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シュガー

作者: 真夜中 歌乃

※某掲示板の「文才ないけど小説書く」スレッドにて投稿した作品に加筆修正したものです。

リクエスト

 不明

 ジャンル(指定なし)

 お題「砂糖」




 プロローグ


 キッチンに挽き立ての珈琲豆の香りが立ち込める。この香りだけはインスタントではちょっと出せないな、と思う。

 サーバーは程よくあたたまっている。苦味を強くしないようにお湯の温度は少し低め。サーバーにちょこんと乗ったネルの中で、お湯をかけられた珈琲粉がやわやわとふやけていく。このふやかしで味が決まってしまうと言ってもいいくらいなのでほんの少しだけ緊張する。

 立ち上がる香りがほんのりと甘味を帯びてきたら、そこが合図。一度外から円を描くようにお湯を注ぎ、あとは「の」の字を描くようにお湯を注いでいく。「おいしくなれ。おいしくするぞ」と祈りを込めながら注いでいく。サーバーの中に濃い琥珀色の液体がさらさらと溜まっていく……


「珈琲入りましたよー」

 慣れた手つきでティーカップを乗せたトレイを書斎に運ぶと、机に向かっていた夫が手を止めてこちらを向いた。いつもながらいい香りですね。微笑みながらそう言う。

「でしょう?」

 軽口で応えると、眼鏡の奥の瞳をいっそう細くしながら夫がティーカップへと手を伸ばす。そんな夫の仕草を見ているうち、知らずに笑みがこぼれていたみたい。また思い出し笑いしてるんですか? 夫が困ったような照れたような表情(かお)でそう言ってきた――




 ――高校の卒業式も間近にせまったあの日。

 あんなに元気だった両親が、ほんとうにあっさりと交通事故で()ってしまった。親戚なんて冷たいもので、たいした保険金も財産も入らず、一人途方にくれるあたしはたんなる厄介者扱いだった。

 目の前で繰り広げられる大人たちの責任の擦り付け合いに嫌気が差したあたしは、進学をあきらめて一人で生きていく決心をした。

 それから二年。同級生達は大学生になり、同じ年頃の女の子達が恋やファッションに浮かれる脇で、高卒でなんの取り柄もない女が生きていくためには、仕事なんて選んでいられなかった。パートでも力仕事でも汚れ仕事でもなんでもやった。生きていくために必死だった。風俗に手を出さなかったのは潔癖だったからじゃない。死んだ両親がきっと泣く、そう思ったから。


 冬の日、仕事帰りのくたくたの体で閉店間際の喫茶店に転がり込んだのは、漂ってくる珈琲の香りがあんまりにも甘く優しかったからかもしれない。

 店の看板には「Sugar(シュガー)」の文字。やっぱり甘そう。

 少し古ぼけた店内にあたし以外の客は居なくて、こんな時間だというのにマスターは嫌な顔一つしなかった。

 なににしましょうか? そう言うマスターに、

「あ……珈琲……ください」

 あの頃のあたしは珈琲にたくさんの種類があることさえ知らなかった。マスターは何も言わずにうなずいて、珈琲を淹れ始める。

 どうぞ。そう言って出された珈琲はなんだか不思議な香りがして、とても心が落ち着いた。一口飲むごとに体が温まった。こんな安らいだ気分になったのはいつ以来だろう?

 もう一杯、いかがですか? そういいながらマスターはおかわりを注いでくれる。


「……実は今日、嫌なことがあったんです……」

 そんな出だしだったと思う。よく覚えてない。あたしは珈琲を飲みながら、仕事場であった嫌なことや、給料が安いこと、生活が苦しいこと、いろんな仕事をしたこと、同じ年頃の子たちが遊んでるのに自分だけ働かなければならなくなったこと、親戚が冷たかったこと、両親が死んでとても悲しかったこと――心の中に積み重なったものを全部、洗いざらい吐き出した。

 気がつくとあたしの頬は涙でぐしゃぐしゃになっていた。泣いたのは両親のお通夜の日以来だった。

 マスターは、あたしが落ち着くまで黙って待っていてくれた。そして、珈琲おいしいでしょう? と聞いた。

「はい、とても」

 素直にそう答えるあたしに、満足そうな表情(かお)をしながら、マスターはこう続けた。

 おいしい珈琲の入れ方を覚えたくはありませんか?


