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短編大作選

太陽 with me

作者: 高嶋友常
掲載日:2021/04/07

 暗がりに包まれると不安になる。太陽が一生、顔を出してくれていたらなって思う。空の黒色は、気分や身体を侵食してしまうほどの強さがある。自転車のライトは、漕ぐ力の強さによって薄く濃く姿を変えた。前方数メートルの範囲を照らす程度で、僕も僕の足元さえも闇に埋もれていた。朝が恋しい。

 余力をペダルに込めて、しっかりとした感触のもと、朝に向かって漕いだ。身体は上下動をあまりしていないが、息は切れていた。目指すものは特に無く、夜を通りすぎることに全力だった。

 辺りに、人気はほとんどない。走り続けているアスファルトは急斜面に覆われていて、やや道幅が狭い。明日の心配を考えすぎたら、転げ落ちそうなほどに。通行人とギリギリ擦れ違えるほどの道幅は、人生に似てる。ずっと狭い考えのなかで、想像を働かせすぎていた。

 あと少しで、家に逃げ込める。あと少しで、第一段階を越えられる。不安からは、もう少しで逃げられる。部屋に入ってしまえば、光の世界が広がる。下に目をやると、ゴツゴツとしたアスファルトが高速で動き、そして過ぎてゆく。

 足を踏み込む力は、自然と強くなる。左側の河川敷には、等間隔に灯る光の束がある。その光につられるように、気が付けばやや左側を走っていた。ひとつの街灯の真下に視線を向けると、黒い影があった。



 それは、紛れもなく人の影だった。その影は、丸まって、小さな塊と化していた。暗くて分かりにくいが、きっと広大であろう芝生の隅の方で、凍えているのが見える。人間との接触は、僕をさらに濃い暗がりへと連れていく。だが、足をペダルから浮かしている自分がいた。

「すみません。助けてください」

 口元は見えないが、それは、その人影から発せられたものだと分かった。かすれていて、弱々しかったが、微かな強さを感じた。少女のような、若くて汚れのない声は、胸に突き刺さった。夜の河川敷に、ブレーキ音が鳴り響く。

 靴底は、アスファルトに着いていた。スタンドを蹴って、自転車を自立させる。そして、自転車の安定を確認したあと、足をバネに変えて走った。淡い光に照らされているので、素直に近寄れた。

 丸く薄黄色に照らされていたのは、黒いワンピースに包まれた少女だった。芝生にうずくまり、佇んでいる。苦しそうな声は無さそうだが、腕を身体に巻き付け、寒そうだ。言葉が、一字たりとも浮かばない。凍えている少女に、何も言わず自分の上着をかけてあげる。それしか出来なかった。

「ありがとうございます。あの、動けないんです。携帯も無いですし」

「えっ、はい。あの、どうすれば、どうすればいいのでしょうか?」

 顔を上げた少女は、美しく整った顔で涙を流す。



「救急車ほどではないんですけど、まずは、あたたかい場所に運んでいただけると、嬉しいです」

「あっ、はい」

「私の家は、だいぶ遠いので」

 肩の下まである黒髪が、誠実さを醸し出している。静けさと暗闇が、余計に僕の心をえぐってきた。

「分かりました。えっと、おんぶとかですかね?」

「はい、お願いします。朝を待てば、動けるようになるので、その間だけ凌げれば」

 少しだけ、少女の表情に明るさが戻ってきた気がする。人と接触をしたのに、暗がりではなく、明るさに近づいた気がする。でも、息苦しさは相変わらずだった。

「一人暮らしの男の部屋とか、大丈夫なタイプですか?J

「私は気にはしませんよ。お邪魔してもいいですか?」

「どうぞどうぞ。狭くて、散らかっててもいいなら」

「ありがとうございます」

 やけに、心臓が騒がしかった。少女に聞かれないように、喉に力を込めながら、ひっそりと唾を飲んだ。状況を飲み込んだり、情報を処理したりすることばかり考えていた。投げ掛ける言葉も浮かばないほどに。

「私の前で、しゃがんでくれますか?J

「あっ、はい」

「ありがとうございます。重いですけど、大丈夫ですか?J

「はい。僕は痩せているわりには、力がありますから」



 ゆっくりと、少女の前に足を進めてゆく。少し距離を置き、その場で少女をチラチラと振り返りながら、膝を曲げる。

 必死で、手を伸ばそうとしている少女に、後ろ向きで迫った。だが、力が入らない少女の身体は、強さのある動きを伴っていなかった。足元の踏み付けたばかりの芝生に、頻りに視線を移す。

