<四>
――農場体験のために泊まりに来たみたい。
縁側で風にあたりながら美遥は思った。
あたたかい島の印象はその晩、美遥の歓迎会になっても変わらなかった。
葉二郎たちの住居は広く、彼らの生活の場に加え、寄合や宴会に使われる広間を備えている。その広間には今や島民がひしめき、卓上には色とりどりの料理が並んでいた。
事前の情報通り、島民は年配者が多い。美遥と年かさが近い者はリョウたちを除くと一人の女性のみ、若い者となると女性の腕の中におさまっている少女くらいのものだった。ほかは親、あるいは祖父母世代ばかりで、故にか娘孫に対するかのような、慈しみのこもった眼差しで歓迎してくれる。ありがたい反面、話の流れが年長者特有の不穏なものになるのも自然なことで、敏感に察知した美遥は飲み過ぎたふりをして縁側へと逃げ出していた。
「もうアンタもいい歳なんだから結婚を――」「東京に誰か良い子はいないのか――」「ハルちゃんは正直どうか――」。漏れ聞こえるそれには気が付かなかったことにして、代わりに捕まったリョウに心の中でだけ合掌する。同じく逃げてきたらしい、苦笑しながらやってきたロウが隣に座った。
村上滋をシゲと呼ぶように、島民たちは美遥をハルと呼ぶことにしたようだった。顧客と思うとどうにも慣れないが、唯一の余所者である美遥に親しみを持って接してくれるのは素直に嬉しい。彼らの親愛に応えるような良い結果を残したいと意気込みを新たにしていると、酔いで緩んだ頭の一角から、こちらをひたと見据える視線が浮かんだ。そう、気になりつつも、まだ分からないものもある。
「えっとロウさ――、ロウ、あのね、」
程よい酩酊は遠慮と言葉の角を落としてくれる。「呼び捨てで良い、敬語もいらない」と彼らに望まれるまま、気づけば古なじみであるかのように話せている気がした。ロウは缶ビールを傾けながらちらと目線で続きを促してみせる。器用だなあと思った。
「カミサマのことは、聞いても大丈夫?」
内容は予想していたのだろう。別段その瞳に驚きの色は無かった。
――カミサマ。大真我見島を大真我見島たらしめる存在。
トレードマークとも言えるそれは、けれど島を案内されても不思議なほどに存在感がない。まわればまわるほど、ただの田舎に来たようにしか思えなくなっていく。祀る場所だってはじめに訪れた神社がひとつあるきりだし、他と言えばひたすらに田や畑、森に山林、そして海ばかり。その名が島民の口にのぼることもない。
「カミサマにご挨拶を」として神社で参拝して供え物を置きはしたものの、拝んだのはご神体として鎮座する鏡であって、こういうと不敬なのかもしれないが「生きていない」。伝説は伝説だったということだろうか。
美遥がそんな思いの丈を吐き出すと、ロウは「焦ることは無いと思うけれど」と前置きをしたうえでいくつか教えてくれた。
曰く、
カミサマはいること。
早晩会う機会はあるだろうこと。
カミサマを「何」とするかは、島民それぞれでも異なること。
「別に禁句でもない。仕事の合間にでも皆に聞いてみたらいいんじゃないか」
そう締めくくったロウに、「貴方だけのカミサマを見つけてね」と何かのキャッチコピーのようなものを浮かべながら、美遥は再度問いを投げかけた。
「じゃあ、ロウにとってはカミサマは『何』?」
「……化粧のノリ?」
婆さんが言ってた。
返された答えは、全く以て意味が分からなかった。
***
からかわれたのだろうかというモヤモヤを抱えながら初日の終わりを迎えた美遥は、けれどその未明、早速ロウの言葉を思い出すこととなった。
(……眠れない)
ぱちり。閉じていた瞼を開く。
勤務初日、大移動をしてきたこともあり身体は休息を欲していたが、緊張か、はたまたアルコールのせいなのか、布団に入ってから三、四時間もすると目が覚めてしまった。しばらく二度寝しようと頑張ってみたがどうにも難しく、諦めてのそりと身体を起こす。
