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紅い薔薇と白い薔薇4

 帰路の馬車の中で、ホームズは興味深げに薔薇の封印の手紙を読んでいた。

「……誤解とはおそろしいものだね、ワトスン君」

 そう言って彼は私に手紙を渡した。そこにいったい、どのような……ホームズをしておそろしいと言わしめたことが書かれているのか。他人宛ての手紙を読むなど恥ずべき行為ではあるが、私は大いなる好奇心と共に文面に視線を走らせた。

 誠実なるアーサー、冒頭の文字はそう読める。


『誠実なるアーサー

 なんという幸せなのでしょう。

 いつかは、あなたの造った薔薇をこの胸に抱き

 花嫁となれる日が来るだなんて!

 これほどすばらしいことはありません。

 あと、ほんの一ヵ月というのが本当に待ち遠しくて。

 でも私は真に自由になれるのですね!

 すべてがいとおしく、輝いて見えるようです。

 神の御前にてお会いできるのを心待ちにしつつ。

 敬愛をこめて。

                あなたの薔薇より』


「……これは」

 我が目を疑った。質の良い便箋には人品卑しからざる美々しい筆跡で、いかにも幸福そうな女性の心情が綴られているではないか。つまり、アーサー・ウォーカーは、婚約者がありながら別の女性とも式を挙げる約束を交わしていたのだ!

「ああ、やはり君も誤解したようだね」

「誤解どころか、それ以外のどんな意味がこれにあるというんだい、ホームズ?」

「ラウム嬢もそう解釈した。でも彼の返事をよく読めば、それが誤解だったということはわかったはずなんだ」

 次いで渡されたウォーカーの手紙は書きかけだった。


『わが薔薇よ

 いとしい我が妹よ──        』


 たったそれだけである。よく読むどころの話ではない。

「こと恋愛に関しては、ぼくよりも君のほうが理解が深いと思うのだが」

「私もそう思うよ」

「じゃあ訊くが、君だったら恋人に対して妹なんて呼び方をするかい? 東洋の国では古い言葉で夫婦のことを妹背いもせといったらしいけど」

「それは……」

 考え方にもよるだろうが、普通はいわないと思う。妹のようにかわいい存在だった相手でも、ひとたび恋人となればもう妹とは思わない。ましてや恋文でそう呼びかけたりはしないとホームズは言っているのだ。それゆえ、誤解なのだと。

 私は改めて封印の付いた手紙を読んだ。純然たる兄妹の交わした手紙、その大前提で読むならば……!

 ウォーカー氏は彼の造った薔薇、フェア・ヴィクトリアを()()()結婚式での花束ブーケにすることを約束していて彼女はそれを素直に喜び、再会の日を心待ちにしている、ただそれだけの解釈におちつくではないか。彼はラウム嬢と婚約中だったし、彼らの結婚式に()()招くつもりだったとしたら、なるほど、慶事での再会は劇的なものとなる。親族の権力によって禁じられながらも水面下で続けられた交際をオープンなものにする、そんな希望が文面にはほの見える。

「つまり?」

「そういうことなのだよ、ワトスン」

 車中のせいか、ホームズがひどく悄然として見えた。物憂げに、続ける。

「だがこれはあくまで推測の域を出ていない。従って、それは確認されなければならないというわけさ。すべてがただひとつの疑念をつまびらかにするために投げ出された犠牲なのだよ。この紅い薔薇は、そうまでしてその結論を引き出そうとしている。フェア・ヴィクトリアとはよくいったものだ」

「あれは白い薔薇だったと思うが、どうしたんだいホームズ?」

 彼らしくもない記憶違いである。

「いや、ワトスン。その薔薇のことじゃないんだ。ああ、でもそのことでもあるかな? 彼はまったく、ぴったりな名前をつけたものだよ」

「何のことだい?」

「フェア・ヴィクトリア」

「……女性への賛美だね」

「男性に使う場合は?」

「金髪? 白皙?」

 そこで馬車が我々の居住で停車したため、ホームズが料金を払って先に降りてしまった。だが降りしなに彼はちゃんと私にひとつの回答をくれた。

公正フェアな」

 男性であれ女性であれ、清廉潔白な人格は同質である。が、一般的にFAIRな女性、とくれば美人という意味だと私ならば考える。

「何故だい?」

 私の感情は未だフローレンス・ラウム嬢への騎士道精神で固定されている。本当にレディ∨がアーサー・ウォーカーにとって妹だったとしても、彼女がラウム嬢に対してした行為は卑怯ならざる(フェアな)ものとはいえない。

