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第26話 「希望」~続きが描ける世界~

描線眼鏡シリーズ第3部完結編


『描線眼鏡 または終末の情熱』

今回が第3部、そしてシリーズを通しての完結編となります。

ぜひ見届けてください。

 最終配置は、すでに始まっていた。


 母艦は背後に残り、前進ノードはその前方へ出ている。接触機は、前進ノードの外側に抱かれていた。

 黒い宇宙には、前進アンカー群の光点が散っている。星にしては人工的で、標識にしては頼りなかった。


 前進ノード内の空気は乾いていた。金属と樹脂の匂いに、宇宙服の内側から漏れるわずかな熱が混じっている。


 キズナ、アツ、マナセは、接触機へ移るためのハッチ前にいた。白いロシア系のオーラン改装服は、地上で見た時よりも重く見えた。戦うためではなく、生きて戻るための殻だった。


「帰れる方、見ているよ」


 サチハが言った。声は小さかったが、震えてはいなかった。


「頼む」


 アツはそれだけ答えた。ヘルメットを抱えた手に、少しだけ力が入っていた。


「先生」


 ケンがキズナを見た。


「戻る道は、こっちで残しときます」


「じゃあ、行く道はこっちで描く」


 キズナはそう答え、手甲型ペンの接続部を確かめた。


 キューポラの向こうに、KS1があった。


 肉眼では、黒い核と淡い媒質層に見えた。光を吸う石。その周囲に揺らぐ、薄い殻。けれど、描線眼鏡を通すと違った。


 そこにあったものが、見えてしまった。


 黒い核の周囲に、人の顔のような影が重なっていた。燃える街の輪郭。崩れる海岸線。叫びにも似たノイズ。誰にも届かなかった声の断片。ひとつの形にはならない。


 だからこそ、それは人類が背負ってきた業に見えた。


《Priority Alert》

《危険度=SSR+α》

《再判定中》


 表示が、一瞬途切れた。


《再判定中》

《危険度=Ω》

《対象=分類不能》

《ターゲットレンジ=周辺宙域/地球近傍影響域》

《予測時間=+00:45:00±05:00》

《警告:帰還経路不安定化リスク》


『危険度、既存分類を外れました』


 母艦側から、サキの声が届く。冷静な声だった。だが、その奥に硬い緊張があった。


『それは戦闘服ではない』


 続いて、アレクセイの声が通信に乗った。


『生きて帰るための服だ。間違えるな』


 マナセが、笑おうとして、失敗した。


「斬るためじゃなくて、戻るため、ですね」


『その理解なら、まだよい』


 接触機へ続くハッチが開いた。向こう側の空気はさらに狭く、さらに冷たく感じられた。


 眼鏡越しに見えたそれは怪物ではなかった。


 けれど、怪物と呼ぶしかないものだった。



 接触機のハッチが閉じると、前進ノードの音が遠くなった。


 かわりに、ヘルメットの内側で自分の呼吸が大きくなる。吸う音。吐く音。通信の底で微かに走るノイズ。接触機の狭い船内には、キズナ、アツ、マナセの三人分の体温がこもっていた。宇宙服越しなのに、誰かが隣にいることだけは分かる。


