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前奏曲

 それは、なんとも美しい、感動的なまでにすばらしい日没であった。

 たいして詩心を持ち合わせていない平凡なる医師、この私ジョン・H・ワトスンをして、なんとかこの奇跡ともいえる光景をつぶさに、余すことなく表現しつくしたい欲求に駆らせる、その神秘。黄昏たそがれという言葉にこめられた意味合いの美しさ、あざやかさときたらどうであろう。一日の診療を終え、ベイカー街の古巣へと向かう道中を私は心から楽しんだ。

 ホームズと会うのは久しぶりだった。

 半年ほど前に私はパディントンで開業し、そこそこの忙しさと……家庭生活を営むための生活習慣などから自然と彼と過ごす時間が少なくなってしまったのだ。しかしまったく断絶しているのかというとそうでもなく、風変わりで奇妙な事件を手掛けるためにホームズが私を呼び出すことはしばしばあったし、メアリーの会心作の夕食に彼を招待したこともあった。今日にしても、フォレスター夫人と友人たちから成る有志が主催する慈善活動の手伝いに妻が駆り出されたために、私は友人の部屋で擬似独身生活を楽しむ予定なのである。

 すでに昨日のうちに訪問は伝えてある。シャーロック・ホームズは事件調査に乗り出していて不在、ということにはなっていないはずだった。

 きらめくような朱金色に染められたベイカー街を見ても、私の心は変わらず、詩的な高鳴りに鼓動をまかせていた。それは、けっして身体的な疾患からのものではないと、断言できるのだが……暖かく私を迎え入れてくれたハドソン夫人と挨拶を交わし、いつだったかホームズが十七段あると指摘した階段を上り始めたとたんに、美しい夕暮れの余韻が、文字通り音をたてて崩れてゆくのを感じてしまった。

 二階からは、まごうことなきストラディヴァリウスの奏でる、とうてい音楽とは呼べないおそろしき現象が降ってきていた。

「……ホームズ」

 辛抱強く、私は階段を上りきった。勝手知ったる廊下をたどり、かつては彼と共有していた居間に入る。

 濃い色の部屋着に包まれたホームズの長身は、早くも影を落とした室内にすっかり溶けこんでいた。なんら感動を示すことなく目を閉じ、優雅にして機敏なる動作で弓を操り奇怪な音の連なり(私の主観としてそれは音楽ではないはずなのだが、一音一音としては美しい音色をくゆらせているのだから始末が悪い!)を作り続ける。

「……今日のはずいぶんと斬新な曲想だね。それとも前衛的、とでもいうのかな」

 パガニーニやメンデルスゾーンなどが書き上げた優れた芸術作品を完璧に弾きこなす技量と解釈力を持っていながら、この友人は時々、狂気じみた奇抜なものを自作自演してくれるのだ。礼儀正しく挨拶の言葉を述べる手間を省いて実にひかえめに感想を口にすると、手を止めてホームズは私を見た。

「君もそう思うかい? だとしたらこの曲は聴き手をり好みするもののようだ」

 どうやらホームズは口直しならぬ耳直しの一曲を披露してくれる気はないらしく、大股に部屋を横切るとヴァイオリンをケースに収めた。それから、室内を明るくすると、テーブルから書類を取り上げいつもの椅子に腰を下ろしてじっとそれに見入る。

「作曲をしていたわけではないんだね、ホームズ?」

 いささかほっとしながら問いかけると、彼は書類から目を上げ、口元に微かな苦笑めいたものを浮かべた。

「残念ながら、これはぼくの曲ではないんだ。今日の午後、さる高貴な女性から送られてきたものだ。ちょっと変わった感覚のおかげで、暗譜してしまったよ」

「送られて?」

「そう。これがその譜面だ」

 ホームズが渡してくれた書類はかなり厚手の高級紙で、巻かれていたらしく、まだ癖が残っている。開きながら裏返すと、上の端とそこから三分の一ほど下がった位置に、封緘に赤い蝋を使った形跡が見て取れた。この様子だと、封印はほぼ完璧な状態ではがれていそうだ。

 それにしても、高い身分のご婦人が諮問探偵に楽譜を送ってくる理由というのが、わからなかった。その事実そのものからが、シャーロック・ホームズに与えられた課題なのだろうか。午後中、ずっと彼はこの問題に取り組んでいたのかもしれない。

「モルヒネよりはましな暇つぶしだろう?」

 私の思いなど、ホームズはお見通しなのである。

「ということは、君はもうこれの謎を解いてしまっているんだね」

「謎? そうだね、ワトスン。もちろん、ぼくにとっていちばんの疑問は、はたしてこれが真に聴衆の聴くに堪える代物しろものかどうかということだったのだが、今の君の所見ではっきりわかったよ。侯爵夫人にはもっと旋律を歌わせる作曲家を雇うよう、進言しよう」

「なんだ、作曲家の評価が依頼だったのかい?」

 侯爵夫人という名を、いともあっさりとホームズが口にしたので私は少なからず驚いた。しかし外聞をはばかるような内容ではなさそうなので、つっこむような真似はしなかった。

「だとしたら、侯爵夫人は、そもそもぼくに、譜面など送ってくれたりはしないだろうね」

「挑戦?」

 言葉は不適切かもしれないが、かの貴婦人ならばシャーロック・ホームズを相手にそういった種類の冒険をされかねないと思った。

 ホームズが《あのひと》と呼ぶ女性とは性質が異なるが、確実に、その記憶に強烈な印象を刻みこんだ存在。

 愛情ではないがきわめてそれに近く、尊敬に似ているがそれ以上に心がうちふるえ、畏怖いふよりは驚愕に満ちた感情をどのように言葉で表現すればよいのか。ともかく、私がその高貴なる女性に覚えた想いはそれであり、今は亡きアーサー・ウォーカーも……そしておそらくはホームズも、表現は違うとしても私と同じ気持ちをそのひとに抱いたであろうことは推して量るべし、である。