 相手が、いつもきっかけを作ってくれた。だから、人と辛うじて繋がって来られた。でも、今は違う。こちらから、きっかけを与えなければ、運ぶことは出来ない。背中に乗ってくれたら、足を掴んで運ぶ。それは、今は出来ない。

「すみません。動けないので、抱っこでもいいですか?」

「はい。大丈夫ですよ」

 少女は俯きから、上向きへと体勢を変えた。必死な顔をする少女を、もう待たせる訳にはいかない。寒さ溢れる暗闇にこれ以上、少女を曝させる訳にはいかない。

 女の子に、自ら触りにゆく。そんな突飛なことは出来ない。そんなことは、自信がない僕には、考えられないこと。いっそ、この暗闇に溶けてしまいたい。

 空の脅威は、一瞬にして強まった。夜の匂いを、芯で捉えてしまい、気分はまた落ちていった。夜を苦手でなくなる日は、近いうちは来ないだろう。



 何度謝りを入れただろう。頭のなかでも、冷たい空気中にも。躊躇を含んだ白い息は、より奥行きを感じる。耳も、上部を中心に強張っていた。

 意を決して、少女の横たわる芝生に、中指の先をずり込ませる。そして、一気に腕を潜り込ませて、反動をつ

けて持ち上げた。

 小刻みに震える少女がここにいる。狼煙のような息を出す少女がここにいる。それらにより、体内には無いような力が溢れ出した。急な坂も、ぐらつくことなく登ることが出来た。

 手袋をしているのに、少女の冷たさを感じる。僕のニットの上着を羽織らせているのに、ヒヤッとする。冷たさが、芯から伝わっているかのように。

「申し訳ありません。時間が掛かってしまって」

「大丈夫ですよ。まだ、凍えきってはいないので」

「ここから1分くらいの場所なんで、急いで向かいますね」

「はい」

 少女が、動けなくなった理由は分からない。でも少女は、辛さに飲み込まれていない、優しい表情をしている。きっと、痛みや苦しさなどは無いのだろう。

 暗闇が、また深くなってきたような気がする。照らされている芝生たちの、線の連なりが目に焼き付く。朝が来れば、少女は元気になる。そのことだけを、信じて走った。足が、すたすたと軽やかに前に動く。ここが、暗い暗い夜ではないみたいに。



 瞳は、驚くほど開いていた。朝を待ちわびることに関しては、僕も同じ。だが、気持ちの強さは、きっと少女の方が遥かに上だ。鼻の頭に痒みを感じたが、我慢出来る程度で、そのまま放置した。

「私、夜になるにかけて、手足の筋肉が鈍くなる、原因不明の病気なんです」

「そうなんですか」

「だから、それ以外は、普通の人と同じなんです」

 必死になっていたが、言葉はしっかり胸に響いた。狭い十字路を曲がると、脳にしっかり焼き付いている、四角い大きな箱が目に飛び込む。暗闇にぼんやりと、どんよりと佇んでいた。重たさを感じる足に最後の力を込める。息を止めるようにギュッと。

「失礼します」

 風のささやきにも満たない、小さな声で呟く。そして、ドアの手前の冷たそうなコンクリの床に、少女の身体を優しく降ろした。

「ありがとうございます」

 それは首を一回、ちょこんと前に出す程度の、会釈だった。でも、二十年を越える長い人生のなかで、一番高揚する感謝に思えた。真夜中の、ど真ん中にいる。なのに、もう少しで朝になるという事実に、いつも身体が騒ぐ。

「ここです。狭いですけど。今、開けますね」

「はい」



 カギを探す手は、震えていた。ポケットのなかは、ガチャガチャと騒がしかった。それは、心に似ていた。金属同士が、ぶつかり合っているような心が、ここにはある。

 光がうっすらしかないアパートのカギ穴を、スマホの強い光で照らす。スマホを左手に持ち替えて、右手には鍵を持った。そして、スマホの光のなかに、右腕を潜り込ませてゆく。細くて薄いバンドのシンプルな腕時計は、深夜二時半を示していた。カギ穴に鍵を押し込むと、すんなりと入ってくれた。

