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紅い薔薇と白い薔薇6

 行動を決めたホームズは、まさに機敏という言葉に忠実である。早々に侯爵家を辞して、我々は午後すぐの汽車でロンドンに戻った。

「何故そんなに急いでいるんだい?」

 侯爵夫人からのありがたい晩餐のお誘いを断ってしまっていたので、私は不機嫌になっていた。

 ブルーチェスターフィールドからロンドンへのとんぼ返りは、そうたいした強行軍ではない。だが、せっかくの侯爵夫人の厚意を無にするなど、もったいないとしか言いようがない。

「ぼくの考えが正しいならば」

 彼がこう切り出して、それが正しくなかったときがあっただろうか。いやな種類の緊張に、私は身構えた。

「まだ遅れをとっているほうだよ。今日中にレストレード君と連携を図らなければ、万全の策を整えられるとはいえないね。遺言状の公開は明後日の何時になるかも、ぜひ、知りたいところだ」

「遺言状?」

「こうなると俄然、その内容が気になるね。それによってその人物の今後が、決定されると予想されるのだから」

「その人物?」

 ますます、いやな予感に私の胸が騒ぎ出す。

「そう、侯爵夫人の一通目の手紙を入手しえた人物だ」

「なんだって?」

 思いがけないホームズの言葉に、私は驚きを隠すべくもなかった。

「どうして君は、そんなことを考えついたんだい?」

 突飛といえばあまりにも突飛すぎる。

「あとからの手紙が全部残されていたからだよ」

 やはりホームズもそこにひっかかりを感じていたのだ。

「ギルバート・ラウムが?」

 ありえないことではない。ウォーカー氏の遺言によって得るものが彼の思惑から外れたものであったならば……それを使って侯爵夫人を脅迫すれば、巨万の富を得ることも不可能ではない。

「執事かもしれないし、友人かもしれない。彼の書斎からあの手紙を見つけることがてきた可能性のある人物すべてが、容疑者だ」

 冷めた口調でホームズは言った。

「今の時点ではまだ、侯爵夫人の生命にかかわる危険はない。だが皮肉にもぼくたちの調査は彼女の存在を関係者に知らしめてしまった。彼女はそんなことなど百も承知で、むしろ……」

「高貴な身分の女性にしては畏れ多いほどに協力的だね。だけどホームズ、裏返せばそれだけ侯爵夫人はウォーカー氏のことを大切に思っていたというだけのことだろう?」

「そうだ。君の大好きな騎士道精神を持った稀有なる女性だよ。しかし、ぼくたちに必要なのは事後の脅迫者ではなく、事件の当事者なのだ。脅迫だけで手繰るには糸が細すぎる!」

 しばらく経ってから思ったことなのだが、このとき、彼には事の真相が全部見えていたのではないだろうか。なるほど、ありとあらゆる可能をさぐり、そこから不可能とせ

ざるをえないものを排除して結論を導き出す彼ならば、そこに思い至るのも当然であろう。

「事件? 今、事件と言ったのかい」

 またしてもである。私には、アーサー・ウォーカー氏の死因が事故なのか殺人なのか、判別しようもない。否、ひとつだけはっきりわかっていることがある。彼は、毒物を摂取してしまったために亡くなったのだ。

「そうとも、ワトスン」

 ホームズは言った。

「横道にそれると大切なものを見落としてしまうよ。今、ぼくたちがやっていることはアーサー・ウォーカー氏の死という事件に関する調査だ。彼が何のために、どうして、毒物によって死に至るはめにおちいったのか、またその毒は、彼自身を含めて誰の手によって与えられたものなのか、ぼくが知りたいのはそれだけだ。有体ありていに言ってしまうと、ミス・アリス・ウォーカーの正体なんてぼくにはどうだっていい。ウォーカーの薔薇の君にしたって、そのひとが毒に触れるチャンスと動機を持っていないんだったらハドソン夫人だったってかまわなかったんだよ。いや、ぼくが言いたいのは、善良なハドソンさんが毒を盛る機会をうかがうような人かどうかということではなく」

「いや、いいよホームズ。君が言わんとしていることは理解しているつもりだ」

 むしろそれを私が本気にとると彼が気にしたことのほうが驚きだった。

「しかし、意外だよホームズ」

 正直に思ったところを述べた。

「じゃあ現状は必ずしも君の望み通りに進展しているわけではないのだね? ウォーカー氏が人目をはばかって旧交を温めていた薔薇の君が誰だか、みごとに調べ上げたというのに」