 こうして、あたしは「Sugar(シュガー)」で働くようになった、一昨年の今頃のことだ。はじめてお給料をもらったときは思っていたよりもずいぶんと多くて、

「こんなにもらっていいんですか?」

 と思わず聞いたら、それくらいは働いてもらってますよ。とマスターは笑いながら言っていた。働き始めてもうすぐニ年になる。

Sugar(シュガー)」は本物のおいしい珈琲を出す店として通の間では結構知られているらしい。マスターである真夜中さんは物静かな初老の男性。人当たりのいい優しい人だけど、目の奥に宿る鋭さを感じるたびにきっと昔はやばいこともやってたんじゃないかな、とあたしはみている。

 そんなマスターが去年の秋頃に店の内装と制服を新調した。

 レトロな感じで明治時代の珈琲館を参考にしたんだよ、これはきっと流行ると思うんだ。マスターは少しだけ得意そうにそう言った。

 手渡された制服は、白と黒でまとめられた清潔そうなデザイン、ポイントごとにあしらわれた大きな黒いリボン。少し長めのスカートはやわらかなパニエでふんわりと広がっていて、小さめの真っ白なエプロンと袖口や裾は見た目も高級そうなレースで縁取りされている。そしてギャザーのついた純白のカチューシャ……。マスター、こうゆうのは現代じゃ「メイド喫茶」と呼ぶんですよ……。

 世間の荒波かき分けて、今日まで何とかやってきた。そんなあたしの辿り着いた職場は「メイド喫茶」。マスター、恨むからね。もういいや、なるようになれ。

 他のバイトの女の子達は結構嬉々として制服を受け入れていた。きゃー、かわいーとかなんとかいいながら。


 マスターの構想が当たったのか、単に時代の流れだったのか、店はそれはもう繁盛した。売上もぐっと伸びて、お給料も少し上がった。

 常連だった人たちは来る回数が減ったようだけど、人の少ない静かな時間を選んでちゃんと来てくれている。マスターの淹れる珈琲はおいしいもんね。

 新しいお客さんはかなり増えた。ヘンなのが。

 似たようなナップサックにペーパーバック、眼鏡をかけた小太りな男の客が大勢。携帯をいじりまわしながら、落ち着きのない様子で、ウエイトレスを舐め回すように見てたりする。

 他には、近くの大学の学生が増えた。とくに男性の。前はぜんぜん寄ってこなかったのに、最近は数人でやってきてはコソコソ相談しあったり、下品に笑い声を上げたり、ちらちらとあたし達のことを観察したりしている。まあ、見たくなる気持ちもわからんではないけどね。

 そうそう、ヘンな客といえばこの人。いつも店の奥の窓際に座る無精髭のおじさん。ブレンド一杯でおかわりするわけでもなく何時間も書類とにらめっこしたり何かを延々と書いていたり。マスターも特に何も言わないし、あたしが「Sugar(シュガー)」に来た頃にはもう居たから常連さんではあるけれど……。あたしから見ればやっぱりただのヘンなおじさんだな。


 ともあれ、本物の珈琲を飲ますけれどちょっとだけあやしい店、に生まれ変わってしまった「Sugar(シュガー)」であたしは毎日楽しく働いていた。


 そんなある日。大学生と思しき三人組の男性にエスプレッソを運んでいくと、そのうちの一人が、店何時に終わるのー? と話し掛けてきた。お前に関係ないだろうと思いつつもそこは客商売ベテランのあたし、

「そうゆう質問にはお答えできないんですよー」

 と笑顔で受け流す。見よ、このマニュアル棒読みの見事な(さば)きかた、これでたいていの客は引き下がる。が、この時は相手が悪かった。テーブルにカップを運ぶあたしの手をすばやく両手で掴むと、そんなこといわないでさー、ちょこっと俺にだけ教えてよー。びっくりして手を引っ込めようとするけれど、やっぱり女じゃ男の力にはかなわない。客だから遠慮したのもあるけど。

 予想外の展開に少しだけ焦って、つぎの言葉も出せずにどうしたもんかと思案していると、あれぇ? 顔赤い? もしかして俺に気があるー? とか言い出した。たしかに生きてくのに必死で色恋沙汰なんて高校時代以降まるっきり縁が無いけど、今顔が赤いとしたら、それは怒りのせいだよ!

