第八話 天泉 莉々亜
※このお話は2019年という設定でしたが、そうした理由にさほど整合性が無いと判断したため20XX年設定に変更しました。
些細かつ大変情けない報告ですが、ご容赦ください。
八代目九十九濘山は実在していない。正確には現時点では実在していない。
俗にいう襲名というやつがまだ為されていないそうだ。
「つまりは支倉さんが次の九十九流家元というわけですか?」
「ニュアンスとしてはそうです。」
「『ニュアンスとしては』?」
多少落ち着いたのか、支倉禄郎は穏やかなトーンで話始めた。
「そもそも〈九十九流〉なんてものは存在しないんですよ。九十九濘山の名自体は世襲制ではあるものの、華道や茶道にあるような流派を名乗るつもりは七代目をはじめ先代たちには無かったようで。実際、九十九濘山の陶芸を流派として取り上げて下さるのはTVや雑誌だけ。他で陶芸の流派を名乗る方々からはあくまでも『マスコミ人気があるだけであそこは流派になり得ない』という認識のもと許されているに過ぎません。」
六花は目の前に座る父親似の中年男性に苦労人としての強い影を感じた。
いつぞやに会った横柄極まりないホテル長者とはまるで違う。
「それで湯呑みの件なんですが、タイムスリップで明後日までにはどうにか元通りにできないかなと。」
「明後日?先ほど展示会は明日からだと…」
「私の作で同じ瑠璃色の湯呑みがあるんです。展示会のスタッフに相談して苦肉の策ではありますが初日だけはそちらを展示してスペースを埋めていただくよう運営側より許可を貰いました。」
「そうでしたか。支倉さんの湯呑みもきっとこの湯呑みと見紛うほどの美しさなんでしょうね。」
「弟子入りしてもう二十余年、ようやく師匠の色とフォルムに近づいたんです。」
苦労人の影が木々のように生い茂る中を一瞬、今度は純朴な子供が通り過ぎたのを六花は感じた。
陶芸に対する傾倒と先代に対する敬愛。
時計に魅せられた私たち二人もこの人も同類なのかもしれない、と思いながら彼女は片眼鏡を見た。
あれ?この顔?ひょっとして?
「ひょっとしてなんですが、」
六花は薬袋と支倉の間に割って入った。
「バスでぶつかってきたのってジャック・オー・ランタンだったんじゃないですか?」
「あー、そうです。確かに彼でした。」と支倉は答えた。
「ゴメン六花ちゃん、ジャック・オー・ランタンって何?」
「西洋の妖怪よ。現世での悪行のために天国に行けず悪魔にイタズラしたせいで地獄にもいけなかった男がカボチャのランタン片手にこの世を彷徨うってやつ。」
「由縁は諸説ありますが、この時期に見るような顔が彫られたカボチャはだいたいそうです。よく鬼火なんかと間違われるんですよね?」
今度は支倉が六花にフォローを入れる。
「私も経験あるの。アレって被るとあちこちに激突しちゃいますよね。距離感が掴めなくなっちゃって。」
「そうみたいですね。おそらく彼は私とぶつかった事にすら気が付いてないでしょうね。」
そういう支倉の困り顔に六花は「ですよね~」と微笑んだ。
「あの、ちなみに七代目にこの事は?」
薬袋は少し声のトーンを落として支倉に聞いた。
「いえ。」
「伝えなくてよろしいんですか?」
「というか、伝えようがないんです。」
「と、言いますと?」
支倉は少々言い淀む素振りをみせる。
「これは陶芸の業界じゃ公然の秘密に近いんですが、歴代の九十九濘山には共通して放浪癖がありまして。定期的に行方不明になるんです。」
「放浪癖…?!」
「もしかして今も?」
支倉はコクりと頷いた。
「GPSとか追跡アプリの類は?」
「現在どれも完全にロストしています。特に七代目は行動を監視されることを嫌がっていましたから。スマホは工房に置かれていましたし、勘の鋭い人ですから着物の帯に仕込んだGPSもすぐに見つけて捨ててしまっているに違いなくて、」
やっぱりこの人は苦労人なんだな。六花は支倉禄郎という男に同情を禁じえなかった。
しかし今回に限っては師匠の行方不明はかえって好都合なのではないだろうか。
七代目にバレないうちに湯呑みが割れなかった世界線に軌道修正してしまえばいい。
「お願いできますか、タイムスリップ?」
薬袋は目を閉じて考え込んでから口を開く。
「お引き受けできるとは思いますが、今日のところは一度お帰りいただくことになると思います。」
「えっ?!」
「生憎ですが実は今タイムマシンの方がメンテナンスに入っていまして終日稼働しないんですよ。それに…」
「それに?」
「お金と心の準備に多少お時間も必要じゃないかと思いましてね。あくまで見積りですが代金は八十万円はいただきます。」
「八十万…」
「それだけじゃない。ウチのタイムマシンは二月にしか戻れません。最短でも二月二十八日から今日までのおよそ八ヶ月間をもう一度過ごしていただくことになります。もちろん現実世界の時間経過は小一時間程度ですが、八ヶ月を過ごすご本人の疲労は相当量になります。」
「明日お金を持ってくればタイムスリップは可能なんですね?」
「ええ。」
「わかりました。明日ここに八十万円耳を揃えて持って参りますので、何卒よろしくお願いいたします。」
支倉はゆっくりと立ち上がるとその場で深々とお辞儀をした。
「おい要、メンテナンスって何のことだ?」
来客が帰っていった後、地下から上がってきた伴之助はニヤリと笑って薬袋に尋ねた。
「ちょっと確認したいことがあってね。」
「支倉さんが乗ってたバスの映像でしょ。」
自信満々にそう言う六花を薬袋は「はいはい、そうですよ~」と軽くあしらった。
「ほらよ。すぐそこのバス停のそのまたもう一個前のバス停を出発したあたりからだ。要、何が気になるんだ?」
「あれ、伴さんは気付かなかった?話が出来すぎてるんだよ。」
「というと?」
「湯呑みが割れるというアクシデントが起こったのは展示会会場に向かう途中、バスに乗ってた時だろう?その段階でどうして彼は如月堂への行き方を書いたメモを持ってたんだろうか?」
「そりゃあお前、常に懐にしまってたんじゃないのか?」
