<二>
がたん。フェリーの揺れに、美遥は大げさに肩を震わせた。今日は行楽日和だが、船上は風が強くやや肌寒い。一月前の回想から顔をあげ、先ほどより幾分近づいた有名な建造物を眺めながら、冷えた腕をさすった。あの後は色々と大変だった。
大隅の言った通り、驚くのは『ここから』だった。現地チームは現地とは名ばかりで、実際に島へ赴くのはたった一名、あとは日々ビデオチャット等で連絡を取り合うというのだ。通常であれば少なくとも二人は常駐するはずのそれが、けれど成り立ったのは、大真我見島だからこそだと思う。白羽の矢が立ったのは当然の如く美遥であり、秘密保持契約書に出向契約書、その他入島するにあたり必要なあまたの書類へとサインさせられたのだった。
フェリーを降り改札を抜けると、開けた場所に出た。「固島へようこそ」の文字が踊るモニュメントの前で記念撮影をする人、帰りのフェリーの時間を確認する人、タクシーを呼び留める人。美遥はその他大勢の、一方向に歩いていく人々と同じ進路を取る。やがてアスファルトが途切れ砂利道になると現れた鳥居をくぐれば、参道に様々な店が目立ち始めた。営業開始前らしいそれは、けれど文字の羅列だけで早朝にパンをかじったきりの胃袋を刺激する。美遥は休みが取れたら観光しようと心に決めた。
固島――世界遺産たる神社を有する著名な観光地であるこの島は、美遥と、それからこの後訪問する顧客――クライアントにとっては大真我見島への中継地点だ。諸般の事情から、大真我見島と本州の行き来の際は大抵ここを通るらしい。さながら国交のない国への観光ルートのようだった。
南国のような色合いを見せる海を横目に、ラフな T シャツやサンダルをまとう観光客の間を縫うように進む。本殿の前では立ち止まることを許さないほどの密度だった人の流れは、廻廊を抜け分散したために大分緩やかになっていた。パンプスの中に入った砂を気持ち悪く思いながら海岸を進めば、飲食店や施設と離れるからだろう、ますます人の気配は薄れていく。反比例するように徐々に姿を色濃くしていく緊張に気づかぬふりをして更に行くと、やがて時代を感じさせる、小さな波止場が見えてきた。一隻のモーターボートが係留している。その隣には屈んだ男性の後ろ姿があった。
午前十時。指定された時刻より幾分早いが、迎えはもう来ているようだった。
「お待たせしてすみません、テンショウシステムズの木原美遥と申します。あの、村上さまでしょうか」
「おん?」
キャリーが邪魔で上手く走れない。ガタゴト言わせながらなんとか駆け寄り、後ろ姿に声をかける。と、何やらくぐもった応えが聞こえた。
青いキャップに無精髭、T シャツに吊りズボン、そして長靴を身に着けたいかにも海の男然とした中年男性は、何やら串をくわえてもごもごとさせている。先ほどは見かけなかったが、どうやらこの時間から開いている店もあるらしい。揚げ饅頭を頬張っていた。
「ふががひっへ」
「あの、どうぞ召し上がってからで。すみません」
出鼻をくじかれた美遥は男性を急かさぬよう、視線を海へと向けることにした。
水面には板のようなものが沢山浮いていた。遥か向こうには、フェリーで渡ってきた港が見える。大真我見島はこの島の東に位置するから、西海岸側に相当するここからはまだ見えない。件の複雑な潮流も、少なくとも素人目には分からなかった。
眺めながら、気付かれないくらいに小さく息を吐きだす。想定と違うファーストコンタクトのおかげで、強張っていた肩の力が抜けた気がした。
(大隅さんもみんな優しい人たちだって言ってたし……だいじょうぶだいじょうぶ)
