第92話 異界事変㉑
極限まで脱力して、精神を研ぎ澄ませる。
身体と世界の境界を薄めていく。
それに伴って俺という妄者の影響力が、滲むようにして広がった。
境界を越えて浸透していくのを感じる。
両脚の触れる大地が立体感を失って、漆黒が差し込んだ。
影になったのだ。
本来の質感が剥がれ落ちて、俺の一部分となる。
それが伝播するように繰り返されていった。
不浄の大地は、均一な影の世界へと変貌を遂げていく。
「離れていろよ。巻き込まれるぜ」
俺は医者に忠告する。
医者は後方へと素早く飛び退いた。
まだ影になっていない箇所に着地する。
瞬時に危険を察知したらしく、彼は困惑した様子で呟く。
「君は一体、何をしている……?」
「これは"大哭き"と呼ばれる技だ。妄者の奥義だな」
己の精神性を肉体に反映させるのが通常の哭きだ。
外見は千差万別で固有能力も異なるが、根本的な原理は統一だった。
これを妄者の第一段階とするなら、触れた物体を自在に変貌させる哭き崩しは第二段階にあたるだろう。
哭き崩しから途端に使い手は限られる。
大抵の妄者は、哭きによる肉体性能の向上と固有能力で満足するからだ。
わざわざ習得の難解な哭き崩しを覚えようとしない。
これを使いこなせるのは、よほどの変わり者くらいである。
そして俺が最終手段で発動した大哭きこそが、妄者の第三段階だった。
簡単に述べると、周囲そのものを強制的に哭かせる力だ。
基礎技術の集大成であり、俺が辿り着いた極致である。
理論的には誰でも到達できる技能でありながら、未踏の領域と言えるだろう。
俺の他に使っている妄者を見たことがない。
そもそも大哭きの存在自体を聞かないので、実質的に俺の固有能力に等しかった。
(実戦で大哭きを使わされるのは初めてだな)
状況的には追い詰められているが、気分はこの上なく昂揚していた。
全力を出せることに猛り狂っている。
俺の精神に呼応するかのように、影の世界は裂け目の付近まで侵蝕していった。
そのまま吸い込まれずに拮抗し始める。
互いの力が干渉して、空間が鈍い音を立てて軋む。
裂け目は何かが詰まったような音を発していた。
別の裂け目からの排出も止まり、形が捩れて歪んでいく。
没頭していた"終焉"の気配が変わった。
視線が再び俺に向いた。
どうやら妨害されて機嫌を損ねたらしい。
"終焉"は無理やり吸引しようとするも、影の大地が呑まれることはない。
哭かせた時点で物質的な制約から外れているのだ。
いくら古代の妄者でも、そう簡単には破壊できない。
むしろ裂け目に影がへばり付いて漆黒に染め上げていく。
ついには裂け目の一つが破裂して、影の粒子となって霧散した。
そこで"終焉"の動きが止まった。
裂け目を完全に停止させると、構えを取って俺を睨む。
「邪魔しないで」
「すまんね。他人の邪魔が大好きなんだ」
影の大地に立つ俺は軽快に笑って返した。




