三話
打ち間違い等があったら、注意お願いします。
トロリとした黒い世界から、徐々に引き上げられる。臍から伸びる糸を、水上の誰かが引っ張っているような、そんな感覚だ。臍の糸で釣られている。
夢を見ていたような気がする。かなり良い所でブッツリと切られた様な気もするが、良く覚えていない。そうだ、それが当たり前だ。
少し、安心した。
「――――――、くりして―――さい」
「いえ、――――ので、――――――――ます」
話し声が聞こえる。階下からだ。
母さんと、もう一人、家族じゃない誰か。お客さんかな。
あぁ、そういえば、帰ってきた母さんに起こされなかった。縁や父さんが引き留めてくれたのだろうか。後でお礼言わなきゃな。
兎に角、今、下に降りていってその客と顔を会わせると面倒だ。しばらく、布団の中でうとうとしていよう。
トロトロとした黒い微睡みの中に、また潜り込む。
「――――――、」
会話が止まった。
再び糸を引かれた様に感じて、眠気でコロコロとする目元を擦る。薄ぼんやりと目を開いて部屋の外に集中すると、感覚が鋭敏になった様な気がした。
「…………」
誰かが、俺の部屋に向かって歩いてきている。静かな足音。ただし、俺に気を使っているという訳じゃなくて、普段からそういう歩き方をしているのだと解る。
家族の誰でもないだろう。縁と父さんは静かだとしても気を使った歩き方になるだろうし、母さんには『し・ず・か』の三文字はどこにも無い。
残る選択肢はお客さん。一体誰だ? 俺の部屋に向かってきているという事は俺の知り合い……。
……いや、待てよ。その客は俺じゃなくて、もっと先の部屋に用事があるのかも……。
駄目だ、俺の部屋の先には納戸しかない。納戸の中の何かに用があるとすれば、家族の誰かが必ず一緒についてくるだろうし。
足音は俺の部屋の前まで来て、停止。
ほら、来てしまった。一体誰だよ。
「、」
がチャリ、と取っ手が降ろされる音。おい、ノックもなしかよ!?
咄嗟に布団を引き上げて、枕に顔を埋めた。ヤバい、心臓がめちゃめちゃにバクバクして、今にも口から飛び出て破裂しそうだ。
誰だよ! 本気で誰なんだよ!? てか何で俺、こんなにドキドキしてるんだよ!
「顔を出しなさい。寝てるふりなんて、よしなさい。起きてたのチラッとだけ見えたわよ」
誰だ――……え?
「――――――え、」
布団から目だけを出す。
「エルナ……?」
「そうよ、私じゃ悪い?」
つんけんした態度。エルナって、こんな物言いをしたっけ?
でも良く通るメゾソプラノは、朝、ぶつかった時に聞いた物と確かに同じだ。廊下の照明で、暗い俺の部屋の中からだと逆光になって見えるが、ふわふわのツインテールも、少し高めのスタイルも、ちゃんとエルナの物だ。
なんでエルナが俺の見舞いなんかに……あ、これって見舞いだよな。俺の部屋まで来ておいて、見舞いじゃない訳ないよな?
「暗いわね」
そう言ってエルナは俺の部屋の電気を点けた。めっちゃ眩しい。俺、暗い方が楽なんだけど。今までずっと暗い所にいたから、目が明順応してくれなくて、痛い。病人の俺の状態は無視ですか、エルナさん。
まぁそもそも、病気ではないのかもしれないけど。
ゆっくりと体を起こす。
「何でお前が、って顔してるわね。何よ、来ちゃ悪いの?」
「悪くはないけど……」
そんな突っかかってくるなよ。幼馴染みとは言え、数年もろくに遊んでいなかった奴が突然俺の部屋に来たらびっくりすりだろ、普通に考えて。
エルナはふん、と鼻を鳴らし、俺のベッドにどっかりと腰を下ろす。俺も襲う気は無いし幼馴染みとは言え、男のベッドに座り込むとは、大胆を通り越して図々しさが見える。
「私じゃ悪いのかしら?」
「だから悪くないってば」
「そうね、環は高階さんに来てもらった方が嬉しかったのかしら」
「高階?」
何でアイツが出てくるんだ? たしかにお見舞い品とか大量に持ってきてくれそうだけどさ。
大体、高階は俺ん家の場所を知らないだろうから、期待なんてしてない。
って言うか、倒れて自宅の自分の部屋で寝ているぐらいで見舞いを希望するほど、寂しがり屋じゃないし。入院中とかは逆に、誰も来てくれないと寂しいだろうけど。
「仲良いじゃないの。今日だって、一緒に登校してきてたでしょう」
「見てたの?」
「えぇ、まぁ」
と言って、軽く目を閉じる。睫毛、長。
じゃなくて。
今朝の話だよな、それしか無いし。
どっから見てたんだろう。俺よりも先に教室にいたから、教室の窓からだろうな。
そんな事をまさかここで弄くられるとは思っていなかった。
ん、それを持ち出してくるって事は、俺と高階が一緒に登校していた事が気になってるって事だよな。おぉ、ひょっとして。
「ヤキモチ?」
「…………」
うわうわうわ! めっちゃ呆れたって顔された!