大真我見島の人々は漁業と農業を中心として生計を立てているとは資料に記載があったものの、やはりカミサマと共に暮らしているという印象が強い。ぼんやりと何かの漫画でありそうな、巫女服に狐面を付けた人が昔の合戦で使ったような船でやってくるイメージを持ってしまっていた。芸能人が田舎に泊まる系バラエティでよく見る普通のおじさんで良かった。
「で、ええと、キハラ、さん?」
「はい、テンショウシステムズの木原美遥と申します。よろしくお願いいたします」
「村上滋です。よろしくお願いします。しっかし、いきなりかっこつかねえなあ」
「いえ、そんな」
無事に食べ終えた村上は頭を下げて名刺を受け取ると、照れたように笑う。髭といい格好といい、一見するといかつく見えるが意外と親しみ易い人柄なようだ。美遥にボートへ乗り込むよう促しつつ、それなりの重さのキャリーを軽々と運ぶと、村上は手際よく係船柱のロープを外していく。
「キハラさんは東京から来たんだったな、この辺ははじめてか」
「はい。ですからお店とか色々珍しくて。今日は参拝だけしてきたので、またお休みにゆっくり観光しようと思います」
「ほうじゃの、リョウにでも案内させると良い」
新しい名前が出てきた。美遥が脳内のステークホルダーシートに書き留めているかたわら、ロープを回収し終えた村上は波止場を蹴り上げボートを押し出すとエンジンをつけた。とたん伝わる振動の強さと近さに美遥は小さく飛び上がった。
フェリーよりも間近に聞こえる波の音を BGM に、村上は軽い手つきで船を操っていく。かなり小刻みにハンドルとレバーを動かしているうえ、複雑と聞いていた潮流を進む船は大して揺れもしない。相当熟練の腕なのだろう。美遥は素人ながら匠の技に見惚れつつ、やがて雑談が一区切りつき大真我見島が見えてきたところで、島に着く前に聞いておきたかった話を切り出した。
「それで村上さん、お聞きしたいことがありまして」
「うん?」
「大真我見島でお世話になるにあたって、気を付けることなど無いでしょうか。事前にいただいた資料には目を通しているのですが、その、守るべきルールですとか、もしありましたら」
案件の期間や関連する省庁、島側の責任者などはすぐさま頭に入れたものの、何しろ行く先は大真我見島なのだ。カミサマへのご挨拶や土地を跨ぐ際のお作法や、あるいは古くから伝わるやたら残酷なわらべうたとか。何でも良いから情報を仕入れて安心したかった美遥は、ここ一か月、案件準備のかたわらそうした資料の捜索にも勤しんでいた。が、やはり成果は芳しくなく、藁にも縋る思いで直前も直前のこのタイミングでの問いかけに至っている。ここで実は供物に火鼠の皮衣が必須だよとか言われたなら、それはそれで絶望なのだが。
少し考えるように視線を巡らせた村上は、やがて「なまえ」とつぶやいた。
「名前、ですか?」
そういえばカミサマの正式な名前を知らないと思い至った美遥は青ざめながら聞き返した。
「島ん代表の名前は資料に書いてあったんか」
「? はい、村上葉二郎さまと」
そういえばどちらも村上だ。親戚か何かだろうか。
「そうだ、葉二郎な。んでうちの向かいに小さいのがいるんだ、今年六歳ったっけな。母親が夏美つうんだけどよ、」
「はあ」
村上は次々島民の「名前」を挙げていく。脳内で走らせていたボールペンを早々にぶん投げた美遥は何となく話の主旨を察した。
「――今言った人んらみんな村上なもんだからよ、名字で呼ばれ馴れなくてな。俺ならシゲとかシゲさんとか呼ばれてる」
「しげさん」
「ん。キハラさんももう島民みたいなもんだ、やりにくいかもしれんけんど、みんな気軽に呼んでくれ言うと思う」
仮にも客先の人間に対する呼び名ではなかったが、郷に入ってはという言葉もある。美遥は村上――改めシゲ――の脳内ラベルを更新し、そのまま村上姓の島民たちについて聞くことに終始した。