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第1話 「式典」~拍手の外で鳴るもの~

 お盆休みの都内は空気が少しキレイになる。

 

 都内でも指折りの格式を誇るホテル。その一番大きなバンケットホール。

 外は真夏の陽ざしだというのに、冷房の効いた空間は季節が一つずれているようだった。


 ステージ奥の横断幕には、大きく墨字で、

 《日本科学漫画協会 納涼ビアアーベント・特別表彰式》


 浮世離れした墨字の下に並ぶロゴとスポンサー名だけが、妙に現実的だった。


「それでは――」


 司会者の声が、ホールのスピーカー越しに少しだけ歪んで響く。


 ステージ上には、協会の「顔」が勢ぞろいしていた。中央に笹崎花子会長。その少し下手に柚木理事。その隣に、日月たちもり武蔵理事。


「東北ブロックにおけるSSR級連続事案への迅速な対応、ならびに、市民の不安払拭に多大な貢献をされた――」


 プロンプターに視線を落としながら、司会がゆっくりと区切る。


「栗原アンナ先生を、ここに顕彰いたします」


 ざわ、と空気が一段階変わった。


 正面のスクリーンには、編集された戦闘ログが映し出されている。整列した隊列。波形グラフの滑らかなライン。そこにあるのは「綺麗な戦い」の断片だけだ。


 団体用の丸テーブルが並ぶフロアから、一斉に拍手が湧いた。


「……身に余る、光栄です」


 スポットライトの中で、アンナが放った言葉は整っていた。けれど、肩だけが――わずかに落ちた。


 笹崎会長が一歩前に出る。


「あなたは、北方の盾として、そして協会の誇りとして――」


 台本どおりの言葉を、穏やかな声で重ねていく。


 会長の後ろで、柚木が薄く笑っている。その視線は、アンナではなく、その背後のスクリーンを見ていた。


 サイドの席では、各ブロックの師匠マイスターが固まって座っていた。


 その中の一人が、小さな声でぼそりと漏らす。


「……本当にURが発動したのは、もっと南だったんだろ」


 隣の席の誰かが、慌てて咳払いでかき消した。


 その二人の前のテーブルには、小さな名札が雑に並んでいる。


 《戸隠キズナ他》


 司会の口から、その名前が出ることはなかった。


 拍手が、続く。


 会場の端、柱の陰に立つスタッフ用のテーブルでは、配信チェック担当の若い協会職員が、配布用のパンフレットを整えながら、自分のスマートフォンに目を落としていた。


 画面の上部に、小さな通知。


 《EMOwatcher(健康・安全管理モジュール)がアップデートされました》


 説明文は、さらりとしている。「戦闘時の安全」「負荷の早期検知」。


 彼は一瞬だけ眉をひそめ、それから「後で」をタップして画面を閉じた。


 ステージの方で、もう一段強いスポットライトが点く。


「ここに、栗原アンナさんに――」


 笹崎が、銀色のケースを開けた。

 中には、金色の頸飾と、同じく金色に塗装されたペンが収められている。


 円環の中央には、協会章と「G.M.」の文字。


偉大な師匠(グレート・マイスター)の称号を授与します」


