病院の怪物からの逃走
「うん……ん?」
俺は重いまぶたを開け、目を凝らす。
意識がはっきりしない。暗い。
どうやら俺は眠っていたようだ。いや、今まさに眠っているのかもしれない。意識はあるのにまるでなんの景色も見えてこない。
暗い。全てが黒一色に染まっている。
ここはどこだ?夢なのか?
体を起こしてみる。肌には布のような感触があり、俺の体全体は不安定な地面に揺り動かされる。どうやらベッドと掛け布団にはさまれて寝ていたらしい。どちらも人肌ほどの温かさに仕上がっている。
「ベッド。…………そういえば、病院に」
俺は寝ぼけた頭を回転させ、記憶を引き出す。そうだ、俺は深夜、病院に向かっていたはずだ。しかしその理由は思い出せなかった。夕食を食べて、家を出て、病院に向かって……ダメだ。どういう目的で病院に向かったのか思い出せない。なぜだ?なぜ思い出せない?夢だからなのか、忘れる程度の理由なのか、それとも行動理由を忘れるほどの何かがあったのか。ぼーっとするから寝ぼけているだけか?それと、目が慣れそうにないこの暗さも気に掛かる。
「目は、……あるな」
自分の右目に右手を当て、目の存在を確認する。よかった。目や顔がどこかにいったということはなかったらしい。
安心して手を下ろすと、右手になにか硬い、ベッドらしくない材質のものがぶつかった。俺は気になって、その物質をぺたぺたと触ってみる。長方形ですべすべというか、つるつるというか、よくある金属とは少し違う肌触りだ。人肌よりはひんやりしている。そして重い。両手でも持ち上げるのは無理そうだ。人の寝ているベッドに置くものではなさそうに思える。
俺は布団を退け、手探りでベッドから降りた。カッ、と床と靴のぶつかりあう音が響く。そして俺はふと浮かんだ疑問を口にする。
「靴履いたまま、寝かされていたのか?」
俺は自分の履いているものを確認する。スニーカーらしい触り心地。暗くて自信はないが、俺が履いていた靴だろう。靴のままベッドに寝かせるというのはいささか不自然な気がする。まさか、自分からベッドに潜り込んだというのか?バカな。俺に限ってそんなミスをするわけがない。
俺は疑問を頭の隅に追いやると、ドアを探してゆっくりと前進した。少し歩くと壁にぶつかる。俺は壁沿いに移動し、道中にあったカーテンを下にくぐり、病室のドアらしきものを探り当てた。ゆっくりとドアを開いていく。
ドアは静かな音を立てて横にスライドしていく。ドアの先はさきほどと同じだった。暗い。なんの見映えも変わらない空間。少しだけ違うのは、空気の流れをわずかながら感じられることだ。病院の廊下だろう。
俺は、壁に右手を着いたまま、廊下らしき場所を移動していく。病室で歩き慣れたため、少しだけ足取りは軽かった。目は慣れなくとも、俺は確実に暗闇に適応しているのだ。
しばらく歩くと曲がり角に到達した。ためしに一歩足を出してみると、なんと、曲がり角の先には道がなかった。慌てて足を戻す。一瞬首を傾げたが、俺にはすぐに理由がわかった。きっとこれは階段だ。道は下に続いているのだ。タネがわかれば怖くともなんともない。俺は手すりを探し出し、階段を一歩一歩下りていく。
すると、階段の曲がり角に差し掛かったとき、闇に囚われていた俺の視界に変化があった。ぼんやりと、階段の先にある床が目に映ったのだ。それは光源となるものが先にあるということ!暗く長い暗黒空間に不安を感じていた俺は、喜びのあまり階段を駆け下りる。光だ。渇望していた光がこの先にある!きっと電気のついた部屋に人がいる!
階段を降り、下の階へとたどり着いた俺は足を止めた。いや、恐怖で勝手に足が止まってしまったのだ。とても不気味で恐ろしい、この世のものとは思えないものが俺の視界に映っていた。
「なんだ、これはっ」
思わず口から本音が漏れる。俺の前には、人型の化け物がたたずんでいた。化け物は、墓石そのものだった。何キロあるかわからない全体重を支える二本の墓石の足、どのようについているか不明な二本の墓石の腕、最も大きい墓石の胴、他の部位とは違い正方形に近い墓石の頭。そんな、今まで見たことのないような墓石の化け物。俺より頭一つ分背の高いそいつは、こちらを睨むように病院の廊下に立ちふさがっていた。
俺の顔から冷や汗が流れる。身動き一つ取れない。あまりのショックに続く言葉も出ない。意識を失いそうだ。だが怪物のある部分が、気絶に向かう俺の思考を引きとめた。
化け物の顔にあたる部分の、口の辺り。そこに、一本の線香が突き刺さっており、その線香の先から放たれる光と煙が俺の思考を現実へと繋ぎ止めたのだ。明かりの正体は、化け物の咥えた線香の熱源だった!俺の心は絶望一色に染まる。脱出の手がかりかと思ったら、地獄の死者かなにかの手招きだったのだ。なんてことだろう!
化け物は、ぼんやりと照らされた口元から、ふー、と煙を吐く。その顔は無機質ながらも悪意に満ちた表情のように思える。俺の背筋にいやな汗が流れる。と同時に、化け物の咥えていた線香の熱源が、突然移動速度を速めた。熱源は線香をどんどん灰にしながら、化け物に迫っていく。そして、熱源が化け物の口元に到達したとき、化け物の全身が激しく燃え上がった!
