ハリカガミ様は死者を呼ぶ
背後のドアを誰かが叩いた。椅子に座ったままA太が振り返ると、閉じたドアを挟んで階段の踊り場にいる姉が、部屋の中に向かって「ちゃんと勉強してる?」と優しく声を掛けた。
「してるよ」
A太は嘘をついた。受験勉強にはしばらく手を付けていない。
今は八月で、姉が実家に戻って来ていた。姉のI莉はA太の二つ上、大学生だった。
昼も夜も関係のないことだ。受験勉強をサボって毎日毎日、A太は自室のパソコンで動画サイトを見て回っている。外は酷暑だが閉め切った部屋はエアコンが利いていて、蝉の鳴き声がかすかに室外機の騒音に紛れつつ窓越しに聞こえてくる。現実逃避か、単に気ままなだけか。ともあれ、A太のネットサーフィンは終わることを知らない。
その年の夏、有名無名を問わず動画配信者の間である種の肝試しが流行っていた。夜中に人のいない空き地や公園に集まり、グループ全員で「ハリカガミさん、ハリカガミさん。よろしければお話し下さい」と目を閉じて呼び掛ける。すると、「わかった」とか「いいよ」とか短い返事が返ってくることもあれば、大抵は何も起こらず、風が吹いたり誰かが通りかかったりするのを怪奇現象と言い張る羽目にもなる。
A太が見て回っている動画群のほとんどは、その肝試しについての動画だった。特に再生数が多い人気のある動画などは、何度見ても飽きることがない。
元々はとある小説投稿サイトで話題になった実話風ホラー作品が流行の発端だった。匿名の作者が実体験をもとに書いたという体の連載小説だ。ホラー好きなインフルエンサーがSNSで好意的な紹介をした事で作品人気が出始めてそれから十日ほど経った後、ぱたりと小説の更新が止まった。作者とその周辺の人々が見舞われたという数々の怪奇現象の謎の真相にいよいよ辿り着くかと思われた頃だったのだが、最新の話数、つまり最後に更新された回のあとがきで、「大変なことになりました、もう無理なので諦めます。ごめんなさい。」と意味深なコメントを残し作者が失踪してしまったのだ。有名インフルエンサーをはじめ読者の誰も作者とコンタクトを取れず、続きが書かれる事は望めそうにないまま、ネットのどこからかとある噂が立ち、広まった。それは作中にて紹介されていた儀式を再現するというもので、成功すれば死亡した(とされる)作者と話ができるという噂だった。その儀式こそが、「ハリカガミさん」に集団で呼び掛ける肝試しだった。
A太が普段からよく見ている配信者たちも例に漏れずその肝試しをやってみたと称し、次回の動画内容をSNS上で告知した。ホラーやオカルトを得意ジャンルとしている彼らは“さらじゅうまいず”というグループ名で活動しており、いつも流行に沿った内容で話題性のあるテーマを扱った動画を出していた。今回は少し遅かったな、とA太は思った。
動画投稿タイミングが遅れたのには理由があった。告知には「ハリカガミさんの儀式、実は別のやり方があることを皆さんはご存知ですか!?」とある。それを見てA太が思い出したのは、他の投稿者の動画に書き込まれたとある視聴者コメントだった。
「元の小説にあったやり方でやってみてほしいです!」
その動画自体に特筆するべき内容はなく、怪異らしい怪異も発生しなかった。そのことに不満を感じた視聴者によるコメントだろう。元になったネット小説では、ハリカガミさんに呼び掛ける儀式の内容が流行りの動画群とはだいぶ違う。少しばかり手間のかかるものだった。実は、ハリカガミさんの儀式を流行らせる切っ掛けを作ったのはA太だったのだが、ネット掲示板に噂として書き込む際、誰でもやりやすいように工夫して儀式の内容を変えてみたのだった。
“さらじゅうまいず”の告知で言及された「別のやり方」とは、きっと元の小説にあった方法のことだろうとA太は考えた。それには鏡を用意する必要がある。空き地に複数人で集合し呼び掛けるだけのやり方を広めたのは、手順が簡単かつ何人かで集まる方が動画投稿者の間で流行りやすいだろうというA太の思惑によるものだったのだが――まあ、いいだろうと、A太は思った。一通り目ぼしい動画は出切ったし、このまま流行が終息するよりは新たな形で続いてくれた方が面白い。元の小説の作者が少なくとも表に見える活動を絶って失踪しており、ともすれば本当に死去しているかもしれないと噂が立っていることはA太にとってどうでもいい、関係のないことだった。