「あと展示会スタッフへの連絡。さも慌ててここへ駆け込んできたようだったが彼は来店する前に電話をかけている。その辺どうも根回しが良すぎる。」
「もともと報連相を徹底する性格なだけじゃ?」
「それに何より…」
「まだあんのかよ。」
「割れ方が綺麗すぎるんだよ、あの湯呑み。」
薬袋はバス車内の映像に目を凝らす。人と人との識別に困るほど混雑している。
「そこで六花ちゃんの出番だ。」
「小娘が?」
六花はニッコリと笑った。薬袋は言う。
「君さっき、支倉さんにカマかけたろ?」
「なんのこと~?」
「とぼけんじゃない。ジャック・オー・ランタンが何だって?」
「モノクルが支倉さんのこと疑ってたみたいだからフォロー入れてあげたんじゃない。ほら、〈定期券〉のお返し。」
「え?あっ、あ~」
六花はそっぽを向いて「ありがとう」と呟くように言った。
「どういたしまして。で、改めて聞くけど結局ジャック・オー・ランタンは何だったの?」
「えーとね、ほらここ。」
六花は画面右下を指差した。カボチャ頭が前に後ろに揺れている。
「やっぱり。支倉さんはバスの後ろの乗車口のそばにいるけど、ジャック・オー・ランタンは前の乗車口のそばにいる。この位置関係じゃぶつかれない。それにさ、」
三人はカボチャ頭のその下のTシャツの膨らみを見た。
「たわわに実ってんな~。」
「うわ、このフェレット最低。」
「まぁ少なくとも『彼とぶつかった』とは言わないだろうね。」と薬袋。
「でしょ?視界には入っていたデカいカボチャ頭をインプットしていただけで、ジャックという名前につられて相手を男性だと思ってしまった。」
「でもそれが何だって言うんだよ?」
「本当に誰かとぶつかったのなら私がジャック・オー・ランタンを持ち出した時に『その人ではないです。』とか訂正してるはず。訂正しなかったのは本当は誰ともぶつかってないから。」
薬袋が六花の言い分に素直に頷いているのを見て伴之助は言った。
「考えすぎじゃないか?珍しくお二人さんの意見が一致しているようだが。じゃあ何かい?あのPTAの副会長みたいな面した陶芸家さんは自分が不注意で湯呑みを割っちゃったのをバスの混雑によるアクシデントのせいにしたって事か?」
「かもね。もしくは彼はあの湯呑みを…」
薬袋と六花は顔を見合わせる。
「「わざと割ってここへ来た。」」
(同時に腕時計磨いてた時はあんなにトゲトゲしてたっていうのに。)
そのあまりに共鳴しきった二人の様子に拍子抜けした伴之助は、夕食の場にまた六花がしれっと加わっている違和感を察知することができなかった。
「はい!真鯛のソテーオーロラソースでーす!」
「孤○のグルメかよ。」
「猫目さんが真鯛買いすぎたのよ。あ、なめろう冷茶漬けもあるよ!」
「完全に孤独○グルメじゃねーか。」
「○の意味なくない?」
それから三人はしばらくの間、黙々とフォークとナイフを動かした。
「ねぇ、九十九濘山の依頼って何だったの?」
「湯呑み割らないようにしたい、だろ?」
「そっちじゃない、七代目の方だよ。支倉さん、『以前に師匠がお世話になって』って言ってたじゃん。どんな内容の転送だったの?」
薬袋と伴之助はお互いの顔を見た。六花は静かに真鯛を口に運んだ。
割と長い沈黙だった。
「守秘義務に触れるの?」
「七代目の名誉に多少関わる。口外しないことを約束できるかい?」
「今さらする質問でもないでしょそれ。」
「ごもっとも。」
薬袋は持ち直したフォークを置いた。
「火遊びの後始末だよ。」
「は?火遊び?」
「その昔にテレビ局のプロデューサーに薦められた夜のお店があったらしいんだけどね。ある時に七代目は魔が差してその店へ一人足を運びそこで働く女性と関係を持ったらしい。」
「七代目って結婚してるの?」
六花のこの問いには伴之助が答えた。
「いや結婚はしてない。一度は結婚を考える相手がいたらしいんだが、『もうその人とも結婚できなくなった』っていうことで生涯独身を貫くことを決めたらしい。」
薬袋が続ける。
「不倫でこそないものの、文化人としての功績を積み上げていた当時の彼にとってはそれなりの打撃だった。何よりも本人の潔癖な性格が自身の行いを許せなかったらしい。それでその夜に転送って店に行くのを踏みとどまるようにしたいっていう依頼だったんだ。」
「そうだったんだ。」
六花はまた一口真鯛を口に運んだ。
「ところで伴さん、」
「何だ?」
いつの間にか薬袋は真鯛を綺麗に平らげていた。
「七代目が未婚だって事、どうして伴さんが知ってるの?」
「本人が教えてくれたからに決まってるだろう。」
「えっ、七代目と直接喋ったの?!その姿で?!」
ビックリする六花。「あっ」と思わず口を押さえる伴之助。薬袋は若干険しい目つきで伴之助を問いただした。
「いやな、あの時転送が終わると同時に珍しくお前が電話対応に追われただろう?」
「そういえば。」
「そこで隣室に隠れた俺の存在に気付かれてな。」
「会話したのか?」
伴之助は小さく頷いた。
「何を話した?」
「ほとんど覚えてない。でも限りなくただの世間話だった。本当だ。」
「まったく、気を付けてくれよ。」
保護者のように叱る片眼鏡に小さく縮こまるフェレット。
六花はそんな二人の様子を眺めながら静かに食器を下げ始めた。
考えてみたら二人の関係性について深く教えてくれたこともなければ質問したこともなかった。
年齢は間違いなく伴さんの方が上だろうが、如月堂にいる年月自体はモノクルの方が長そうである。
そもそも二人はどこでどう出会ったのだろうか?想像がつかない。
もっと言えばこの二人の出自に至っては皆目検討がつかない、特にフェレットは。
六花は下げた食器を水の溜まった洗い桶の中に滑らせた。
すると伴之助は言った。
「だがまぁしかし、今思えばあの転送だって七代目の気まぐれだったのかもな。わざわざ大金積んで、わざわざ半年以上ある時間をやり直して、だなんて。それにそもそもあんな洒落たジャケット着てるような奴、火遊びなんて日常茶飯事だったと俺は思うね。潔癖でもなんでもないよ。」
