紅い薔薇と白い薔薇3
いわゆる一患者と主治医という関係だったときから感じていたことなのだが、リチャード・フィリップ・バリーという名の貴族の家の若者は、まれにみる好青年であった。こののっぽの青年は、驚いたことに傷が癒えるなり志願して半年ほど従軍し、負傷兵として帰国してから医学部に入り直したという。
「ではゆくゆくは外科医を?」
「ええ。今度は従軍医師として前線へ出ようと思っています」
再会の挨拶の流れから彼の近況を聞くに至ったのだが、そこでようやく私は室内に喪服のままの男性がいることに気づいた。
「ああ、紹介します、ワトスン先生。こちらはアンソニー・ハワード。自称、音楽家のタマゴだそうです」
本来ならメルヴィル子爵の次男でケンジントン伯の又従兄弟……といったややこしい解説がつくところを、リチャード・バリー卿は適切に省略してくれた。
「トニー、こちらは二年前に僕のすばらしい名誉の負傷を、自慢できるほどの傷跡を残さずに縫合してしまうという偉業を成し遂げてくださったドクター・ワトスンと」
「友人のシャーロック・ホームズです」
それまで沈黙を守り通していた彼を、首尾よく私はふたりに紹介した。その名前は、他のあらゆる説明を要するまでもなく私たちの来意をヤンガー・サンたちに伝えてくれた。
「……何かの事件の調査なんですね?」
一瞬だけ、ふたりの若者の目線が交錯した。しかしそこに怯えや不安の影はなく、むしろ安堵にも似た合意が含まれていたように私は思う。
はっきりとホームズは切り出した。
「おふたりのご友人の、アーサー・ウォーカー氏の死について調査しています。つまり、氏は自らの過失ではなく故意によって殺害されたのではないかとの疑いをいだいた方がいらしたわけです」
「警察ではなく?」
「もちろん、警察はまだこの件には介入していません」
「では……」
あのひとが、というつぶやきが聞こえたような気がした。だがそれをはばむように、アンソニー・ハワード卿がすばやく発言した。
「実は私たちは彼の葬儀の直後からここで相談していたんです。私もリチャードも、親戚の者の葬儀に次いで今日、不審な人物を見かけたもので、そのことを告発して何らかの手段を講じなければならないのではないかと」
「なるほど。輝かしい生命の火を強引に消し去るといった暴挙を犯した存在を見過ごすことはできないと、考えられたわけですね」
どこかで聞いた言葉だった。私にはどうしてホームズがあのようなことをしてのけた人物の言葉を使うのか、まったく理解しがたかった。
「おふたりがまだ相談中だったとすると、この件を誰が依頼されたか、さぞ不思議でしょうね」
「え、ええ。僕は今、そのことをうかがおうと思ったんですよ、ホームズさん。いったい誰が?」
シャーロック・ホームズは、まんまとこの正直な若者たちを手玉にとってゆく。
「ウォーカー氏の妹と名告られましたよ」
「ああ……」
「そうですか」
その様子は、意外な人物の名前を聞いたといったものではなかった。ふつう、仲のよい友人にいもしない兄弟姉妹がいたと聞かされて、人はこうあっさりうなずけるものだろうか。現に、ギルバート・ラウム氏の反応がいい例である。
「彼に妹はいない、とは言わないのですか」
ホームズ!