「……君の騎士道精神は驚嘆に値するよ、ワトスン」

 振り向きざまに言い残し、ホームズは下宿に入った。

「お客さまですよ」

 すぐに出迎えてくれたハドソン夫人の言葉を受け、私たちは足早に階段を上る。

 居間には、ギルバート・ラウム氏がいた。

 午後は夕刻へと移ろい、私は室内の明かりをけてまわった。薄暗くなりゆく部屋でどれだけ待っていたのか、ラウム氏は特にいらいらした様子もなく、静かに語った。

「……実はおふたりが帰られた後、アーサーの机をよく調べてみたのです。そうしたら抽斗の奥からこれが」

 まぎれもなく赤い封印の付いた手紙であった。意外なことに数は少なく三通。

「ラウム嬢には?」

 ホームズの口調は事務的だった。否定の動作で首が振られる。

「教えてはいません。ただでさえまいっているところに、追い討ちをかけるような真似は、とてもできません」

 受け取るなり、ホームズは手紙を開いた。すばやく目を通し、三通を続けざまに読み終える。そのまままた、何も言わないので、すがるようにギルバート・ラウムは次の手を繰り出してきた。

「あと、これもあったのですが」

 ポケットから取り出したハンカチを広げると、小さな銀色の塊が見て取れた。付属する金具の形から察するに、それはカフスボタンのようである。ただし、片方だけ。

「薔薇のモチーフです」

 少しく、声が震えていた。私たちを待つ間、彼なりに考えてしまったのだ。赤い封印のモチーフも薔薇。それが彼らの符牒なのだと。

「……白い蝋がついている」

 赤い薔薇にあててその関連を調べていたホームズが指摘した。

「ええ」

 おそらく、もう片方のカフスボタンによって彼女は封印を施すのだ。アーサー・ウォーカーはこれで白い蝋を捺す。対のものをふたりで分けて持ち、使う。若い男女が交わす手紙の法則、それを思う彼の心中に私は深く同情した。血の繋がりのない兄妹愛なのだと、早く教えてやりたい。だが、口を開きかけた私を制するかのようにホームズは言った。

「我々はこの手紙の送り主と思われる人物と接触する予定です。すべての報告はそれから、ですがよろしいですかな、ラウムさん?」

「もちろんですが……送り主はやはり?」

「今の段階では不公表といたしましょう」

 自分の椅子に腰を下ろすと、ホームズは組んだ膝に組み合わせた指を乗せた。

「そうなんですね、ホームズさん」

 私はラウム兄妹がレディ∨の存在を知っていたことを思い出した。

「あなたのご想像にお任せします。しかしそれよりもぼくは、あなたがこの事件をどう思っているのか、知りたいのですが」

「どう、とは?」

「つまりウォーカー氏の死は自身の過失によるものであり、彼が農薬の使い方をまちがえるような人物であったのか、それとも命を狙われるような敵を持っていたのか。同じ屋敷内に住んでいたあなたならよくおわかりだと思うのですが?」

 事件、とホームズは言った。なんという男であろう。シャーロック・ホームズは今()ってして、自称ウォーカー嬢の依頼を遂行しているのだ。その理由の善悪に縛られることなく、ひとたび自分が事件とみなしたものには完全な決着を求める。これぞ、本物の探偵である。

「アーサーは……」

 ギルバート・ラウムの証言は嘘偽りのないものであったと私は断言しよう。

「しっかりした男でした。うっかりと農薬をまちがえるようなことはないし、誰かに殺されるほどの恨みを買うような人間でもありません。誠実で、信用できる男です。妹と婚約してから僕たちに彼のところに住むよう言ってくれましたし、この手紙にしたって、何かのまちがいとしか」

「焼けぼっくいに火が点いたわけではなく?」

 わざと挑発しているとしか思えない意地の悪い質問である。当然、ギルバートの逆鱗に触れたらしく瞬時にしてその白面が怒気に染まる。

「彼のことを憶測で卑しめるのはやめてくれないか。彼女とのつきあいはけっして世間一般でいうところの恋愛がらみではないと、アーサーは僕に誓った」

「では()()()()、ウォーカー氏にとってその人がどういった人物だったのか、ご存知だったのですね」

 ホームズのすることには、おおよそ、無駄というものがない。意図的に相手を怒らせて求める答えを得るとは、小面憎い手法ではないか。

「ええ、僕は知っていました。妹は知りません。内緒にすると彼と約束したのです。絶交の理由を聞かされたのもありますが、もう終わった過去のことだと思っていたので」

「なによりウォーカー氏にはそんなそぶりなど、なかったんですね?」

「その通りです、ホームズさん。彼は一途に、フローレンスを愛していました」

「彼女の不幸な過去を知っていてなお、結婚を申し込んだくらいですから、それは本当のことでしょう」

「なんですって?」

「フローレンス嬢の不幸な過去、と言いましたが?」

「ホームズ!」

 いくら彼といえども、言っていいこととそうでないことがある。それを止めるのは、やはり私の役割であろう。

 だが、ギルバートはホームズのこの発言をとがめなかった。勢いよく立ち上がったが、またすぐに掛け直して言った。

「そうです。妹は……かわいそうに、これまでにも何回か悲しい別れを余儀なくされてきました。ですがそれらはすべて、アーサーと出会うまでの長い前奏曲のようなものだと思っていました。どなたにお聞きになられたのか知りませんが、まるで財産狙いのようなことを繰り返す女と言われていたでしょう? 妹はただ、プロポーズを受諾しただけだったのに……もちろん、父親ほども年の離れた相手に若い女性が恋愛感情を抱くのは困難なことでしょう。しかし我々にはそれを断ることはできなかった」