その瞬間、薬袋と六花はピタリと動きを止めた。
「わざわざ半年以上を…」
「洒落たジャケット…」
「…あれ?俺またなんか口滑らせた?」
それから三人は無言のままデザートの杏仁豆腐で口直しをした。
夕食も済み、時刻は夜の九時。
「小娘、まだ帰らんのか?」
「うん~週末課題終わってないんだよね~」
「金曜の夜に言う台詞じゃないよ。」と薬袋。
「だって出来るだけ土日は余計なこと考えたくないじゃん。ここで終わらせちゃいたいの。そういうわけでさ、今晩泊まっていい?空部屋あるでしょ?なんなら私ミス・オールソンと一緒に寝たい!」
六花の提案を薬袋は「ダメだ」と却下した。
「いいかい、年頃の女の子が独身男性とオジサ…小動物と一つ屋根の下で一晩過ごすなんてモラルとして良くないでしょうが。」
「要、今のはフツーに俺傷ついたぞ。」
「大丈夫だよ。ミス・オールソンがついてるもん。」
「甲羅じゃ男の色欲は防御できません!よく覚えときなさい、ここテストに出るから。」
「心配しなくてもモノクルは私を襲ったりなんかしないでしょ?」
「根拠は?」
「モノクルだから。」
「理由になってない。」
堪らず伴之助が口を挟む。
「俺も小娘に一票だ。泊めてやったらいいじゃねぇか。」
「ダメだ。あれだったら送ってあげるからちゃんとお家に帰んなさい。」
「え~めんどくさいな~」
口を尖らせながらも六花が渋々帰り支度をしようとした時、伴之助は「あ!」と声を上げた。
「どうしたの?」
「どうすんだ要、すっかり忘れてんじゃねーか!」
伴之助は薬袋に耳打ちした。
薬袋は思いっきり焦った表情と苦渋の決断を迫られた表情とを何往復かさせた後、六花の方へと姿勢を正した。
「えっ、なになに?」
「喜志森六花さん、是非今晩ウチに泊まって下さい。」
翌日。
「じゃあ乗ってくださーい。」
「はい。それじゃ、行ってきまーす。」
「「行ってらっしゃーい。」」
金髪白ギャルが赤いミニバンの運転席に、紺色のコートに巨大なリュックサックという出で立ちの薬袋が助手席に乗った。六花と伴之助は二人を見送った。
「どうした小娘、顔が疲れてるぞ?」
「そりゃそうなるって。」
「ミス・オールソンと寝られたんだろう?」
「二時間だけね!」
実は今日、時計の買い取りのために客の家に訪問する予定が入っていたのだ。
「昨日『予約は全然入ってない』って言ってたのどこの誰?」
「いやー、昨晩のあの瞬間まで俺も要もすっかり忘れちゃってた。」
「あれだけ推理力とかハッキング能力ある人達がどうしてこんなにもスケジュール管理が雑なの!?」
「まぁまぁ、思い出しただけ良かったじゃねぇか。」
「そうだけどさ~」
およそ同日同刻に二つの案件が重なってしまう、つまりダブルブッキングである。
伴之助の耳打ちでそれに気付いた薬袋はついさっきまで帰宅を促していたのが一転、六花を引き留めた。
「困ったね。」
「依頼がダブっちゃったって言ってもさ、私が買い取り訪問の方に行けば良くない?」
「君一人で行けるかい?『羽民の純銀時計』だよ。」
「…マジ?」
六花は頭を抱えた。よりにもよって。
『羽民の純銀時計』、別名を『時計好きほど触れない時計』。
十七世紀頃、石見銀山から産出させた銀が中国(明王朝から清王朝にかけて)に流れて作られた壁掛け時計と壁である。
そのあまりの構造の複雑さゆえに、管理はもちろん解体と運搬、設置がトップクラスに難しい。『時計好きほど触れない時計』と呼ばれる所以である。
「そんなのモノクルでも分解できないじゃん。」
「それができるんだな~。この純銀時計の作り手の子孫にあたる人が今カナダに住んでてね。年一で会って色々と教えて貰ってるんだ。」
こういう時に六花はつくづく思う。この男、ホントに何者なんだ…。
「訪問には僕が行く。異論はないね?」
「悔しいが安易に近づかない事こそ時計好きの証明になるか。ここは折れよう。」
(時計バカ…) フェレットは小娘に軽い侮蔑の視線を送った。
「さて、問題は支倉さんの方だ。報酬の受け取りとかは問題ないだろうけど。」
「いや、八十万円をバイトの女子高生に任せるの問題でしょ?」
「君なら大丈夫だよ。」
「根拠は?」
「だって六花ちゃんだから。」
「理由になってない。」
「あんなギャルが羽民の純銀時計なんて繊細な代物を所有してるわけないでしょ。」
六花は二人分のコーヒーを淹れながらブツブツと言った。
「いやいや、人は見た目によらないかもしれないぞ。」
「どうだか。きっと骨折り損のくたびれ儲けよ。」
六花は淹れたコーヒーを速攻で飲み干した。
「明らかに寝不足だな。大丈夫か?一夜漬けした内容スッポリ抜けちまうんじゃねぇか?」
「平気!仕事なんだからきちんとやるわよ。」
「時給五百円とは思えぬバイタリティだなおい。」
そう、睡眠時間二時間というのは実は六花だからこそ確保できたのである。
「転送中の操作は俺がやるとして、その前後はどうする?俺が姿を見せるわけには…」
伴之助はチラリと薬袋を見る。薬袋は大きく首を振った。
「いかないッスよね~。」
するとまた薬袋は数秒瞳を閉じて考えた。考えた末にこう言った。
「明日、支倉さんの意識がある間の操作は六花ちゃんにやってもらおう!」
「「ちょっと待った!!」」
「何か異論でも?」
「あるに決まってんだろ!」
突如としてフェレットの顔が一層真剣になる。
「あの装置は先代と先々代の研鑽の賜物なんだぞ!存在を知ったのもついこの間の人間に操作なんてさせてもしもの事があったらどうする?俺が近くにいるからって万が一があったら手遅れになるんだぞ!それがわからんお前じゃないだろう!?」
「伴さんにとって大事なのは遥さんとの約束でしょう?大丈夫。それはちゃんと守るよ。」
「……。」
「六花ちゃんも反対かい?」
「フェレットが言うことにも一理あると思うし、それに、私も自信ないし。」
「ここで怖気づくんじゃ、いつまで経ってもあの時計は描けないだろうね。」
六花は両の奥歯にぐっと力を入れた。このモノクル!こういう時にそういうことを言う!