私は心の中で思わず感嘆の声を発してしまった。
つまり彼は、彼らがその女性の存在を認識していると最初から考えていたのだ。
「こちらへうかがう前にローズ・ギャラリーへ寄ってきたのですが、ラウムさんはウォーカー氏には妹などいないと断言されましたよ。しかしその名を使って我々に調査を依頼した女性が誰なのか、ミス・ラウムはご存知のようでした。だが、それがいったい誰なのかまでは、知っていても教えられないという態度をとられた。女性らしい慎みからだけではなく、何故教えられないのか、その理由はあなたがたも知っておられるはずだ」
ふたりは驚愕よりは称賛の色をたたえたまなざしでホームズを見つめていた。潔い決意を以って、まじめな姿勢をさらなるものにする。
「……確かに、アーサーには血肉を分けた妹はいません。ですが、その魂を分かち合った存在としての妹がいたことを僕たちは知っているんですよ、ホームズさん」
「ではその女性が依頼をしたと?」
「私たちの知っている彼女なら、ありえないことではありませんね。そういうひとでしたから」
「でした?」
過去形であることにホームズは反応を示した。
「もう何年も会っていませんので。彼女の身分を慮ったさるお方が、彼女を外国の学校へ入れてしまったんですよ」
話しながらバリー青年は写真立てを取り上げてホームズに手渡した。
「高貴な身分の女性なのですね」
ウォーカー氏のものと同じ写真だった。
「彼女は……」
言いよどんだ友人を励ますように、もうひとりのヤンガー・サンがうなずく。
「ブルーチェスターフィールド侯爵夫人、レディ・アン・ヴィクトリア・グレイです」
一市民であるフローレンス・ラウム嬢には口にすることすらはばかられる名前であったわけだ。そのような貴婦人が一介の園芸家にわが薔薇、と呼ばせていたとは、あまり外聞の良い話ではない。易々と醜聞に分類されてしまう種類のものであり、身分違いの情熱の激しさを思えば、ラウム嬢がいかに心を痛めていたか自ずと知れようものだ。だが私はとんでもない思い違いをしていたと、すぐに知ることになる。
「ずいぶんとお若い侯爵夫人のようですが」
ホームズの着眼点は概ね私とは、ずれている。
「当時はまだ十五歳にもなっていなかったと思いますよ。物心つくかつかないような年齢で両親を亡くしてから女子相続人扱いで、子供らしい遊びも知らず親しい友人もなく、初めて会ったときはなんてつまらなさそうな表情をした女の子だろうと思ったものです。まあ、本当に子供でしたし、見知らぬ大人たちの中にいきなり飛びこんできたわけですから、人見知りをしていたんだと後からわかったんですが。彼女があのすばらしい紫水晶色の瞳を輝かせて微笑みかけてくれるようになった頃には、僕らはみんな、レディ∨のことを大好きになっていましたよ」
「レディ∨と呼んでいらした?」
「ええ」
「わかるでしょう、ホームズさん。私たちとしては彼女を親しみをこめて呼びたい。だが、そう気安くしすぎるのは失礼にあたる」
「ですから、彼女をレディ∨と呼べることが僕たちみんなの特権なんですよ」
「みんな、とは?」
「この写真に写っている者たち全員、です。僕たちは記念すべきベーズクリック卿の《薔薇を愛する会》の一期生なんです」
「そして、最初で最後の薔薇色の日々を送った仲間でもあります。というのも、その冬から伯爵はベッドから起き上がれなくなってしまったし、レディ∨は会に参加していたことを親戚の堅苦しい後見人に知られて、牢獄みたいな学校へ入れられてしまったし」
ホームズは指を組みながら、何かを考えているようだった。
「まったくひどい話ですよ。そりゃあ、どこの国の言葉でしたか『桃の木の下で頭を掻くな』とかいうことわざがあるそうですが、僕らにだってそんなことはありっこないってわかりきっていたものを、無理やり絶交させられましたからねぇ」
「絶交?」
おだやかならざる言葉だ。
「そうなんです。会うのもだめ、文通もだめ。一応は貴族の家の息子の私たちですらそうでしたからね。アーサーはおそらく一生、彼女に会えないと思ったのでしょうね」
「それで、薔薇に名前を」
ホームズは冷静に言ったが、私は思わず叫んでしまった。
「フェア・ヴィクトリア!」
女王陛下ではなく、いとおしいレディに捧げられた品種であったとは!