 ざわめきが、今度は抑えた形で広がった。

 かつて星野トシロウが押しつけられ、上青石が叩き返した、あの称号。その名が、また口にされる。


 カメラのレンズが、音もなく寄っていく。

 会員向けの「内部配信」用に、固定カメラが数台。赤いインジケーターが、静かに灯っている。


「――おめでとうございます」


 頸飾が、アンナの首元にかけられる。


 金属が肌に触れる、冷たい感覚。


 拍手。


 フラッシュ。


 グラスが触れ合う、遠い乾杯の音。


 スクリーンの下部には、小さくテロップが流れている。


《※本式典は協会会員限定でアーカイブ配信されます。視聴ログは安全管理のため記録・保管されます》


「アンナさん、こちらを向いてください」


 カメラマンの声に、アンナが顔を上げる。

 口角を上げようとする。

 だが、その動きはほんのわずかに遅れた。


 映像のフレームの中で、彼女はきちんと微笑んでいる。


 観客席の端でスマホをかざした“誰かの画面には”、そう見えた。


 ただ一つ、首飾りに添えた右手の指先だけが、拍手のリズムとは合わない震え方をしていた。


 そしてその瞬間を、協会アプリの「会員限定ライブ配信」用カメラは、完璧すぎる画質で切り取っていた。



 控室は、さっきまでの拍手の余韻だけが、壁紙の裏側に貼りついているみたいだった。


 薄いベージュのソファ。出しっぱなしの花束。乾きかけた紙コップの水。


 首元に触れると、ひやりとした。


 ――頸飾。


 金色の円環。中央に協会章と「G.M.」の文字。


 トキワ荘の先達ら伝説の漫画家マイスターの誇り、のはずだった。


 だが鏡の中で、自分の首にかかっているそれは、どう見ても「冠」というより「首輪」に近かった。


 ソファの背もたれに掛けたジャケットのポケットには、もう一つの記念品――金色のペン。


 描線ペンではない、ただの記念品。重さだけが無駄にある。


 アンナは鏡の前で、そっと頸飾を指で持ち上げた。鎖が鳴る。


 会場で浴びた拍手の音と、なぜか同じリズムで耳に響いた。


 去年のことを思い出す。


 戸隠キズナが資格停止になったときの、あの通達。

 

「守秘義務を厳守し、魔に関する情報は協会の統制のもとに管理されること」


 文面は淡々としていた。


 だが裏を返せば、記事を書かれた“側”ではなく、“書かせた”側としては――自分も同じだ。


 その協会が、今は「英雄」を必要としている。


 北方の盾。グレート・マイスター。


 拍手の中で、もっと南にいた名前は小さな名札に押し込められたまま。


(キズナのことを……見ないふりをしないと、私は英雄でいられない)


 喉の奥が、少しだけ苦くなる。


 テーブルの上で、スマホが震えた。

 画面の上部に、小さなバナーが滑り込む。


 《EMOwatcher 健康・安全管理》

 《お疲れさまです。心拍数が平常値より高めです。水分補給と深呼吸をおすすめします》


 優しい言葉づかい。丸いアイコン。

 さっきアップデートのお知らせに出ていた、新機能の一つだろう。


(……うるさいな)


