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紅い薔薇と白い薔薇7

 てっきり私は、ホームズが遺言状の公開から立ち会うものと思っていたのだが、私たちがベイカー街で馬車に乗り込んだのは、午前十一時になってからだった。

「前置きはどうでもいいんだ」

 よほど私の顔には書き込みがされやすいのだろう。改めて訊くまでもなく、彼は言った。

「ウォーカー氏と特に仲の良かった友人のふたりか、ギルバート・ラウム氏が遺言執行人として指名されることには何も問題はない。故人にとって、近しく、その義務を負うべき人選だと誰もが認めるだろうからね。問題なのは遺言だ。グリフィズ伯ヘンリー・ベーズクリック卿から譲られたローズ・ギャラリーとフェア・ヴィクトリアがもたらす利益の権利を誰が引き継ぐのか」

「まさか継承者が彼を毒殺したと言い出すんじゃないだろうね?」

 ホームズの法則は、しかしそんなに単純なものではないと私は思っている。

「毒殺、ねえ」

 彼は何かを試したいときのような表情を浮かべて私を見つめた。

「実は昨日レストレード君に彼の死体検案書を見せてもらったんだ。あきらかに体内に入りこんだ毒物によって命を落としたことがわかる内容だった。その成分から彼は農薬のキルガドロンを一定量以上、摂取したものと考えられている。ふつうこの薬は百倍に希釈して噴霧使用するが、顔や手足を覆うなどの防護策をとっていても使用者は微量にキルガドロンを摂取する。だからこそ、通常使用する分には彼には耐性があった。ではその彼の許容量が超えてしまったのは、何故だと思うかい?」

 私に考えられる範囲では彼が使用量を誤ったか、何かのはずみで原液が口に入ってしまったか、だ。そしてこれはあくまでも想像なのだが、ある程度の耐性をもっていたためにアーサー・ウォーカーは農薬の過剰摂取について、適切な処置をとらなかったのではなかろうか。彼は慣れていたのだから。

「そうか。慣れていたから、体に変調をきたしても深刻な異常と感じなかった。それで耐性を超える量を摂ってしまい死に至った!」

「ぼくもそう考えるよ」

 ホームズがうなずいたところで我々のハンサムは、ローズ・ギャラリーのこぎれいな玄関先にたどりついた。あまり広くない前庭には二台のブルーム型馬車がつけられている。一台は四人乗り、もう一台は二人乗り用で、それぞれ異なる家紋をまとい、あるじが戻るのを待っていた。

「どうやらティレジェンベリィ卿もいっしょのようだね」

 二人乗りのブルーアムを示してホームズが言った。車体のドアに描かれた家紋はブルーチェスターフィールド侯爵夫人のものではなかったし、既知のヤンガー・サンたちの実家のものでもなかった。

 レディ・アン・ヴィクトリア・グレイはまだ未成年である。誰かの遺言を受けるような重要な席に、弁護士や後見人が同席しないほうが不自然だ。ティレジェンベリィ卿がガチガチのお貴族さまだという評判を思い出し、私は場がはひどく窮屈でないことを願った。

 果たして、私の願いはれられた。

 ホームズが今、まさにドアを叩こうとステッキを構えたそのとき、乱暴なまでの速さでドアが開けられ、一組の男女が出てきたからである。

 男性のほうには見覚えがなかった。きちんと体形に合った服を一分の隙もなく着こなし、毛ひとすじの乱れもない。中肉中背だが姿勢が良いので威厳が保たれ、整った顔には憂いにも似た表情が満ちていた。ミア伯シリル・エセルバート・ティレジェンベリィ卿そのひとだとすぐに判ったのは、彼が侯爵夫人の手を引いていたからである。

 すばやくよけた私たちに「失礼」と小さく告げたティレジェンベリィ卿は、出てきた速度をまったく緩めることなく侯爵夫人を馬車に乗せ、自分も乗りこんで、あっというまにローズ・ギャラリーを後にしていった。いったい、何があったのか。

 ティレジェンベリィ卿に先を越されてドアを開けられてしまった老人は、それでもおちついた様子で私たちを丁重に案内してくれた。前グリフィズ伯爵に仕えていたのならば《薔薇を愛する会》での一件で、ティレジェンベリィ卿の人となりを認識していたのかもしれない。