A太の胸は知らぬうちに高鳴っていた。新たな展開が見られるかもしれないという期待の中で、もはや元の、彼自身が広めたやり方による動画群への興味をA太は失っていた。蝉の声を尻目にパソコンの電源を落とし、手元に得意科目の問題集を引き寄せた。“さらじゅうまいず”が予告した動画投稿時刻は次の日の夜だった。それまではだいぶ時間がある。何もしないでいる時間に耐えられそうもなかったので、A太はしばらくの間手を付けていなかった受験勉強に舞い戻ることにした。
「A太」
また、姉のI莉が部屋の前にやって来た。「勉強中!」とA太が答えると、笑いと共に「どうせ始めたばっかりでしょ」とI莉が言う。ぎくりとしてA太は手を止めた。
「あの流行してるやつ、ハリカガミさん。広めたの、あんたでしょ」
「姉さん」
何か咎められるのではないかとA太は思ったが、姉の思惑は全く違った。
「A太もやってみなよ。それも……原作通りがいいんじゃない? きっと面白いでしょ」
A太をブームの震源と当ててみせた姉の洞察に驚きつつも、提案自体に逃れがたい魅力を感じたのは紛れもなく事実だった。返事を待たず、「食事だってよ」I莉はそう言うと、階段を下りていった。
いつだったか、姉からは、あのネット小説は全て作り話だとA太は聞かされていた。A太自身も本当は怪奇現象などあるはずがないという考えを持っていた。だが、もし真実は違うのなら、と嫌な想像をしたことがないといえば嘘になる。幾度かはその実在を信じそうになったことも確かにある。だからこそ、否定と肯定の相矛盾する観念に揺り動かされ、I莉の提案に乗ってみることにしたのだった。それで何が起きようと、あるいは何も起きなくとも、A太の好奇心は満たされるだろう。
午後からは雨の予報だった。“さらじゅうまいず”による今夜の動画投稿がなされる前にA太は儀式を試すつもりだったため、近くの店で必要な道具を購入した。手鏡を二枚。それらを背中合わせに家にあったテープで持ち手の部分をぐるぐる巻きにし、貼り合わせる。これで両側が鏡面となった。試しにA太は手鏡をくるくる回しながら鏡面を覗き込んでみたが、部屋にある私物とA太の顔が揺れて見えるだけで、特に変わったものは映らない。
姉のI莉こそが失踪した小説投稿者だった。A太はそれを知っていて消えた作者と儀式によって交流できるという噂を広めたし、I莉も途中までで完結を諦め更新を放棄した負い目から噂の広まるのを放置していたのだ、と少なくともA太は理解していた。ところが今日、I莉は姿を見せなかった。A太は元の小説に忠実に、という姉の注文を破ろうとは考えもしなかったものの、肝心要の原作者がせっかくの儀式に立ち会わないことについては内心不満を感じていた。
日はすでに落ちていた。カーテンを閉め切って電気を消し、部屋を暗くした。当然、ドアも閉じてある。最後まで儀式内容の確認用に点けてあったパソコンの電源を落とし、部屋に一人、A太はよく片付けた床の真ん中に腰を下ろした。正座するA太の周りには複数の小型懐中電灯を等間隔に、一つの輪を描くように並べてあった。それぞれ床に伏せて点灯し、事前に準備した「張り合わせ鏡」を手に持った。これで全て用意は整った。
「ハリカガミ様、ハリカガミ様……」
口で呟きながら、A太は自作の「張り合わせ鏡」の柄を手のひらに挟み込んだ。両手を合わせて拝むように、くるくると鏡を回し始める。鏡にはまだ、妙なものは映らない。二つの鏡面は互い違いにA太の顔を映した。ハリカガミ様に呼び掛けつつ、一旦A太は両目を閉じた。薄暗い部屋の中で、滑稽にも思える姿だが、A太は手のひらを動かし続ける。