『母艦より各系統確認』


 ジョナサンの声が、短く入った。


『姿勢制御、接続確認』


『接触機側、EVA手順確認済み』


 ヤンとアレクセイの声が続く。母艦は遠い。けれど、まだ声は届いていた。


 前進ノード側では、ケンが経路表示に張りつき、サチハがキューポラの前で眼鏡越しの黒い殻を見ていた。


「……細い」


 サチハが呟いた。


「何がだ」


 ケンが訊く。


「帰れる方。まだ切れてない。でも、糸みたいに細い」


 ケンは一瞬だけ黙り、いつもの調子に少しだけ真面目さを混ぜて言った。


「糸なら、切らなきゃいい」


 接触機内で、アツが目を細めた。目の前にあるのは計器と隔壁だけのはずなのに、もっと遠いものが、身体の奥へ触れてくる。


「向こうから引いてる」


「重力?」


 マナセが訊いた。


「違う。重さじゃない。呼ばれてるみたいな向きです」


 キズナが、アツを見る。


「呼ばれてるって、誰に」


「分からない。……でも、地球からも、向こうへ伸びてる」


 その言葉に、通信の向こうが一瞬だけ静かになった。


 KS1が地球へ落ちてくるだけではない。地球の側からも、あの黒い殻へ何かが伸びている。


 恐怖。怒り。諦め。終わってしまえという声。終わらないでほしいという声。それらが、暗い宇宙で絡まり合っていた。


『接触機、分離準備』


 アレクセイの声がした。


『帰還線、維持。前進アンカー群、同期』


 サキの声が重なる。


『退避方向リスク、許容範囲内。ただし細いです』


 ジョナサンが短く告げた。


「接触機、分離を許可します」


 キズナは手甲型ペンに触れた。冷たいはずの接続部が、指先だけ熱を持ったように感じる。


「行きます」


 小さな衝撃が伝わった。


 接触機が、前進ノードを離れた。


 帰る場所を背に、刃は黒い殻へ向かっていく。



 接触機の船内は狭い。膝も肘も、どこかに触れる。その狭さが、いまはかえってありがたかった。まだ、戻る場所がある。


《導電性ダスト雲:荷電密度上昇》

《通信位相補正:遅延》

《姿勢制御補正:手動介入推奨》


『姿勢制御、こちらから補助します。接触機、自律制御を維持』


 ヤンの声がノイズの奥から届く。


『焦るな。宇宙で焦る者は、二度同じ場所へ戻れない』


 アレクセイの声は硬かった。だが、その硬さが命綱のように感じられた。


《ターゲットレンジ=変動》

《帰還経路:再計算》

《帰還経路:再計算》

《帰還経路:一部不定》


『戻れる方が、曇ってる』


 サチハの声が細く入った。


『曇ってるだけなら、まだ道はある』


 ケンが即座に返す。


 接触機の中から伸ばす線だけでは、もう届かない。黒い媒質殻の表面で、線が滑っていく。近づくほど、向こうから引く力が強くなる。


『外へ出る。だが、自由になったと思うな』


 アレクセイが言った。


『宇宙では、自由に動いた者から帰れなくなる』


「押すな、は得意じゃないかも」


 マナセが呟いた。


「今日は、止める日だよ」


 キズナが答えた。


 ハッチが開いた。空気の音はしない。ただ、ヘルメットの内側で、呼吸が一つ大きくなる。黒い空間が、すぐそこにあった。


『最初の一歩は、足ではなく手で出ろ』


「了解」


 キズナが外へ出た。続いてアツ。最後にマナセ。三本の命綱が、接触機と三人を細く繋いだ。


《描線ペン接続》

《手甲型インターフェース:同期》

《描線出力:制限解除》


「線を入れる。マナセ、留めて。アツ、流れを読んで」


「斬るんじゃない。留める」


 マナセの手に、白い斧の線が広がった。斬るために大きくなったのではない。流れの端を引っかけ、留めるために、広い弧を描いた。