体を起こした俺とベッドに座っているエルナとはそう目線の高さは変わらないのに、わざわざ頭を仰け反らせて見下される。
「馬っ鹿じゃない?」
はい、その通りだったみたいです。
その表情と声の組合せが、グサグサと俺のピュアハートを抉る。ピュアだとかピュアじゃないとか、そこら辺の突っ込みは控えてくれ。
タイムマシーンがあったなら数秒前に戻って、俺の口と言わず、頭ごとガムテープでぐるぐる巻きにしたい。
すっごく恥ずかしくなってきた。エルナの目を直視出来ない。顔が熱い。
「馬っ鹿じゃないの?」
二ー度ーもー言ーわーれーたー!!
思わず枕に突っぷする。致命傷を火箸でぐりぐり掻き回された気分。痛い、痛いです。
「貴方は頭の螺と言う螺が緩んで錆びて朽ちているのかしら? 本当に阿呆ね」
エルナの声が思ったよりも間近で聞こえた。枕にうつ伏せになっている俺の、後頭部辺り。
ついでに言うと、耳の横で軽やかな衣擦れの音もする。
「小さい頃から何処か抜けている子だとは思っていたけれど……まさか、まだ直っていないとはね」
ど、どういう状況?
恐ろしいけど、振り返ったら恐ろしい事になっているというのは分かってるんだけど。
でも振り返らないとそれはそれで気になるって言うか。とにかく、振り返らずにはいられない。
位置はそのまま、目線が上を向くように首を回す。
「エル……ナ……」
「誤解の無いように言っておくわ」
甘い息。直前に飴でも舐めていたんだろうか。それとも、俺の勘違い?
エルナが言葉を発する度に、甘い香りの吐息が頬を擽る。
「私は朝、窓から皆の登校姿を見下すのが趣味なの」
見下すのが趣味って……本気だろうか、冗談だろうか。
「尾崎君だって見てるわ。彼はクラッシュタイプの蒟蒻畑を飲みながら来ていたわね」
細かい事まで覚えていらっしゃるようです。
「つまり、見ているのは貴方だけじゃないのよ。再度言うけれど、誤解の無いようにね」
誤解をかけられるのが嫌なら、もっと酷い誤解を生みそうなこの体勢は止めておいた方が良いんじゃないかな、エルナ。
「近いよ、エルナ」
「そうね、近いわ」
エルナの顔が間近にある。
垂れてきた髪が俺の頬にかかって、くすぐったい。その髪一本一本からも甘い香りがする。
あぁ、目眩がする。
エルナの両手は俺の顔の両サイドにつかれている。
微動だにできない緊張感。何故か動いてはいけないような気がする。
エルナの目には呆然とした俺の顔が写っていて、そんな景色に吸い込まれそうになる。
「近づいてるもの」
エルナがゆっくりと言い含めるようにして言葉を紡ぐ。
この状況、傍目から見れば、俺がエルナに襲われているように見えるんだろうな。
ここで誰かが来て、勘違いをしたまま去っていくのも一つのお決まりのパターンだけど、実際に俺がそれにかかってしまったらと思うと、寒気が収まらない。誰も来るなよ、特に母さん。
でも、寒気<男の意地。
襲っちゃって良いんですか?
そっとエルナの頬に手を伸ばす。
「――――――……」
もうすぐ、手が、エルナの白い肌に触れる――――――
「ほら、こうやってすぐに付け上がる」
エルナがあっさりと身を引いてしまう。
何それ、ただの嫌がらせじゃん。期待させるだけさせておいて!
「こんな所でやる訳無いでしょう。下には貴方の家族がいるのよ?」
再び見下しの姿勢。
「しかも、相手が貴方なんて」
ぐさぁ。
「もう寝る!」
同じような失敗をこの短時間で二回も繰り返すなんて。さっきまでの俺はきっとどうかしていた。
エルナに背中を向けて頭まで布団を被る。もうエルナに何をされたとしても、絶対に顔は出さないことにしよう。
どんな失敗をするか、分かったもんじゃない。
「少し、遊びすぎたかしら」
エルナがぽつりと呟く。
少しどころじゃなく遊びすぎだよ! 俺、もうボロっくそだよ!! だからもう、帰ってくれ!
ガサガサと何かを取り出す音。エルナの鞄からだろう。もし俺の鞄だったら恐ろしい。エルナならやりかねないが。
やがて紙が擦れ合う耳障りな音と共に、鞄から何かが取り出される。
「これ、あげるわ」
枕元に荒々しく置かれる。
目だけ覗かせるとそこにあったのは、有名書店の紙袋に包装されたハードカバーの本が二冊。それもかなりの分厚さだった。
紙とインクの匂いが強く漂ってきて、思わず顔をしかめる。
「俺、本嫌いなんだけど」
「文句言わないの。見舞品なのよ。ありがたく受け取りなさい」
こんな見舞品いらない。
と、喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込む。
言ったらグーで殴られそうな予感かしたから。だって、今まで以上にエルナの眉間に皺が寄ってるし、今まで以上に目が据わっているし。そんな女子に俺が逆らえる訳が無いじゃないか。
草食系男子。肉食系女子。弱肉強食。つまり、俺<エルナ。
「ノルマは?」
「三週間」
口に出して言わないけど、無理。
本嫌いで、課題の読書感想文もア〇ゾンのレビューから引っ張ってくるような俺に? このクソ分厚いハードカバーを? 三週間できっちり読みきれと?
地球を逆回転させろと命令しているのに近い。
「そういうことよ」
どういうこと?
「じゃあ、私はもう帰るわ」
流れるような見惚れる美しい動作で立って、引き留める間もなく、来た時と同様に静かに去っていくエルナ。
「一体、何だったんだ?」
二冊のハードカバーと、甘い香りを残して。
短い話……ぶっつけ本番もいい加減にした方がいいでしょうか……