらが、白い線に絡みついた。
『師匠、線が先に行きすぎています』
サキの声が入った。
『二人と同期がずれています』
「分かってる!」
キズナは歯を食いしばる。宇宙服の中では地上のように踏み込めない。線を引くたび、反動が身体を後ろへ押す。
その時、ケンの声が入った。
『キズナ、戻る道を見失うな』
『進む線だけじゃ駄目だ。戻る線と一緒に引け』
サチハの声が続く。
『帰れる方、まだあります。細いけど、消えてません』
アツが刀を構え直した。
「流れ、三つある」
彼は白い刃を媒質層の表面へ滑らせる。
「外へ散る流れ。地球へ落ちる流れ。……内側へ戻る流れ」
「どれを止めるんだ?」
マナセが叫ぶ。
「止めるんじゃない」
アツは息を詰めた。
「戻る流れに、合わせて。外へ散る端だけ、留めて」
マナセの斧が、大きく開いた。
地上なら振り抜いていた。
けれど、ここでは振り抜かない。
「押さない。止めるだけ」
斧の白い弧が、黒い流れの端をすくい上げる。斬撃ではなかった。留め具だった。
キズナは、その隙間に線を入れた。
「ここから先は、落ちる場所じゃない」
手甲型ペンが熱を持つ。
白い線が、黒い殻の表面に貼りつく。
「戻るための場所だ」
それでも、媒質層は押し返してきた。
黒い影が、形になりかける。
腕のようにも、顔のようにも、街の瓦礫や海の底の濁りのようにも見えた。
見る者によって違う。だから、ひとつの敵として斬れなかった。
《描線同期:低下》
《共鳴線:不安定》
《帰還経路:再計算》
『リンク率、乱れています』
サキの声が入る。
『同期誤差、拡大。三人の線がずれています』
キズナは、黒い殻を見た。
その奥に、アツの白い刀と、マナセの斧の線が揺れている。
「合わせるよ」
通信の向こうで、ケンが短く笑った。
『こういう時のための掛け声だろ』
サチハの声が続く。
『帰れる方、まだあります』
キズナは息を吸った。
「Save your peace」
その声に、アツが重ねた。
『Save your peace!』
マナセが噛みしめるように続ける。
『Save your peace!』
前進ノードから、ケンの声が重なった。
『Save your peace!』
サチハの声は、その後ろで少し震えていた。
『Save your peace』
サキの声がログを読む。
『描線同期、回復。三人の線、重なります』
キズナは、もう一度ペンを走らせた。
アツの刀が、流れの向きを開く。
マナセの斧が、その端を留める。
キズナの線が、意味を定義する。
三本の白い線が、黒い殻の表面で重なった。
その瞬間、黒い核の表面に、ひびのような線が走った。
岩が割れたのではない。意味が、ほどけた。
《KS1核:構造分離》
《媒質殻:局所崩壊》
《半物質化粒子群:拡散》
《警告:接触機外壁損傷リスク》
『地球直撃コース、変化しています。でも、周辺宙域の危険度が上がってる』
サキの声が鋭くなる。
『危機は消えていません。形が変わっただけです』
ウルリヒの声が続いた瞬間、音のない衝撃が来た。
接触機の外壁が、白く弾けた。
《接触機外壁:損傷》
《外部作業ユニット:姿勢不安定》
《命綱B-02:張力超過》
《前進ノード外郭:微小損傷》
《Cupola系統:視界障害》
《Harmony系統:圧力低下予兆》
「分かる」
アツが言った。
「アツ?」
「中の向きが、分かる。どこへ落ちるのかじゃない。何を引き込もうとしてるのかが……」
「見すぎないで!」
キズナの声は、届いた。けれど、間に合わなかった。
《命綱B-02:張力限界》
《警告》
《警告》
命綱が切れた。
金属のワイヤーだけではなかった。描線眼鏡の中で、アツと接触機を結んでいた帰還線が、白く、細く、ほどけていく。
『アツの帰れる方が――消えた』
サチハの叫びが、通信を裂いた。
アツが、黒い殻の内側へ引かれていく。
誰の声も、すぐには届かなかった。
「見えない!」
サチハの声が震えた。
「細いんじゃない、見えない!」
前進ノードのキューポラには、もう黒い殻の全体が映っていなかった。視界は白いノイズで乱れ、警告灯の橙が壁を薄く染めている。冷たい空気が、喉の奥に張りついた。
ケンはサチハの叫びに内心うろたえたが、
「探せ」
平静を装って、声だけ置いた。
「道は消えても、帰りたい奴がいるなら、どこかに残る」
接触機側では、キズナが手を伸ばしていた。けれど、届かない。アツの姿は黒い媒質層の影に溶けかけ、命綱の切れた先だけが白く揺れている。
「切らさないって言ったでしょ!」