「さぁどうする?時間ないよ?」
やむなく二人は異論を取り下げた。
それから薬袋要と文滝伴之助は喜志森六花に二月乱天時計の使い方の長い長い説明に取りかかった。難業にして奇業、そして苦業と言える行為であった。
それはまだ声すら発せぬ赤子に文学の真髄の何たるかを伝えるかのような所業。
それは地球の球さを信じぬ古代人をスペースシャトルに乗せて宇宙を図解させるかのような所業。
それはこれまでの歴史とこれから味わう困難・後悔・恐怖をレジュメとして手渡すという所業。
六花の五感と大脳・小脳は悲鳴を上げた。十秒おきにルールが追加されるチェスをやっている気分だった。
タブレットの表示に気を遣いながら木製の部品の配列を調整したかと思えば、直後に型落ちもいいとこなバブル期のパソコンに数字の羅列を打っていく。
二月乱天時計は生きている。その神経の一本一本に注力しなくてはならない。
六花は世界史の授業を思い出した。時代と国があっちへ行ったりこっちへ行ったり。まるで覚えさせるつもりがないような多面、複合、並行の変則的科目。あの感覚を濃縮した飴を今自分は口に含んでいる。
しかし六花は一切そのインプットの足を止める気にはならなかった。
両脇の二人が最善を尽くしていると感じたからである。
トーン、スピード、言葉選び、説明の順路、全てにおいて余念がない。しかし決して利己的でもない。
本当なら冷酷で攻撃的で空虚に違いない伝承なのに、二人の彼女への伝承には温もりがあった。
啓斗や泉と一緒にいる間に味わったことがない感覚に六花は包まれていた。
三人がかりの必死のレクチャーは朝方まで加速し続けた。
二時間の睡眠時間を確保できたのは教え手と学び手、双方の優秀さゆえの奇跡であった。
「眠たくないの?」
「俺がか?」
「うん。本で読んだんだけど、フェレットって一日に十八時間くらい寝るらしいじゃん?人間より徹夜に弱いはずじゃん?」
「俺フェレットじゃねーし。」
「どうみてもフェレットだろ。あ、返信来てた。」
六花はスマホを開いた。
「猫目さん、だったか?」
「うん。帰れなかったからちょっと代わりに調べ事してもらってて。」
「怒ってんじゃねぇか?」
「このパターンでは猫目さんは怒らない。でも、こういう時は猫目さんも寝ないんだよね。」
「随分と理解り合ってるんだな。母親同然か?」
「それ以上。」
伴之助は六花の顔を見上げた。娘であることをクスクスと嬉しがる少女の顔である。
「さてと、今のうちにちょっとでも仮眠しとこうかな。」
ピンポーン。
二人は顔を見合わせた。
「仮眠、出来そうにないな。」
「すいません、昨日お時間の方を決めずに帰ってしまいましたね。今が…二時ですか。遅かったでしょうか?」
「いえいえ、むしろ早い方ですよ。」
「どうかされましたか?心なしか昨日よりも元気がないような…」
「ご心配なく。見た目に反してピンピンしてますから。」
「そうですか。あの、ご店主は今どちらに?」
「生憎薬袋の方は今出ております。申し訳ございません。」
「ああ、そうなんですか。お嬢さんお一人で大丈夫ですか?」
「重ね重ねご心配なく。私と他スタッフ一名で責任持って対応させていただきます!」
いつの間にか六花はローテーブルに身を乗り出していた。
「そ、そうですよね。『お嬢さんお一人で』なんて言い方は無礼でした、失礼をいたしました。」
「こちらこそ失礼いたしました。それではご案内いたします。こちらへどうぞ。」
部屋への案内、転送の説明、報酬の受け取りまで六花はスムーズにこなした。
今までの薬袋の動きをつぶさに観察していたこともあってここまでは六花も自信があった。さぁ、本番はここからだ。
「それでは今年の二月二十八日の正午に認識転送させていただきます。よろしいですね?」
「はい。それでお願いします。」
薬袋と伴之助による昨夜のレクチャー。転送の種類についての話に入ったのは深夜一時を過ぎた頃であった。
「現時点で二月乱天時計にできる転送方法は三種類ある。認識転送、人格転送、そして実体転送の三種類だ。」
「転送する人に見せる注意事項の説明には二種類しか載せてないよね?」
「君はホントそういう所はよく見てるね。とりあえず順に説明するよ。基本的にはそれぞれ読んで字の如くの機能を果たす。」
「認識転送は認識を転送するっていうこと?」
薬袋は「その通り」と言うと、どこからか小さなクマのぬいぐるみ二体とサイコロを一つ取り出した。二体のうち一体は赤、もう一体は青である。
「レッドが過去の君、ブルーは現在の君だ。」
薬袋はサイコロをブルーのクマの前に置いた。
「認識転送ではレッドが見聞きするものを再度体感できる。ただし体感できるだけで現在の君の自我が入るわけじゃない。」
彼はサイコロをその場でコンコンとテーブルにノックさせた。
「自分の過去をリプレイするだけなのね。」
「そう。忘れた事を確認するだけだとか嬉しかった出来事をただ再体験したい場合に適した、比較的安全な転送だ。」と伴之助は言った。
「次に人格転送は過去の体に現在の自我を憑依させる転送だ。」
そう言って薬袋はサイコロを今度はレッドのクマの前に置いた。
「認識転送と違ってこっちは自我を転送しているから過去の自分の行動を変えることができる。」
「今まで私が見てきたり私自身がやった転送はこれだよね。」
「最もオーソドックスな方法、依頼の大半はこの人格転送だ。」
ここまで説明したところで薬袋は一呼吸置いた。
「最後に実体転送だけど、これは現在の自分そのものを過去に送る方法だ。」
ブルーのクマがレッドの真隣に置かれた。
「同じ時空間に二人の自分がいる状態だ。」
「これが一番定番だと思ってた。」
「実体転送は先代が禁止事項にして以降一切行っていない。今後もし実体転送を依頼されることがあっても絶対に断れ。」
六花は薬袋の視線の鋭さを感じた。
初めて会った日にも見た瞳。苦悩や後悔、執念、憎悪、覚悟を含んだ瞳である。
「そんなに危険なの?」
「どの転送方法でもこちらの操作で基本的に呼び戻せはする。人格転送なら後から改ざんしてある程度は元通りにできる。だけど実体転送はそうはいかない。例えば転送先で死傷したらそれは取り戻せない。」
「過去にそれで死亡者が?」
薬袋は静かに頷いてから言った。
「この厳命のもとの商売であることを決して忘れないでくれ。」