 しかし、なんだこいつは? 最近の大学生ってみんなこんなやつ? 残りの二人も止めもしないでニヤニヤみてるし、ほんとむかつく。まあいいわ、もうすぐアンタの頭にこのスチール製のトレイを叩き込んで……などと思考が暴走しはじめたとき、ちょっとそこ、通してくれませんか。と横から声をかけられた。

 あたしとあたしの手をつかんだ男がそっちをみると、書類や封筒の束を小脇に抱えた無精髭だらけのおじさんが空いたほうの手をまっすぐに突き出して立っていた。そこ、通りたいんですが、突っ立っていられると邪魔です。あたしとあたしの手つかんだ男の腕を手刀でたたき切る、とでも言わんばかりに手を突き出してくる。テーブルのその他二人組がなにやら目配せしたような気がした。

 あたしとテーブルの間隔より、あたしの後ろの空間のほうが、どう見たって広い。それでも有無を言わさぬ態度でそこを通ろうとするおじさんに男はあっさりと手を離した。あたしはすぐに間を空ける。

 おじさんはテーブルの横を通り過ぎると、肩越しに振り返り、きみは、確か佐々木ゼミの鈴木君だったね、佐々木教授が週末にレポートが出ないようなら単位はやれないと言っていたよ。とだけ言うと何もなかったかのように店をでていった。

 後に残った鈴木君とその他二人もなんだかバツが悪そうにそそくさと店をでていった。まあ、もう少し居たとしたら、あたしが叩き出したんだけどね。


「通してくれませんか」事件以来、あたしの中でヘンなおじさんは少し株が上がって、ちょっとだけヘンなおじさんになった。それでもちょっとだけヘンなおじさんは、やっぱりいつもどおりちょっとだけヘンなおじさんで、相変わらず、店の奥の窓際の席でブレンド一杯だけで書類と格闘していた。


Sugar(シュガー)」がちょっとあやしい店になってからもうすぐ半年が過ぎようとしていた。季節はまだ冬だけど、すぐに暖かくなって桜の季節になるんだろう。一昨年の今頃、マスターに会うまではもう一生冬がつづくのかもね、と思っていたけれど。

 この季節になると世間の男性達は妙に落ち着かなくなるらしい。女の子達もヘンにソワソワしたりする。

 そう、二月、バレンタインデーの季節。「Sugar(シュガー)」ではバイトの子とあたしのような正職員の女の子がみんなで出し合ってマスターと他の男性職員に義理チョコを買って渡すことになっている。

 そういう伝統というか儀式みたいなことが好きなのね、みんな。あたしにとっては今月の家賃払えるかの方がずっと重要なんだけど。

 そんな色気のないことを考えながらも十四日の当日に用意したチョコを渡すのはあたしの役目になる。入れ替わりの多いこんな店では二年も居れば十分にお(つぼね)様状態なのだ。

「はい、マスター。義理ですけど」

 笑いながら差し出すと、マスターも同じように笑いながら受け取る。他の男性職員には午前中に渡しておいたし、残りは今日は来ないから明日以降に渡すことになる。

 役目を終えてやれやれと思っていたら、マスターに声をかけられた。ところで、お礼は何かしましたか?

「ふへ? お礼ってなんのですか?」

 マスターはやれやれといった調子で、この前お客様ともめたときに助けてもらったでしょう? と続けた。あー、ちょっとへんなおじさんのことか。

「いあ、助けてくれたというかですね……」

 たんに通りたかっただけみたいでしたよ、と言うつもりだったのに、何を勘違いしたのか、あなたのことだからそんなことではないかと思ってましたよ。といいながら小さな箱を差し出す。両手に収まるくらいの大きさのきれいにラッピングされた小箱。

「えっと、これって……」

 と、戸惑うあたしに、バレンタインですからね。といたずらっぽく笑うマスター。中身はたぶんチョコレートかなにかなんだろうな。たしかに今日お礼として渡すなら無難なのかも。

「あ、お金払います!」

 慌てるあたしに、安物だからきにしなくていいですよ。とマスターは手を振った。


 ちょっとヘンなおじさんはいつものように奥の窓際の指定席で、書類とにらめっこしていた。よくも毎日そんなにやることがあるもんだと感心してしまう。肩越しに覗いてみたけど細かい文字がびっしりで見てるだけで眠くなりそう。集中してるようであたしが側に寄っても気付かないみたい。なんて声をかけようか迷っていると、おかわりは要りませんから。書類から顔も上げずにそう言った。

 ちょっと、なんですか? その態度は? 人と話すときはちゃんと相手の顔を見なさいって、親に教えてもらわなかったんですか? たとえあたしがウエイトレスでも、見た目がメイドでも顔くらい上げなさいよ! と一人心の中で説教を垂れてると、当の本人はいつのまにか顔を上げてあたしをじっと見ていた。

