第1話 その男は亡者①
太陽が真上まで昇った頃、俺は物陰から通りを眺めていた。
視線の先には、二階建ての無骨な建物がある。
寂れた外観だが相当な額を貯め込んでいるらしい。
それをこれから奪うことができる。
今夜は贅沢できそうだ。
「ふうむ……」
ここは街の外れだった。
廃屋と過剰な建て増しが目立つ周りの風景は、何かと雑多な印象を受ける。
ただし、あの建物の付近だけ誰も立ち寄らなかった。
近隣一帯を取り仕切る組織の事務所だからだ。
表向きは運搬会社だが、裏では違法物品の売買で儲けているらしい。
対立組織は残らず潰して独壇場となっているそうだ。
俺がこの街を訪れて二日。
この街で集めた情報はそれだけだった。
いや、それで十分と言うべきか。
もうすぐ壊滅する組織なのだ。
憶えておくほどの価値はないだろう。
(そろそろ哭いておくか)
俺は意識を切り替える。
自我を世界法則に割り込ませて、己という存在を都合の良い形に塗り潰していく。
すぐに肉体が曖昧な領域に踏み込んだのを感じた。
擦り切れたコートは、めくれ上がるようにしてスーツに変わった。
今日は無地の藍色だ。
地味だが悪くない。
どこか高級感を漂わせる布地である。
皮膚が急速に黒ずみ、艶のない漆黒へと至った。
そこから骨と筋肉がしぼみ、血液を排出しながら立体感を失う。
瞬く間に俺は、スーツを着た人型の影に変貌する。
これこそが妄者の能力であった。
自らの精神性を表層化し、肉体を変えられるのだ。
己の意志で法則を歪める能力者である。
ちなみに、妄者が姿を変えることを哭くと呼ぶのだった。
(広義では魔術の一種と言われているんだっけな)
説に対する賛否は二分し、お偉い学者様達が議論を交わしているらしい。
妄者という存在は遥か昔から存在するが、原理や起源は未だに不明だった。
その解明を専門とする研究者も多い。
もっとも、そういったことには興味なかった。
なぜか能力を使えるのだから有効活用する。
仕組みなんざどうでもいい。
「楽しく殺していこうじゃねぇか」
俺は両手を顔の前に持ち上げる。
影の指は鋭利で、それぞれが刃となっていた。
「悪くないな」
よくある形状だった。
十回哭けば、七回はこの刃の爪になる。
したがって使い慣れている。
この爪なら金属すら容易に切り裂けるだろう。
無論、人体も。
「よし」
準備を済ませた俺は歩き出す。
事務所の前には三人の見張りがいた。
全員が拳銃を持っている。
揃いの黒スーツを着た彼らは厳つい顔だ。
雰囲気からして、どいつも殺人経験があるようだった。
もちろんそれで躊躇うことはない。
俺は大股で歩きながら、片手を上げて挨拶する。
「よう、元気かい」
男達は反射的に銃を向けてくるも、次の瞬間にはギョッとする。
迫る異形に驚いているらしい。
精一杯に虚勢を張っているが、明確な恐怖が伝わってくる。
(そりゃ仕方ない。相手は妄者なんだ)
男達は死を悟ったはずだ。
一般人では決して妄者に勝てない。
それが世界の常識であった。
俺は笑いながら歩く。
「はは……は、はははははははァッ!」
駆け足から一気に加速し、滑るように距離を詰めていく。
腕が伸びたことで爪が地面を削り裂いた。
「う、うああああぁぁぁっ!?」
男達が絶叫し、慌てて銃を撃ち始める。
しかし、飛んでくる弾は当たらない。
焦りと恐怖で狙いが定まっていないのだ。
避けるまでもないし、そもそも当たったところで意味がなかった。
「来るなぁっ!」
「嫌だね」
最も近い位置にいた男に目を付けて、すれ違いざまに腕を振るう。
指先から伝わる僅かな抵抗感。
血飛沫が腕を濡らす。
「はぶ、ぁ」
五本の指は、男の頭部を輪切りにしていた。
分断されたパーツが崩れ落ちて、首からは鮮血が噴き上がる。
「一人目」
俺は慣性を無視して跳躍し、残る男達を見下ろしながら落下する。
向けられた銃口を切断しながら、片割れの首を刎ねた。
「二人目」
俺は足を止めて振り返る。
三人目は腰を抜かしていた。
辛うじて銃を構えているが、万に一つも当たらないだろう。
「くくっ……」
俺は指の刃を揺らしながら微笑――いや、影の身体に表情なんて無かった。
とりあえず気分だけ微笑して歩み寄る。
男の持つ拳銃を握り潰すと、無防備な胴体を貫いて心臓を破壊する。
「三人目」
崩れ落ちる男を振り払いつつ、俺は事務所の扉を蹴破った。