支倉禄郎を装置に座らせた六花はタイプライター型のキーボードに指を置いた。
転送方法や転送先の情報を入力、細かく設けられている安全装置を順番に解除していき、記録用ドローンなど諸々の準備を進めていく。
小さな蒸気機関が鳴く音、歯車が何かを巻き上げている音、左からスタートアップ音、右からはシャットダウン音。
やや激しめのサウンドと電球のカラフルな眩しさの中で支倉の首はカクっと倒れた。
「どう?」
隣室から出てきた伴之助に六花は自身の仕事の講評を求めた。
「んー、五十五点。」
「想定してたよりも酷評なんですけど。」六花は天井を仰ぐようにしてゲーミングチェアに頭を預けた。
「採点してやっただけ有り難く思いやがれ。それに点数が出るだけ上等だよ。」
伴之助が六花の方を見ると、天井を見ていたはずの彼女と目が合った。
「何だよ?」
「伴さんって人を褒める時は素直に褒めるよね。」
「…やかましい、ほら始めるぞ。」
二人は手際よく作業を分担してこなした。
よし、とりあえず山は越えた。一通り落ち着いたところで六花は伴之助に尋ねた。
「留井遥って誰?」
「昨日話してた先代だ。時計にまつわる一切を要に叩き込んだ人で、俺は遥さんに拾われた。」
「先代、女性だったんだ。」
「ああ、類稀なほど優秀な人だった。この二月乱天時計の実用性を今のレベルにまで持ち上げた功労者でもある。」
「今『だった』って言った?」
「…行方不明なんだよ。おそらくどこかしらの時空間にいる。」
「実体転送したの?自分の体を?」
「要は今も探している。」
「そんな…」
二人はヘルメットを被せられたまま眠った状態の支倉を見つめた。
「これは俺の勝手な想像だが、本当は要はわざとお前にこの仕事をさせたのかもしれない。私情を挟まずにいられる自信がなかったのかもな。」
「伴さんはどうなの?」
六花は伴之助の後頭部に向かって問いかける。
「遥さんと何か約束したんでしょ?伴さんは遥さんに会いたいと思うことないの?」
伴之助は振り返らずに「ズケズケと詮索しすぎだ。」とだけ言った。
支倉禄郎が戻ってくるまでに多少時間がかかった。
甲斐田里子や一色華、鳥藤健の時よりも転送している期間が長いことが比例して反映されているのである。
「ありがとうございました。これであの湯呑みも無事に展示されることと思います。」
昨日と同様に深々とお辞儀をして帰ろうとした支倉を六花は「ちょっと、」と呼び止めた。
「一緒に見ていただきたいものがあるんです。」
「はい、何でしょう?」
穏やかな表情のまま支倉は六花の方へ引き返す。
「少々お待ちください。確かこうだったはず~」
右往左往しながら六花はスクリーンの側のキーボードを操作する。
(おい小娘、何やってんだ!)止めたいけれど止められない伴之助が小刻みにドアを叩く。
フェレットの制止を無視して六花がスクリーンに出したのはドローンの撮影した支倉であった。
六花は映像を倍速再生させた。
「あの~、これは一体?」
「支倉さん、陶芸の世界にも業界誌があるんですよね?」
六花の唐突な質問に支倉は「ええ。」とだけ返事した。
「その業界誌を集めてる人がいて、その人に探してもらったんです。そしたらありました。」
「あったって何が?」
「七代目のインタビュー記事です。ある月の号の特集に掲載されてました。その記事で知ったんですが、七代目はフレッド・アステアがお好きで外出時はいつもスタイリッシュなスーツだったりカジュアルなジャケットを着られるそうですね。また反対に作品製作の際は機能面に長けた着物を着るようにしているとか。」
「確かに師匠はそんなことを以前取材で言っていました。それで?」
六花はスクリーンを見たまま続けた。
「放浪癖のある七代目を見つけるためのGPSなら、着物の帯じゃなくて洋服に仕込むんじゃありませんか?実際あなたはそうしていたはずなんです。ところが昨日あなたは七代目が着物を着て失踪したテイで話してしまった。どうしてですか?」
「お嬢さんの推理は?」
「七代目は洋服を着てどこかへ行ってはいない。着物を着たまま、つまり工房の中で姿を消した。そしてあなたはその事を知っている。」
次の瞬間、六花は倍速再生を止めた。
レトロな雰囲気の台所に支倉が一人で立っている。
六花は画面の端に目をやる。『20XX/05/26 PM04:15』。
画面の中で支倉はお茶を淹れていた。
急須を置いた彼は周りに誰もいないことを確認すると棚からグリーンの小瓶を取り出した。
画角が悪く確認ができないその小瓶の中身を支倉は今淹れたお茶に混ぜた。
この段階で六花は確信した。彼はこれを師匠に飲ませるのだと。
お茶と何かの入った湯呑みを運ぶ彼。出されたお茶を何の疑いもなく飲み干す七代目。そして空になった湯呑みを確認する彼。
「支倉さん、あなたやっぱり、」
振り返った時には支倉は六花の真後ろに立っていた。
「見なきゃ良かったのにね。」
間合いは一メートルと少し、互いに向かい合う形になった。
後ろ手を組んだまま彼は一歩、また一歩とゆっくりと近づく。
後退りながら一メートルと少しのその間合いを保っていた六花であったが、いよいよ壁に背がついてしまった。
「混ぜていたのは毒?」
「ヒ素だよ。それにしてもこのドローンじゃイマイチ綺麗に映らないもんだね。」
そう言って支倉は右手で左の袖口に忍ばせた何かを握る。
(はじめからこうするつもりだったの…)六花の息は荒くなった。
「毎日気付かれないように少量を着実に。大変だったよ。でもおかげで七代目はとても自然な形で逝った。」
「その後失踪したように擬装を?」
「それ自体は簡単だったよ。でもまさか君みたいな子にあんな重箱の隅つつくような指摘されるなんてね。私も師匠みたく洋服着る習慣つけておくんだった。」
間合いは一メートルを切った。
「どうして殺したの?」
「どうしてだって?うんざりだったんだよ!世間的には名の通った九十九濘山っていっても所詮それは七代目個人の名声でしかない。襲名なんてただのお下がりなんだよ!他の流派の連中からは引き続き『流派も名乗れぬはみ出し者』として好奇の目にさらされる。たとえ師匠が意にも介さなくても私は耐えられなかった!いっそ九十九濘山そのものが終わってしまったら良いと思った。」
あの時見た純朴な少年は苦労人の森の中で怪物になってしまっていたのだ。
