紅い薔薇と白い薔薇8
社交シーズンだったのが幸いしたようで、レディ・アン・ヴィクトリア・グレイは領地への強制送還(なんと酷い仕打ちであろう!)を免れられた。寄宿学校で得たお友だち、フェーラー子爵令嬢宅での夜会に招かれていたので、マウント・ストリートのタウンハウスにひとまず戻ったとのことだった。夜会へはまたティレジェンベリィ卿にエスコートされることになるが、お友だちと、そのまたお友だち達の協力を得て脱出する計画だという。
遺言状が公開された翌日、忠実なるスーザンが運んできた侯爵夫人からの親書にはそういった明確な状況説明と大胆不敵なまでの今後の活動指針が記されていた。嘆かわしいことにそれには、その日の朝の郵便で届けられたという脅迫状まで添えられていたのだが。
そう、やはり侯爵夫人は金銭目的の脅迫を受けてしまった。筆跡が判らぬよう、わざと活字体で書かれた忌むべき手紙には半分に切られた一通目の赤い薔薇の封印の手紙が同封されていた。
『この手紙に適切なる金額の支払いを請う。残る半分はその金額に応じて返還を考慮する』とは、まったく、唾棄すべき内容である。
自分が満足する金額を知らせずに脅迫を受けた側の恐怖心を試す、そして、搾り取れる上限をむさぼりつくすまで脅迫の種は渡さないというわけだ。これを卑怯と言わずして何と言うのだろうか。私はおおいに奮起した。
このての犯罪が成立するのは、人々が疵をおそれるからである。醜聞が世間に公表される疵、脅迫されるような浅薄な行為をしたことを誰かに知られるという疵。名声というものはなんとたやすく疵つくことか。
しかし果敢にも侯爵夫人はこれに立ち向かうという。後見人であるティレジェンベリィ卿を頼まれないのは貴婦人らしいおそれなどからではなく、むしろ、伯爵が心配しすぎるのを敬遠してのような気がする。そして、犯罪には断罪をという苛烈なまでの信念の奥に、ただ一度の機会をとらえる奇跡を待つに等しい、真実へのたゆまぬ情熱が燃えさかっていたのである。
脅迫者は侯爵夫人が我々を通じて警察を手配しているなど、夢にも思わなかったのだろう。今夜八時、テムズ川べりのクレオパトラの針へ侯爵夫人自身がお金を持って来るようにと要求してきた。もちろん、警察への沙汰は不要との脅しはあったし、怖ければメイドを連れてきてもいいと書いてあった。
だが、我らが侯爵夫人レディ・ブルーチェスターフィールドは、堂々と単身、夜のヴィクトリア・エンバンクメントに足を運んだのだった。
侯爵夫人は子爵家の夜会を抜けて来たので、きらびやかだが充分に暖かいとはいえない衣装を補い隠すために、たっぷりとしたマントで全身を包みこんでいた。頼りになる後見、ミア伯シリル卿は怒涛のように押し寄せてくる独身の若いレディたちへの対応に追われ、気分を悪くされて屋敷の一室を借りて休む侯爵夫人につきそうどころではない状態になっているはずだった。
その晩は月がなく、侯爵夫人の小さな黒い影は、はるばるエジプトから運ばれたオベリスクを照らしだすための明かりで、よりいっそう小さく見えた。そう、我々には馬車を降りて慎重にクレオパトラの針に近づく彼女の姿がちゃんと見えていた。
その場所での張りこみは、ほとんど不可能だった。付近に馬車を停めてじっとひそんでいるのはいかにも不自然だし、テムズ川に船を繋留しても同様で、橋の上に待機するのと同じくらいいざとなったときの行動に遅れをとるのは必至だ。だいたい、犯人がどちらから来るかもわからず、いつから侯爵夫人を待つかもさだかではないときては、どの方面を警戒すべきか対策すら立てられないし、警官がうろついているのを見れば脅迫者がどんなに愚か者であってもけっしてクレオパトラの針に近寄らないだろう。そこで我々がとったのは、あくまでも通行人をよそおって侯爵夫人を見守り、いざ事あらばすぐさま駆けつけて包囲網の中に犯人を確保するという、文字通りの囮作戦だった。
ホームズとレストレード警部の名誉のためにいっておくが、この案はレディ・アン・ヴィクトリア・グレイ自身が立てていた。絶対に譲れないとの決意をみなぎらせて、自分が脅迫者に会わなければならないのだと主張したのだ。
「……ワトスン」
ホームズのささやき声が私の注意を引いた。侯爵夫人に倣ったかのような黒いマントに全身を隠した人影が、オベリスクの傍にたたずむ貴婦人に近づいてゆく。
向かい側から歩み寄ってくるレストレード警部の造りの細かい白い顔がうなずくのが見えた。私たちはその場で立ち止まり、テムズの夜景を論ずるふりをする。針の向こうにはこれまたさりげなく、夜の散歩を楽しむ紳士に扮した、帽子を目深に被ったヤンガー・サンたち。
