第五話 一色 華
お昼に流れてるテレビ番組なんかでやる街ブラロケにはちょうどいいような、そんな少しお洒落で閑静な住宅街。その一角にあるごくごく普通の一軒家に六花は向かっている。
左肩に深緑の手提げかばんを、右手には歪な形に膨らんだレジ袋を持って緩やかな坂道をのぼる。
纏わりつく空気は秋そのものだが、昼頃なこともあってか少し暑い。時折首筋を伝う汗が六花をそれとなく不快にさせた。
不当解雇ならぬ不当雇用を受けて三日は経った。
「『スケッチするためだけに来るくらいならいっそ働けばいいじゃないか。その方がお客さんにも説明がつくし、君もスケッチという目的を果たす傍らお金も貰えるんだ。winwinじゃないか。』って、何が『winwin』よ!あの二日間たまたま客が来てただけで基本閑古鳥が鳴きまくりだし、リビングにある時計はスケッチできるけど肝心のあの時計は見ようとすると『まだ駄目だ』の一点張りで締め出されるし、・・・極めつけはあのフェレットよ!!掃除にお茶くみに買い出しって、本格的にバイト扱いしてるじゃない!バイトっていうかほとんどパシリよ!パシリ!」
あれやこれやと文句を言い放っているうちに如月堂に着いた。
「いらっしゃい。来るついでとはいえ買い出し頼んじゃってゴメンね、アハハ。」
「アハハじゃないわよ!」
「あれ、今日制服じゃないんだ。」
「土曜だから。」
「部活は?」
「やってない。」
「今時珍しいね。親の教育方針でそうしてるとか?」
「・・・・。っていうかさぁ、まさかとは思うけどあのフェレッt…」
「伴さんね。」
「・・・伴さんのわがままに付き合わせるためだけに私を雇ったんじゃないでしょうね?」
「そんなことないよ。この数日の間雑用ばかりさせていたのは単に嫌がらせをしたいからじゃなくて、君を試してみたかったからだよ。いわばちょっとしたテストだ。」
「テスト?」
「雑用ばかり押し付けられれば、嫌になってそのうち出ていくんじゃないかと思って。ところが君は投げ出すことなく言われた仕事を淡々と全てこなした。全てこなしたっていうよりも・・・」
話しながら薬袋は部屋をぐるりと見回した。
整頓され尽くした棚、塵一つ見当たらないフローリング、新品同様の色艶を放つキッチン。
三日間で起こった部屋の変化は『様変わり』なんてものではなかった。
「家政婦やってた?」
「やってないわよ。」
「まさか君がここまでできるとは思わなかったよ。テストを延長してこのまま家事雑用をやってもらおうかと伴さんと相談してたくらいだ。」
「そうなったらあんた達を訴えてやるわ。」
六花は両手に持った荷物をダイニングテーブルに置くと、レジ袋の中身を一つずつ取り出した。
インスタントコーヒーが一瓶、サーモンの刺身が一パック、そしてレタスが三玉。
「なんでこれ買ったの?」
「サーモンは伴さんの大好物なんだよ。」
「サーモンじゃないわよ。レタスよ、レタス!!こんなに買ってきて何に使うの?」
「それでも一日分だよ。」
「一日で!どんだけレタス好きなのよ?」
「あれ、僕が食べると思ってる?」
「違うの?」
「まだ会わせてなかったね。ちょうどいいや。一玉だけ持ってついてきて。」
「え、ちょっと待って。」
六花はサーモンだけ冷蔵庫に放り込むと、レタス片手に薬袋を追いかけた。
六花はこの地下フロアにそろそろ慣れてきていた。
まず一階との広さのギャップに慣れた。どういう構造で地下にこれだけのスペースがあるのかは未だにピンときていないが…。
次に地下にあるドアの数と配置はおおよそ覚えた。ドアの存在を把握できたということは部屋の存在を把握できたということにつながる。
しかし「どこに」「どれくらいの広さ」の部屋があるかわかったところで、それが「何の」部屋かわかるわけではない。
そのうちのいくつかはわかる。ドアが半開きになっていたり、薬袋と伴さんにバレないようにこっそり部屋を覗いたりしていたからである。しかしまだ正体のわからない部屋が多くある。わからない部屋の方がまだ多いかもしれない。なんて広さと部屋数なのだろう。六花は地下にそろそろ慣れてきてはいたが、同時に完全に慣れるまでの道のりの遠さを感じていた。