 画面をスワイプして通知を消す。

 心拍数を測られるより、今は胸の中の音を、自分でちゃんと聞いていたかった。


 ドアが二回、軽くノックされた。


「失礼するよ」


 開いた隙間から、柚木の顔がのぞく。

 ネクタイを少しゆるめたまま、礼儀正しい笑顔だけは崩さない。


「栗原先生、素晴らしいスピーチだった。お疲れさま」


「……ありがとうございます」


 アンナはとっさに頸飾から手を離した。鎖が、喉の上で小さく跳ねる。


「君なら、分かってくれると思っていたよ」


 柚木は部屋に入り、花束の隣に腰かけた。


 距離を詰めるでもなく、しかし逃げ道をふさぐ位置取りで。


「今、外は騒がしい。文潮の記事も、君の映画の事もある」


 声色は柔らかい。


 けれど、その語尾には「だがね」が一つ、常にぶら下がっている。


「秩序っていうのは、優しさなんだ。君なら分かるよね。広がり方を間違えると、人は壊れる」


 秩序。


 その言葉の重さが、頸飾よりずしりと首にのしかかる。


「……私なんかで、務まるんでしょうか」


 口が、勝手にそう答えてしまう。


 否定でも拒絶でもない。確認の形をした、ほとんど服従の言葉。


「君だからだよ」


 柚木は、そこで初めてアンナを正面から見た。


 瞳の奥に、計算と本気が同居している。


「君は真面目で、裏切らない。独断で走り出すタイプでもない。――ね?」


 キズナの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


 それを慌てて押し込める。表情に出ていないかだけが心配だった。


「協会には、君みたいな“英雄”が必要だ。線を引く者たちが、迷わず従える旗印がね」


 英雄。


 拍手。


 整った波形。


 編集されたログ。


 それら全部が、さっきから首輪の鎖にぶら下がっているように感じられた。


「……努力します」


 またも、そう答えてしまう。


 もっと違う言葉を選びたかったはずなのに。


「うん、それでいい」


 柚木は満足そうに頷き、立ち上がった。


「このあと、広報用のコメント収録がある。無理はさせないよ。ほんの数分だ。君の“言葉”があると、みんな安心するからね」


 扉が閉まり、足音が遠ざかる。


 アンナはスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。


 宛先欄に「戸隠キズナ」と打ち込み、指を止める。


 ――ごめん。


 最初の一文字が浮かび、画面に残像のように揺れる。


 違う。謝りたいだけじゃない。


 本当は、今日のことを全部話したい。


 頸飾の冷たさも、拍手の圧も、「英雄」という言葉の重さも。


 けれどそれを送った瞬間、キズナをまた別の火の中に投げ込むことになる気がして、指が動かなかった。


 入力欄の文字を、すべて消す。


 代わりに、協会の業務端末が震えた。


 《広報部:コメント収録のご案内》

 《理事会:グレート・マイスター就任に伴う意見交換会》

 《協会アプリ:本日の活動ログを入力してください》


 休ませない。


 拍手は終わっても、儀式は続く。


(拍手が、痛い……)


 アンナは頸飾に触れたまま、鏡の中の自分を見つめた。


 笑顔の形だけは、式典のときよりも少し自然だった。


 けれど、その奥にあるものを、画面の向こうの誰かが測ることはできない。


 EMOwatcherが拾えるのは、あくまで「揺れ」の波形だけだ。


 冠の重さまでは、数値にできない。



 スタジオA stationの片隅。


 壁際のパネルにノートPCをつなぎ、スクリーンには四分割のオンライン会議画面が映っている。


 左上に、富山の家らしき和室の背景を背負った谷保五郎。


 右上に、西東京のYAHO R&Dセンターからの黒部。


 左下は文潮社の一室だろうか、白い壁と本棚を背にしたフクハラ。


 右下が、この部屋のカメラに映る自分――盛沼サキだ。


「じゃあ、始めましょうか」


 フクハラが、会議の司会を買って出る形で口を開いた。


「本題は、五郎博士から『欠測』の報告ですよね。なんかアメリカも協会もゴタゴタ続きのようで……まともな話を進められる所で進めましょう」


 五郎は一度だけ深呼吸をし、画面共有のボタンを押した。


 スクリーンに、時間軸と数字の並んだグラフが現れる。


 縦軸には「感度」「検知閾値」、横軸には日付。


 線はところどころ、ぷつりと途切れていた。


「今年の春から夏にかけての、重力波観測と、それに紐づいた魔位相のデータです」


 五郎の声は、いつもより少し低い。


「ご存じのように、向こうの連邦政府の予算再編で、宇宙・基礎科学関連の予算が大きく削られた。その影響が、じわじわ効いてきています。メンテナンス延期、夜間観測の間引き、観測器の一時停止……」


 グラフの線の切れ目に、赤いマーカーがいくつも表示される。


「この赤い部分が『欠測』です。本来なら連続で取れているはずの帯域が、丸ごと抜けている」


 サキは、椅子の上で無意識に姿勢を正した。


 数字そのものは専門外だ。それでも「歯抜けになったグラフ」の気持ち悪さだけは、直感で分かる。


「欠測が増えると、どうなるんですか?」


 自分で聞いておきながら、答えはある程度予想できていた。それでも、数字の専門家の口から聞いておきたかった。


「単純に言えば――」


 五郎は一瞬だけ言葉を探すように目を伏せ、それから続けた。


「検知閾値が上がります。つまり、『見えないまま現象が進む』時間が、長くなる」


 フクハラが画面に顔を寄せる。


「五郎、それをもう少し“物語の言葉”でお願いできるかな? 数字は後で資料にしてもらうとして」


「……そうだな」


 五郎は、わずかに肩をすくめた。


「今までは、魔の位相が危険なところに近づく前に、観測側から『そろそろ危ない』と手を挙げられた。警報の余裕時間があった。けれど観測の空白が増えると、その余裕が削られる」