 不幸にして慣れていなかったのはラウム兄妹で、激昂したも同然の勢いでいきなり伯爵さまが席を立ち侯爵夫人を連れ去ってしまったのを目のあたりにして、繊細なフローレンス嬢はすっかり怯えてしまったようだった。ひどく青ざめているのでギルバートが階上の部屋へ連れて行くのを待つ間、書斎にはホームズと私とふたりのヤンガー・サン、そして弁護士のトマス・ハンター氏が在室することになった。ハンター弁護士は遺言状の公開を終え、その次の段階へ進むべくを中断されたために、不完全に終わった手続きを早く完了させたがっていた。ラウム氏が降りて来しだい、いとまごいをして帰りたいと、支度をして待っている。

「何があったか、お聞きしてもかまいませんかな?」

 今日この場で何が行われる予定だったのかは我々にもわかっていた。ホームズは、ティレジェンベリィ卿がさらうように侯爵夫人を彼らから引き離した理由を知りたがっているのだ。

 リチャード・バリー卿とアンソニー・ハワード卿、ふたりの視線を受けてハンター氏はうなずいた。公開された遺言状に秘密はないとの判断だろう。

「アーサーの遺言のせいです、ホームズさん」

 メルヴィル子爵の子息が言った。

「彼はその財産のすべてをブルーチェスターフィールド侯爵夫人に残しました。下々の者からそのような施しを受けるのはけしからんと、伯爵さまはお怒りだったのですよ」

 ハンター氏を見ると、再びうなずいてそれを肯定した。このローズ・ギャラリーもフェア・ヴィクトリアを栽培する権利も、アーサー・ウォーカー氏にとって財産と呼べる価値のあったものがすべて侯爵夫人に譲られたのだ。

 地位も財産も格段にかけはなれた雲上人に遺産を残すなど常識的には非常識な行為だが、その心は理解できた。魂の妹たる存在への相続。恋愛というありきたりな枠を介在しないからこそ、純然たるロマンティックさを感じるほどだ。しかし、同時に落胆した。

 アーサー・ウォーカーの愛は、間に合わなかったのだ。

 彼の死がこれほど早くおとずれなかったならば、きっと彼は愛する妻に、そして、やがては生まれてきたであろう子供にも、財産を分与できる遺言状を用意したはずなのだから。

 恩恵に漏れたにもかかわらず、リチャード・バリー卿は晴ればれとした顔で言った。

「しかし我々は名誉なことにアーサーの遺言執行人に指名されましたのでね、難攻不落のティレジェンベリィ卿ですが、なんとかしてレディ∨にアーサーの残したものを継いでもらうつもりですから」

「なるほど」

 考えこみながらホームズは相槌を打った。私は感じたままを口にしていた。

「だが、それではミス・ラウムが」

 気の毒ではないか。愛する人には死に別れ、一度は女主人におさまると心に決めた住まいを離れ、また兄とふたりで、生きるために楽とはいえない労働に出ねばならないとは。

「ほんとうに、不幸なめぐりあわせの女性で、もちろん僕たちとしても助力は惜しまないつもりですが……友人の婚約者とはいえお互い独身同士、あまり親身になりすぎるのも礼に外れるようで」

「それこそ、侯爵夫人だったら『それを悪しと思うものに禍あれ』とおっしゃるでしょうな」

 ホームズが言うとおりで、侯爵夫人ならばミス・ラウムに迷うことなく救いの手を差し伸べてくれそうな希望があった。でもそれは後見人の強硬な反対がなければの話で……彼女が成人する来月を過ぎたところで、難攻不落は難攻不落のまま変わらぬような気がする。

「いかにも、レディ∨ならそう言うでしょうね」

 アンソニー・ハワード卿がおっとりと笑った。そこへギルバート・ラウム氏が戻ってきた。

「お待たせいたしました、皆さん」

 ラウム氏はホームズと私には、自分がいない間に説明は済んでいるものとみなしたようだ。会釈してすぐにヤンガー・サンと弁護士に向き直った。

「いや、気にしないでくださいラウムさん」

 リチャード・バリー卿は丁寧に言った。

「そろそろおいとましようと思っていたところですから。ハンター弁護士といっしょにブルーチェスターフィールド侯爵夫人の後を追ってみるつもりです。ティレジェンベリィ卿さえ説得できたら、きっと侯爵夫人はアーサーの遺言を受けてくれますよ」