会話は為されなかったようだった。その手にはかわいそうなくらい重そうに見えるお金の袋らしきものを、侯爵夫人が差し出す。
黒い腕が伸びて受け取る。
その瞬間にレストレード警部が叫んだ。
「そこまでだ!」
猛烈な勢いで駆け寄る。
「恐喝の現行犯で逮捕する!」
四方八方から、屈強な男たちが集まってきた。どこに上手く隠れていたのか制服の警官も駆けつけてくる。むろん、私たちも後れじと走った。ホームズなど、警部の合図すら待っていなかった。
「乱暴にはなさらないでください」
腕を取ってねじりあげようとした警官を被害者が止めた。間近で脅迫者を見た侯爵夫人は、相手が誰なのかわかったのだ。いや、ホームズ同様、最初から侯爵夫人にはその人がそうするとわかっていたのかもしれない。
「わたくしは、わたくしに対する脅迫行為などであなたを罰しようとは考えていません。ただ、あなたが本当のことを語らざるをえなくなるよう圧力をかけるために、あえてあなたからの脅迫に応じました。答えてください! どうしてあなたは、アーサーに毒を与えたのですラウムさん!」
その罪を問うためだけに、その質問の機会を得るためだけに、彼女はここに来たのだ。
なんという執念!
あまりの激情に、私は一通目の赤い薔薇の手紙の隠匿者が判明したことに驚くことすら忘れていた。しかし現実は、より過酷な事実となって私に認識を迫ったのである。
うつむくその人物に、シャーロック・ホームズは言った。
「話しなさい。ミス・フローレンス・ラウム」
黒い人影が震えた。
ミス・フローレンス・ラウムだって!
そんなまさか、あの繊細なおとなしいご婦人が、侯爵夫人を脅迫しただなんて信じられない! だが、そうでなくて彼女がここにいる理由は説明できないのだ。しかもよりにもよってアーサー・ウォーカーに毒を盛った?
ばかな、何を根拠に、侯爵夫人はそんなことを言うのだ。
「……あのひとを、殺すつもりなんて、なかった」
私の心の葛藤もむなしく、それはあきらかにフローレンス・ラウム嬢の可憐な声色であった。
「結婚式まで、病気になってもらうだけだったのに」
「それは何故?」
「この人に会わせないために。あれ以上手紙を、書かせないために」
その先を読んでホームズは静かに語った。
「病気になったウォーカー氏を看病していれば、彼はずっとあなたの管理下にいるし、愛もとりもどせる。式さえ挙げてしまえば、彼は夫としてあなたを裏切るような人物ではないと、そう考えたのですね」
「……そうです」
「そしてあなたは疑われないように、ふだん彼が使用している農薬を彼に飲ませた。たとえ重い症状におちいったとしても、彼の健康を害する目的で故意に盛られたものだと気づかれないように。だが、彼には一般の人にはない堅牢な耐性があった。いっこうに寝つく気配のない彼にあなたはさらなる量の毒を摂らせる。そうしてようやく彼は倒れたが、それはもはや手の施しようがない状態になったからだった」
「そんな、理由で!」
侯爵夫人の口調は冷淡だった。
「あなたにはわからない」
ミス・ラウムも冷たく返した。
「生まれながらに恵まれ、生活を保障されて生きていらしたあなたに、やっと手に入れた安らぎを奪い取られる者の苦しみなんて、わかりはしない」
「認めましょう」
潔くうなずきながらも、侯爵夫人は反駁した。
「でも、だからといって彼の命を奪う権利などありません。あなたもわたくしも。それはアーサー本人にだって、委ねることのできないものなのですから」
「わかっていますわ」
ミス・フローレンス・ラウムが逮捕を受け入れた、誰もがそう思った次の瞬間、彼女はテムズ川に向かって走り出した。罪が顕れたときから抵抗をみせなかった女性を拘束していなかった警官に、油断があった。
「しまった」
レストレード警部と配下が追った。ホームズは黙ってそれを見ていた。侯爵夫人はいたたまれないようにテムズから顔をそむけ……やがて、我々の耳に水音が聞こえた。
直後に何人かが川に飛びこみ、ボートを出して救い上げたのだが、私が診たときにはもう、彼女の心臓は永遠の沈黙を決定してしまっていた。
「レストレードさま」
青ざめてはいたが、おそれることなく遺体に近づき、せめてもの身仕舞を整えてくれた侯爵夫人が警部に言葉をかける。
「今夜のことは……あたくしはいかなる危害も受けてはおりませんし、被害を与えられるような事実も存在しなかったと認識いたします」