「ここだよ。」
「この部屋はまだ見てなかったな…」
「ん?なんか言った?」
「いや、なんでも。」
「君には今日から彼女のお世話もやってもらおうと思う。いわゆる二次試験だと思って頑張ってね。」
「段階に分けて雑用押し付けてるだけじゃない?・・・って、彼女?」
「そう、彼女。」
六花はここでようやく思い出した。初めて如月堂に来た時、薬袋は里子さんに「一人と二匹で住んでいる」と言っていた。うち一匹はあの伴さんだとして、よくよく考えるともう一匹を今まで見た事がなかった。
「あ!ミス・オールソン!」
「そう、ミス・オールソンだ。この部屋で暮らしてる。」
「犬?それとも猫?…もしかしてフェレッt」
「どれも違う。」
高揚する六花を制止して薬袋はドアを開けた。
六花は部屋に入るなり、まず天井を見た。
他の部屋にもいえることだが、地下だとは思えないほど明るい。ただ眩しいだけの明るさではない。部屋それぞれに合った、落ち着ける明るさになっている。
六花の中にある「時計を深く扱う人間は照明にもこだわっている」という偏見が通用するいい例である。
この部屋もケージの側に置いてある大きなスタンドライトの光と釣り合いが取れるように蛍光灯の光量が調節されている。
そして六花は改めて部屋の中を見渡す。ケージから少し離れたところに彼女はいた。
「紹介しよう。ミス・オールソンだ。」
彼女はじっと六花の方を見つめていた。
ゴツゴツとした細部に対して全体は美しい曲線で覆われた灰色の甲羅。魚の鱗のような皮膚を纏った太くたくましい四本の足。そのシルエットに一層の優雅さを与えんとばかりに伸びた首。
彼女はその黒くつぶらな瞳をキラリと光らせると、今度は伸びていたその首をすーっと引っ込めた。会釈をしたのだろうか?そう思い六花もぺこりと頭を下げた。
「ほら六花ちゃん、それ。」
薬袋は六花が小脇に抱えているレタスを指差した。どうやらミス・オールソンのさっきの動作は「早くそのレタスをよこしなさい。」という要求の意思表示だった。
六花はヘルメットのように持っていたレタスを両手で持ち直すと、ミス・オールソンの正面でしゃがみこんだ。しゃがむことで二人の目線はほとんど同じ高さになった。
彼女はレタスをむしゃむしゃ食べた。
一枚また一枚と、レタスの葉がシュレッダーにかけていくように消えていく。
彼女はペースを落とすことなく一心不乱にレタスを食べた。
鼻息を荒くしながら葉をくわえてはクシャクシャと大きな音を立てて咀嚼するその様が六花にはとても上品で可憐に見えた。
「見事だね。」
「何が?」
「レタスを食べる時、ミス・オールソンは決まって一番外側の層は食べない。一枚めくったその下のから食べるんだ。君は説明もなしにちゃんとそれをした。見事だね。」
「常識よ。」
「それじゃあ、ここからが本題だ。」
「えっ、“ミス・オールソン”は前振りだったの?」
「ついてきて。」
言われるがままについていき、次に入ったこの部屋には見覚えがある。なんせずっと入ることを許されなかったあの部屋であったからだ。
「おー、小娘。」
「その『小娘』って呼び方やめてくれない?腹立つんだけど。」
「小娘を小娘と呼んで何が悪い。」
「言わせておけばこのフェレット!」
「六花ちゃん、落ち着いて。伴さんもちゃんと自己紹介しないと。文滝伴之助、双子座のA型です、って。」
「お前が十分紹介してるじゃねぇか!」
「喜志森六花、水瓶座のA型です。」
「いや律儀に返すんかい!」
「さて六花ちゃん、本題だ。」
「そんでもって勝手に話進めちゃうのね、お前は。」
策略か天然かもわからぬ薬袋のマイペースっぷりに溜息をつきながら、伴之助は仕方なさそうにコンソールに座った。
「何するの?」
「君が今知りたいと思ってることだよ。」
「“伴之助 過去編”?」
「するかそんなもん。」
「甲斐田さんが五十万円払ってまで探していたもの、なんだと思う?」