 少女は、コンクリートで白い息を、これでもかと、天に昇らせていた。少女を、ほったらかしにしてしまった。つい、自分の世界に沈んでしまう。常に、まっ暗闇にいるかのように、周りが見えなくなってしまう。

「ごめんなさい。あの、すぐに運びますので。寒いですよね」

「大丈夫です」

「ソファーでいいですか?」

「はい。いいんですか?ありがとうございます。運んでいただけたら、あとは、放置してもらって構わないので。朝日も、もう少しですし」

「あっ、はい」

 もう一度、少女の身体に触れると、さらに、冷たくなっているのが分かった。感覚が消えかかる指から迎えに行き、少女を抱き抱えた。そして、玄関で足をぶるぶると揺らして、靴を振り払い、暗闇のソファへと一直線に進んだ。



 部屋のなかに、少女がいる光景は、不思議だった。違う星に来てしまったかのようだった。まだ、少女の名前も知らない。詳しい病気のことも、まだ全然分からない。

 そんな少女が、薄汚れた部屋のソファで、意識をして呼吸をする。名前さえ聞かず、ただ任務的に、少女を運んできた僕はきっと、少女だけでなく、全てのものとの深い関係を嫌っているのだろう。

 少女の靴をそっと脱がし、指の厚さほどの毛布を、横になっている少女の身体に掛けた。珍しく、それを真っ先に思い付いたから。

 部屋の片隅にあるキッチンへと向かい、細長い袋の即席のコーンスープの封を切る。そして、細いお湯しか出ない電気ポットを力強く何度も押して、カップに湯を注いだ。

 コーンスープが入ったマグカップを、少女の側にあるガラステーブルに置く。少女は、ひとりで飲めないし、起き上がれない。そんなことに、気付く余裕は残っていなかった。

「ごめんなさい。簡単には飲めないですよね」

「大丈夫ですよ。ありがとうございます。気持ちが嬉しいです」

 少女は、横たわったまま首を動かし、笑顔で会釈のようなことをした。

「一口だけ、貰ってもいいですか?」

「あっ、はい。どうぞ」

 僕はスプーンに、スープとコーンの粒を数粒を乗せて、少女の口に持っていった。満面の笑みで、感謝の言葉を掛けられた。こっちまで、暖まった気がしてきた。

「では、自転車を取りに行ってきます」

「はい」

 急いで靴に足をねじ込み、逃げるように部屋を出た。置いてきた自転車を、向かいに行くために。



 外は、知らない時間帯の夜になっていた。夜の深さは、息が詰まるほどだ。少女がいなければ、また家を出るようなことは、しなかっただろう。どんどん、知らない自分が見つかってゆく。

 少女と離れている時間に、苦を感じた。鼓動は上限に達して、耳は機能していなかった。自らの息遣いだけが、響いているようだった。

 目に焼き付いている、あの風景の、ある場所に着いた。でも、そこに、自転車の姿はなかった。自転車だけ、その風景から抜けていた。駆け寄ると自転車は、アスファルトの道路の側面の坂を転げ落ち、芝生に横になっていた。

 そこに駆け寄り、見上げると、思った以上に急だった。少女を、よく抱っこして登れたものだ。ここから登るのを諦め、遠くの方にある、なだらかな方へと自転車を押す。押している足は、少し早歩きになっていた。

 頭のなかは、少女のことでパンパンに詰まっていた。急いで戻り、自転車をアパートの外の片隅に置く。そして、音が響かないように、ドアを静かに開けた。少女は、ソファーで変わらず、静かに天井を大きな目で見つめていた。