目が暗闇に慣れてくると、カーテンの隙間から薄っすらと光が差し込んでいることに気が付いた。月の光だろうか。東京と違い、大真我見島にはマンションもオフィスビルもない。星がさぞかし綺麗に見えるだろうとカーテンの向こうに顔を出してみる。
果たして星は見えなかった。
雲が出ていたわけでも、鎮守の杜に遮られていたわけでもない。
星は確かに明るく瞬いていた。けれど、ついぞ美遥の目に入らなかったのだ。
美遥の視線は神社の参道、より苛烈な輝きを見せる「それ」に釘付けになっていた。
「それ」は一体何だろうか。
姿かたちは犬に似ている。しかし身体はふたまわりほど大きく、ともすれば熊に近いだろう。
人ひとりを乗せて走れそうな細身の体躯は長い毛に覆われており、色は白銀、目を焼くように発光するそれは、燃えているかの如く揺らめいていた。一面の雪の中にただふたつ、月を宿したまなこだけが金色の光を帯び、眼差しはこちらを見つめている。
目が、合った。
「――カミサマ」
思わず美遥がつぶやくと、獣――カミサマは肯定するように目を細める。
静かな瞳は不思議と恐怖を与えず、それどころかこちらの言葉を理解しているという確かな知性を感じさせた。
(あいさつを、しなきゃ)
転がるように部屋を飛び出した美遥は、音を立てないように階段を駆け下りパンプスを引っかける。
がらりと戸を開けば、夜の冷えた空気が身体を包み込んだ。カミサマは参道の中心に佇んでおり、近寄っても視線を遣るだけで動こうとはしない。美遥は半ば気が動転したまま口を開いた。
「あの、私はテンショウシステムズの木原美遥と申します。本日からこちらでお世話になります」
「……」
ぺこり。もし名刺を持っていたら差し出していただろう、身に沁みついた動作は、一呼吸おいて美遥に盛大な羞恥心を呼び起こした。パジャマにパンプス、寝起きのぼさぼさ頭で、動物相手に――おそらくカミサマとはいえ――一体何をやっているのだろう。そろりと顔を挙げれば目に入る金色にも、どこか愉快気な色が含まれる気がする。ぐる、と喉を鳴らすそれすら笑っているようで、美遥は不敬も忘れじとりと睨んでしまった。
「その……」
「ハル?」
穏やかな黄金を見つめたまま、どれほど時間が経ったのだろう。自分でも何が言いたいか分からないままに言葉を紡ごうとしたとき、不意に背後から呼び声がして、美遥は慌てて振り返った。見れば、起きたばかりなのだろう。眠そうに目を擦るリョウが戸口に立っている。足音で起こしてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい、うるさかったかな」
「いや、朝拝あるから起きただけだけど……どうしたのこんな早くに」
「その、カミサマが……あれ」
言いながら顔を戻せば、白銀は跡形もなく消えている。白昼夢――夜だが――でも見たかのようだった。
「カミサマ? ああ、会えたんだ。良かったね」
信じてもらえないかもしれない。一瞬身構えた美遥は、けれどふわあとあくびを噛み殺しながら、へえ大吉だったんだおめでとう、くらいの気軽さで返されたそれに拍子抜けしてしまう。待ちわびていたカミサマとの邂逅は、島民にとっては気張るほどのことでも無いようだった。
神社からは西海岸が望める。気付けば水平線は微かに白み始めており、山に遮られた東から、間もなく日が昇るだろうことが察せられた。思いのほか、時間が経っていたらしい。
ロウの言う通り、カミサマは居た。白銀の獣が自らをカミサマと名乗ったわけでは無いが、不思議と、彼こそがそうであるという認識は、確固たる事実として美遥の中に焼き付いた。
けれど「何」であるかは分からないままだ。きっとこれからも会う機会があるだろう。島民と交流しプロジェクトを進行する傍ら、より深く知っていけたらと思う。
カミサマへの挨拶、そして朝拝の手伝いから、美遥の大真我見島生活二日目がはじまった。