「里子さん探し物のためにタイムスリップしてたの?」
「あぁそうだ。それを今から“見せる”。」
「??」
モニターに映し出されたのは、ショッピングモールの一角であった。
防犯カメラの映像でないことは一目でわかった。カメラの目線がずっと着物姿の女性を追いかけているからである。アングルはドローンによる空撮のそれと同じである。モニターに映るその女性はドローンから逃げているようには見えない。逃げるというよりもどこかへ急いでいるようである。おそらくカメラの存在には気付いていない。
六花は画面の端に目をやった。『20XX/02/12 AM10:13』とある。
「里子さんがタイムスリップした時間と場所?」
「そうだ。甲斐田さんはこの日“あるもの”を紛失してしまった。転送後すぐに落としたであろう場所を思い出したんだろう。それで他の人に発見される前に回収しようとこうして走っているんだ。」
「他の人に見られるとまずいものってこと?」
「というより盗られるとまずいものだ。」
カメラが動きを止めた。いや、映像の中の甲斐田里子が止まったのだ。
建物の陰からショッピングモールの入り口をじっと見つめている。和服に身を包んだマダムが隠れて何かを覗いている姿は,六花にはもはや何かしらの事件性のあるものに見えた。
「あのベンチに座ってる男の子を見てるの?小部屋の中の」
「「風除室ね。」」
白いTシャツにカーキ色の半ズボンを穿いた小学校低学年くらいの男の子だった。親を待っているのだろうか、両足をぶらぶらさせて遠くを見つめていた。
やがて男の子は自分が座っているベンチの下を覗いた。
「ちょっとボク?」里子の動きは速かった。カメラは二人の様子を自動ドアの外から映している。
「それ、おばさんのものなの。ちょうどここで落としちゃってね。返してもらえない?」
男の子は紙切れを持っている。ベンチの下から拾ったものだろう。
「そっかー。じゃあ返すよ、はい。」
彼は手に持っていたその紙切れをじっと見てからそれを里子に渡した。
薬袋が手元のキーボードを操作すると、カメラは里子の持っている紙切れをアップにした。
「…7…19…。えっと……宝くじ?」
「これ見てみろ。」伴之助は六花に新聞を渡した。
「赤で囲んでるところだ。」
「宝くじの当選報告?…あっ、当たってる!里子さんが探してたのって当たりくじだったの?!」
「五十万で二千万を買い戻せるんなら安いもんだろ。君たちが来た時、甲斐田さんは君に対して少し挙動不審なところがあっただろう?」
「言われてみれば。」
「後で本人から聞いた話だが、あの時君のことを少し疑っていたらしい。どこからか宝くじのことを聞きつけて横取りしにきたんじゃないかって。」
辻褄が合いすぎた。
結果論として人助けにはなったものの、少し詮索しすぎたのだと六花は思った。
「あのさ、一つ聞きたいんだけど…」
ピンポーン。
「ほら、六花ちゃん。」
「えっ、私が出るの?」
「もちろん。お客様の応対もバイトの仕事でしょ。」
「どうぞ。」
「ありがとうございます。…あの、どうかしましたか?」
「えっ!あ、いえいえ。何でもないです。」
六花は慌てて姿勢を正した。自分が相手に見とれていたことを悟られぬように。
気付かれないようにもう一度彼女の左手首に目をやる。文字盤は手のひらの側にあってよく見えないが特徴的な太いベルトだけで六花にはわかる。あれは『夢花の時計』だ。
マニアの間では言わずと知れた高級腕時計である。
もとは京都で華道の先生をしていた女性が母親の形見である腕時計に細かく花をあしらえたのが始まりだとされている。現在では腕時計全体に空洞部分が上塗りされるようにくっついていて、その中に色鮮やかな花が特殊な油脂によって入れられている。まさに腕に飾るハーバリウム、モノによっては数百万円もする芸術品なのだ。
そんな『夢花の時計』もさることながら、六花はそれを着けたこの女性にも見とれていた。