「お帰りなさい」

「ただいま」

 その新鮮なやり取りは、まるで、同棲カップル。一切、こちらを見ずに、少女は話を続ける。塞いでいた栓が、何かの拍子に抜けてしまったかのように、言葉たちが溢れてゆく。



「母から貰った指輪を、あの芝生に落としてしまって。探し続けていたら、こんなことになってしまったんです」

「そうなんですね」

「夜になったら、動けなくなるって分かっていたのに。こうなってしまうなんて、情けないですよね」

 先程には無かった、わずかな憂いを帯びる少女。そこに、少女の抱えている悩みが、集約されているように感じた。

「その指輪は、見つかったんですか?」

「はい。なんとか見つかりました。今、左手に付けているこれです」

 少女の左手中指で、キラキラと銀色に輝く指輪は、この部屋のなかで一番煌めくものとなっていた。不自然さを与えてくることなく、少女は滑らかに口を動かしてゆく。

「今は20歳なんですけど、友達は一人もいません。午前中だけ、コンビニでアルバイトをしています。こんな身体になると、そういう生活になっちゃうんですよね」

 天使の輪っかのような蛍光灯は、灰色が所々に混じっている。そして、それがぐるぐると輪っかの中で、周回している。その光が、少女の神秘性を高めていた。

「寂しくて仕方ないですけど、強がって生きてきた気がします。父は、ずっといなくて。母は私に無関心で。夜は、毎日天井を見つめる日々でした」



「大変ですね」

 そんな、何の力もない言葉しか出なかった。普段は遭遇しない、女の子と二人きりという状況に、パニックが起こった。こういう場面は、想定していなかったから、言葉の候補は空白だ。

「夜はみんなに助けられてばかりなので、私も誰かに何か出来たらなって思っているんですけどね。明日、予定は空いてますか?」

「あはい。休みなので、空いてますよ」

「私が、明日何かしてもいいですか?」

「はい。どうぞ」

 朝が希望なら夜は、絶望だ。しかし、今の僕に絶望の影はない。狭くて暗さがある部屋にいるのに、清々しい。たぶん、少女がそうさせているのだろう。夜にも、朝に繋がるという僅かな希望は転がっている。夜に、喜びをもっともっと見出したい。そう感じた。

「こういうときは、決まって天井を見ています。それしかないので」

「ああ、はい」

「天井を見ていると落ち着きますし、色々な発見があるので」

「はい」

 気の利いた相槌も、変化のある返しも思い浮かばない。ただただ、普通の言葉で返すことしか出来なかった。少女が見つめている天井を一緒に見ながら、ずっと首を縦に振っていた。



「私の家の天井も面白いですけど、ここの天井も面白い模様をしてますね?」

「そうですかね。よく見たことがなかったので」

 黒目は、オタマジャクシのように泳ぎ続ける。手には、じわりと汗が滲んでいた。

「不規則で飽きないです。こうしているだけで、夜があっという間に過ぎていくんです」

「そうなんですね」

「あっ、ごめんなさい。久し振りだったので、喋りすぎました。あとは、ほったらかしていただいて、構わないので」

「分かりました」

 ほったらかしでいいと少女は言う。だが、人見知りの僕でも、それは会話を続けていくよりも酷なことだ。天井を仰いでいれば、いつもの部屋なのに、視線をパッと下ろすだけで、華やかさが急に飛び込んでくる。

 無口なバージョンの僕へと、流れるように突入していった。口を糊付けしたようにくっつけて、少女から出来る限り距離を取った。身体の距離も、心の距離も。

 僕も少女も、あの眩しい朝を待ちわびている。そして、この暗黒と言っていいほどの夜を嫌っている。そして、想像を理想以上に、沸き立たせてしまう。そこは、似ているのだろう。

 タオルと着替えを用意して、お風呂場へと向かう。意識は全て、少女の方を向いていた。正直、落ち着きはない。



 物音を立てぬよう、スリッパを履かず、足の裏をフローリングに潜り合わせる。浴室のドアは、力を一点に込めてゆっくりと開く。少女に、僅かな不快も与えないために。

 少女と僕は、似たところがある。でも、美しさが全く違う。少女の瞳は、未来をしっかりと捉えようとしている。現実を、受け止めきれているように感じる。僕と似てはいるが、別世界で生きているみたいな人だ。

 夜の汚れを洗い流すように、水圧の強いシャワーを全身に浴びる。時折、シャワーの滝の外で、呼吸を整えながら洗い進める。泡は気持ちよく、排水溝に消えてゆく。

 これから迎える朝が、豪雨だろうと、景色全体に灰色が広がっていようと、なんの関係もない。朝というだけで、奧の奥には、七色をした希望が隠れているから。

 髪の毛をバサバサとタオルで拭きながら、少女の顔を覗く。気が付き、首を動かし、こちらに可動域の少ない会釈をする。

「僕は、もうすぐ寝ますね」

「分かりました。今日はありがとうございました」

 言葉は考えずにも、素直に口から放たれた。彼氏気分に、足の親指の先だけ、掛かっているような感じだった。楽しさを、見出だそう見出だそうと、脳が勝手に進んでゆく。



 動きが悪いふすまを時間を掛けて、音を殺して開く。そして、開ける時の倍の時間をかけて、ゆっくりと閉めてゆく。薄い座布団に正座し、ペンを取る。背の低い、真四角のテーブルに向かって、ペン先を押し付けた。