 アツの手元では、日本刀の線が伸びていく。地上なら長すぎる線だった。けれど、ここには床も壁もない。白い刃は、黒い媒質層の流れを読むための針のように伸びた。


「引かれる向き、右下……いや、内側だ」


 キズナの手甲型ペンから、一本の線が走った。


 だが、黒い殻はそれを受け入れなかった。


 線が触れた瞬間、媒質層の表面が波打つ。水面ではない。雲でもない。そこにあるのは、重さを持ち始めた感情だった。


 燃える街の熱が、ヘルメット越しに肌を焦がすように迫る。

 崩れる海岸線の轟きが、音のない宇宙で耳の奥を揺らす。

 誰かを責める声。

 誰にも届かなかった謝罪。

 終わってしまえ、という呟き。


 それらが、白い線に絡みついた。


師匠マスター、線が先に行きすぎています』


 サキの声が入った。


『二人と同期がずれています』


「分かってる!」


 キズナは歯を食いしばる。宇宙服の中では地上のように踏み込めない。線を引くたび、反動が身体を後ろへ押す。


 その時、ケンの声が入った。


『キズナ、戻る道を見失うな』


『進む線だけじゃ駄目だ。戻る線と一緒に引け』


 サチハの声が続く。


『帰れる方、まだあります。細いけど、消えてません』


 アツが刀を構え直した。


「流れ、三つある」


 彼は白い刃を媒質層の表面へ滑らせる。


「外へ散る流れ。地球へ落ちる流れ。……内側へ戻る流れ」


「どれを止めるんだ?」


 マナセが叫ぶ。


「止めるんじゃない」


 アツは息を詰めた。


「戻る流れに、合わせて。外へ散る端だけ、留めて」


 マナセの斧が、大きく開いた。


 地上なら振り抜いていた。


 けれど、ここでは振り抜かない。


「押さない。止めるだけ」


 斧の白い弧が、黒い流れの端をすくい上げる。斬撃ではなかった。留め具だった。


 キズナは、その隙間に線を入れた。


「ここから先は、落ちる場所じゃない」


 手甲型ペンが熱を持つ。

 白い線が、黒い殻の表面に貼りつく。


「戻るための場所だ」


 それでも、媒質層は押し返してきた。


 黒い影が、形になりかける。


 腕のようにも、顔のようにも、街の瓦礫や海の底の濁りのようにも見えた。

 見る者によって違う。だから、ひとつの敵として斬れなかった。


《描線同期:低下》

《共鳴線:不安定》

《帰還経路:再計算》


『リンク率、乱れています』


 サキの声が入る。


『同期誤差、拡大。三人の線がずれています』


 キズナは、黒い殻を見た。


 その奥に、アツの白い刀と、マナセの斧の線が揺れている。


「合わせるよ」


 通信の向こうで、ケンが短く笑った。


『こういう時のための掛け声だろ』


 サチハの声が続く。


『帰れる方、まだあります』


 キズナは息を吸った。


「Save your peace」


 その声に、アツが重ねた。


『Save your peace!』


 マナセが噛みしめるように続ける。


『Save your peace!』


 前進ノードから、ケンの声が重なった。


『Save your peace!』


 サチハの声は、その後ろで少し震えていた。


『Save your peace』


 サキの声がログを読む。


『描線同期、回復。三人の線、重なります』


 キズナは、もう一度ペンを走らせた。

 アツの刀が、流れの向きを開く。

 マナセの斧が、その端を留める。

 キズナの線が、意味を定義する。


 三本の白い線が、黒い殻の表面で重なった。


 その瞬間、黒い核の表面に、ひびのような線が走った。

 岩が割れたのではない。意味が、ほどけた。


《KS1核:構造分離》

《媒質殻:局所崩壊》

《半物質化粒子群:拡散》

《警告:接触機外壁損傷リスク》


『地球直撃コース、変化しています。でも、周辺宙域の危険度が上がってる』