「それは……」

 とても畏れ多くてコメントできなかった。ヤンガー・サンとはいえ、彼らにしても貴族ではないのだから。いくらティレジェンベリィ卿が成り上がって爵位を継承した人とはいえ、伯爵は伯爵である。

「となれば、善は急げと言います。僕たちはこれで失礼しますよ」

 洗練された美しい身のこなしで男爵家の三男どのは書斎を出て行った。

「ミス・ラウムにもよろしくとお伝えください」

 アンソニー・ハワード卿のご退出も優雅なものだった。

「では私もこれで」

 トマス・ハンター弁護士もまた、流れを乱さず続く。

 ギルバートは三人の後ろ姿を見送るとため息をついた。静かにドアを閉めて私たちに椅子を勧める。

「せわしくて、すみません」

「いや、お忙しいとわかっている日を選んでお邪魔すると言ったのはこちらですから」

 心なしか彼も顔色がすぐれない。室内の光線の加減だろうか。ホームズはというと、周囲にはまったく注意を払っていない様子で──実際には他の誰にも真似できない熱心さで彼があらゆるものをつぶさに観察してのけることを私は知っているのだが──無造作に腰掛けた。

「てっとりばやく申し上げますが、赤い薔薇の封印の手紙はさっきまでこちらに臨席されていたさる高貴な女性の手によるもので、その方のお話では、もう妹さんは非常識な探偵の訪問でお心を悩ませられる心配はないということでしたよ、ラウムさん」

「あぁ、ええ、それは……それはありがたいことです、ホームズさん」

 いささか拍子抜けしたようにラウム氏は応えた。私はあきれた。ホームズときたら、それのどこが問題がすべて解決した報告だというのだ。

「そしてウォーカー氏の毒殺疑惑の件ですが」

 ほんの少し前まで、かけらさえ見えていなかった迷宮の出口を、ホームズは見つけてしまったのだろうか。思いがけず、私は、どきどきしてしまった。

 ふいにホームズが立ち上がった。

 機敏な動作で音もなくドアに近づきすばやく開く。小さな悲鳴と同時に陶器ががちゃがちゃと騒がしい抗議の声をあげたのが聞こえた。

「まあっ、ホームズさま……開けていただけて助かりましたわ。とても、驚きましたけれど」

 ミス・ラウムがお茶の用意の整ったお盆を手に立っていた。

「フローレンス」

 ギルバートが怒ったように席を立った気持ちは容易に察せられる。安静を保つようにと部屋に送り届けてきた妹が、ちっとも休まずにお茶なぞ運んでいるのである。しかもミス・ラウムの顔色は、お世辞にも良いとは言い難い。

「失礼ながら、フローレンス嬢には休養が必要と私は診断しますが」

 思い切って私が言うと、援護射撃を受けて少しだけやさしくなった口調でギルバート・ラウムが続ける。

「ほらごらん。ワトスン先生もああおっしゃっているんだ、休みなさいフローレンス」

「では、皆さんにお茶をおつぎしたらすぐに」

「今すぐだ」

 きれいな兄妹はとてもよく似た容貌をしていたが、男性だけあって押しはギルバートのほうが強かった。しずしずとフローレンス嬢は自室へ引き取り、姿に合った器用な手つきでギルバート・ラウムが給仕した。

「……それで先程の件ですが」

 お茶をきれいに飲み干してからホームズは再び切り出した。彼なりに女性に血なまぐさい話題を聞かれないよう、黙っていたらしい。

「残念ながら現時点でぼくには、それを証明する手段がないのですよ。よって彼の死は農薬の過剰摂取による急性中毒という医学的な結論でしか位置付けられない事象と言うほかはありませんね」

「そうでしょうねぇ」

 あっさりとラウム氏はうなずいた。

「僕としてはこれ以上、妹がつまらないことに巻きこまれたり、傷つけられたりしないことがわかっただけで充分ですから。あの人形のようにかわいらしい、とてつもなく高い身分のお姫さまが、気まぐれを起こされないことを願うだけですよ」