謹厳な面持ちでレストレード警部は頭を下げた。
「お心遣い、感謝いたしますレディ。この女性の罪状が公表されることはけっしてないでしょう」
その罪をあきらかにするにはブルーチェスターフィールド侯爵夫人の名前を出さなければならなくなるからである。
「あたくしが貴族であるがために受けられる特権のおかげで、このかわいそうなひとの名誉を守ってさしあげられるのですね……」
彼女の死は散策中に誤ってテムズ川に落ちたため、そういうことになるのだ。結果として殺人を犯してしまったとはいえ、そうやって死後の辱めを受けさせずに済むのは、私としてもどこか救われる気持ちがした。
そのまま夜会の席に戻る気になれないという侯爵夫人の精神は、人として当然のものだ。
時間的にも、いかな魅力的な令嬢たちのご助勢があったとはいえフェーラー邸に侯爵夫人の姿がないことをごまかすのは限界となっており、ティレジェンベリィ卿はきっと烈火のごとくお怒りの状態で侯爵夫人の様子を見にくるだろうから、その緩衝材になるという名目でリチャード・バリー卿とアンソニー・ハワード卿と私は、マウント・ストリートへの同道を申し出た。分をわきまえない下々の者の同席はかえってレディ・アン・ヴィクトリア・グレイの立場を悪くするような気もしたが、名目はあくまでも名目で、本心はミス・ラウムの入水に関係してしまった侯爵夫人を召使いまかせで放っておかないためである。ホームズはそういった気配りには無縁の人間だが、彼が来ればその名声ゆえにかのミア伯も侯爵夫人への無礼なふるまいを慎むのではないかと私がそそのかしたので、同行した。
侯爵夫人はすぐに着替えてきた。ほとんど黒に見える濃いグレーのシルクのドレスだった。
私たちが通された図書室はブルーチェスターフィールドのお屋敷の図書室の半分の広さもないが、その分ゆったりした書斎のようで、小さな暖炉の左右にはやはり女神像。くつろぎやすい素敵な椅子がたくさんあって、どこにいてもおちついて読書できそうだ。その中のお気に入りと見えるものに侯爵夫人が腰を下ろす。それを囲むようにふたりのヤンガー・サンが席を替えたので、私もその近くの椅子を選んで座りなおした。
すると、おもむろにホームズが立ち上がった。たっぷりと花を生けた花瓶から一輪抜き取り、侯爵夫人に差し出して口を開く。
「薔薇の色は赤でした、ミス・アリス・ウォーカー」
大輪のみごとな紅薔薇を、彼は手にしていた。
「……はい」
ブルーチェスターフィールド侯爵夫人は薔薇の花を受け取った。そして、言った。
「あたくしがアリス・ウォーカーと名告ったことをいったいいつ、お気づきでしたのホームズさま」
「あなただったと断定したのは二度目にお会いしたときです、侯爵夫人」
それはここにいる者が全員、察していたことである。ホームズがそれを説明してくれる。
「ベイカー街にみえたとき、いかにもあなたは女家庭教師らしい格好をしておいででした。このワトスン博士でさえその素性を疑っていませんでした。しかし」
真正面から彼は侯爵夫人を見つめた。
「そのとき、すでにあなたと協力者はきわめて重大なミスをしていたのです」
「わたくしと協力者、ですか?」
「そう、協力者です。ティレジェンベリィ卿にとっては共犯者と呼ぶべき人間かもしれませんが」
侯爵夫人はなんとも形容しがたい表情を浮かべた。
「教えてくださいホームズさん。わたくしたちはいったい、どのような過ちを?」
私ははっとした。侯爵夫人の言葉遣いが、ミス・アリス・ウォーカーのものに変わっているではないか。
「足元もろくに見えないくらい色の濃いヴェールを被って来られましたね。あれがあなたがたの失敗でした」
「ヴェール?」
素顔を隠すためのヴェールが失敗だったとは、どういうことなのか。
「初めてあなたのお姿を拝見したとき、まれにみる長身の女性だと思いました。ところが周りが見えにくいヴェールを被っているだけにしてはミス・ウォーカーの階段の下り方はぎこちなさすぎました。よほど慣れない履き物で歩いているのだと思ったとたんに、その長身こそが偽りの姿なのだと気づきました。あとは連想するだけです。なぜ姿を偽る必要があるのか、偽らない姿はどうなのか」
ようやく、侯爵夫人の白い頬にわずかの笑みが浮かんだ。
「ご明察、おそれいりますわ。実はわたくし、シリルおじさまの目を盗んでアーサーのお葬式に出ようと思ったのですが、あいにくとふさわしい喪服がなかったのです。それでスーザンのお仕着せを借りることにしたのですが、黒い服でしたので……ご存知のように彼女は背が高いので、どう工夫してもわたくしには服の丈が長すぎて。でも昔、お芝居で大人の役を演じたことがあるので」