 サキの声が鋭くなる。


『危機は消えていません。形が変わっただけです』


 ウルリヒの声が続いた瞬間、音のない衝撃が来た。

 接触機の外壁が、白く弾けた。


《接触機外壁:損傷》

《外部作業ユニット:姿勢不安定》

《命綱B-02:張力超過》

《前進ノード外郭:微小損傷》

《Cupola系統:視界障害》

《Harmony系統:圧力低下予兆》


「分かる」


 アツが言った。


「アツ?」


「中の向きが、分かる。どこへ落ちるのかじゃない。何を引き込もうとしてるのかが……」


「見すぎないで!」


 キズナの声は、届いた。けれど、間に合わなかった。


《命綱B-02:張力限界》

《警告》

《警告》


 命綱が切れた。


 金属のワイヤーだけではなかった。描線眼鏡の中で、アツと接触機を結んでいた帰還線が、白く、細く、ほどけていく。


『アツの帰れる方が――消えた』


 サチハの叫びが、通信を裂いた。


 アツが、黒い殻の内側へ引かれていく。

 誰の声も、すぐには届かなかった。


「見えない!」


 サチハの声が震えた。


「細いんじゃない、見えない!」


 前進ノードのキューポラには、もう黒い殻の全体が映っていなかった。視界は白いノイズで乱れ、警告灯の橙が壁を薄く染めている。冷たい空気が、喉の奥に張りついた。


 ケンはサチハの叫びに内心うろたえたが、


「探せ」


 平静を装って、声だけ置いた。


「道は消えても、帰りたい奴がいるなら、どこかに残る」


 接触機側では、キズナが手を伸ばしていた。けれど、届かない。アツの姿は黒い媒質層の影に溶けかけ、命綱の切れた先だけが白く揺れている。


「切らさないって言ったでしょ!」


 マナセの斧が、流れの端に食い込む。斬るのではない。留める。だが、黒い殻の内側から湧く力は重かった。人が長い時間をかけて落としてきたものが、まとめて腕に絡みついてくるようだった。



 地上では、別の線が震えていた。


 ランは、腹部に手を添えていた。窓の外の空は、いつもと同じ色をしている。それが、かえって怖かった。


「見てこなくていい」


 ランは小さく言った。


「帰ってきて」


 星野トシロウは、祈らなかった。机の前に座り、ペンを取った。続きを描けと言った以上、自分も続きを描かなければならない。紙をこする音だけが、静かな部屋に残った。


「憎しみが世界を重くするなら」


 上青石は、誰にともなく呟いた。


「その反対だって、きっとある」


 アンナの手にあるのは、いつもの手甲型ではなかった。通常型の描線ペン。それでも、彼女の線は鈍らなかった。地上の異常を切り払う白い線が、夜気の中で短く閃く。


「返しに来なさいって言ったのよ」


 アンナは空を見上げた。


「だから、まだ終わってない」


 フクハラは原稿データの画面を見つめていた。ユズハは祈るように端末を握っていた。笹崎は協会管制室で、何も言わずにログを見ていた。野田はカメラを置き、ただ空を見ていた。


 東京の病室で、誰かが眠る子どもの手を握っていた。


 ヒューストンの管制室で、ひとりの技官が黙って帰還軌道を見守っていた。


 夜の海岸線の町で、老いた男が空を見上げていた。ただ、明日もこの海を見たいと思っていた。


 避難所の片隅で、紙コップの湯気が揺れていた。大丈夫だとは言えなくても、誰かの手は離されなかった。


 世界は、ひとつの心になったわけではなかった。


 誰かはまだ怒っていた。

 誰かはまだ諦めていた。

 誰かは、誰かを許せないままだった。


 すべての憎しみが消えたわけではない。


 それでも、その同じ世界の中で、誰かが誰かを待っていた。帰ってきてほしいと願っていた。明日も続いてほしいと思っていた。続きを読みたいと、続きを描きたいと、続きを生きたいと思っていた。