「ぼくはそうは思わないね」

 その口調はいかにも平淡で、そこにはご機嫌も不機嫌も感じられなかった。焦りもいらだちも含まないながらも、やや沈みがちな声だった。

「誰にだってできたことだよ。あの写真と手紙があれば、そして彼の昔を知る人々がいれば。君は考えなかったかい? まるでぼくたちの調査は隠されていたウォーカーの薔薇を関係者全員に知らしめるために、その花園へと至る道筋にあらかじめ配置されていた松明に火をともしてまわっているだけにすぎないのではないかと」

 そうして、ホームズの言葉を再現するならばブルーチェスターフィールド侯爵夫人は、ご自分がそうして利用されているのを黙認しているのだ。いや、黙認どころではない。醜聞の矢面に立つことも、脅迫の脅威にさらされることも恐れず、厭わず、その身を、名を、犠牲にしてなお真実を求める。

 犠牲?

 そういえばホームズもこの言葉を口にしていなかっただろうか。

 私の記憶にまちがいがなければ、赤い薔薇の封印者すなわちフェア・ヴィクトリアを捧げられた女性レディ・アン・ヴィクトリア・グレイがある結論を導き出すために犠牲を払っているというようなことを言っていた。ある結論とは、アーサー・ウォーカー氏がいかにしてその死路をたどったかという直接原因のことである。

 らしくもなくホームズはため息をついた。

「情けないことにぼくにはこの狂言じみた一本道を無視することができないのだよ、ワトスン君。侯爵夫人を犠牲にしても真実を求めたいというミス・ウォーカーの願いがなければ、この悲しい事件は闇に葬り去られてしまったはずなのだから。そう、誰の注意も引かず、何の疑いもない単純な事故としてただの不幸な出来事として、忘れ去られてしまうようなね」

 まるで事故ではなかったのだといわんばかりだ。

「君はアーサー・ウォーカーの死を事件だと言ったね。それは、つまり、殺人事件ということなのかい?」

 過失致死という種類の事件という見方もできると思った。しかし、そうではあるまいという、胸騒ぎにも似た確信のようなものを感じていた。もし彼の死が事故にすぎないのならば、まるっきりどんな疑いもなくそう片づけられてしまうような出来事だったのならば、そもそもホームズが調査に乗り出すこともなく、侯爵夫人が捜査線上に浮かび上がるだけでなく、その存在を周知のものとさせてしまう仕儀にはならなかったはずだ。さらにホームズはロンドン警視庁スコットランド・ヤードのレストレード警部と連絡を取ろうとまでしている。

「それを口にするには、現段階はまだそのときではないね。ただ、ぼくの考えでは人物が自然に迎える死以外はすべて何らかの事件が原因となる死だよ」

 彼にとっては自身の過失であっても事件に分類されるべきものらしい。

「そして同様に、ほくの理論を言えば動機なくして殺人はありえない」

「動機、か」

 ここで私は首を傾げざるをえない。殺人の動機となるのは怨恨や愛憎などの激しい感情のもつれ、度を越した損得がらみの問題がまず考えられる。しかしウォーカー氏に、そういった意味での敵はいなかったのだ。

「憎しみや恨み、妬みでもなく人をひとり殺せるだけの理由だ、かくも難題をさらりと呼び起こし、実行してのけるなど可能なものなのだろうかねぇワトスン?」

「可能だったからこそ、彼は死に至った、と言わせたいんだね、ホームズ」

 素直に彼はうなずいた。

「だがそれはこの事件の答えが黒と出た場合に追究すべき事柄だよ。今はまだ、ミス・アリス・ウォーカーのお導きのままに遺言公開を待とう。そして、そこからの動きを漏れなくつかみうるだけの網を広げよう。侯爵夫人の犠牲を無駄にしないように」

「ホームズ、君は」

 侯爵夫人が必ず犠牲になるという諦観のもとで策を練るつもりなのかと訊こうとして、私は口をつぐんだ。そんな、不実な、男らしくない以前に人としてあるまじき行動を君が、シャーロック・ホームズが、とるというのか!

「それこそがウォーカー嬢の狙いだったんだとぼくは思うのだよ」

 私が考えていたような、ラウム嬢を傷つける目的で私たたちを焚きつけたわけではないと? 侯爵夫人ほどの大貴族を犠牲にして?