時計に負けず劣らずの、花のような人だと思った。スッと伸びた背中に綺麗な黒髪が平行に沿っている。主張の少ない花柄のワンピースにもコーヒーカップを手に取るその仕草にも育ちの良さが感じられる。淡い配色の夢花の時計も彼女の透き通るような白い肌の上では居心地が良さそうに見える。
「…素敵な〈ヨイバナ〉ですね。」
「ありがとう。…お花は好き?」
女性はニコリと笑って六花の方を見上げた。
「ええもちろん。花以上に人を癒してくれるものなんてなかなか…」
「ゴホン。」
分かりやすい咳払い。六花は彼女の向かいのソファに座っている薬袋からの冷ややかな視線を感じた。
マズイ、言い過ぎた。六花は頭の中で再度急ブレーキをかけた。
実は彼女の着けている時計は正確に言うと夢花の時計ではない。夢花の時計のうち造花で作られた量産品はマニアの間では『酔花の時計』と呼ばれている。夢花の時計と呼称されるのは本物の花で作られたそれのみ、夢花と酔花とではその価値は雲泥の差である。
彼女が今着けているのは残念ながら酔花の時計である。先刻の会話は六花なりの皮肉であった。
知っている者ならば理解できる皮肉が通じなかった。おそらくこの女性は自分が着けている時計についてあまり知らないのだろう。
逆に咳払いで注意してきた薬袋は彼女の時計が酔花だととっくに気付いていたのだろう。私よりも先に判断していたとは、と六花は半ば悔しさが混じった眼差しを薬袋に向けた。しかしその眼差しは薬袋にはまるで届いていなかった。
「で、本日はどんな時計をお探しでしょうか?」
「え?」
「・・・え?」
「いやその、ここに来れば過去に戻れるって知り合いから聞いたんですけど…」
あぁ、このパターンか。きっと今薬袋の頭の中でこの言葉が流れているに違いない。今回ばかりは分かりやすいリアクションを彼は見せていた。
「あのー失礼ですが、そのお知り合いというのは一体どなたでしょうか?」
「ごめんなさい。それは言えないんです。」
“言えないです”ではなく“言えないんです”、その知り合いから口止めでもされたような言い方ね。六花のいらぬ勘繰りが冴え渡る。
「大変申し上げにくいのですが、うちはこの通りただの時計屋です。」
「・・・そうですか。」
彼女は顔を俯かせないまま視線を下に落とした。黒髪は依然平行を保っている。
六花は彼女の視界に自分の顔が映るように彼女を下から覗き込んだ。
「ここは確かにただの時計屋ですが階下は違うんですよ。」
六花はそう言ってニヤニヤしながら下を指差した。薬袋はガクリとうなだれた。
「ニガツランテンドケイ?」
「そう、二月乱天時計。変な名前ですよね、フフフ。」
「フフフじゃない。『時の流れに逆らうのは天をも乱す恐ろしい所業である。』っていう先人たちの教えが込められた名前なんだよ。それをぬけぬけと他人に・・・」
薬袋はまだ怒っていた。いつもなら紹介で予約された者以外は適当にはぐらかして追い返していたものを、出しゃばりなバイトが勝手に招き入れたのである。怒るのも無理はない。
「これが時計なんですか?」
「そうらしいのよ。私も未だに違和感があるんだけどね。ってあれ?」
先刻この部屋に居たはずの伴さんの姿がいつの間にか消えていた。きっと隣の部屋だろう、と六花は思った。彼は基本客の前には絶対に出てこない。甲斐田里子の来店時も隣の部屋にいて姿を見せなかった。しかしそれはよくよく考えたら当然のことだよね、六花は一人勝手に納得した。
「どうかしたの・・・」
言い出してから何か思い出したように彼女は少し首をかしげた。
「えっと、そういえばお名前何ていうの?」
「六花です。喜志森六花。お客様のお名前は?」
「華です。一色華です。」
そう言って彼女は六花に名刺を渡した。
「一色ってあのホテル長者の?」
名刺を見た六花は驚いた。つられるようにして薬袋は名刺を覗き込んだ。
「戦後間もない段階でホテルビジネスを展開した大手企業だね。確か現社長はワンマン経営で有名だが、すると君はその社長の?」
「はい、一色誠三は私の父です。」
「社長令嬢ってこと?」
「今は専務として勤めてます。」
花のような女性に見えたのにも六花は少し納得がいった。