「この映像データ、私に渡してもらおうか?」
「…る。」
「え?」
「断る!」
六花は震える喉を奮い立たせる。
「強情だね。」
その時、二人の間に小さな影が割って入った。
「やめろ、コイツは関係ないだろ。」
伴之助が身体を大の字に広げて支倉の前に立った。
支倉の動揺は刹那であった。冷静な声でフェレットに向かって、
「そうだね、関係はない。だが、要求が通らないのなら仕方がない。多少は痛い思いをしてもらわないとね。」
彼は二人との距離をグッと詰めた。
「もう一度言う。この映像データを渡せ。」
(もうダメかもしれない…)
支倉の足が踏み込みを入れる音が聞こえる。
六花は伴之助を庇うように抱き上げると身を丸めて両目を瞑った。その時だった。
「その辺でもういいんじゃありませんか。」
六花はゆっくりと目を開く。
部屋の入り口に立つ片眼鏡を視認した途端に強張っていた脚の力がふっと抜ける。
「ではこの映像のデータをあなたが取り出してください。」
「お断り致します。」薬袋は即答した。
「彼女がどうなってもいいと?」
「どうぞ。その手に持った凶器をお使いになればいい。」
薬袋はスタスタと支倉の側まで歩み寄った。
支倉は一瞬諦めた表情を見せると袖口から右手を取り出した。ただの握りこぶしだった。
「支倉さん。言っておきますが、この映像に法的な証拠能力はありません。裁判で持ち出すことは検察でさえ躊躇うと思いますよ。」
「裁判ってどういうこと?ねぇ、モノクル?」
薬袋は六花の方を見た。
「それを説明する前にその腕のロック、解除してあげてくれないかい?」
六花の腕の中で伴之助は白目を剥いていた。
「あ、」
頭に濡れたタオルを乗せて横たわるフェレットに六花はハンディファンの風を当てる。
転送時の映像を確認する薬袋。その近くに置いた椅子に支倉は静かに座っていた。
拘束はしていない。先ほどの行動から一転して今は石のように身動き一つ起こさずにいるからである。
「どこから伺いましょうかね?」
薬袋は映像を止めて支倉の正面に椅子を置いた。
「まずは湯呑み。昨日見せていただいた三つに割れた湯呑み、あれは七代目ではなくあなたの作品ですね?」
「どうしてそうお思いに?」
支倉は椅子に座る薬袋に聞き返した。
聞き返してはいるがその実もう答えはわかりきっていると諦めた表情をしている。
六花はフランス窓から差す光で映った一色華の顔を思い出した。
「支倉さん。あなたの目的は湯呑みの修復ではなく、このタイムマシンを利用することだった。だから口実作りの小道具にわざわざ七代目の焼いた湯呑みは使えなかった。」
「じゃあ私がタイムマシンを利用するのは何故だと言うんですか?」
「証拠映像の確保、ではないですか?」
支倉は黙った。
「ヒントになったのは昨日のあなたのリアクションでした。」
「リアクション?」と六花。
「八十万円という報酬額にあなたは少し驚いていた。それだけの金額を要求されるというのは初耳だったのでしょう。対して『二月へしかタイムスリップできない』という点に関してあなたは驚くことなくすんなりと受け入れた。前もって知っていたんでしょう。おそらく以前にタイムスリップを経験した七代目から聞かされたのでしょう。しかし法外な報酬額については教えられていなかった。」
「…元来金銭感覚には疎い人なんです、七代目は。」
「そしてその時、七代目から記録用ドローンのことも聞いていた。そこであなたは何ヵ月もかけて七代目に毒を盛る自分の姿を記録することにした。」
「自分の殺人の証拠をわざわざ大金積んで自分で用意するだなんて、そんな整合性のとれない真似をするわけないじゃないですか。」
「理由はこうじゃありませんか?七代目を殺したのはあなたですがあくまで実行犯でしかなかったから、いかがでしょう?」
支倉は深い溜め息をついた。
「どういうこと?」六花は薬袋に尋ねた。
「主犯がいたってことさ。彼に七代目に毒を盛るよう指示した人間がいる。」
「誰?」
「七代目本人だよ。違いますか?」
「自殺する度胸がなかったんですよ。だから私に自分を殺させようだなんて馬鹿げたことを…」
「馬鹿げたことだと思ってるんなら止めるべきだったんじゃないですか?」
六花の怒りのこもった問いかけに答えたのは薬袋だった。
「止められない理由があったんじゃないですか?」
「止められない理由?」
薬袋は画面に映った七代目の、老いとヒ素によって衰弱しきった顔を見ながら言った。
「ここへ戻ってくる途中、九十九濘山の展示会のスタッフの方に会ってきました。そこで聞いたんですが、六代目九十九濘山は事故死し、六代目の妻である河合清香さんは行方不明になった。しかも二件は当時立て続けに起こった。私が思うに七代目が自ら命を絶った動機はそこにあるんじゃないですか?」
「まさか、その奥さんと七代目が六代目を殺したってこと?」
「違いますか、支倉さん?」
支倉はゆっくりと言葉を選んだ。
「半分、合っています。」
「六代目九十九濘山という男は暴君でした。すぐに周囲の人間を自分の支配下に置きたがる。そのくせ少しでも反抗しようものなら平気で手を上げた。九十九濘山の名を譲り受けた七代目はもちろん、奥さんの清香さんも、当時七代目に弟子入りしたばかりの私も、皆いつもいつも怯えて過ごしていました。そんな環境下で七代目と清香さんが惹かれ合うのは自然なことでした。しかし、それが間違いだった。」
支倉は震えていた。見ると両膝を爪が食い込むほどに掴んでいた。
「その日、七代目と私は工房に集められました。六代目は窯を指差して言ったんです、『ついさっき清香を焼いた。次はお前達だ。』って。不貞を働いた妻も弟子も、不貞を黙認していた孫弟子も、六代目からすれば万死に値する存在となったんです。」
「…それで?」
「気付いたら七代目はそばにあった壺を振り下ろしていました。その壺は六代目の作でした。六代目は頭から血を流して倒れたまま動かなくなりました。」
「その後お二人は六代目を岩場まで運んで事故死の偽装を?」
「ええ。」
六花は納得いかなかった。
「どうして?素直に通報すれば正当防衛が通ったんじゃ?」
「完全に!完全に正当防衛だとは言えなかった!身を護らなければいけないという気持ちとは別に、あの時の七代目には明確な殺意があった。愛する人を無慈悲に奪われたことに対する憎悪が確かに師匠にはあったんです。私は七代目の自首を止めました。そして二人でこの秘密を死守することを約束しました。」