 紙に書き殴った。一心不乱に。太陽が出て、少女が動けるようになったとき、迷いが生じないように。少女が、気持ちいい朝を迎えられるように。

 シャワーを浴びることを、勧める文章。家にあるパンなどを、食べていいと許可する文章。タオルや歯ブラシを、用意したことを知らせる文章。困ったら起こしてもいいと、伝える文章。遠慮しないで、という文章なども加えた。

 書き終えて、ふすまに手を掛ける。そして、僕の身体の厚みほどの隙間を作り、するりと抜けた。目をつむり、びくともしない少女を確認して、横のテーブルに、そっと紙を置いた。再び、胸と背中をすり減らして戻ると、ベッドにやさしくダイブした。

 ベッドに横たわり、スマホを手に取る。医師である父の番号を探し、電話を掛けていた。躊躇は無かった。スマホの向こうから、聞こえてきた声は、懐かしかった。何年振りに聞いただろう。まだ、若々しさが残る声をしていた。

 途中から正座になっていた。目の前の壁にある、シミの一点だけを見つめた。身体は、カチカチに強張っていた。



 少女の症状を淡々と話した。聞いた話を、余すところなく全て。でも、父の返答は、期待にそぐわないものだった。あの父でも、よく分からないのだという。久し振りの父との会話に、震えが止まらなかった。

 用事を淡々と片付けて、ベッドに身を預ける。夜から、もうすぐ切り離される。切り離されて、朝という空間に落とされる。その時は、心臓を中心として蠢いていたモヤモヤも、取り除かれることだろう。

 同じ空間に、少女は在り続けている。でも、この目にも耳にも入らなければそれは、心を乱すものとしては力をなさない。二人でいることで、安心感さえ覚えていた。今まででは、考えられないくらいに。

 夜の天井は、暗さが染みていて嫌だった。照明をフルに活動させておかないと、眠れなかった。なのに今は、豆電球で十分だ。布団が擦れる音も、車が家の前の道を通りすぎる音も、気にならない。

 一瞬ではあるが、時間を忘れていた。今は、何時頃かなど、いつも大体予想がつく。でも、今は時間感覚が路頭に迷っている。それは、ワクワクするほどの誤算だった。自分が人間であることを、再認識した。そんな瞬間だった。

 少女は、今までに浴びたことのない、正真正銘の僕の太陽だった。少女が、夢のド真ん中に登場する予感を引き連れながら、ピタッと目を閉じた。



 お玉を持ちながら、少女はおはようと発し、そして微笑んだ。寝ぼけている僕には、少し刺激が強すぎた。目を覚ましてから、いきなり見ていい光景ではない。

 お玉は、朝の眩い光を反射して、キラキラと麗しく輝き続ける。いつも、見飽きるぐらい眺めていた、このテーブルも絨毯も、黄色味掛かったざらざらの壁も、いつもより濃い。そして、いつもより質感が鮮明に感じ取れた。

 呆気にとられて、挨拶への返事は遅れてしまった。でも、静寂を切り裂く細々としたぼそぼその声を、少女に絞るようにして投げた。

「おはようございます」

「ごめんなさい。勝手に料理とか、作ってしまって」

 少女は、不安そうにこちらを覗く。僕の瞳の奥の方を見るように、視線はずっと、僕の黒目の範囲内にあった。

「いいえ、大丈夫ですよ。嬉しいです。とても嬉しいです」

「良かったです。嫌だから、フリーズしたのかと思ってましたよ」

 強張りを僅かに感じていた、少女の表情が変化した。その流れるような、笑顔への移り変わりは、趣そのものだった。

「それは無いです。今までに体験したことがないことなので、止まってしまっただけなので」

「良かったです。あの私、朝にしか何かしてあげられないから。色々と捧げたいんです」

「あ、はい」




「料理は好きだし、自信はある方だから。もっともっと捧げていいですか?」

「はい、いいです。本当に、ありがとうございます」

 元気が、声のトーンから伝わってくる。こちらまで、元気が溢れてきた。いつもなら、テーブルはやや散らかっている。雑誌や、空いたペットボトルが占領して。でも、今のテーブルは、キラキラを帯びて綺麗になり、スペースが生まれていた。