「じゃあいずれは次の社長に?」
「いえ社長を継ぐのは私の兄です。私は鳥藤家具の方に…」
「出向とかですか?」
「そうではなくて、鳥藤家具の御曹司の建さんと結婚することになってるんです。」
「それはつまり?」
「平たく言えばお見合い結婚です。」
平たく言わなければ政略結婚なのだろう。六花には見目麗しい一色華が急に昼ドラのヒロインに見えてきた。彼女は親の身勝手によって好きでもない男と結婚させられようとしているのだ。とはいえ当然父親には歯向かえない。ワンマン経営で有名な大企業社長ならばなおさらだろう。他の誰も頼ることができず途方に暮れているところにきっとこの店の存在を知ったのだ。いっそのこと政略結婚の話が持ち上がること自体を阻止できれば、そんな藁にも縋るような思いで彼女は今日ここに来たに違いない。六花の中で同情と好奇心が沸き立った。
「お見合いはいつ行われたのですか?」
「今年の三月十九日です。」
「つまりその日に戻りたいと?」
「馬鹿ねモノクル。お見合い当日じゃ間に合わないじゃない。もっと前に遡って縁談を白紙にしないと。」
そう言い切ってから六花は華がポカンとした顔でこちらを見ているのに気づいた。
「…え?違うの?」
「…私は失敗しちゃったお見合いをやり直して成功させたいんです。」
「すごい、本当に転送されたんだ私。」
六花は手に持っていたスマホを覗いた後、しばらくの間ただボーっと眼前の白を見つめていた。ただの白ではない、自分の部屋の見慣れに見慣れた天井の白である。
彼女は同年二月二十八日の喜志森六花の部屋のベッドの上にいる。
タイムスリップというものがあまりに淡泊で粛々としていることに胸の内はかえってざわめいている。
ウィーーーン。
部屋の端でホバリングしている小型ドローンの存在に気が付くと、六花は忘れていた怒りと困惑を呼び戻した。
「実は私この後会社に戻らなくてはいけなくて。タイムスリップということは今この時間に帰ってこられますよね?」
「貴女が想像しているそれとはかなり勝手は違いますが“そうお時間は取らない”という点は概ね合っています。まずはこちらの注意事項の方に目を通してください。」
六花には華が最初に見せるリアクションにおおよその察しが付いていた。
「えっ?!二月にしかタイムスリップ出来ないんですか?!」
やっぱり。
「ええ。そのため一番近い二月二十八日に戻っていただき三月十九日までの人生をもう一度お過ごしいただくことになります。」
「・・・わかりました。」
「君も一緒に行くといい。」
薬袋の言う“君”が自分を指していることを六花は一瞬理解できなかった。
「なんで?」
「勉強だよ。この時計についてよく知りたいのなら実際に使用するのが一番だ。彼女の転送に同行するといい。」
すると隣の部屋から壁をドンドンと強くノックする音が聞こえた。伴さんだ。どうやら六花が転送することは彼にとっても想定外なことらしく慌てて薬袋にサインを出しているようだ。
「バカヤロー、小娘を一緒に行かせて何か勝手なことされたらどうするつもりなんだよ!」
とでも言わんばかりにフェレットが壁を叩いている。その意図がやっと伝わったのか薬袋は軽くうなづくと六花に
「ただし必要最低限のこと以外で彼女や周囲の人間に干渉しないように。」
と釘を刺した。
「待って、そもそも私その転送にまだ同意してないんですけど。」
「あぁ当然のことだけど転送されたら君は二月二十八日に過ごしていた時の状態からスタートすることになる。一色さん、お見合いはどちらで行いましたか?」
「ヒュプノスホテルの特別宴会場です。」
「じゃあとりあえずお二人ともそのホテルにでも合流してください。」
「人の話聞いてる?ねぇ?」
「それじゃあ、行ってらっしゃい!」
あのドローン叩き落してやろうかな、と六花は思った。
ようやくベッドから起き上がったところで彼女は自分が制服を着ていることに気付いた。
「そっか帰ってきてそのまま寝転んでたんだ。」
ドローンの真下にスマホが落ちていた。至って普通のスマホだが画面にオレンジ色の付箋が貼ってある。
