水槽の中の泡恋
袖口を人差し指にひっかけて、くい、くい、と引っ張ると、彼が小さいため息をついてこっちを見下ろしたのがわかった。
今わたしがどんな顔をしているのかわかる。
彼にかまってほしくて、体の中心を火照らせて、だらしなく目を潤ませて。
でもしっかり彼を見つめる強さはなくて、下を向いたままだ。
彼にどうして欲しいか、自分の中で何度も繰り返すも口に出したことはない。彼はわたしよりずっとずっと大人で、わたしのことなどただの生徒としか見ていないって知ってるから。
口に出すことで、妄想さえもすることが出来なくなるってわかってるから。
「せんせー……、昨日のテスト……」
掠れた声でなんとかそれだけいうと、なんだそれかと言わんばかりに安堵の表情を浮かべわたしの横にまた腰を下ろした。
彼は根っからの真面目な家庭教師なのだ。
母に頼まれて渋々だとしても、請け負った仕事はきちんとこなす。
……わたしがこんなにふしだらなことを考えているのに。
「ここはさー。この公式使うって言ったじゃん。」
教科書をペラペラめくりながら、先生は真剣な顔でテストを見る。
話す唇、頁をめくる指、Tシャツから伸びた首、全てが愛おしくて触れたくてたまらない。
首に口付けて、先生のにおいを嗅いで、そのごつごつした大きな手にわたしの手を絡ませて、体をぴったり密着出来たらどんなに素敵だろう。
誰にも触れさせたことのないこの体に、少しはドキドキしてくれるだろうか。
「ほらほら、ここ。ね、聞いてる?」
長い指で、この間教えてくれた公式を指す。
「うん、聞いてる」
わたしはそれだけを言って、先生の指に手を重ねた。
先生は何も言わない。
わたしを見てもいない。
ただそのまま、何の変哲もない公式を指さしているだけだ。
わたしは先生の大きくて冷たい手を、ゆっくり両手で包んだ。
もうずっと先生のことだけを考えていて、指先まで熱い。
我慢できなくて、先生の手をゆっくり撫でる。
爪、指の大きな莭、ちょっとざらついた手のひら。ゆっくり触れてわたしの熱をうつす。
あまりに先生が何も言わないから時間さえ停止しているように感じて、いつもはうるさい時計の針の音さえ聞こえない。
聞こえるのは自分の鼓動と欲情だけだ。
そっと、ゆっくり先生の手にキスをおとすと、先生がわたしを抱きしめた。
「せんせーは、悪くない、わたしが誘ったの」
そう耳元で囁くと、先生はゆっくりわたしをその場に押し倒した。
妄想の中のわたしはもっともっとと彼を欲して乱れていたけど、実際はドキドキしすぎて何もできやしなかった。ただ彼に組み敷かれ、彼のキスを受けるだけだ。
動悸が息を荒くして、彼への好きの気持ちを加速させる。
すき、と口に出してしまうともっと気持ちが止まらなくなるってわかる。苦しくて、切なくて、そうして欲しいと思うのに、このまま抱かれるのはいざとなるとこわい。
彼の異常なまでの集中力は、愛撫にも顕著にあらわれていて、わたしの首に肩に鎖骨に痺れを拡げていく。
とろとろと流れるわたしの気持ちは、やがてこの部屋を満たし、息もできないくらい。
喘いでも喘いでも、苦しくて、ここはきっと水中なんだろう。
頭がぼんやりして、ただただふたりの息遣いだけが部屋を満たしていく。
コポコポコポ……
今だけはこの水槽の中で、彼の愛だけ感じていたい。