しかし今になって七代目がこの約束の履行の放棄を提案してきたという。
「年老いて精神に不調をきたしたことで良心の呵責に耐えられなくなったと言われました。七代目の望みは二つ。一つは自分を自然死に近い形で殺すこと。もう一つは六代目殺しの証拠を警察に届け出すこと。被疑者死亡扱いという形であの事件にピリオドを打ちたいのだと頼まれました。」
「なるほど、七代目が如月堂を利用したのはいわばテストだったんですね。」
「テスト?」と六花。
「女性問題の対処は口実。本当の目的はこのタイムマシンの汎用性と記録システムを確認することだった。」
支倉はゆっくりと頷いた。薬袋は続けた。
「ところがあなたはタイムスリップを違う用途で使った。ご自分が犯した七代目殺害の証拠映像の方を用意して自首をする。仮に六代目の死を蒸し返す人間が現れたとしても誰も真相には辿り着けない。あなたはそうして七代目の意向と威厳の両方を守ろうとした。」
「守ろうとした、んでしょうかね私は…」
そう言って支倉はのろりと立ち上がると画面に近づき七代目の顔を睨み付けた。
「七代目は今どちらに?」
「清香さんと一緒にいます。」
六花は背中に何かがゾワリと走ったの感じた。
本気ではなかったとはいえあの時迫ってきた彼には鬼気迫るものがあった。
対して今の彼から漂う狂気は静かすぎる。静かすぎて本来あるべき激しさを忘れてしまうという危うさが“鬼気迫る”とは違う恐怖を伝えている。
「どうします?通報されるのであればどうぞ。」
薬袋は少し黙ってから支倉に
「その前にもう一つ聞かせてください。」と言った。
「何でしょう?」
「本人の自供、窯の中の遺灰、それにヒ素の入った薬瓶があれば証拠としては十分だったはずです。どうして犯行の瞬間の映像が必要だったんですか?」
「あぁ、それですか。」
支倉は六花の方を向いた。
「さっき君が『どうして七代目を殺したのか?』と聞いた時の私の答えを覚えてるかい?」
「『うんざりしたから。九十九濘山がなくなってしまえばいいと思ったから。』だって。」
「あれ…嘘じゃない、本心だ。」
「え?」
「九十九濘山という名の持つ呪縛をあの人はわかっていなかった。六代目から譲られたその忌まわしい名を七代目は背負い続けた。そして見事に我が物にした。私にはそんな芸当できっこない。そんな名を託しに来る師匠が憎かった。私にも確実にあったんですよ、師匠への殺意というものが。それを証明してくれるものが欲しかったんです。あの、七代目が作った方の瑠璃の湯呑みはご覧になりましたか?」
最後の質問は薬袋に向けたものだった。
「ええ。スタッフの方にお願いして見せてもらいました。」
「どうでした?」
「確かに見事な作品でした。しかし素人としての意見を言わせていただけば、やはりあなたの作も負けず劣らずだと思いました。」
「当然です。ズルしたんですから。」
そう言うと彼はその場で膝をついて崩れ落ちた。
「二つの湯呑み、色づけのための釉薬が違うんです。私の方は市販の瑠璃釉にさらに本物の瑠璃の天然石を混ぜて作ってるんです。ところが七代目の釉薬には瑠璃は使われていない。酸化銅をほんの少量混ぜてあるんです。」
「酸化銅?」
「瑠璃釉の酸化コバルトと組み合わせるんです。その他も比較的安価で手に入りやすい原料しか使わずに。普通にやれば汚い色になるんですけどね。それをあの人は陶器よりも透き通りガラスよりも奥行きのあるあの作品を、不可能を可能にしたんです。配合比率なんて言葉じゃ片付けられない、彼にしかできない技がそこにはある!どれだけ教えを受けても私をはじめ誰も同じ製法では作れなかった!どれだけ形や色は模倣できても本質は継ぎ切れなかった!」
支倉禄郎は両の目に涙を溜めた。
「私にとって九十九濘山はあの人意外にあり得ない…あり得ないんだ…」
陶芸に対する傾倒と先代に対する敬愛。
彼はようやく少し純朴な少年に戻っていた。
外はもうとっくに暗くなっていた。
「本当に通報はされないおつもりですか?」
「お望みとあらばそうしますが?」
支倉は草履を履きながら少し考えた。
「いえ、お言葉に甘えて少しの猶予をいただきます。」
「そうですか。ただ一つ、二月乱天時計や伴之助のことはくれぐれも他言無用でお願いします。」
「どうやらその方が良さそうですね。」
支倉は六花と目を合わせた。
「今さらですが、お名前は?」
「喜志森です、喜志森六花。」
「喜志森さん、今日は怖い思いをさせてしまい本当に申し訳ありませんでした。」
「…いえ。」
「筋違いでしょうが同じくモノに取り憑かれた人間として助言を一つ。『その物体に本質はない。その物体に触れた人間に本質はある。』、私の師匠の言葉です。これから貴女の行く道は長い。」
彼は柔和な笑みを彼女に見せる。
「精進いたします。」
六花は深々と頭を下げた。
夜道へと歩いてゆく支倉禄郎の姿が点になって見えなくなるまで薬袋と六花は玄関先から動かなかった。
「あれ、伴さん?もう動いて大丈夫なの?」
二人がリビングに戻ってくると、既に伴之助がソファにちょこんと座っていた。
「大丈夫だけどよ、普通あのタイミングで味方を失神させるかね?」
「ごめんってば。」
「陶芸家先生は?」
「帰ったよ。」
「そうか。」頭に乗せたタオルを外して伴之助は言った。
「誤解さえ解ければこうはならなかったのかもしれないな。」
「そうだね。」と薬袋が返す。
「二人とも、それどういうこと?」
薬袋はリュックサックから薄い冊子を取り出して六花に渡した。
「仮決定の企画書だ。展示会スタッフの方から借りてきた。」
「仮決定の企画書?」
「来年やる個展のらしい。タイトルを見てごらん。」
冊子の表紙中央にははっきりと『支倉禄郎と陶芸』と書いてあった。
「七代目は言ってたそうだ。『個展のタイトルに九十九濘山という名前は使わない』って。」
「襲名させる気がなかったってこと?」
薬袋は「そうみたい」と頷いた。
「伴さんも気付いてたんだね。」
「ただ思い出しただけだ、"弟子入りを許した理由”を。」
「七代目と話した時のことかい?」