『連絡手段やその他用途で必要なものです 持っていてください 薬袋』
「……スマホにメッセージ残せばよくない?」
「あっ、六花さん!こっちこっち!」
まるで年の瀬を思わせる喧騒に包まれたヒュプノスホテルのロビーのど真ん中に彼女は立っていた。
遠くから呼ぶその口調や動きはJKさながらだが、出で立ちと場の雰囲気は全然JKじゃない。
「そんな大きな声で呼ばないでください!なんか恥ずかしいです。っていうかなんでちょっとテンション高いんですか?」
「だっていざ本当にタイムスリップしたんだっていう実感が湧くとなんだかドキドキしちゃって!」
「華さんって見た目に似合わずお茶目なんですね。」
「そうかしら?とりあえず会場に案内しますね。」
ヒュプノスホテルは物静かな外装に対して内装は豪華絢爛、それでいて客は1人もおらずスタッフや作業員が慌ただしく動き回っていた。
「ここも一色グループのホテルなんです。ちょうど改装のために休業していて、調度品の一切を鳥藤家具さんの方で見繕って頂いているんです。」
なるほどこれ以上に今回の縁談にふさわしい会場はないというわけだ。六花は卑しいものを見るような目であたりの装飾を見回しながら歩いていった。
「『失敗しちゃった』って言っていましたけど、一体何があったんですか?」
実際に見合いが行われた特別宴会場で六花は本題に入った。
「縁談の話自体は父と鳥藤家具の現社長である健さんのお父様の間で進められていました。だから健さんとはお見合い当日に初めて会ったんです。」
「イケメンでしたか?」
「えっ…どうだろ、美形ではあったと思うけど、あんまりじっくりと顔は見れなかったから…」
ポケットにしまっていたスマホが鳴った。
〈話を脱線させるんじゃない!〉
振り返るとドローンが天井近くに佇んでいた。
〈わかったわよ〉
「どうかしたの?」
「いやいや、なんでもないです。それで?」
「緊張しちゃってたのか私、健さんの前でいくつも粗相を…」
「例えば?」
「軽い挨拶を終えて席に着こうとした時に着ていたドレスの裾が引っかかって転んじゃったの。それで元々置いてあったお皿やグラスを割っちゃったり…」
「他には?」
「その後の食事で思った以上に薬味が効きすぎて盛大にむせちゃったり…」
「…他には?」
「ディジェスティフで出たワインをこぼしてしまって健さんの服を汚しちゃったり…」
「・・・他には?」
「ワインをこぼしたショックでそのまま席を外してしまったり…。六花さん今きっと呆れてるでしょ?『・・・』の長さが広くなってるもの。」
「正直想像以上におっちょこちょいなんだなと思いました。」
「そうでしょ、周りからもよく言われるの。」
それでも一色華の笑顔はにこやかで明るい。
きっと彼女は幼い頃からこうして笑っている。親の敷いたレールの上でも笑っている。親が勝手に決めた男と夫婦になっても、産まれてくる子供でさえそのレールの上を歩かせることになっても、死ぬ間際も頭の中を一色の名が侵食することになっても、おそらく彼女はこうして笑っている。
六花は誰に向けてでもなくうなづくと一色華に尋ねた。
「華さんの写真、撮ってもいいですか?」
「へー、それじゃあ鳥藤家具の方から縁談の話の先延ばしをお願いされてそれきり音沙汰なしっていうことですか?」
六花は一色華の話を聞きながら、特別宴会場の至る所を写真に収めていた。
薬袋から先刻スマホで、
〈そろそろ君には一度帰ってきてもらう。用があるなら早めに済ませるように。〉
という身勝手な連絡を受けたのである。
「ええ。それ以降は健さんと会うこともなく、それどころか弊社と鳥藤家具の企業提携も事実上白紙に戻ってしまったんです。」
「じゃあこのホテルは?」
「ヒュプノスホテルでのコラボについては既に報道してしまっていたから・・・」
「なるほど。」
「…床も撮るの?」
「ええ、一応。」
具体的な名称すら知られていないような赤で彩られた絨毯に覆われたこれが果たして床といえるものなのか六花にはわからなかった。