マナセの斧が、流れの端に食い込む。斬るのではない。留める。だが、黒い殻の内側から湧く力は重かった。人が長い時間をかけて落としてきたものが、まとめて腕に絡みついてくるようだった。
*
地上では、別の線が震えていた。
ランは、腹部に手を添えていた。窓の外の空は、いつもと同じ色をしている。それが、かえって怖かった。
「見てこなくていい」
ランは小さく言った。
「帰ってきて」
星野トシロウは、祈らなかった。机の前に座り、ペンを取った。続きを描けと言った以上、自分も続きを描かなければならない。紙をこする音だけが、静かな部屋に残った。
「憎しみが世界を重くするなら」
上青石は、誰にともなく呟いた。
「その反対だって、きっとある」
アンナの手にあるのは、いつもの手甲型ではなかった。通常型の描線ペン。それでも、彼女の線は鈍らなかった。地上の異常を切り払う白い線が、夜気の中で短く閃く。
「返しに来なさいって言ったのよ」
アンナは空を見上げた。
「だから、まだ終わってない」
フクハラは原稿データの画面を見つめていた。ユズハは祈るように端末を握っていた。笹崎は協会管制室で、何も言わずにログを見ていた。野田はカメラを置き、ただ空を見ていた。
東京の病室で、誰かが眠る子どもの手を握っていた。
ヒューストンの管制室で、ひとりの技官が黙って帰還軌道を見守っていた。
夜の海岸線の町で、老いた男が空を見上げていた。ただ、明日もこの海を見たいと思っていた。
避難所の片隅で、紙コップの湯気が揺れていた。大丈夫だとは言えなくても、誰かの手は離されなかった。
世界は、ひとつの心になったわけではなかった。
誰かはまだ怒っていた。
誰かはまだ諦めていた。
誰かは、誰かを許せないままだった。
すべての憎しみが消えたわけではない。
それでも、その同じ世界の中で、誰かが誰かを待っていた。帰ってきてほしいと願っていた。明日も続いてほしいと思っていた。続きを読みたいと、続きを描きたいと、続きを生きたいと思っていた。
負の感情が消えたのではない。
ただ、その隣に、別の感情も確かにあった。
それらは、ひとつひとつでは小さすぎた。
恐怖ほど鋭くない。憎悪ほど熱くない。絶望ほど重くもない。
けれど、EMOwatcherは拾っていた。
協会アプリの外部観測網が、かすかな揺らぎとして記録していた。
負方向ではない。
けれど、ゼロでもない。
『EMOwatcher全域に、負方向ではない相関が出ている』
谷保五郎の声が、通信に割り込んだ。
「負方向ではない?」
サキが聞き返す。
『恐怖でも憎悪でもない。だが、場を押し広げている』
五郎の声は震えていた。興奮ではなく、発見に手が届いてしまった者の震えだった。
『負の集束が急速に解かれている……』
「媒質殻の膨張圧が……変わった」
ウルリヒが呟いた。
「これは、崩壊ではない。緩和している」
キズナには、それが数値ではなく、線の変化として見えた。
黒い媒質殻を構成していた影は、消えていない。燃える街も、崩れる海岸線も、誰かの怒りも、誰かの諦めも、まだそこにある。けれど、それらを一つの塊へ押し固めていた線が、少しずつ緩んでいた。
怪物の形が崩れたのではない。孤立していた影と影のあいだに、別の線が通り始めていた。
誰かが誰かを待つ線。
帰ってきてほしいと願う線。
続きを描きたいと望む線。
それは、攻撃の線ではなかった。
命令の線でもなかった。
ただ、ひとりでは閉じない線だった。
その時、キズナの中で、上青石の言葉が戻った。
『憎しみが世界を重くするなら。その反対に、世界を少しだけ押し広げる感情もあるんじゃないかな』
魔が、孤立した負の感情の重力なら。
孤立をほどく関係性の膨張を表現するとすれば――。
それは、ひとりでは生まれない感情だった。
「それを、昔から人は、愛って呼んできたんだと思う」
キズナは手甲型ペンを握り直した。
「アツを引き戻すんじゃない」
息を吸う。ヘルメットの内側で、白い呼気が一瞬だけ曇る。
「あいつが、自分で戻れる方を描く」
「こっちはどうすればいい?」
マナセが歯を食いしばる。
「端を留めて。切らさないで」
「了解!」
キズナの線が伸びた。アツを縛る線ではない。魔を斬る線でもない。サチハが探し続けている、帰れる方へ輪郭を与えるための線だった。
「見えた」
サチハが言った。
「細い。でも、ある」
ケンが息を吐く。
「なら、道だ」
「アツ!」
キズナの声が、黒い殻の内側へ飛ぶ。
長い沈黙のあと、ノイズの底で、かすかな声が返った。
『……聞こえた』
《媒質殻:自己増大停止》