「ああ。襲名直後の七代目のもとには弟子入り志願者が十人来たらしいんだが、七代目は全員を追い返したそうだ。今思えば六代目の暴力のこともあったんだろう。ところが十一人目にやってきた支倉禄郎の弟子入りを七代目は許可した。」
「どうして?」
「支倉はその時九十九濘山の名前を知らずに志願してきたらしい。師匠の名もわからずに弟子入りを覚悟したその姿を見て七代目は『こいつは名ではなく技を継ぐ気だ』と思ったらしい。」
「七代目は最初から自分を最後の九十九濘山にすることを決めていたんだね。」
「それが徐々に支倉の方がその名前に取り憑かれていったなんて、皮肉というかなんというか。」
「六花ちゃん、どこ行く気?」
玄関に向かおうとした六花を薬袋は引き止めた。
「今ならまだ支倉さんに追いつくかもしれない。」
「追いついてどうするの?」
「決まってるでしょ。七代目の意志を伝えるんだよ。」
薬袋は無言で廊下へ出るドアの扉をバタンと閉めた。
六花は薬袋の目を見つめたまま伴之助に尋ねた。
「伴さんもモノクルと同意見?」
伴之助は落ち着いた声で「少なくとも今伝えるべきじゃない、ちょっと待ってみろ。」と六花に言った。
六花はどうも諦められる気分ではなくなっていた。今度は地下へ続く方の扉を見る。
「じゃあ過去の支倉さんにだったら?上手くいけば七代目だって殺されなくて済むかもしれな…」
その瞬間の薬袋の眼差しを六花はこれから忘れられなくなるのであった。
例のあの、苦悩や後悔、執念、憎悪、覚悟を含んだ眼差し。
しかしこれまでとは濃度がまるで違う。
「いいかい六花ちゃん。人が人を殺すんだよ。踏み越えてはいけない一線を越えるんだよ。生きてればそれでセーフかい?殺した事実そのものが無くなれば万事解決かい?」
「……。」
「命は戻らない。戻してはならない。それを破った途端、人間は自分や自分の大切な誰かの命が軽くなったことに耐えられなくなってしまう。法の裁きが絶対だとは言わないが、一線を越えた罪は必ず負わなければいけない。君が今しようとしたことは実体転送に並ぶ禁忌だ。今回の一件の重みをどうか肝に銘じてほしい。」
その夜、六花は家への帰路を一人とぼとぼと歩いた。
薬袋の「もう暗いし送っていくよ」という形ばかりの配慮を六花は断り、薬袋もまたそれ以上の気遣いは控えた。
街灯の灯りが映えるほど暗い夜だがよく晴れている。
六花は顔を上げて月を見ながら帰るようにした。泣いてもいないのに涙が溢れそうでたまらなかった。
「そりゃあきっとモノクルの方が正しいんだろうね、正しいんだろうけど、正しいんだろうけどさ、」
月は最後まで何も言わなかった。
喜志森邸の明かりはまだ点いていた。
「ただいま。」
「おかえりなさい。」
猫目葵はいつも通り優しく、それでいて朗々とした声で六花を出迎えた。
「ご飯は?食べる?」
「ごめん。あんまりお腹空いてない。」
「そう。じゃあお風呂入っちゃいなさい。」
「うん。」
長い黒髪が乾き切らぬうちに六花はソファで脱け殻になった。
洗い物を済ませた猫目は無言で六花の隣に座ると、彼女の頭を自分の胸元に寄せるようにしてそっと抱きしめた。
「猫目さん、どうしたの?」
「ん?今のりっちゃんはこうされたいんじゃないかなと思って。違ってた?」
「ううん。」
六花は猫目の右腕に両手と頬をすり寄せた。
「ねぇ猫目さん。」
「何?」
「猫目さんには師匠みたいな人っているの?」
「んー。お料理の先生くらいかしら。」
「じゃあ、〈もう会えないけど会いたい人〉は?」
「そりゃあいるわよ。たくさんね。」
猫目は空いている左手で六花の髪を水面に這わせるよう撫でる。
「たくさんか…。例えばどんな人?」
猫目は一瞬だけ六花の顔を覗き込むと再び正面を向いた。
「…ズケズケと詮索しすぎよ。」
それから六花は彼女の腕の中でただ黙って髪を撫でられるのであった。
一週間後、支倉禄郎の逮捕・送検の一報を六花はTVのニュースで知った。
家宅捜索が行われて工房の窯から人骨の一部が見つかったことは報じられたが、その人数は明らかにはされなかった。
過去の事件を掘り返したくないという警察側の意向が働いたのだろうか。何にせよ、せめてもの救いだと六花は思った。
同時に六花の頭の中に
(きっとモノクルは近いうちに支倉禄郎の面会に行くのだろう)
という根拠のない推測が浮かび上がった。
あの日から六花はまだ如月堂に顔を見せられずにいた。しかし今、自分の中でつっかえていた何かが不思議とほどけたのを彼女は感じた。
「今日のうちに週末課題終わらせて、明日あたり出勤してあげようかな。」
伴之助から六花に「如月堂に泥棒が入った」という電話がかかってきたのはその日の深夜のことであった。
今年の夏、例年にも増してクリームソーダを欲する頻度が高いです。
それ自体は季語ではないものの、やはりクリームソーダは紛れもなく夏の風物詩だと再認識させられる今日この頃。よく行くコメダ珈琲でもクリームソーダを頼みます。
子供の頃は最後にソフトクリームを堪能したいばっかりにソーダを先に飲み干してしまっていた私ですが、今回はソフトクリームとソーダをバランスよく楽しんで最後にはソフトクリームが溶けきったソーダをゆっくりと堪能する余裕までありました。
こんなどうでもいい一幕で「いつの間にか大人になったんだな」って感じるんです。
ミセスハラスメントしてくる人に対して、
「流行りにあやかってるだけのくせに正義はこちら側にあるみたいな顔すんなよ、ミセスのグリーンよりもクリームソーダのグリーンだろうが!この流行かぶれが!」
などと汚い言葉を並べるのではなく、
「そうですよね、もはや超のつくほどの人気コンテンツですよね。もはやマジョリティとマイノリティに分かれてますよね。でもだからこそ、マジョリティとマイノリティの双方の心遣いって大事なんじゃないですかね~。」
なんて長老みたいなトーンで言える大人になったようなもんです。
大人になるっていいもんですよね♪
あれ?ちょっと待てよ?
クリームソーダ飲むのって大人かな?
コメダ珈琲の後書きをコメダ珈琲で書いてるのって大人かな?
騒音問題が出たのをいいことにミセスもといミセスハラスメントに対する批判してるのって大人かな?
大人って一体何なんだよ!
誰か、教えてくr…あっ、シロノワール来ちゃった。
というわけで相変わらず不定期ですが、第九話もどうぞよろしくお願いしまーす!