案の定、ホームズは私のロマンティックな結論を非難するがごとき冷めた視線をこちらに向けたが、そっけなくヤンガー・サンたちの方に向き直って言った。
「では、実際にウォーカー氏の葬儀で同席するまであなたがたは侯爵夫人には会っておられないのですね」
するとふたりの表情が怪訝そうなものになった。
「いいえ? アーサーの葬儀にはレディ∨は来ていませんでしたよ」
「七年近く会っていませんが、僕らに彼女がわからないはずはありませんからね」
「そうですか?」
ホームズの口元に独特の微笑が一瞬だけ浮かんで消える。
「おふたりの後ろに背の高いご婦人がいませんでしたか」
「背の高い、女性?」
少しだけ考えこむと明朗にトニー・ハワード卿は言った。
「そういえば、遅れて入ってきた女性がいました。ですが、あれはレディ∨じゃありませんでしたよ。すっぽりヴェールを被っていた人でしょう?」
「そう。色濃いヴェールのせいで、目鼻立ちなどとうてい判別できなかったと思いますが」
明達なるヤンガー・サンは、確固たる判定基準を用いていた。
「でもあの女性は6フィート近くあったでしょう。レディは5フィートあるかどうかといった小柄な女の子だったんですよ」
「成長期なら女性といえども急激に身長が伸びることもありますよ」
しかも大輪の花が開くように、少女の成長には目を瞠るべきものがある。一般論というか医学的見地というか、ともかく、私の考え方も捨てがたいもののように思えた。とはいえ、何かひっかかるものがあったが。
「ええ、ですが」
いったん言葉を切って、確認するようにアンソニー・ハワードはリチャード・バリーの方を見た。青年がうなずく。
「女性の外見を批評するのは主義に反するのですが、あれは、侯爵夫人が身につけるような衣服ではありませんでしたよ」
「あ……」
とたんに私の頭の中でひっかかっていたものが解けた。
服装、そうである。
アリス・ウォーカーは女家庭教師をしていると言った。その職業にふさわしい、きちんと手入れされているが質素な黒い服を身にまとって私たちの部屋にやってきたのだ。だからこそ、私は彼女を園芸家の妹であると認識しえたのだった。あの喪服はそういった階層の女性のものであり、貴族の称号を持った人物が袖を通す類のものではなかった。
ということは、やはり、彼女は侯爵夫人の代理人であり、外聞をはばかって葬儀に出た際に小耳に挟んだうわさ話を主人にしてしまい、その結果、ホームズに相談が持ちこまれたというのが今の状況の背景なのであろうか。おそらくそうに違いない。
そこでようやく私は気づいた。なんということか。現状は依然としてあの可憐なフローレンス嬢に掛けられた疑惑を払拭するに至っていないのだ。
つい私は、その身分を詐称し、婚約者を亡くしたばかりの女性に対して無神経にもほどがある行動をとらされたことに対する怒りから、あるいは……この世に生を受けたる一男子として、当然感じるべき心情により、アリス・ウォーカーなる者に悪感情をいだいてしまうようになったのだが、ウォーカー氏が毒殺されたのではという疑いはまだ晴らされていないのだ。
「それは……いいでしょう」
いずれはっきりさせるのでたいした問題ではない、そんな気配を匂わせてホームズが言った。
「では、侯爵夫人が帰国しているのかすらあなたがたはご存知なかったのですね?」
「ええ」
はっきりと両君はうなずいた。
「正直なところ、今回こんなことさえなければ、僕たちもあのひとの存在を感じる日常を送ってはいなかったんですから」
「あの夏の日、チャリティの野外劇を見たティレジェンベリィ卿がレディ∨を連れ帰ってしまって以来、会っていないと誓いますよ」
「野外劇?」
「なにしろ《薔薇を愛する会》ですからね。夏の大会の締めくくりにチャリティ劇でリチャードⅢ世を演ったんです」
「なるほど、それで権威ある後見人が怒って侯爵夫人を外国の寄宿舎へ入れてしまったと」
「それはまさか、男装したからとか?」
チャリティとはいえ一般民衆に立ち混じって劇に出たためであろうと推察しながら、確認の意味をこめて問うと、果たしてホームズが満足する答えが得られたらしい。
「いいえ、彼女の役はレディ・アンでした」
アンソニー・ハワード卿の言葉に、つぶやく。
「レディ・アン・ヴィクトリア・グレイがレディ・アンを演じた……」
その意味するところを私が理解するのは、ホームズの推理が披露されてからのこととなる。