「掃除なども、楽しくなってやってしまったんですけど、迷惑でしたか?」

「今の心は、何をされても嬉しい状態といいますか。凄く嬉しいです」

 僕の中のヤバイ部分が、何度か顔を出そうとする。でも、それを必死で押さえようとした。リビングの窓にある、明るい色のカーテンの後ろから、さらに強い光が顔を出す。静寂は、ここにいるが、小気味いい心音が乗っていたから、さほど気にならなかった。

「朝は気分がいいんですよね。自由になれた気がして」

「はい」

「それに、今日はあなたがいますから」

「人が近くにいるといないでは、違いますよね」

「はい。でも、優しいあなただから、気分が良いってのもありますよ」

「えっ?」

「あっ、はい」




 夜とは別人だった。少女は光になっていた。夜と朝の少女の違いは、月と太陽のようなものだ。メラメラとした熱気が、ずっしりと伝わってくる。

 夜の段階でも、少女との差を犇々と感じていた。なのに、その差はまたどんどん広がってゆく。心に陽が昇ったように、少女には笑顔が自然と登る。その度に、僕にも自然な笑顔が、ゆっくり登ってゆく。

 キッチンの方から、僕の本当の彼女のような微笑みで、少女が料理を運び続けていた。長方形の黄土色をした、小さいテーブルが埋まるくらいの、豪華な料理たちが並ぶ。

 ふと、毎日のルーティンを思い出した。テレビのリモコンを手に取り、赤いボタンを押す。すると、ちょうど星座占いが流れてきた。

「ちょうど、占いやってますね。あっ、乙女座が一位です。ヤッター!」

「乙女座なんですか?僕も乙女座です」

「偶然ですね。なんか、ちょっと乙女座っぽいですもんね。雰囲気とか」

「そうですかね」

 1位という文字の横に、乙女座という言葉があるだけなのに、心は軽くなった。同じ星座だというだけで、一気に少女との距離は狭くなった。手足も、いつもよりスムーズに動く。幸せの雰囲気を、久し振りに浴びられていた。

「今日はデートしませんか?」

「えっ、デートですか。デートとはどういう?」

「世間一般に言う、あのデートですよ。お礼という事実を抜いたとしても、デートがしたいので」

 偽りの無さが、瞳の奥から溢れる。自然な口角の上がりと、眉のカーブ。恋までは到達出来ないが、好きが溢れ出た。

「名前、まだ聞いてませんでしたよね?」

「あっ、僕は心音です」

「心音さん。私は陽日です。よろしくお願いします」

「いい名前ですね」

「あなたもいい名前ですよ」

「自分に合っていないので、僕はあまり好きではないですけど」

「私も陽日はあまり」

 料理を盛り付ける、少女の手際の良さが目に入る。魅力ある料理の数々に、ゴクリと唾を飲む。こんな、あたたかな日々が、この先に続いたとしても、たぶん僕は、幸せに入り込むことは出来ないだろう。

「身体は大丈夫なんですか?」

 自ら質問を発信することは、今までなかった。でも、自然と口から質問が出てきた。

「はい、元気です」

「良かったです」

「今まで、あんな姿、誰にも見せたことなくて。あなたは夜の私を知る、唯一の存在かもしれません」

「陽日さんは、強いですね」

「普通ですよ。普通です」

 少女は弱音を一切吐かずに、朝を楽しんでいた。料理を並べ終わると、二人で向かい合って席に座った。召し上がれと言われて、震える箸で緑色のものたちを掴んだ。そして、口に勢いよく放り込む。

「おいしいです」

「良かった」

「僕、実は」

「何ですか?」

「僕、全くデートはしたことがないんです」

「私も、それに近いです」

「暗いと不安になるので、朝のデートしか僕はダメかもしれません」

「食べたら、すぐ出掛けましょうか?どこがいいですか?」

 何を考えていても、医者である父の、分からないという言葉が、まだ耳にしっかりと残っていた。

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