 負の感情が消えたのではない。

 ただ、その隣に、別の感情も確かにあった。


 それらは、ひとつひとつでは小さすぎた。

 恐怖ほど鋭くない。憎悪ほど熱くない。絶望ほど重くもない。


 けれど、EMOwatcherは拾っていた。

 協会アプリの外部観測網が、かすかな揺らぎとして記録していた。


 負方向ではない。

 けれど、ゼロでもない。


『EMOwatcher全域に、負方向ではない相関が出ている』


 谷保五郎の声が、通信に割り込んだ。


「負方向ではない?」


 サキが聞き返す。


『恐怖でも憎悪でもない。だが、場を押し広げている』


 五郎の声は震えていた。興奮ではなく、発見に手が届いてしまった者の震えだった。


『負の集束が急速に解かれている……』


「媒質殻の膨張圧が……変わった」


 ウルリヒが呟いた。


「これは、崩壊ではない。緩和している」


 キズナには、それが数値ではなく、線の変化として見えた。


 黒い媒質殻を構成していた影は、消えていない。燃える街も、崩れる海岸線も、誰かの怒りも、誰かの諦めも、まだそこにある。けれど、それらを一つの塊へ押し固めていた線が、少しずつ緩んでいた。


 怪物の形が崩れたのではない。孤立していた影と影のあいだに、別の線が通り始めていた。


 誰かが誰かを待つ線。

 帰ってきてほしいと願う線。

 続きを描きたいと望む線。


 それは、攻撃の線ではなかった。

 命令の線でもなかった。

 ただ、ひとりでは閉じない線だった。


 その時、キズナの中で、上青石の言葉が戻った。


『憎しみが世界を重くするなら。その反対に、世界を少しだけ押し広げる感情もあるんじゃないかな』


 魔が、孤立した負の感情の重力なら。

 孤立をほどく関係性の膨張を表現するとすれば――。


 それは、ひとりでは生まれない感情だった。


「それを、昔から人は、愛って呼んできたんだと思う」


 キズナは手甲型ペンを握り直した。


「アツを引き戻すんじゃない」


 息を吸う。ヘルメットの内側で、白い呼気が一瞬だけ曇る。


「あいつが、自分で戻れる方を描く」


「こっちはどうすればいい?」


 マナセが歯を食いしばる。


「端を留めて。切らさないで」


「了解!」


 キズナの線が伸びた。アツを縛る線ではない。魔を斬る線でもない。サチハが探し続けている、帰れる方へ輪郭を与えるための線だった。


「見えた」


 サチハが言った。


「細い。でも、ある」


 ケンが息を吐く。


「なら、道だ」


「アツ!」


 キズナの声が、黒い殻の内側へ飛ぶ。


 長い沈黙のあと、ノイズの底で、かすかな声が返った。


『……聞こえた』


《媒質殻:自己増大停止》

《KS1実効衝突危険度:低下》

《地球直撃コース:回避》


「地球衝突危機は……回避された」


 ウルリヒの声は、信じがたいものを認めるように低かった。


「ですが、周辺宙域はまだ危険域です」


 黒い殻が、ほどけ始めた。

 消えたのではない。

 けれど、もう増えてはいなかった。



「地球直撃危機、回避」


 サキは言った。


 けれど、その声は明るくならなかった。母艦側のモニターには、青い地球と、ほどけ始めた黒い殻と、その間に散った危険な粒子群が同時に映っている。救われたものと、まだ救われていないものが、同じ画面の中で重なっていた。


「接触機、損傷。前進ノード、圧力低下。帰還経路、まだ不安定です」


 その直後、前進ノードが揺れた。


 音はなかった。けれど、壁の奥を硬いものが走るような振動が、ケンの足裏ではなく手すりを通じて伝わってきた。キューポラの視界が白く乱れ、橙色の警告灯が薄い影を投げる。


《Harmony系統:圧力低下》

《Cupola系統:外郭損傷》

《退避勧告》


「キューポラ、閉じるぞ」


 ケンが言った。


「でも、アツの帰れる方が」


 サチハは振り返らなかった。眼鏡越しに、まだ細い線を見ている。消えかけた道。けれど、完全には失われていない道。


「見る場所は変わっても、見るのはやめるな」


 ケンはサチハの腕を掴み、壁を蹴るのではなく、手すりを引いて進んだ。無重量の通路は、地上の廊下よりずっと頼りない。けれど、彼には順番が見えた。どちらを先に閉じ、どちらを残せば詰まらないか。