「葬儀の場からベイカー街への道中でそこまで決断してのけるとは、いやはや、たいしたご婦人だと思わないかい」

「たいしたご婦人だって! 君はいったい分別というものをどこへやってしまったんだい、ホームズ。この女王国くにで、れっきとした貴族の、それもガーター叙勲者の子孫である侯爵夫人を犠牲にできる人間なんて、いていいはずがないことなのだよ。偉大なる我らが女王陛下ですら、そんなことは許されまいに」

 近代国家のいしずえは世論を考慮することから始まるといっても過言ではない。中世には、国王が新しい妃を迎えるために王妃を斬首しようが身分ある貴婦人を愛妾にして捨てようが、王様のすることでまかり通ってしまっていた。しかし現代社会でそれは認められない。一市民の娘であれ貴族の女性であれ、誰かを犠牲にする女王などというレッテルは国際問題上のみならず人道上、ありとあらゆる規範に照らし合わせて許されざるものだ。

「そう、だねワトスン。だがぼくたちは、げても侯爵夫人の騎士道に応えなければならないのだよ。それはわかるね?」

「しかし」

「やらなければならない」

 彼の口調はゆるがなかった。

「そしてだ。侯爵夫人を犠牲にできる人物を、ぼくはひとりだけ知っている」

 ふだんホームズは確たる根拠のないことは口にしない。証明されない物事を結果とは呼べないことを熟知している人間だ。その彼が、言った。

「侯爵夫人、そのひとだ」

 個室内に沈黙が訪れた。

 当然、私はホームズの口からすべてを聞き出したいと思った。しかし彼はそう言ったきり、それで何も話すことはないとばかりに口をつぐみ、ついでに目を閉じた。こうなるとあとはホームズが説明したくなるまで待つほかはないことを、経験上私は知っていた。




 私たちが訪ねたとき、ロンドン警視庁スコットランド・ヤード内にレストレード警部の姿はなかった。遣手の警部どのは未明に発覚した盗難事件の現場に朝いちばんで駆けつけ、捜査を仕切っている最中だという。そのご帰還をとうてい待てぬとホームズが言うので、我々は警部を追って現場へ向かうことになった。

 ところが警視庁の前の通りに出たとたんに、私たちの目の前で不幸にも馬車の事故が起こってしまった。馭者と乗客、そして通行人と、実に五人もの負傷者が出ていた。医者として私にはそれを放置できず、レストレードのところへはホームズだけが行くことになった。

「今レストレード君に会ってもぼくたちの調査には何の進展もないことだからね、君は安心して医師としての腕をおおいにふるってくれたまえ」

 そう言い残してホームズは行ってしまった。安心しろとはまた彼らしい、皮肉な軽口であるが、自らの職務を全うすべきだとの心遣いは、実際ありがたかった。そのままホームズと行動を共にしていたなら、きっと私はずっと五人のことを気にし続けなければならなくなったはずなのだから。

 そこからは、私たちふたりで行っていた調査はホームズの単独調査へと路線変更されてしまった。私は負傷者を搬送した病院で引き続き処置と二件の外科手術を手伝い、辺りが夕闇に包まれた時分になってからやっとベイカー街の下宿に帰れたありさまだった。そのときホームズはまだ戻っておらず、ハドソン夫人のキドニーパイでささやかな晩餐をとっているところへ、往診の依頼が舞いこんできた。幸いにして重篤な症例ではなかったものの、安静を見届けてから帰宅すると夜はすでに明けており、仮眠を取って昼頃起きると、一度はホームズも帰ってきたものの、またすぐに出かけてしまったというではないか。置手紙すら残されていなかったので、私としてはただ、ホームズを待っているしかなかった。

 午後も遅くなってから、いささか興奮した様子のリチャード・P・バリー卿がやってきて、遺言状の公開は明日の午前十一時と連絡があったことを教えてくれた。驚くべきことにその場には侯爵夫人も立ち会う予定だという。