元の小説では、周りに立てた懐中電灯が一つでも倒れたら成功、そうでなければ失敗で、失敗の場合はハリカガミ様は応答せず何も起こらない。小説の中で行われた儀式は失敗し、危機が迫っていた登場人物たちは別の新たな行動を強いられた。ハリカガミ様の儀式についての話題は、作中においてそのままフェードアウトした。
「ハリカガミ様、ハリカガミ様……」
外では大雨が降っている。にもかかわらず、次第に、雨粒が地面を叩き続ける音はA太の耳に入らなくなり、自分自身の声だけが暗闇の中で響くような気がする。長い間正座を続けたせいで足の具合が悪くなってくるのを誤魔化すように体を揺り動かした。すると、膝が何かに当たった。硬い床に倒れる音。そっと目を開けると、懐中電灯の一本が光を放ちながら倒れていた。手を止めず、A太が鏡に目をやると、灯りを乱反射して眩しく、しかし、何かが変だと思い、動く鏡面から目が離せなかった。
よく見てみると、鏡に映るA太の顔が、A太に似た別人のように感じられた。どきりとしつつも手が止められない。途中で止めたらどうなるか、A太には分からなかった。だから続けるより他にない。回転し、移り変わる背中合わせの二つの鏡をのぞいていると、次第にA太の顔が変化していった。片方の鏡は元のA太のまま、もう片方では別の顔。輪郭が歪み、髪がだんだんと伸びていく。A太のよく知る顔が見える。奇妙な現象に目を奪われていると、外で大きな雷がどかんと落ちた。地響きと同時に稲光がカーテン越しにぱっと輝く。驚き身を震わせると、A太はうっかり「張り合わせ鏡」を取り落としてしまった。
ふとA太は我に返り、立ち上がった。ハリカガミ様、と呼び掛ける彼の声は鏡を落とした瞬間に途切れて、口をだらしなく開けたまま、部屋を明るくしようと電気のスイッチまで手を伸ばす。静かだった雨音はいつの間にか元に戻り、部屋の中でもざあざあとよく聞こえるようになった。
明るくなった部屋で、A太は鏡を拾い上げた。鏡のどちらの面を見ても、儀式の前に確認したときと同じで異常はない。先ほどの異変はただの幻だったのか、と安堵しつつもA太の心の片隅では落ち着かない何かが蠢いている。それを無視しようとしてか、一心に部屋を片付けていると、ドアをこつこつと叩く音がして、A太は再び身を震わせた。
ドアを開けて、「飯だぞ、早く下りてこい」と顔を覗かせて催促したのは父親だった。幾度か階下から呼んでも反応が無かったため、息子を直接呼びに来たのだった。
「何をしていたんだ」
彼は以前より少し痩せた顔で息子の部屋を一瞥して、「A太。大変だろうが、大学受験はきちんとやった方がお前のためにも良い。悩んでいるなら父さん母さんどっちでも、相談してくれれば」と言った。A太が一言「大丈夫だから」と言うと、困ったように顔を伏せ、A太の父親は先に一階へと戻っていった。
その後夕食を済ませ、自室に戻ったA太は“さらじゅうまいず”の予告した動画がちょうどアップロードされている頃だと思い出し、急いで動画サイトにアクセスした。流行りとは別の方法で儀式をするという告知だけでは姉のI莉がネット小説の中で書いたやり方なのかは分からなかったが、A太が動画の再生を始めるとそれはすぐに判明した。動画の中でグループのリーダーが説明するのを聞けば、やはり、A太の考え通り二枚の手鏡を張り合わせたものを使う同一の方法だと分かった。
動画は進み、いよいよ儀式の様子が収められたパートが始まると、A太は自身の心拍数が上がるのを感じた。“さらじゅうまいず”が借りた暗いスタジオの中で、儀式の実行役以外が退出する。現場では複数の固定カメラが回っており、暗視機能で儀式の様子は暗い中でもしっかりと撮影されるようだ。恐怖を煽る演出の後、儀式は始まった。A太がしたように、元の小説に忠実に、ハリカガミ様と繰り返し口に出して呼び掛けながら実行役は手鏡を動かした。時間が進む。すると、なぜかひとりでに、実行役を取り囲む懐中電灯の一つが音を立てて倒れた。幾つかの角度からその瞬間を切り取った映像が繰り返され、「懐中電灯が勝手に倒れた!」とテロップが表示される。ぞっとするA太を尻目に儀式は続き、動画は佳境に入った。