『きぼうモジュールへ退避してください。独立気密区画、短時間保持できます』


 ヤンの声が届く。


「道がないなら、残ってる部屋を道にするしかないだろ」


 ケンは息を切らしながら言った。


《KIBO系統:独立気密保持》

《緊急隔壁:閉鎖》

《前進ノード主区画:部分放棄》


 きぼうはもう、残された小さな退避室だった。接触機を受け止めるための、最後の部屋でもあった。隔壁が閉じる。


 母艦側にも警告が走った。


《母艦外郭:媒質粒子接近》

《退避推奨》

《推奨:即時離脱》


「退避推奨、出ています」


 サキの指が止まる。言いたくない言葉を、ログは平然と表示していた。


「危険域です」


 ウルリヒが言った。冷たい声だった。だが、その冷たさは逃げるためのものではなかった。測るためのものだった。


 彼は一拍置いた。


「ですが、回収不能ではありません」


「ならば、母艦は残る」


 ジョナサンは即答した。


「船長命令か」


 アレクセイが低く訊く。


「帰還手順です」


 ジョナサンはモニターから目を逸らさなかった。


「地球へ戻るまでが任務です」


 その声が、全員の通信に乗った。


 キズナとマナセは、命綱を辿って接触機へ戻っていた。外壁は傷つき、白い塗装の一部が剥がれ、外部作業ユニットは傾いている。だが、まだ死んでいない。まだ、誰かを迎えに行ける。