なにやら思い当たることがあったようで、リチャード・バリー卿が「ああ」とうなずく。
「あのパッテン!」
アンソニー・ハワード卿の言葉は聞き違いようがなくそう言っていた。
「パッテン?」
私は繰り返した。パッテンとは、つまり、悪路を歩くときに使うオーバーシューズのことである。今となっては古風な物だが、確かにそれを履くと少しは身長が高くなるかもしれない。私の顔色を読んだとみえて、リチャードがやや得意気げに言った。
「レディ∨のパッテンは特別仕様なんですよ、先生。なにしろレディ・アンが子供に見えないようにわざと長身の女性になるくらいにまで僕が改造しましたから。もちろん、一見してパッテン履きとわからないよう見てくれも」
またレディ・アン? どうしてここに、歴史書の片隅に名を埋めた女性が出てくるのだろう。
「そう。レディ・アンを演じられたというので一般的に大人に見える身長になれる手段をお持ちなのだとわかったのですよ。それで侯爵夫人がミス・アリス・ウォーカーに変身された仕組みは説明できた。あとは実際にお会いして変わらぬそのお心ばえを知れば、同一人物であることはまちがえようがありません。いかに言葉を巧く使い分けていても、探偵の目はあざむけないのです」
なるほど、そういうことだったのか。大人の女性に扮するというあたりまえすぎる大前提の意味が、私には、目に映っているのに何も見えていなかったも同然だったのだ。私はありとあらゆる称賛をこめてホームズを見た。
「レディ・アン・ヴィクトリア!」
そこへ、乱入したという表現を用いても過言ではないほどに感情を高ぶらせた様子のティレジェンベリィ卿が入ってきた。夜会服のままなのは、フェーラー卿の屋敷を辞してすぐここへ駆けつけてきたからなのだろう。当然である。彼が夜会にエスコートした貴婦人は体調不良をうったえ、休んでいたはずだった。そばについていてあげたいのにありがた迷惑なご婦人たちの秋波にはばまれ、ようやく休憩室を尋ねあてれば彼女はそこにいなかったのだ。
そのとき彼を駆り立てたものが怒りであったのか、心配であったのかは私にはわからない。だが、彼はここへやってきた。彼が保護を与え守るべき、血縁の女性のもとへ。
私たちはとっさに席を立ち、侯爵夫人をかばおうと身構えた。ここはその侯爵夫人のタウンハウスであり、それをどこへ連れ去られると思ったかなど、笑止なことなのだが。
ティレジェンベリィ卿は吠え立てようと、したようだった。
「レディ・アン・ヴィクトリア、妙齢のご婦人がたったひとりで夜道を帰るなどという危険きわまりない行為は」
しかつめらしく続けられるはずの言葉が途切れる。
「シリル……」
援軍の手を借りるまでもなく、侯爵夫人はティレジェンベリィ卿の嵐のようなお説教を封印してのけた。静かに立ち上がると、そのまま後見人の腕の中に飛びこんだのだ。まるで小さな子供がするようにして。
「レディ?」
安心させようと抱き寄せたりしないのは、彼が潔癖な人物だからだろうか。とまどったように、ぎくしゃくとした動きで、侯爵夫人の小さな肩にやっと手をかける。
「いったいどうなさったのだ、レディ・アン・ヴィクトリア。あなたらしくもない」
「シリルおじさま」
その胸元あたりを見据えながら、侯爵夫人は言った。
「すべてをお話しいたします。そのうえで、あたくしが今後どういたすべきかをご教示くださいませ」
「それはもちろん、あなたが望まれるのであれば」
「望みます。ですがおじさま、事の始めからあたくしは誰に強要されたわけではなく、自分の意志で行動したのだということを先ずお心に刻んでいていただきたいのです。あたくしの行動はすべてあたくし自身の責任であり、ここにおいでのあたくしのお友だちとホームズさま、ワトスンさま、またロンドン警視庁のレストレードさまを責めたりなさらないとお約束ください」
「ホームズ? シャーロック・ホームズ?」
驚いたようにティレジェンベリィ卿は私とホームズを見た。彼にはローズ・ギャラリーですれ違った男がシャーロック・ホームズだったなどとは、思いもよらぬ出来事なのだ。侯爵夫人が夜会を抜け出した理由と有名な私立探偵がどう関係あるというのか、その目はそう言っていた。
「……約束、しましょう」
狷介にして強引な人物とのうわさのわりには、彼は聞き上手だった。フェアな人物が育成されるのは、どうやらミア伯爵家の血筋も同じらしい。