 なにか? そう言うおじさんの顔をあたしは初めてちゃんとみた。一重(ひとえ)だけど切れ長の大きな目、整った顔立ち、おじさんだと思ってたけど髭剃れば結構見れるようになるんじゃないの? この人。

 なにか? と今度は不機嫌そうに問い掛けるおじさん。あたしは少したじろぎながらも、

「このあいだは、ありがとうございました」

 といいながらマスターにもらった小箱を差し出す。

 このあいだ? と心底わからない様子で聞き返すおじさんに、やっぱりね、と思いながらも、

「他のお客様に手を握られたときに助けていただきました」

 と説明すると、ああ、と思い当たったように、あれはただ、そこを通ろうとしただけですから。とぶっきらぼうに答える。ほらね、マスター。ただ通りたかっただけなんですよ、この人は。お礼なんて必要ないんですって。と報告したい衝動に駆られながらも、

「とにかく、お礼です。ありがとうございました」

 感謝してるのか、怒ってるのかわからないような言い回しで押し付けるように箱を渡すと、さっさとその場から離れた。


 そんなことがあってしばらく経って。この頃、ちょっとへんなおじさんが、なんだかとてもへんなおじさんになってしまった。

 あたしの中の呼び方や印象がかわった、というわけではなくて、本当に、行動が。

 ほぼ毎日書類とにらめっこは同じなんだけど、たまにぼーっと窓の外を見ていたり、立ち上がろうとしてすぐに座ったり。なんだかとっても落ち着かない。

 それに今までずっとブレンド一杯だったのが、おかわりをするようになった。店としては売上が伸びてうれしい限りなんだけど、何杯もおかわりしてこの人財布大丈夫かしら? ま、あたしには関係ないけどね。

 そんな風に挙動不審気味のおじさんだったのだけど、その日とつぜんおかしな行動に出た。

 おじさんは、お砂糖を何杯も何杯もカップに入れはじめた。三杯とか五杯とかじゃないよ? 十杯とか二十杯とか。いくら甘党でもそれは入れすぎだよ。糖尿病になるよ? というか、おじさん、ブラックじゃなかったっけ? あたしはこれでもプロ意識を持ってるから常連さんの好みは全て把握してる。石井さんはモカのブラック、東さんはグアテマラにミルク少し、牧野さんはキリマンジャロにお砂糖スプーン半分……あ、お砂糖なくなった。おじさん全部入れたのね。新手の嫌がらせ? そんなことを考えてるとはつゆほども感じさせず、さりげなくテーブルに近づくと、

「お砂糖入れなおしてきますね」

 とシュガーポットを手にとってカウンターに戻る。替わりのポットを持って行こうと思ったのにカウンターにシュガーポットがみあたらない。あー、今、業者さんに頼んでシュガーポット交換してもらってるんですよ。いつのまにかマスターが側に立っていた。

「交換? あたし聞いてませんけど?」

 いやあ、急に決めちゃいましてね。マスターはすまなそうに頭を掻いている。

「じゃあ、空いてるテーブルから持っていきますね」

 いやあ、できればそこの缶ごとテーブルに持って行って入れてきて欲しいんですよ。

「えぇ? だってお客さんが居るテーブルですよ?」

 そうですけど、あの人なら大丈夫ですから。いったい何が大丈夫なのだろう? わからないことを言うマスターに、でも、と食い下がろうとすると、頼みましたからね。と笑顔ではあるけれど、反論はさせない雰囲気で言い残し、マスターは離れて行く。いくら常連さんといえど、そんなことして大丈夫なんだろか? と思いつつも、マスターが言ったんだからね、と開き直り、シュガーポットと砂糖缶を抱えてテーブルへ向かう。

「お砂糖、おつぎしますね」

 そう言ってシュガーポットに砂糖を移す。移しながらカウンターで入れてくればよかったと気付いたけどいまさらどうしようもない。我ながらおかしなことやってるなーと思いつつ、移していると、おじさんは珈琲も飲まずにじっとその様子を見つめている。そんなに砂糖が好きなんですか?