何か変なものが映っているようだ、と鏡にクローズアップしていく。儀式の実行役の他には誰もいないはずのスタジオだが、鏡の中にもう一人、「見知らぬ女性の姿」があった。実行役の肩越しに、はっきりとは見えないものの鏡の中にだけ映り込む何者かの姿はしかし確実に動画に収められていた。さらに異変は続いた。小さな低い声が、ハリカガミ様に呼び掛けるのとは別に録音されていた。儀式をしている間は“さらじゅうまいず”の誰もそれに気づかず、後になって編集スタッフが怪しい音声に気づいたのだと動画の中で説明される。その声は、――
物音がして、背後に父親が立っていると気づき、A太は振り返る。いつの間にか部屋に入って来ていた父親はパソコンの画面には目もくれず、悲しそうな顔をして、椅子から見上げる息子に声を掛けた。
「本当に大丈夫か?」
父親が息子のA太の事をひどく心配しているのは誰の目にも明らかだった。
「食事中、お前ずっと上の空だったじゃないか。明日の支度もまだできて……」
彼は途中で口をつぐんだ。何の事かよく分かっていない様子の我が子を見て、迷っているようだった。
「辛いなら、無理に行かなくてもいいんだぞ。I莉の四十九日、明日は暑くなるというし……」
A太は雷に打たれたように、椅子から突然飛び上がった。どっと汗をかきながら父親を部屋から退出させると、ドアを閉め、自らを落ち着かせるようにベッドに飛び込んだ。点けっぱなしの画面からは“さらじゅうまいず”の動画が終わる頃の挨拶が流れ、少しして部屋は静かになった。
炎天下、蒸し焼きになりそうな空気の中で、何人かの親族と共にA太と彼の両親は日陰の遠さに辟易としながら、丘の上の広大な墓地に集まっていた。前日の大雨が嘘のような雲一つない晴れの日だ。姉の納骨を済ませ僧侶が読経するのを待つ間、A太はぼんやりと立ち尽くしていた。汗さえも焼き尽くす耐えがたい暑さと同時に、どういう訳か得体の知れない寒気を感じていた。どこからか線香の匂いが漂ってくる。
I莉は確かに死んでいた。A太は記憶を手繰り寄せ、姉に何があったのか思い出そうとした。なぜ彼女が書き続け、人気の出るままに投稿していたネット小説を途中で打ち止めにしたのか。A太は理由を知らなかった。生前の彼女は、自分が書く物語は完全に作り話だと言っていた。A太が作中の儀式を広めたのも、その事を覚えていたから気軽にできた事のはずだった。ともかく、I莉が途中で飽きたのか、話の展開を思いつかなくなったのか、それとも何らかの恐怖に襲われたのか、今となっては誰にも分からない。確実に言える事といえば、未完結の宣言をネット上に残したその翌日に、I莉が家近くの道端で急死した事のみだった。
どういうわけかA太は父親に言われるまで姉の死を失念していた。そのうえ姉と何度も、部屋のドア越しに会話をした記憶がある。昨日ハリカガミ様の儀式をやってみたのも、I莉がドアの向こう側からA太を唆したからだった。自分が死者と話をしていたのだとしか思えず、A太は身震いした。
四十九日の法要が終わり、家族がそろって帰宅したのは黄昏時だった。西日の眩しさに目を細めながらの帰路だった。
自室で着替えるため階段を上がるのに、足元がふらつくような、普段よりも少しばかり繊細な神経が要求される感覚にA太は陥った。手すりに体重をかけて寄りかかり、息を整えるうちにその感覚は遠ざかっていく。めまいにも似た感覚で、熱中症にでもなりかかっていたのかもしれないとA太は考えた。すぐに体調は回復したのでそのまま自室へと向かう。
一家の姉弟の部屋は階段の踊り場を挟むようにして向かい合っていた。A太の部屋と違い、姉の部屋はその主の死からずっと窓もドアも閉め切られていた。言いようのない不安感から、A太は向かいのドアから目を背けるようにして自室のドアノブに手を掛けた。
「こんにちは」
背後からはっきりと声が聞こえた瞬間、反射的にA太は振り向いた。姉の声が間違いなく、A太を呼んでいた。
「姉さん……?」