 アツだけが、黒い殻の側へ流されていた。


「帰れる方、細いけど見えています」


 きぼうの中で、サチハが言った。


「操縦はヤンさんに任せる」


 ケンは表示を睨んだ。


「俺は、どっちへ戻れば詰まらないかを見る」


『接触機推力、三秒だけ使えます』


 ヤンの声が速くなる。


『姿勢を合わせます。ケンさん、経路指示を』


「きぼう経由、まだ使える!」


 ケンが叫ぶ。


「サチハ、帰れる向き!」


「見えています!」


「マナセ、留めて!」


「切らさない!」


 マナセの斧が、黒い流れの端を引っかけた。斬らない。押さない。ただ、流れすぎないように留める。


「アツ、こっち!」


 キズナの声が、白い線に乗る。


 ノイズの向こうで、アツの声が返った。


『まだ……帰れる場所がある』


 接触機が短く噴いた。きぼう区画の再接続導線が、細く震える。サチハの見ている帰れる方と、ケンの読んだ戻る順番と、ヤンの姿勢制御が、ほんの数秒だけ重なった。


 その数秒で、アツの手が届いた。


 マナセが掴み、キズナが引き、接触機の外壁へ叩きつけるようにして戻す。衝撃が走る。誰かが短く叫んだ。けれど、離さなかった。


《接触機:再捕捉》

《KIBO系統:再接続導線確保》

《全員位置確認》


 サキは画面を見た。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 さらに、よっつ、いつつ。


 喉の奥が熱くなる。


「全員、います」


 その一言で、母艦の空気が変わった。


「母艦、離脱」


 ジョナサンが告げる。


「全員を乗せて帰る」


 キズナは、手甲型ペンを見た。傷だらけの手袋の中で、それはまだ白い線の余熱を残していた。


 返しに来なさい。


 アンナの声が、耳の奥で蘇る。


「返しに行かないとね」


 誰にともなく、キズナは言った。


 窓の外で、地球はまだ青かった。

 遠く、けれど確かに、帰る場所としてそこにあった。



 ワシントンD.C.の会見場では、強い照明の下で、大統領が演壇に立っていた。国際協力、迅速な決断、歴史的投資。用意された言葉は、どれも正しく、どれも大きかった。


「この成功は、人類の結束と、我が政権の決断力がもたらしたものです」


 拍手が起こり、カメラのシャッター音が雨のように降る。


 その隣で、ジョナサン・グレイは、いつものように背筋を伸ばしていた。彼だけが、まだ任務の余熱をまとっているように見えた。


「正しい資質を持った宇宙飛行士たちが、任務を遂行しました」


 勝利を飾る言葉ではなかった。帰還を報告する声だった。


 記者の一人が手を挙げた。


「その資質とは?」


 ジョナサンは、少しだけ沈黙した。


「本当に正しい資質を持つ者は――」



 数週間後。


 A stationには、以前と変わらず紙の匂いとインクの匂いが混じっていた。


 窓の外では、いつもの街の音がしている。車の走る音。遠くの踏切。誰かの笑い声。世界は終わらなかったのだと、そういう何でもない音が知らせていた。


 ランは、赤子を抱いてソファに座っていた。マナセはその周りをそわそわと歩き回り、抱かせてほしいのか、怖いのか、自分でも分からない顔をしている。


「落ち着きなよ、マナセ」


 ケンが差し入れの袋を机に置いた。


「世界救って、即入稿って、漫画家って怖いな」


「宇宙から帰ってきても、締切は消えません」


 フクハラが淡々と言った。


「知ってます」


 キズナは液晶タブレットから顔を上げずに答える。


 隣ではユズハがトーン指定を確認し、サキがログではなく原稿のページ順を見ていた。アツとサチハは、以前より少し近い距離に座っている。けれど、手が触れそうで触れないあたりが、いかにも二人らしかった。


 画面には、新編のタイトルが表示されていた。


『眼鏡の女の子~Song of Light~』


「結局、あれは何だったんですか」


 サキが原稿を確認しながら言った。


「魔がダークマターの集積なら、その反対側にある斥力を何と呼ぶか」


 キズナはペンを止めた。


「科学的には、ダークエネルギーによる斥力と考えて良いんだろうけど、漫画家としては……サキなら何て呼ぶ?」


 サキは少し考えた。真面目な顔で、けれど少しだけ照れたように。


「……愛、でいいんじゃないですか」


 キズナは笑った。


「サキが言うと、急に論文タイトルみたい」


「失礼です」


 二人の会話を聞いていたのかいなかったのか、フクハラがちらりと視線を向けると、サキは何事もなかったように原稿へ目を戻した。耳だけが、少し赤かった。


 そのやり取りに、ランが小さく笑い、赤子が眠ったまま細い指を動かした。その指先にも、まだ描かれていない未来があるように見えた。


『check……!「眼鏡の女の子~Song of Light~」入稿完了』


「入稿完了。サーバー転送成功。現在、レイアウト班がチェック中です」


 その言葉で、スタジオの空気が少しだけ緩む。


「これで、終わりですか」


 アツがそう訊くと、サチハが小さく彼を見る。


 キズナは、原稿の最後のコマを見た。そこには、眼鏡をかけた女の子が、白い光の中でペンを握っていた。


「終わりじゃないよ」


 彼女は笑った。


「続きが描けるってこと」


 だから、線はまだ続いている。



今回で、『描線眼鏡シリーズ』本編、そして第3部として描いてきた『描線眼鏡 または終末の情熱』は、ひとつの結末を迎えました。


積み重ねてきた眼鏡、ペン、魔、線、そしてA stationの物語が、ここで大きな区切りに至りました。

ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。


この物語で描いてきた「想像力」と「創造力」、「人間の感情が生んだ魔」、そしてそれらを支えるSF的な設定も含めて、ひとつの答えを置いた回になったと思いますが、どう感じられたでしょうか?

 

物語としては、ここで一定の結末を迎えます。


けれど、最後の一文にも込めた通り、この世界にはまだ先があります。

『描線眼鏡』本編としては区切りを迎えますが、この物語世界を引き継ぐ次回作の構想もあります。


ここまで、長い物語にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

少し間を取りつつ、また新しい物語を紡いでいきたいと思っています。

どうぞよろしくお願いいたします。


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