 私の質問には答えず、ホームズは言った。

「さあワトスン。この譜面を見て君がわかったことを挙げてみてくれたまえ。ちなみにそれは、送り状とは別封で、封蝋はちゃんとってある」

「……《Ständchen》!」

 また表を向けて楽譜をあらため、やや太文字で形よく書かれた曲名に私はあきれてしまった。私はそれほど外国語に堪能なほうではない。しかしまあ、一応は開業している医者である。ウムラルト(‥)のおかげでかろうじて判じたとはいえ、題名の意味はわかった。

「ぼくもその命名はいただけないと思うよ」

 ホームズがうなずく。私は音楽にも造詣が深いとはいえない。だが、セレナーデとは……小夜曲と呼ばれる曲であるならば、もっとこう、叙情的なおもむきに富むものではなかろうか? どこの物好きがあの曲にこの名をつけたものかと、作者名を見る。

「何と読むんだ、これは? モーツ、いやモォズ?」

「英国風ならばモース、だろうね。君が気づいたように《Ständchen》はドイツ語だし、《Mohs》はたしかそういう名前の鉱物学者がいた。モースの硬度計があるからね。他に気がついたことはないかい?」

「なんだかこの楽譜は、ものすごく演奏が難しそうだ。さっき君は、てんでんばらばらに弾いてるものと思っていたんだがさにあらず。とても忠実に弾きこなしていたんだね、ホームズ。名前は忘れたが、このおたまじゃくしの合間にある記号は何とか休符とかいうんじゃなかったかな。それがこんなに散らばっていたんじゃあ、君、拍子がとりづらいだろう」

 高く組んだ膝の上で両手を組み合わせ、指先を開いてホームズは言った。

「正しくリズムを刻めば四分休符も八分休符も、そう厄介なものじゃないよ、ワトスン君。ただし、君が言うようにこの譜面は難解になるように書かれていると思われる。それは何故かを考えたとき、ひとつの推理が成立する」

「つまり?」

「難曲を弾きこなすには高度な技術が必要となる。そのために演奏者は難度の高い練習曲をこなし、解釈に努める。しかしこの曲には、さしたる技量は必要ではないのだ。それなのにこの譜面の読みづらさはどうだい? 作曲者の未熟さ、それもあるだろうが、もっと納得できる理由があるとしたら?」

 考えるまでもなかった。先にホームズが言った聴き手を選り好みするという言葉は、寛容すぎる。つまるところ、このモースというドイツ語を使う人物は、音として読めないもの、あるいは読まないものを作ったのではなかろうか。誰かに聴かせるための作曲をしたわけではないのだ。

「暗号……?」

「ではないかという示唆はあるね」

 ホームズは立ち上がってマントルピースから一通の手紙を取り上げた。私に読むようにと勧めるので、楽譜を脇に置いて手紙を受け取り、封筒に指をつっこむと、きちんとたたまれた便箋にはさまってボタンのような赤い塊が出てきた。楽譜を開封したときに壊れずはがれた封印の蝋らしく、私が手にしている白い封筒とまったく同じ薔薇の文様が、きれいに残されていた。それを封筒に戻して、私は便箋を開いた。


『親愛なるホームズさま、ワトスン先生

 いかがお過ごしでしょうか。

 先日、かくもめずらしい楽譜を

 入手いたしましたのでお送りします。

 ご解読の後、しかるべきところへ

 お届けくださるよう、お願いいたします。

                   かしこ』


 署名はなかった。しかしその流れるような瑞々しい書体といい、赤い薔薇の封印といい、私たちには差出人を特定するに差し障りなどあろうはずがなかった。

 丁寧な小さな書き文字は、間にどんな語句も書き足すことができないように思慮深く詰められており、侯爵夫人の聡明さをも物語っている。

 これは、単なる挑戦ではないのだ。

「こう言っては無礼なのかもしれないが」

 私はため息を禁じ得なかった。

「ティレジェンベリィ卿の心情がわかるような気がしてくるよ」

 もちろん、貴族などという、そんな、雲の上の人々のことなど、ふだんの私にはまったく関係のないことである。この国においては、しごく当然のことだ。貴族は貴族、庶民は庶民、合容れるものではない。

 しかしその因習を突き破ってされたひとつの勇気を、私は知っている。

 ひとりの女性がひとりの人間としてその良心のおもむくままに行動し、真実と……そして、正義とを勝ち取った瞬間を見ている。

 シャーロック・ホームズの忠実なる記録者として私は、これまでに彼が解決した数々の事件を手記として新聞に発表してきた。中には、状況を鑑みるにあたり、匿名を用いたり、発表までに歳月をおかねばならなかったものもあった。それ──その事件について、ホームズは特に箝口令は敷かなかった。だが事件に深く関わっていた女性が侯爵夫人という身分であり、私自身が先程のべた複雑怪奇なる感情と騎士道精神にどっぷりと感染していたために、書かなかったのである。これから先にも、私があの事件を発表することはない。ただ、真実を残すしるべとして、密やかに記しておこうとは思う。私はたぶんそれを、ホームズにもけっして見せることはないだろう。188X年に起こった悲しくも恐るべき事件のことは……。



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