《KS1実効衝突危険度:低下》
《地球直撃コース:回避》
「地球衝突危機は……回避された」
ウルリヒの声は、信じがたいものを認めるように低かった。
「ですが、周辺宙域はまだ危険域です」
黒い殻が、ほどけ始めた。
消えたのではない。
けれど、もう増えてはいなかった。
*
「地球直撃危機、回避」
サキは言った。
けれど、その声は明るくならなかった。母艦側のモニターには、青い地球と、ほどけ始めた黒い殻と、その間に散った危険な粒子群が同時に映っている。救われたものと、まだ救われていないものが、同じ画面の中で重なっていた。
「接触機、損傷。前進ノード、圧力低下。帰還経路、まだ不安定です」
その直後、前進ノードが揺れた。
音はなかった。けれど、壁の奥を硬いものが走るような振動が、ケンの足裏ではなく手すりを通じて伝わってきた。キューポラの視界が白く乱れ、橙色の警告灯が薄い影を投げる。
《Harmony系統:圧力低下》
《Cupola系統:外郭損傷》
《退避勧告》
「キューポラ、閉じるぞ」
ケンが言った。
「でも、アツの帰れる方が」
サチハは振り返らなかった。眼鏡越しに、まだ細い線を見ている。消えかけた道。けれど、完全には失われていない道。
「見る場所は変わっても、見るのはやめるな」
ケンはサチハの腕を掴み、壁を蹴るのではなく、手すりを引いて進んだ。無重量の通路は、地上の廊下よりずっと頼りない。けれど、彼には順番が見えた。どちらを先に閉じ、どちらを残せば詰まらないか。
『きぼうモジュールへ退避してください。独立気密区画、短時間保持できます』
ヤンの声が届く。
「道がないなら、残ってる部屋を道にするしかないだろ」
ケンは息を切らしながら言った。
《KIBO系統:独立気密保持》
《緊急隔壁:閉鎖》
《前進ノード主区画:部分放棄》
きぼうはもう、残された小さな退避室だった。接触機を受け止めるための、最後の部屋でもあった。隔壁が閉じる。
母艦側にも警告が走った。
《母艦外郭:媒質粒子接近》
《退避推奨》
《推奨:即時離脱》
「退避推奨、出ています」
サキの指が止まる。言いたくない言葉を、ログは平然と表示していた。
「危険域です」
ウルリヒが言った。冷たい声だった。だが、その冷たさは逃げるためのものではなかった。測るためのものだった。
彼は一拍置いた。
「ですが、回収不能ではありません」
「ならば、母艦は残る」
ジョナサンは即答した。
「船長命令か」
アレクセイが低く訊く。
「帰還手順です」
ジョナサンはモニターから目を逸らさなかった。
「地球へ戻るまでが任務です」
その声が、全員の通信に乗った。
キズナとマナセは、命綱を辿って接触機へ戻っていた。外壁は傷つき、白い塗装の一部が剥がれ、外部作業ユニットは傾いている。だが、まだ死んでいない。まだ、誰かを迎えに行ける。
アツだけが、黒い殻の側へ流されていた。
「帰れる方、細いけど見えています」
きぼうの中で、サチハが言った。
「操縦はヤンさんに任せる」
ケンは表示を睨んだ。
「俺は、どっちへ戻れば詰まらないかを見る」
『接触機推力、三秒だけ使えます』
ヤンの声が速くなる。
『姿勢を合わせます。ケンさん、経路指示を』
「きぼう経由、まだ使える!」
ケンが叫ぶ。
「サチハ、帰れる向き!」
「見えています!」
「マナセ、留めて!」
「切らさない!」
マナセの斧が、黒い流れの端を引っかけた。斬らない。押さない。ただ、流れすぎないように留める。
「アツ、こっち!」
キズナの声が、白い線に乗る。
ノイズの向こうで、アツの声が返った。
『まだ……帰れる場所がある』
接触機が短く噴いた。きぼう区画の再接続導線が、細く震える。サチハの見ている帰れる方と、ケンの読んだ戻る順番と、ヤンの姿勢制御が、ほんの数秒だけ重なった。
その数秒で、アツの手が届いた。
マナセが掴み、キズナが引き、接触機の外壁へ叩きつけるようにして戻す。衝撃が走る。誰かが短く叫んだ。けれど、離さなかった。
《接触機:再捕捉》
《KIBO系統:再接続導線確保》
《全員位置確認》
サキは画面を見た。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
さらに、よっつ、いつつ。
喉の奥が熱くなる。
「全員、います」
その一言で、母艦の空気が変わった。
「母艦、離脱」
ジョナサンが告げる。
「全員を乗せて帰る」
キズナは、手甲型ペンを見た。傷だらけの手袋の中で、それはまだ白い線の余熱を残していた。
返しに来なさい。
アンナの声が、耳の奥で蘇る。