「こんなときだというのに、彼女に会えてうれしいと思うなんて罰当たりだと思われますか」

 少年のように頬を染めながら彼は率直に言った。私は首を振って応えた。

「いいえ。ウォーカー氏のせめてものはからいだと、ホームズだってきっと言いますよ。あいにくと留守にしていますがね」

 すると気のいいヤンガー・サンは苦笑した。

「実はもう言われました。先生はあの人のことを、ほんとうによくわかっておられるんですねぇ」

 これには私も驚いた。

「もう言われたって、それじゃあ、ホームズにまた会われたのですか」

「ええ。先程みえられて、明日の時間のことをお話ししたら先生にもそれを伝えてほしいとおっしゃったもので。ギルバート・ラウム氏と会う約束があるそうですね?」

 あいまいにうなずいてお茶を濁した。そういえばホームズは明日、ラウム兄妹にそれなりにけりのついた報告をすると言っていなかっただろうか。

「ドレイドン前伯爵の未亡人のことをお尋ねでしたが、それはひょっとして」

 何故いまさらホームズはそんなことを知りたがったのだろう、私のほうが訊きたいくらいだったが、とりあえず言った。

「ミス・ラウムの潔白を証明するため、だと思いますよ。失礼ながら、あなたがたが親戚の方からお聞きになった話はまるっきり逆で、遺産などまったく受け取っていないそうですよ。婚約者が財産狙いの嫌疑をかけられたままでは、ウォーカー氏も浮かばれまいと、そう考えての行動だと思うのですが」

 はたしてそうだろうか。私自身、充分納得はできないような説明となったが、バリー青年はそれ以上は追及してこなかった。礼にかなった別れの挨拶をして帰っていった。

 それなのに、私はというとやはり得心がいかず、日付が変わった頃にようやくホームズが帰ってくるまで、まんじりともせず待ち続けてしまった。

「いやはや、二晩でパブを十七、八軒は回ったかな」

 酔態など微塵もないが。

「なにしろ、はっきりわかっているのはサンリベル卿の名前だけだっただろう。もうひとりのほうも名前だけ確認して、従僕や馬丁たちをあたったんだよ」

「ホームズ、私にわかるように説明してくれないかね? リチャード・バリー卿の話で君がミス・ラウムの過去に関する調査に向かったのだということはわかったが、どうして今頃になってまだ、そんなことを調べる必要があったんだい?」

「双方の言っていることが食い違っているからだよ」

 ホームズはきちんと答えたが、私の疑問を晴らすまでには至らなかった。そんな思いが私の表情に出ていたらしく、彼は補った。

「ヤンガー・サンが聞いていた話では彼女は貴族の遺産を相続していた。しかし、兄であるギルバートはそれを放棄したと言う。ミス・ラウムの現状を正しく述べているのはどちらなのか、ぼくにはそれを判断する必要があった」

「何故?」

 重ねて問うと、珍しくもホームズはためらうような気配を見せた。

「どうしてもそれをぼくの口から言わせたいのかい、ワトスン君」

 彼が私の心情を気遣うことがあるなど、信じられない。だが実際、彼はそうしていたのだ。もっとも、私が彼の配慮に気づいたのは感情の波が完全に静まってからだ。このときはまだ、彼らしく、言うべき時期を選んでいるのだと思った。

「根拠がないから言えないのかい、それとも他に何か理由が?」

「ある。が、君にとってはたいしたことではないかもしれない」

 なんという鉄面皮ぶりであったことか。おかげでますます私は友情のありがたみを感じる機会を遅らせてしまったのだ。

「ワトスン」

 ややあって彼は言った。

「殺人には動機がいるとぼくが言ったのを覚えているかい? 遺産相続は……立派に殺人の動機たりえるのだよ」

「ひどいことを!」

 それを聞いたとたんに、私はなにも考えられなくなった。

 どうやらすばやく間合いを詰め、ホームズにつかみかかろうとしたようである。

 反対に彼が私の両方の手首を握り締めた、その痛みで少し冷静になる。

 ホームズの言うのが聞こえた。

「だがぼくならば、自分に遺産が残されるかどうかも判らない段階で殺人を決行したりはしない。確実に自分に富がもたらされ、かつ、自分が疑われない状況でないとそれは意味を為さないのだ」

「つまり、フローレンス・ラウム嬢を君は疑っているわけではないと言いたいのかい?」

 私がそれ以上の腕力行使をする意思がないと見て取り、ホームズはつかんでいた手をそっと離してくれた。

「いや」

 寝室に向かいながら彼は言った。

「動機が成立しないと考えているだけだよ」

 そして、言い残してドアを閉めた。

「ワトスン、明日は、いや、もう今日になるが、いっしょにローズ・ギャラリーへ行こう。今夜はもう遅い、君もはやく休むといいよ」

 この時点でまだ、私が彼の配慮の真意に気づいていなくても責められはしまい。そう思うのは、私だけだろうか?

 私も寝室へ上がりベッドに入った。レストレード警部が出てくる夢を見たような気がするが、朝になって目が覚めたときには、どんな夢だったか忘れてしまっていた。




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