“支給されたスマホ”という認識でいるせいか遠慮なく連写できた。
「写真はこれでいいとして。当日はどんなお料理が出たんですか?」
「料理?何があったかな・・・。メニューの一切はこのホテルの専属シェフの林田さんが取り仕切っているから、彼に直接確認してもらった方が早いかも。」
「そうですか。」
視線を感じたのはその時だった。
今誰かこちらを見ていた?監視用のドローン?いやドローンはずっとついてきていた。今さら見られてると意識することはない。
六花は軽く身震いした。
「そういや前にもいたよな。」
二人ともモニターを見つめたままの状態で伴之助は言った。
「何が?」
「如月堂で働きたいって言って押し込んできた奴だよ。七三分けが整いすぎてたアイツ。」
「そういやいたね、そんな子。」
「相手が話し終わるや否やお前間髪入れずに『タクシーお呼びしましょう。どうぞお帰りを。』って言って追い返したよな?」
「随分と親切だねぇ、その時の僕。タクシー呼んであげてたんだ。」
わざとらしくモノクルが光る。
「それなのに今度の小娘は追い返すどころかほとんど顔パス。どうしてだ?」
「彼女は志願してここへ来たんじゃない、僕がスカウト…いや、ヘッドハンティングしたんだよ。」
「それっぽく言ってんじゃねぇよ。」
「第一あの七三分け、どこからかウチのこと嗅ぎ付けてきた雑誌記者だったでしょ?」
「あれ?そうだったの?」
「知ってたくせに。」
「で?ヘッドハンティングの理由は?」
「それも知ってるくせに。」
伴之助は薬袋の方を向くと、そのまま黙り込んだ。
「その日のメニュー予定はそこに書いてある通りだよ。」
林田は六花にA4サイズの紙を1枚渡した。見るとそこには料理名からその材料、ワインの銘柄と年式に至るまでびっしりと書かれていた。
はじめ六花は大柄で厳格そうな“林田”を想像していた。
実際の“林田”は大柄ではあったが顔つきと話し方はとても温厚なイメージを与えていた。初老を思わせる白い髪と髭に顔全体が覆われているが、隙間から見える肌のみずみずしさがそのルックスに大きな矛盾をもたらしている。
くれたメモは彼が自分で書いたのだろうか?角張ったところが一つもない、かなり癖の強い字である。
「和のテイストに軸足をおいたコースなんですね。」
「社長の好みでね、会食なんかを行うときはいつも和食なんだ。」
「へー、じゃあ薬味の分量が多かったのかな?」
「薬味?分量?」
「いえいえ、こちらの話です。」
「よくはわからんが、こういう時の料理っていうのは否が応でも薄味にしてあるものなんだよ。」
「そうなんですか?」
「このホテルには専属シェフが数名いるが、重要な場での料理は私にしか振ってこない。どうしてだかわかるかい?社長が求めているのは『美味しい料理を作るシェフ』じゃなく『都合と見てくれのいい料理を作るシェフ』だからだよ。」
六花は無音で愛想笑いの顔を作った。大人が言うこの手の冗談に対してのリアクションには常々悩まされる。真顔で言われようものなら尚更である。
そんな彼女の心情を察してか、一色華が林田に深々と頭を下げながら、
「林田さんの配慮にはいつも感謝しています。あの縁談の日も最高の料理を用意していただいたのに私の粗相のせいで良い方向に運べず本当に申し訳ありませんでした。」
林田は慌てて言った。
「いやいや、どうかお顔をあげてください!…というか『あの縁談の日』ってどの縁談の日のことですか?」
「「え?」」
六花も気が付くのに数瞬を要した。
二人を除いて今この世界にいる全員が二月二十八日の住人なのである。無論三月十九日の縁談当日のことなど知る由もない。
対してモニター越しのモノクルとフェレットはこういった状況に完全に慣れきってしまっていた。
「「まぁそうなるわなぁ。」」
空気がキュッと固くなるのが伝わった。
「普段は料理を運ぶのは林田さんが?」
こういう場の雰囲気を別の話題にそらすことで立て直すことができるというのはある意味で六花の〈特技〉であった。林田は勘ぐることなく質問に答えた。