 グラフの別のウィンドウを開き、一つのエリアを拡大する。


「今はまだ『欠測』だ。あとから理論で補える余地がある。でも、このまま穴が広がると、いずれは『欠損』になる。そもそも、あったはずの揺れの痕跡すら分からなくなる」


 黒部が腕を組んだ。


「観測の空白は、魔にとって“最適な巣”になる、ってことですね」


「そう解釈してもらって構わない」


 五郎は頷いた。


「魔の実体化が進んでいるのは、こちらの解析でも確かです。位相の揃い方が、過去の大災難のデータと同じパターンを描き始めている。だから本来なら、観測網はむしろ増やすべき局面なんだが……」


 言葉が、そこで少し途切れた。


「目が、減っている。見張り台から、人が降ろされている状況だ」


 会議室のエアコンの音が、やけに大きく聞こえた。


 フクハラが、指先で机を軽く叩きながら言う。


「つまり僕らは、より『ぶっつけ本番』に近づいて、事後の説明も難しくなる訳だ。『なぜ予測できなかったのか』って外から責められるのに、内側では『そもそも目が減ってる』って事情は、簡単には言えない」


 彼の言う「外」の中に、協会の上部や官僚ひいては政府が含まれていることを、サキは直感していた。


「観測は武器じゃない。でも――」


 五郎が、画面の向こうで穏やかに笑った。その笑みは、目の下のクマと妙にちぐはぐだった。


「武器より先に、世界を守るものだ」


 その言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。


 サキは、自分の手のひらにじんわり汗がにじんでいるのを感じていた。


「……具体的には、いつからどの帯域が落ちるんです?」


 黒部が、技術者らしい声色で話を戻した。


「来月から、ハンフォードとリビングストンのLIGOの夜間連続観測が中止になります。そこから先は、予算と人員の再配置次第だ」


 五郎が画面に日付を表示する。


 カレンダーの上に、赤い斜線が地図のように増えていく。


「本当なら、日本側でも独自の観測網を増強したいところですが……」


 黒部が言い淀む。資金と政治と、いくつもの現実が、その「が」の後ろに詰まっているのが見えるようだった。


「だからこそ、現場と観測のリンクを、今のうちにできるだけ太くしておきたい。A stationや協力してくれるスタジオのログと、こちらの観測データの突き合わせも強化する。サキさん」


「はい」


「あなたたちの描線ログは、これからもっと大事になる。一本一本の線が、観測の穴を埋める“仮説”になる」


 サキは、小さく息を呑んだ。


 自分が引く線が、魔を斬るためだけではなく、「見えなかったはずの揺れ」の証言にもなる――そんな視点で考えたことはなかった。


「……重い役目ですけど」


 素直な感想が、そのまま口をついて出た。


「でも、やるしかないですね」


「やるしかない、ね」


 五郎がもう一度だけ笑い、その直後、会議室の天井スピーカーから、別の音が割り込んできた。


 小さな電子音。


 サキのタブレット、フクハラのノートPC、黒部のコンソール、そして五郎のスマホ――四つの画面の隅に、同時に同じ通知が現れる。


 《協会アプリ お知らせ》

 《昨日の特別表彰式ダイジェスト映像を配信開始しました》

 《会員の皆さまの拡散・感想投稿を歓迎します》


 スクリーンのグラフの上に、ポップアップの青い枠が重なる。


 拍手とスポットライトに照らされたアンナの笑顔が、サムネイルで微笑んでいる。


 冷たい数字の報告の上に、ぬるい広報が上書きされた。


 誰も、しばらくその通知を閉じようとしなかった。

 ただ、会議室の空気だけが一段階、目に見えない温度差を帯びていく。



 その日のA stationは、いつもより少しだけ静かだった。


 協会アプリからは、「特別表彰式のお知らせ」という通知が来ていたが、キズナはそれを、何も考えずにスワイプで消した。


 机の上には、『眼鏡の女の子 ―Save your peace!―』のネームの束と、下書き途中の原稿。


 狭いフレームの中で、主人公の女の子が、眼鏡を押し上げている。


 その向こうで、現実の「偉大な師匠(グレート・マイスター)」が首飾りをかけられている。


 光の届く先が、少しずつズレていく感覚だけが、胸のどこかに引っかかっていた。


 ペン先を止めたとき、机の上のスマホが一度だけ震えた。


 《フクハラ:通話いいですか》


 短いメッセージ。


 キズナはペンをペン立てに差し込み、指先で通話ボタンを押した。


「もしもし、戸隠です」


『おつかれさまです、キズナさん』


 スピーカーから聞こえてくるフクハラの声は、珍しく少しだけ掠れていた。


『谷保博士から、“欠測”の話を共有してもらいました。観測の穴が広がり現場の余裕時間が削られる、ってやつです。細かい数字は資料にして送ります。で……近いうちに、観測チームの四人と時間を取れませんか』