「返しに行かないとね」
誰にともなく、キズナは言った。
窓の外で、地球はまだ青かった。
遠く、けれど確かに、帰る場所としてそこにあった。
*
ワシントンD.C.の会見場では、強い照明の下で、大統領が演壇に立っていた。国際協力、迅速な決断、歴史的投資。用意された言葉は、どれも正しく、どれも大きかった。
「この成功は、人類の結束と、我が政権の決断力がもたらしたものです」
拍手が起こり、カメラのシャッター音が雨のように降る。
その隣で、ジョナサン・グレイは、いつものように背筋を伸ばしていた。彼だけが、まだ任務の余熱をまとっているように見えた。
「正しい資質を持った宇宙飛行士たちが、任務を遂行しました」
勝利を飾る言葉ではなかった。帰還を報告する声だった。
記者の一人が手を挙げた。
「その資質とは?」
ジョナサンは、少しだけ沈黙した。
「本当に正しい資質を持つ者は――」
*
数週間後。
A stationには、以前と変わらず紙の匂いとインクの匂いが混じっていた。
窓の外では、いつもの街の音がしている。車の走る音。遠くの踏切。誰かの笑い声。世界は終わらなかったのだと、そういう何でもない音が知らせていた。
ランは、赤子を抱いてソファに座っていた。マナセはその周りをそわそわと歩き回り、抱かせてほしいのか、怖いのか、自分でも分からない顔をしている。
「落ち着きなよ、マナセ」
ケンが差し入れの袋を机に置いた。
「世界救って、即入稿って、漫画家って怖いな」
「宇宙から帰ってきても、締切は消えません」
フクハラが淡々と言った。
「知ってます」
キズナは液晶タブレットから顔を上げずに答える。
隣ではユズハがトーン指定を確認し、サキがログではなく原稿のページ順を見ていた。アツとサチハは、以前より少し近い距離に座っている。けれど、手が触れそうで触れないあたりが、いかにも二人らしかった。
画面には、新編のタイトルが表示されていた。
『眼鏡の女の子~Song of Light~』
「結局、あれは何だったんですか」
サキが原稿を確認しながら言った。
「魔がダークマターの集積なら、その反対側にある斥力を何と呼ぶか」
キズナはペンを止めた。
「科学的には、ダークエネルギーによる斥力と考えて良いんだろうけど、漫画家としては……サキなら何て呼ぶ?」
サキは少し考えた。真面目な顔で、けれど少しだけ照れたように。
「……愛、でいいんじゃないですか」
キズナは笑った。
「サキが言うと、急に論文タイトルみたい」
「失礼です」
二人の会話を聞いていたのかいなかったのか、フクハラがちらりと視線を向けると、サキは何事もなかったように原稿へ目を戻した。耳だけが、少し赤かった。
そのやり取りに、ランが小さく笑い、赤子が眠ったまま細い指を動かした。その指先にも、まだ描かれていない未来があるように見えた。
『check……!「眼鏡の女の子~Song of Light~」入稿完了』
「入稿完了。サーバー転送成功。現在、レイアウト班がチェック中です」
その言葉で、スタジオの空気が少しだけ緩む。
「これで、終わりですか」
アツがそう訊くと、サチハが小さく彼を見る。
キズナは、原稿の最後のコマを見た。そこには、眼鏡をかけた女の子が、白い光の中でペンを握っていた。
「終わりじゃないよ」
彼女は笑った。
「続きが描けるってこと」
だから、線はまだ続いている。
今回で、『描線眼鏡シリーズ』本編、そして第3部として描いてきた『描線眼鏡 または終末の情熱』は、ひとつの結末を迎えました。
積み重ねてきた眼鏡、ペン、魔、線、そしてA stationの物語が、ここで大きな区切りに至りました。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
この物語で描いてきた「想像力」と「創造力」、「人間の感情が生んだ魔」、そしてそれらを支えるSF的な設定も含めて、ひとつの答えを置いた回になったと思いますが、どう感じられたでしょうか?
物語としては、ここで一定の結末を迎えます。
けれど、最後の一文にも込めた通り、この世界にはまだ先があります。
『描線眼鏡』本編としては区切りを迎えますが、この物語世界を引き継ぐ次回作の構想もあります。
ここまで、長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
少し間を取りつつ、また新しい物語を紡いでいきたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。