 これはいったいなんという失言だろうか。反射的に反論しかけた私だったが、ホームズが目顔で止めるのでからくも沈黙を守り通した。

「では我々はこれで」

 すまし顔でホームズは立ち上がる。

「何故止めたんだい、ホームズ」

 ようやっと私が訊いたのは、ローズ・ギャラリーの敷地を徒歩で抜けてからだった。帰り時間が読めなかったので、乗ってきた辻馬車は帰してしまったのだ。

「今日はこちらの薄幸の美女、明日はそちらの可憐な貴婦人、まったく、君の律儀な騎士道精神にすべてつきあっていたら、このぼくでさえいっぱしの輝くよろいの騎士になってしまうよワトスン」

 軽口めかして彼は言ったが、真剣な表情で付け加えた。

「君があのご立派な侯爵夫人に一目置いているのは知っているし、ミス・ラウムに同情しているのも知っている。だが、ワトスン、いやがらせを調査した立場の人間が、その対象者に好感を持っていることを吹聴するのは明哲ではないね」

「女性に対する中傷を憤るのは好感を持つ持たない以前の、男として当然のふるまいだと私は考えるけれど」

「いわゆる高貴なるものの務めノブレス・オブリージュのように?」

「いや、そんなものよりもっと自然な、すべての人が本来持つ良心のようなものなんじゃないかな」

 ホームズ、君だってそれを心の内に秘めているはずだ。

「侯爵夫人の騎士道もかい?」

高貴なるものの務めノブレス・オブリージュなどという言葉では言い表せないくらい、尊い行為だよ」

「そうなのか……」

 またしてもホームズは考えこんでいる。

「ずいぶんと気にかかることがあるようだね」

「ああ、そうだねワトスン」

 返事があるだけましとはいえ、集中すると他がおろそかになるのは極端すぎないか。だが、私の心配をよそに、ホームズはすぐに意識を思考の海から浮上させてくれた。

「赤い薔薇の封印、一通目の手紙のことを考えていたんだ」

 もともと、ホームズは歩く速度がはやい。その彼がさらなる早足を繰り出しながら言った。

「あれを手に入れた人間は脅迫者になるかもしれないという話をしていただろう」

 アーサー・ウォーカーの友人やローズ・ギャラリーの使用人、ギルバート・ラウムまで容疑者だとホームズは言っていた。忘れるものか。

「うん」

「いよいよ、そのおそれは本格的なものになるかもしれなくなってきたよ」

「侯爵夫人の他に遺産を相続する者がいないから?」

 そうなのだ。そもそも、一通目の手紙は遺産の取り分が少なかった場合に、その不足分を脅迫で取り立てようという目的のために隠匿されたとホームズは考えたのだった。では、遺産そのものがまったく得られないとしたら……すべてを恐喝によってまかなおうとするのが犯罪者心理ではないだろうか。

「だが、考えようによってはこれは好機だよ、ワトスン」

 急にホームズが立ち止まる。当然ながら、私の思考速度は追いついていない。よって尋ねることになる。

「何がだい?」

「もしもその人物がいくらかの遺産をもらって、とっておきの切り札の、あの手紙を使うのを何年か先送りにしたら、侯爵夫人はその歳月をずっと、未知なる恐怖を日常に潜ませたまま過ごさなければならない。しかし今、後にもたらされる憂いの心配をきれいさっぱり断つことができるなら」

「それは今、侯爵夫人に脅迫を受けてほしいということかい?」

「なければないにこしたことはないが」

 ホームズはあると思っているのだ。

 そのために手を回してハンター氏に偽りの遺言状を公開させたのではないかという気がしてきた。もちろん、邪推である。でなければ、あのかたくななティレジェンベリィ卿に連れ去られたレディ・アン・ヴィクトリア・グレイに、こんなにも大きなしわ寄せを押しつけるなどできるはずがない。未成年の侯爵夫人は後見人の監督下にあって、鉄壁の支配を強いられることになるのではなかろうか。そこへもって脅迫などされようものなら……一生、外へ出してもらえなくなったり、尼寺に入れられたりするのではなかろうか。いや、これは、私の誤解が生んだ想像である。実際にはティレジェンベリィ卿は専制君主的な暴君ではなかったし、ガーター騎士の精神を持つブルーチェスターフィールド侯爵夫人は、おとなしく搭に閉じこめられる物語の姫君のような貴婦人ではなかったのである。





キルガドロン:架空の薬剤です。


ノブレス・オブリージュ:10文字惹句で1文字入らず。



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