 身分違いを理由に断るにしろ、フローレンス・ラウム嬢は貴族の家柄に逆らいきれなかったのだ。それはおそらく、権力と……経済力ゆえに。

「失礼ながら」

 意図の読めない調子でホームズが指摘する。

「ラウム嬢はこれまでの結婚によってかなりの遺産を相続されているのでは? わざわざ看護婦という過酷な労働を続ける必要もなかったのでは?」

 ホームズの言葉のとげは中傷ではなく、単純に事実確認である。もう慣れてしまったのか、ギルバートは平静に言った。

「そんなものは受け取っていません。フローレンスはすべて辞退したんです」

 ということは、不遜にもホームズが言うところのラウム嬢の不幸な過去は財産めあてという欲にまみれたものではなく、長いものには素直に巻かれざるを得ない一般市民の悲劇にほかならない。

 汚れなく、美しい、献身的な女性。それが彼女の仕事とはいえ、真心をこめて世話をされて心を(たとえそれが下心にすぎなかったとしても)動かされない男がいるだろうか?

 彼らの身分をもってすれば、如何様いかようにもできたはずなのに、正式に結婚を申し込んだ。それほどまでに、すばらしい女性なのだ。

「もちろん、僕の収入はほとんどありませんので正直な話、くれるものを貰って悪いかと思うときもあります。やましいことが何もない状況では、むしろ正式な遺産相続を放棄するほうが不自然でしょう。ですがそれを受けてしまったら、葬儀の席で悪しざまに罵った親族たちの邪推を肯定してしまうような気がして、僕にはとうてい、フローレンスに相続させるなど認められませんでした。妹もまた、けなげに、耐えてくれました。自分にはこれしかできないからと看護婦の仕事を続けてくれたのです」

「立ち入ったことをうかがいますがラウムさん、あなたご自身の職業は?」

「僕は、詩を書いています。売れない詩人というやつですよ」

 彼の口調には、本来ならば養うべき妹に依存して生きているという、言い訳めいた歪んだ卑屈さは感じられなかった。そんなことなど気に病むことはない、とラウム嬢が尽くす姿を容易に想像できる。

「ずっと、兄妹助け合ってこられたんですね」

 同情のかけらすら滲ませていないホームズの物言いに、彼が何か他のことに注意を向けているのだと気づく。

「しかし今回の場合は、フローレンス嬢がウォーカー氏と愛しあっていた証として、遺言をお受けになるべきでしょう」

「そう、ですね。それがアーサーの気持ちなのなら、妹にはその資格があると思います。ですがそれは彼の遺言状が公開されてから考えることでしょう」

 住居ひとつとってみても、彼らはアーサー・ウォーカー氏の厚意によってローズ・ギャラリーに身を寄せていたにすぎない。しかるべく遺産を相続して今後を生きるか、再び兄妹そろってのつましい生活を続けるか、すべてはウォーカーの心ひとつ。

 彼はいったい、その愛に報いるべく遺言を書くのに間に合ったのであろうか?

「遺言状の公開は?」

明々後日(しあさって)になります」

「では」

 驚いたことにホームズはきっぱりと宣言した。

「その日までに何らかの結論を導き出せるよう、調査に励みますよ、ラウムさん」

 シャーロック・ホームズは言ったことは必ず遣り遂げる男である。これまでの道程で彼にはどれだけのものが、見えてきたのだろう。同じ道をたどったはずの私は、五里霧中もいいところである。

「まさか君たちは?」

 ホームズの調査がこれからどの方面に進むかを察して、ギルバート・ラウムは表情をこわばらせた。

「明々後日、ローズ・ギャラリーにうかがいます」

 それ以上、話すことはないというホームズの意思表示を彼は受け入れた。あらたに見つかった三通の手紙とカフスボタンを私たちの手に委ね、ラウム氏はベイカー街を去った。

「ホームズ、君は……ほんとうに明々後日までに?」

 私は、それだけ言うのが精いっぱいだった。わずかも気負う様子なく、ホームズは椅子の上で体を伸ばしている。

「他力本願とかいうのはぼくも信じないが、あのヤンガー・サンたちには期待してもいいと思わないかい」

「それは私も彼らにはそうしたいよ。だけど明々後日までに? 本気でそう言っているのかい?」

「本気だよ、ワトスン君。ぼくはいつだってそうだ。聞こえないかい? 電報がきたようだ」

 まったく地獄耳とでもいおうか。

 はたして、それはリチャード・バリー卿からのもので、我々に明朝、ブルーチェスターフィールドへ向かうよう指示する内容だった。

 サリー州ブルーチェスターフィールド、それほど遠いわけではない。だがそこで会わなければならない人物、訊かなければならない事柄を思うと、つい緊張してしまう。ともあれ、明日は早くに発とうということで、それ以上の話し合いはせずに眠ってしまった。




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