<一>
二十七歳を迎えた翌日、木原美遥は上司の大隅に呼び出された。
納品を終えて一週間。先日上に挙げたばかりの簡易報告書から、詳細報告書に使いまわせる資料を抜き出していた手を止め、席を立つ。指定された時間の七分前。まあいいタイミングだろう。
見晴らしの良いオフィスは、半分ほどの社員が出払っていた。隣の担当は週次ミーティング、その向こうの営業は各々の顧客回りで居ることの方が珍しい。他の担当も、打合せや顧客訪問や、あるいは休憩やらでちらほらと空席が目立っていた。
システム開発の上流から下流まで、幅広い範囲を手がける小さな IT 企業。星の数ほどもあるそのうちのひとつが、美遥が勤める『テンショウシステムズ』だ。IoT に関する豊富な知識を強みとしている。案件の規模によって協力会社との調整や時には直接開発を担当することもあるものの、基本的に美遥は技術営業という役割を担っている。営業に同行し専門知識を要する営業活動を行ったり、顧客がシステムに求める要件を引き出したりする仕事だ。
「失礼します」
美遥が会議室のドアを閉めると、大隅はキーボードから手を放し顔を上げた。短い黒髪がさらりと揺れ、フレームの向こうの柔和なそれと目が合う。と、眼差しはついと斜め向かいの椅子を示した。座って待てとのことだろう。
視線で誘導された席に着くと、窓辺に佇む桃色が目に入る。色の通り桃かもしれないし、河津桜かもしれない。なんにせよ春は迫っているのだなあと感じさせた。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。急に呼び立ててごめんね」
「いえ」
ぱたん。やがて年度初めに美遥が稟議を回した Thinkpad が閉じられ、隅に追いやられる音がする。視界の端で抗議するようにライトが点滅していた。大隅が指を組むのに合わせて、美遥もすっと背筋を伸ばす。これは上司の本題に入る合図だ。今日は世間話もせずに切り出すらしい。それだけ大切な話なのかもしれなかった。
「今月末で木原さんも丸四年になるよね。早いな」
「はい」
「木原さんも知ってるように、うちでは初めの三、四年くらいは先輩社員の指導の下プロジェクトに関わってもらって、そこから徐々に独り立ちしてもらうようにしているよね。それで、木原さんにも次はリーダー相当の仕事を任せたいのだけれど」
相槌を打ちながら、あれ、と思う。確かに先の案件が終わったばかりで次のプロジェクトも決まっていないから、可能性としては考えていた。けれど今は三月の上旬、年度末決算に向けて多忙を極める企業が多いこのタイミングでの新たな案件は現実的でない。かといって、四月開始の案件にしては内示が早すぎる。決算期のずれている外資系企業が相手だろうか。あるいは。
疑問が顔に出ていたのだろう。上司は小さく浮かべた笑みをほんのりと深くして、ファイル――傍らの座席に置いてあったらしい――から紙の束を取り出した。とても分厚い。差し出されたそれの中ではじめに目に留まったのは、横並びになった見覚えのある複数のロゴ。
「ええとこれ、省庁案件ですか」
「一応名前だけね。すごいでしょう、私もこんなに沢山いっぺんに並んでいるのは初めて見たよ」
一般企業ではなく、いわゆるお役所相手の仕事は省庁案件と呼ばれている。いち省庁との仕事ですら大ごとになるのに、渡されたそれに記載されたのは観光庁、神社本庁、県庁、エトセトラ。一体何の――――とようやく案件名に目をやり、納得した。確かにここが相手であるのなら、沢山のお偉方との調整が必要だろう。
『大真我見島 IoT 導入プロジェクト』
日本は長い歴史があり、故に沢山の伝説もある。たとえばどのようにこの国が成り立ったであるとか、平安時代に都を脅かした鬼を誰それが斬ったとか。中には、今尚も生きているとされる伝説上の生き物もいる。たとえば河童とか、雪男とか。あるいはとうに絶滅したはずのニホンオオカミだとか。
もしそうした伝説について聞いたなら、半分くらいはこの大真我見島を挙げると美遥は思う。それくらい、日本人にとって身近であり、謎に包まれていて、それでいて真実めいた場所。理由はきっと色々あるけれど、「全員が何も分からない」からが大きいのだろう。
――曰く、大真我見島には生きたカミサマがいる。
それが、大真我見島の伝説であり、人々に与えられた唯一の情報だ。
大真我見島。日本の西側に位置する約一キロ四方のこの島は、島全体がカミサマのおわすところ、つまりは禁足地となっている。足を踏み入れることが許されるのはその地で暮らすわずかな人たちと、年に一度の祭事で訪れる国の要人だけ。内部をカメラが捉えたことは一度とてなく、何らかの圧力があるのかもしれない、オカルト誌による尾ひれすらもほとんど存在しなかった。訪れたやんごとなき方々が何かを漏らすわけもないので、あるのはただ「お偉方がカミサマのもとを訪れた」という事実だけ。
そんな言ってしまえば排他的な島が、どうしてわざわざ IoT なんて。
疑問を解決すべく美遥がページを捲れば、知らぬ間に自分用の資料を手にした大隅が説明してくれる。
「木原さんも以前省庁案件に携わったことあるよね。その伝手がきっかけで沸いた案件なんだ。IoT 導入理由はそこに書いてある通りで、」
何でも、住民の高齢化が進んでいるため、農作業その他の負荷を軽減したいというのが大きいらしい。それから、
「侵入者の検知、ですか?」
「最近はほら、ドローンとかの進歩が目覚ましいからね、あとここのところ潮流が穏やかなのも相まって、モーターボートで突っ込んでくる命知らずがいるらしいよ。そのせいで海保が迷惑してるとかなんとか」
日本に位置する島であるので、当然海路は存在する。けれど島周辺は荒く複雑な潮流となっていて、住み慣れた人以外はろくに渡れないといわれている。いわばその、自然の要塞がドローンという科学の力や強行軍に圧し負けそうになっているのを何とかしたい、ということらしかった。アニメとかであるような結界は無いんですね。美遥の言葉に大隅は一度目を丸くしてから、「確かにあれば便利なのにね」とカラカラと笑った。カミサマに対して不敬だったかもしれない。
ぱらり。続くページにはプロジェクトの計画が記されている。横軸で示された時間軸に、矢印で各工程の期間が引かれるそれは、ちょうど上半分と下半分を分かつ線が引かれ、それぞれの左端に「本社」「現地」とラベル付けされていた。「本社」行の矢印はおおよそ半年前から伸びており、このプロジェクトが以前から動いていたこと、また一定の進捗を出していることをあらわしている。対して「現地」の線は四月から開始しており、ありがたくも行全体が蛍光色のマーカで囲われていた。これは……
「見てもらったら分かると思うけど」
「はい」
「このプロジェクトは本社チームと現地とで別れて取り組んでもらう。本社チームは御上との調整が中心だね。実際お客様に関係する諸々はほぼ現地チームが固めると言って良い。木原さんにはこっちのリーダーを務めてもらいたいんだ」
現地、というからには島、あるいは近辺への常駐が必要なのだろう。都内に位置するこのオフィスから、西日本の島まではかなりの距離がある。転居の必要性を考慮したが故に、四月開始にも関わらずこのタイミングでの内示なのだ。その配慮はありがたかった。
「それでね、ここからが相談なんだけど―――」