「う、あああぁっ!」
俺は突然の、炎の熱と眩しさに悲鳴を上げる。俺が一瞬顔を背けている間にも、大きくなった熱源が突っ込んでくるのを感じる。俺は慌てて階段を駆け上がった。先ほど俺がいたあたりから、ごしゃあぁ、という衝突音が響き渡る。俺がちらりと下へ目を向けると、毒のような黒さの煙が襲い掛かってくる。また、ががががが、という石と石のぶつかり合うような音がすぐ近くまで迫ってくる。俺はためらうことなく廊下へと飛び出す。
しかし、暗闇の廊下の少し奥、俺が居たあたりの部屋からも、下の化け物と同種の敵がでてくる。そいつの口元の線香はどんどんは熱源によって灰になっている。俺は振り返り、更に上に行く階段を駆け上がる。その瞬間、俺のすぐ後ろの壁に、階段の下から迫っていた化け物が突っ込んだ!視線をそちらに向けると、壁が一部飛び散り、化け物の触れている部分は床も壁も溶けている。
殺される!あんな体当たりを喰らえば身も骨も焼き切れてしまう!もっと!もっと逃げなければやばいっ!マジ死ぬ!
俺は苦しい呼吸を整えることなく、息を切らしながら上へと登っていく。とても長い階段をずっと走り続ける。下からは迫る足音と壁に突っ込む音が交互に繰り返されている。距離は離れてはいるだろう。だが、病室に墓石があった以上、廊下に逃げては挟み撃ちだ。上へ逃げるしかない。
数十秒ほど階段を上り続けると、ついに、病院の屋上へとたどり着いた。息が苦しい。病院の外も闇で、屋上だというのに町の光一つ見えない。町は闇に包まれている。屋上の端から下を見ると、二、三階下が赤い炎に包まれているのが見える。一階下も少しずつ燃え広がっているようだ。
俺はどうすればいい?外から下に下りるための棒や取っ手はなさそうだ。淵もほとんどない。飛び降りるか、戻るか、化け物が落ちることにかけるか。
俺が考えていると、ががががが、という足音がまたも聞こえてくる。次こそ、もう逃げ場はない。屋上の出入り口から、炎の塊となった化け物がわらわらと湧き出してくる。俺は身構えるが、同時に、前列の化け物たちは俺へと飛び掛ってきた!
「おおおぉっ!誰がっ!少なくともてめーらなんかに殺されるかぁっ!」
俺は飛んだ。屋上から奈落の闇へ。化け物の手で殺されることより、闇と自然に殺されることを選んだのだ。化け物と病院は炎に飲まれて消えていく。それを見届けると、俺の意識は闇に飲まれて消えていった。
「う……?」
俺は再び、重いまぶたを開け、目を凝らす。
意識ははっきりしている。ここは、灰病院と呼ばれる、数ヶ月前に火事で大部分が焼けた病院の中だ。病室のベッドで目が覚めたようだ。やや暗い。夜か。
俺は、確か、そう。肝試しの下準備に来ていたはず。で、ベッドで休憩して、多分、そのまま寝てしまったのだろう。
「夢か。ちっ、なんて夢見の悪い日だ」
俺は拳を握り締める。すると手に違和感があった。なんだ?手の中に何か握ってやがる。握っていたものを見ると、背筋が凍りついた。それは、粉々に砕けた線香だった。俺は、肝試しの下準備に来ていたが、こんなものを持ち込んではいない。俺はぼろぼろの病室内を見渡すが、線香が置かれていそうなところはない。ならば誰がこの線香を俺に握らせたというのか?線香なんて墓に供えるもの。まさか、夢に出てきた墓石たちからの贈り物だとでもいうのか。気味が悪い。
「この線香、火がついていた形跡があるな。しかも火が消えたのはほんの少し前だ」
この線香のせいであんな夢を見たのか?夢の展開が違っていれば、俺の寝相のせいで引火して、俺は本当に焼け死んでいたのではないか?かっ、考えたくもない。
「偶々線香を手にしただけかもしれない。だが、悪霊の導きと思えるような悪意を感じた」
つい口から感じたことを呟いてしまう。
きっと、そうだ。俺は病院で焼け死んだ霊に狙われたのだ。奴らは、病院を訪れた者を焼き殺し、仲間にしたかった。霊体では俺を燃やせないから、身近な墓石に憑き、墓地から俺を燃やしに来たんだ。墓石であれば俺を燃やすことは容易いからな。さっきの経験によれば、の話だが。
「だが同時に、俺の横で寝ている墓石もいた」
奴はきっと俺の伴侶になりたかった墓石だ。肌触りというか、触り心地もいい感じだった。霊に感情があるとすれば、奴は気遣いのできる墓石かもな。申し訳ないと思いつつも俺とともに地獄へ旅立ちたかった、というところか。逃げるときに襲い掛かってきたのも愛故に、って。……はんっ、冗談きついぜ!
「死者の勝手な思いで、道連れだと?地獄で伴侶だと?肝試しでまた、そんなことに巻き込まれたらたまったもんじゃない。マジでたまらない。幽霊どもよ、俺は帰るぜ」
俺は歩いて病院を出る。出入り口で、あの化け物の姿と、隣で寝ていた墓石の涼しくさわやかな肌触りを思い出す。俺は一度だけ後ろを振り返り、言った。
「あばよ。もう二度と来ることはない。……悪いことばかりの夜だったとも思えねーがな」
俺は病院を去った。
後日、今回の腹いせに肝試しを墓場でやったら、そこそこ盛り上がった。