「四人?」


『僕とサキさんと谷保博士、それにYAHO技術部の黒部君。観測の穴と、こっちの描線ログをどう繋ぐか。第3部の“仕組み会議”ですね』


 冗談めかした言い方。


 けれど、その裏側でフクハラが本気で段取りを組んでいるのが分かる。


「分かりました。どこかで時間つくりましょう」


『あと、これから文潮社で会議なんですが……多分、吉報を伝えられると思いますよ』


「この前話していた、文潮社コミックス新刊行のですよね?」


『「文潮社コミックス」が立ち上がれば「コミックバンゴ」の看板も当然単行本になりますからね』


「はい。期待して待っています、フクハラさん」


 通話が切れる。


 画面に残った未読の通知一覧の中に、「特別表彰式ダイジェスト映像」という文字列がちらりと見えた。


 再生ボタンは、そのままにしておく。


「……師匠マスター


 振り向くと、ドアのところにサキが立っていた。


「式典……出なくて、良かったんですか」


 その一言には、責める色はなかった。


 ただ、確認したいだけ。規範側の人間として、筋を通しておきたいだけ。


 キズナは、ペン立てから一本のミリペンを抜いた。


 何も描いていない余白の上に、一本、試し描きの線を引く。


 細い線。紙をこする感触。インクの乗り方。


 ペン先を見つめたまま、口を開いた。


「拍手の中じゃ、波形が聴こえないから」


 サキは瞬きをした。


「……はい?」


 理解しきれたわけではない。


 それでも、キズナの「居場所の選び方」だけは、なんとなく分かる気がした。


「……師匠マスターらしいと思います」


 それが、今の自分に言える精一杯の返事だった。


「祝われるの、嫌いじゃないんだけどね」


 キズナは肩をすくめた。


「ただ、祝われてる間に、何か見落とすのが怖いんです。そういう体質になっちゃったんだと思う」


 窓の外で、遠くの雲が一瞬、稲光で輪郭を浮かび上がらせた。


 夏の終わりを告げるような、遠雷の光。


 視野の隅に、小さなノイズのようなものが点滅した。


 警報には程遠い、薄い揺らぎ。


 EMOwatcherのアップデート通知とは別系統の、もっと古い層からのささやきのような。


師匠マスター?」


「ううん」


 スタジオの中の光景が、わずかに違う輪郭を持って、一瞬だけ浮かび上がって消えた。


「……来るね」


 誰にともなく、そう呟く。


 サキは、「何がですか」とは聞かなかった。


「今日、師匠マスター、ご飯作ってくれるんですよね? 久しぶりで楽しみです」


 サキが小さく笑う。


 その笑い声が、さっきまで画面の向こうで鳴っていた拍手とは、まったく違うリズムを持っていた。


 A stationの窓の外で、もう一度、遠くの空が光った。

 拍手のない場所で、静かな波形だけが、じわりと世界を揺らし始めていた。


お待たせいたしました。描線眼鏡シリーズ第3部


『描線眼鏡 または終末の情熱』


連載を開始しました。


祝福の場はあたたかい。けれど、記録と統制の気配は静かに混ざっていく。

拍手の外で鳴っているものを、登場人物たちはそれぞれの距離で受け取ります。


本作はシリーズの完結編として、「三つの終わり」を意図して設計してきました。ファーストエンドは「打切」。セカンドエンドは「臨界」。

そしてグランドエンドは、さらに大きなスケールで描きます。


観測は欠け、広報は上書きし、それでも線を引く者は立ち止まらない。

終末の手前で、描いた線はなお熱い!

『描線眼鏡 または終末の情熱』、どうぞ最後までお付き合いください。

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