思わず返事をしてしまったものの、いるはずのない姉は姿を見せず、A太の不安は増大した。思い切って向かい側の閉じられたままだったドアを開けてみるも、部屋の中は空っぽだった。声の主はどこにもいない。ただ一言、「こんにちは」と聞こえたことが、その夜のA太を苛み続けた。
それからしばらくの間、動画投稿サイトでは“さらじゅうまいず”に続くようにしてハリカガミ様の儀式を元の小説の通りに行う投稿者が続出した。動画の中で異変は必ず起こり、それに伴ってA太の姉は日々ドア越しに語り続け、饒舌になっていった。
ある日、A太が洗面所で歯を磨いていると、自身の体が鏡では薄く透けて見えることに気がついた。目を擦ってよく見ると何も問題なく見えるのに、またしばらく経つと実在感が目減りして今にも消えてしまいそうな気がしてくるのだった。
A太は姉のことを親に話せないでいた。A太にしか聞こえない姉の声は、まるで闇夜に広がる霧のように彼の心に深く沈み込み、消えないどころかしつこく染みつくままだった。特に「おかげで戻って来られた。ハリカガミ様を噂で広めてくれてありがとう」という言葉はA太の心を震撼させた。
歯を磨き終えたあと、A太が自室ではなく居間で休んでいると、父親が心配して声を掛けた。A太はここ数日、自らの部屋にいる時間を減らして居間のソファの上で縮こまっている事が増えていた。父はこう言った。
「大学の事で悩みでもあるのか、」A太が黙って首を振る。「I莉」
A太は固まった。姉の名で彼に対して呼び掛けた父親は何も気づいていない様子で、「今日は早く寝なさい。お母さんと三人で明日話し合おう」と言う。
A太は逃げるように階段を駆け上がった。姉の部屋から聞こえてくる、もはや念仏に近い抑揚の早口な声を耳を塞ぎ聞かないようにして、自室に飛び込む。このままでは死んだ姉と自分が入れ替わってしまう、とA太は思った。めまいのような感覚はずっと続いていた。慌ててパソコンを立ち上げ、椅子に座る手間も惜しんで中腰になって、以前A太が儀式の噂を広める足掛かりにした掲示板へとアクセスした。はじめからあんな噂など書き込まなければよかった、誰かが儀式をすればするほどI莉は存在感を増していく、だからもう止めさせなければならない――そう考えて、A太は新たにそれらしい噂を広めるため、ハリカガミ様の儀式をしてから大きな不幸が訪れた、という内容の書き込みを複数のIDを用いて行なった。
A太の思惑は外れた。書き込みを信じてもらうどころか、誰も真面目に受け取らない。あるいは、面白がって更なる儀式を焚きつけるような書き込みが続く。一度ついた火はいくら止めようとしても無駄だと悟るのにあまり時間は掛からなかった。
苛立ちを覚えA太は再び階下に向かった。玄関に違和感があったので目をやると、なぜか自分の靴が消えている。代わりに、I莉が動きやすいからと好んで履いていた赤いスニーカーが一足、ぽつんと揃っていた。
居間に戻ると、両親がソファに並んで座ってテレビを見ていた。ただそれだけではなく、手前のダイニングテーブルの椅子に死んだ姉が陣取っているのをA太は見てしまった。三人は普通に談笑している。何事もなかったかのように、ただしA太には誰も気づかない様子で会話は進み続ける。A太の体から血の気が引いていく。声を掛けようとも、恐ろしくてできなかった。会話の内容は、テレビ番組の出演者に関する他愛のないものから、A太に関する事へと移っていった。A太が死んで寂しい、というものだった。
その後、家から姉の気配は数日間消え去り、父も母も目の前のA太を普通に生きているものとして実際に認識し、A太はほっと安心した。しかし安心は長く続かなかった。さりげなく一家に発生した異変の事を尋ねても両親共に心当たりがないという風だったのだが、またある日を境にI莉は舞い戻ってきた。そうなると再びA太は誰にも気づかれなくなってしまう。死んだものとして扱われた。互い違いに入れ替わる二枚の鏡のように何度も変化が起き、その度にA太が“生きている”期間は短くなっていった。
A太は勉学に励むようになった。そうしている内は何もかもを忘れ去る事ができるからだった。今更勉強しても、もう遅いというのに。