 シュガーポットに移し終わって

「失礼いたしました」

 テーブルを離れようとすると、あの、と呼び止められた。

「はい。なにかありましたか?」

 と答えると、しばらく考え込んだあと、いえ、ありがとう。とおじさんは小さくつぶやいた。


 今日はなんだかヘンな一日だった。おじさんは甘党になったし、店のシュガーポットはなくなってるし。まあ、変と言えば両親がなくなってからは世の中全てがヘンだと感じているんだけど。

「それじゃ、上がりますねー」

 マスターにそう声をかけて店を出る。もうすぐ三月になるというのに風は冷たく、夜はやっぱり冷え込む。少しだけ肩をすくめて歩いていると、後ろから声をかけられた。

 振り返ると、おじさんが立っていた。

 え? なんで? もしかしてずっと待ってたの? おじさん、店出てからもうたっぷり三時間は経ってるよね? おじさんもしかしてストーカーになっちゃった? 店のすぐ近くだし襲われたりしないよね? いろんな考えが一瞬のうちに頭を巡る。

 すみません、驚かれるのも無理ないと思いますが……。私の硬直を単なる驚きととったのか、おじさんが続ける。

 どうしても話さなければいけないと思いまして。お仕事中は迷惑だなと思ったものですから。

「お話……ですか?」

 どうやらいきなり襲われることはなさそうだけど、油断はできない。

 はい、何から話して良いのか。おじさんは一生懸命言葉をさがすようにして話しはじめた。

 おじさんの話は大体こんな感じだった。


 おじさんは近くの大学で准教授をやっていて、あたしがバレンタインに渡したお礼のチョコレートを甘いものが苦手なおじさんが処分に困っていると、ゼミの女子学生に見つかってしまい、その女子学生の言うことでは、おじさんの持ってたチョコレートは何とかいう店の限定商品でチョコレートにしてはびっくりするくらいの値段の、いわゆる本命用のチョコなのだそうな。

 お礼にしてはあまりに高価なお返しに、おじさんはひどくとまどった。周りの学生達に「きっとそれは想いを込めたチョコなんですよ」とか言われてどーしていいのか迷った挙句、直接真意を確かめようと、話しかける機会をうかがっていた、ということらしい。


 そうだったのか。ここ最近のこの人の怪しい行動は全部、全部それが原因だったのか。

 窓をながめてぼーっとしてる時も。

 ソワソワと席を立ったときも。

 ブレンドを何杯も飲んでたときも。

 お砂糖を何杯も、何杯も……

「ぷっ、あは、あはははは――――」

 あたしは吹きだしてしまった。この人の、あの姿を思い出して。そしていま、たった一言、私の言葉を聞くために、鼻と指先を真っ赤にして立っているこの人の、姿を見て。

 おじさんはわけもわからず、困ったような怒ったような顔をしてあたしを見ている。

 あたしは笑って、ほんとうに心から笑って、涙まで流した。「Sugar(シュガー)」にはじめて来た時にマスターの前で流したのとはまた違う涙だった。


「ごめ、ごめんなさい――――」

 ようやくあたしは一息ついて、何とかおじさんに向き直る。だいじょうぶですか? とおじさんが聞いてくる。たぶんあたしの涙を見て心配したんだろう。

「平気です。それより、寒くないですか?」

 少しだけですが。おじさんは震えながらそう答える。あたしはまた吹きだしそうになるのを何とかこらえながら、

「あたたかくて、おいしい珈琲を出す店がそこにありますから」

 と言ってやっぱり笑ってしまった。マスターはきっと店を開けて待っていてくれる。そんな気がした。

 二人で店へと引き返しながら、

「髭、剃ったほうがかっこいいとおもいますよ?」

 というと、おじさんは少し面食らったような表情(かお)になり、野性味があっていいなと自分では思ってたんですが。そういってあごに手をあてるおじさんを見て、あたしはまた吹きだしてしまった――


 ――くすくすと笑うあたしを見ながら、夫は困ったように照れたように笑っている。あたしは笑いを堪えながら、

「お砂糖はいくついれますか?」

 と聞いた。もういりません。と、夫も楽しそうに笑った。




 エピローグ


 久しぶりに「Sugar(シュガー)」に珈琲を飲みに出かけた。

 マスターは相変わらず物静かで、淹れるくれる珈琲はあの日と同じ、なつかしい幸せな味がした。

 ずっと気になっていた疑問をぶつけてみる。

「あの時、シュガーポットのお砂糖を少なめにしておいたのはマスターですよね?」

 そう聞くあたしに、マスターは答えず、手にもったサーバーを軽く揺らして、

 もう一杯、いかがですか?

 とあの夜と同じセリフで、優しく微笑んだ。


 Fin




3年ほど前の作品です。

「砂糖」という、お題をいただいたので、甘いものを考えたのですが、甘い=恋愛というなんともべたな展開になってしまいました。

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