残念なことに私はこのとき、レディ・アンと呼ばれた歴史上の人物についての概要を思いながら──皇太子エドワードの未亡人で、後にリチャードⅢ世の妻となったために殺害された──うかつにもその基本的な現実を失念していたのである。
「舞台が終わってから記念撮影をする予定だったんですがね」
リチャードが書き物机の抽斗から取り出した写真立ての中に、稚いブルーチェスターフィールド侯爵夫人の姿はなかった。ホームズはそのことについては何も触れず、一通り眺めただけですぐに私に写真を手渡してくれた。
「では」
あまりにも静かに、さらりと彼が言ってのけたので、私のほうが鼓動が激しくなってしまう。
「レディの消息をうかがうには、ティレジェンベリィ卿をお訪ねするのが最も適切というわけですな」
「いや、それは」
ヤンガー・サンの反応はすばやかった。
「どうかやめてください、ホームズさん。彼女のために」
「ホームズ」
当然、私もその策には反対である。侯爵夫人という存在にそこまで介入する権限は、我々にはないのだから。よくて名誉毀損、下手をするとこちらが恐喝容疑で訴えられ、投獄される脅威がその先にはある。フローレンス・ラウム嬢を悩ませ、傷つけた相手を追及するのは私とてやぶさかではない。しかし、いかなシャーロック・ホームズといえども貴族を敵に回すような真似をさせるわけにはいかなかった。
「……わかりました」
しっかりと決意をこめたまなざしで、青年は探偵を見つめた。
「マウント・ストリートに彼女がタウンハウスにしていた家があります。そこの執事に訊いてみましょう。彼は前侯爵、つまりレディの祖父どのの腹心で夏の大会の理解者でしたから、ひょっとしたら」
「リチャード・フィリップ・バリー、おい!」
「何を恐れることがあるというんだい、アンソニー? 僕たちはすでにティレジェンベリィに一方的に絶交を言い渡されているじゃないか。レディ∨に会えない以上に最悪のことなんて、あるのかい?」
音楽を愛する若者は毅然として言った。
「彼女に、迷惑がかかる」
「迷惑と思うような人じゃない」
「それでも」
「僕たちはすでにひとつ、彼女に不義理をしてしまった。アーサーの死を伝えなかったことだ。たとえ新聞や何かであのひとがそれを知ったとしても、そんな大事なことを報せないなんて、僕たちはどうかしていた。そしてたぶん……君も感じているようにこの件はあのひとがホームズさんに依頼したんだ。だったら今度こそ、僕たちはそれに応えなければ!」
少なからず矛盾を感じた。
このふたりも私と同じく、アーサー・ウォーカー毒殺容疑の捜査を依頼したのはブルーチェスターフィールド侯爵夫人レディ・アン・ヴィクトリア・グレイその人だと思っている。しかし、現在ホームズが行っているのは、その侯爵夫人だと思われるウォーカー氏の薔薇の君捜しだ。
薔薇といえば、あの紅薔薇の封印を使った手紙のこともある。
彼らは侯爵夫人との文通すら禁じられたと言った。では、アーサー・ウォーカー氏に宛ててあれをしたため、封蝋に薔薇を捺したのは誰なのだろう? 禁を破った侯爵夫人なのか、それとも、まったくの第三者にしてラウム嬢を脅かし、ウォーカー氏を殺害してのけた人物なのか?
「──よ」
「え?」
私の考察はアンソニー・ハワード卿の思いもよらぬ言葉に中断された。問い返す友人に、彼はもう一度同じことを告げる。
「執事に訊くには及ばないよ」
こちらも、何かを思い切ったようにくっきりとした表情で言った。
「レディ∨は帰朝している。フェーラー卿の上の令嬢と同じ寄宿舎だったそうで、一緒に卒業したと聞いた」
「何でそんなこ、と……フェーラー卿というと」
「そう。今年七歳になったばかりの下の令嬢にピアノを教えているものでね」
つまりハワード青年は我々ばかりかその友をも謀っていたのである。だがその心中は、用意に察せられる。
気のいい若者は屈託のない笑顔を親友に向けた。
「よし。じゃあ正式にレディ∨に面会を申し込もう。ティレジェンベリィ卿が怒ったってもう気にするもんか。運良くマウント・ストリートにいればいいが、カントリー・ハウスに戻っているようでしたら、ホームズさんと先生には領地までご足労かけますが?」
「かまいませんよ」
してやったりという顔を見せないのがホームズのホームズらしいところである。侯爵夫人との対面は、彼らのお膳立てに従うことにして、ひとまず私たちはベイカー街の部屋に戻ることになった。
『桃の木の下で頭を掻くな』:正しくは『李下に冠を正さず』