「お嬢さん、仮にもここは一流ホテルだよ。配膳専任のスタッフくらいたくさん常駐してる。」
「へぇ。ちなみに三月の縁談の日の配膳は誰が?」
「とはいってもこういう特別な場ほど少数精鋭で対応する。配膳担当にあたるのは女性スタッフ二人だ。」
そう言って林田は少し調理場の外へ身をやってキョロキョロと辺りを見回した。
「お、いたいた。間宮、ちょっと来てくれ!」
やってきた彼女は六花よりも頭一つ分背が高かった。
すっと立つその姿勢や制服の着こなし、束ねたその髪にはまるで乱れがない。
一色華を隣にしてもその凛々しさは六花に伝わった。
「当日の配膳をやってもらううちの一人だ。」
当の間宮はまだ何のことだかわかっていないようだった。
「ほら、鳥藤家具の方が来月縁談で来られるだろ。こちらの”探偵さん”がそのことで色々とお話を聞きたいそうなんだ。」
「はぁ…。」
「早速でごめんなさい。間宮さんは鳥藤家具の御曹司である鳥藤健さんとお会いになったことはありますか?」
「いいえ。コラボの件で以前このホテルにお見えになったことはあるそうですが私はお会いしておりません。」
六花はこの時の彼女の表情に違和感を覚えた。
薬袋はこの時の彼女の表情に小首をかしげた。
「そうですか。ちなみに配膳っていうのは間宮さんともう一人のスタッフの方…」
「井岡さんっていいます。」
「その井岡さんとあなたの二人だけで配膳されるんですね?」
「その予定です。」
「出来上がってから運ばれてくるまでの間で料理に触ることができるのは?」
「シェフと私と井岡さんしかお皿に触れることはないです。でもあの部屋まで行く途中にスタッフ以外の方も使う通路がいくつかあるので『触ることができる』という点で言えば誰にでも可能ではあります。どうしてそんなこと聞くんですか?」
「いえいえ、ホント大した理由はないんですよ。」
さすがにこれ以上聞くのは無理がある空気感であった。帰ってこいとも言われてるしそろそろお暇するべきか。
「最後に一つだけ。」
「何でしょう?」
「特別宴会場にある絨毯。あの絨毯の交換とかってされるんですか?」
「私は配膳専任です。備品や装飾の管理についてはまたそれ専任のスタッフがいます。」
「ですよね、ありがとうございました。」
調理場を後にした六花と華は再びロビーへと戻った。
六花の制服のポケットの中で再びスマホが鳴った。
「もしもし、粗方の用事は済んだかい?」
「ええ。」
「そうか。じゃあ華さんに代わってくれ。」
六花は華にスマホを渡した。
「もしもし華さん、"探偵”はここで一度帰らせます。華さんはそのまま縁談当日まで過ごしてください。今使っているスマホはそのままお持ちください。もしも縁談当日を迎えるまでにこちらに戻りたいと思った場合は、そのスマホの連絡先の中にある『留井 遥』に電話をかけてください。こちらから強制的に転送を中断させることが出来ます。」
「わかりました。」
六花の足元の床が抜けたのはその直後であった。
「おかえり、六花ちゃん。」
気がつくと如月堂の地下室に帰っていた。隣の椅子に座る一色華はまだ器具を付けて眠っている状態だった。
「もうちょっとマシな戻り方の演出ないの?めちゃくちゃ怖かったんだけど。」
「考えておこう。で、実際の場所や関係者を見てみてどうだった?」
「一つ聞いてもいい?」
「何だい?」
「"ディジェスティフ”ってなんだっけ?」
第4話投稿から1年以上経ってしまいました。
読んでる人間なんていないとわかっていても流石にここまで間が空いてしまうと焦燥感が迫って来ました。
果物ナイフで背中をツンツンしてくるんです、焦燥感が。人をいたぶることに長けた嫌なやつです。
第5話投稿間際にいたっては果物ナイフが出刃包丁になってるんです。
そして第5話を投稿した今、お次は第6話です。
焦燥感のやつがどこからともなく日本刀持ってきました。
どうせツンツンするだけだろ、刃渡り伸ばしてくんなよ!
本文に加えて後書きも長々と駄文を失礼しました。
頑張って次の駄文を書き進めようと思います。