灰心喪気
助けてっ、どうかここから抜け出させて!
(えっ?誰の声?)
ピチャ、ピチャ、ピチャピチャ
(水の、音?)
アサディーはこぢんまりとした部屋に横たわっていた。月明かりがアサディーの顔に差す。すっかり日が暮れていた。
(今のは...夢?一体何の...ん?私のとなりに座っているのは...)
「サ、バント?...っ!」
(声を出すだけで、体の節々が痛い...)
「...」
しかし、返ってくるのは沈黙ばかりで物音ひとつしない。
(返事が返ってこない?...ああ、私なんかの看病をさせてしまったから当然か)
先ほど聞こえた水音の正体が、桶に水を溜めて布を濡らしていた音だと分かったアサディーはすぐにサーバントに対して申し訳ない気持ちで一杯になった。
アサディーのすぐ左横には、サーバントが座っていた。影になってしまって、顔は見えないが、確かにサーバントである。
(嫌々ながらも看病してくれるってやっぱり面倒見がいい人だ。...しかし、あれを飲んで私は生きていられたのか)
「...体は?」
アサディーが若干遠い目をして先程のことを思い出していると、今まで沈黙を守っていたサーバントが急に口を開き、アサディーに問いかけた。
(正直に言って、鼻が詰まって息が出来ないのに喉はヒリヒリと痛くてよく呼吸が出来ないうえに、頑張って呼吸しようとすると胸辺りが痛くなるし、喉が痛くて咳が出そうになるし、咳をしたら頭痛がさらに酷くなるのが目に見えているし、頭痛がひどいからただでさえ熱で体がぐったりしているのにも関わらず、さらに倦怠感が酷くなるし、横になっているから背中や腰が痛くなって最悪だ。...きっと座った状態でもきついとは思うけれど。でも...)
「...死ぬ、は、なし...です」
アサディーが軋む体を押しながら声を振り絞って出せば、別人かと思うほど掠れた声がわずかにアサディーの喉から漏れた。
「...そうか」
掠れすぎて伝わったかどうか心配だったアサディーはサーバンドが返事を返したことに安堵した。
(それにしても声が暗い?...あっ、そう言えば...)
「...明日、は「アサディー、早く治しな。明日手伝って貰うんだから」てつだってもら...えっ、私、使えな「分かったなら早く寝なさい」...は、はい?」
(多分だけどサーバントはまだ明日の手伝いは私にやらせる気だってことでいいのか?他の誰かを誘えばいいのに何故。手が空いている人がいないのか?)
サーバントの、物を言わせぬ覇気で思わず頷いてしまったアサディーは、合理主義なサーバントらしからぬ行動に首を捻っていた。
(どうしてなんだ...ん!)
急に額を襲った冷たい感覚に驚いたアサディーは額に手を当て、サーバントが先ほどアサディーの額の上に乗せた布に触れた。
アサディーは自分の額に布を乗せたであろう人サーバントを見ようと左横に目をやったが、そこにはすでに誰もおらず、部屋の入り口がある方向から、少し暗いサーバントの声がアサディーに向かって投げ掛けられた。
「...早く寝な」
カツッ、カツッ、カツッ
サーバントが立てた足音が廊下に響き渡りながら、静かに夜は更けていくのであった。
「今日人、多い...」
(と言ってもいつもよりは少しだけ賑わっているだけで、ほとんど団栗の背比べ並みだが...他の領地と比べたらかなり寂れているにちがいない)
「...」
相変わらずアサディーとサーバントの間には微妙な雰囲気が流れつつ、二人は買い出しに出掛けていた。館からそこそこ距離がある場所で必要なものを調達する予定だった二人は、往来の少ない馬車を使うために早朝に館を出て朝食は外で済ませ、今はお目当てのものを探している最中であった。
(今日もカパのことを言ってくれたから怒ってはいないと思うけど...)
アサディーは常日頃からカパという、フード付きのマントのような物を羽織っている。アサディーの髪や目の色が灰色で、この世界では不吉な色とされているためだ。黒も白も国によっては神聖な色として扱われているのに何故か灰色だけは何処の国でも不吉な色として扱われている。
だからアサディーは周りの者、特にファイブロに知られて殺されないよう、寝るときでさえもカパを脱がない。それはアサディーが物心つく前からの習慣で、しなければ気持ちが悪いほどであるのにも関わらず、サーバントは毎回何かある度にアサディーにフードを被るように忠告する。そのサーバントの対応は、アサディーがカパを被って怪しい格好をしているのにも関わらず何も追及してこないファイブロと同じくらい、アサディーにとって不思議なものであった。
しかし、人間というものは慣れる生き物である。サーバントのそんな奇怪な言動ももはや習慣化し、その習慣が今朝も同じように行われたことにアサディーは安堵していたのだが、今の気まずい雰囲気にアサディーは困惑していた。
そんなアサディーがサーバントのことをちらちら盗み見ていると、サーバントは急にアサディーの手を引いた。
最初は何故手を引かれたのか分からなかったアサディーだったが、サーバントが向かっている先に、ここら一帯に多い、蓙のような物の上に商品を並べて売っている店ではなく、比較的しっかりとした佇まいの店があってそこだけ黒山の人だかりが出来ており、アサディーは直ぐに押し潰される覚悟を決めた。
それから数時間後、かなり値切っていって大体全ての買い物が終わった後、アサディーとサーバントが帰るために馬車を探していると、急にサーバントがアサディーに話しかけた。
「アサディー」
アサディーが今日初めて、サーバントの方から話しかけられてことに驚いていると、サーバントはいきなり巾着をアサディーに投げ渡した。
「こ、これ?」
「小遣い」
「こづかい?」
「お前の、金」
「えっ?これ、買う、物、金残り、か?」
(このお金って今回の買い物で余ったお金では...)
「真面目か。大抵、買い出しで余ったお金は自由に使うものでしょ?買い出しに出た者は皆そうしているはず。余ったお金をわざわざファイブロに返すのはあんたぐらいだね」
「えっ?あっ、はい...?」
(早くて何言っているか分からない)
「どうせ小遣いなんて貰ったことないでしょう?私からだと思って有り難く使いなさい」
(私、から、だとおもって?...つかいな...使いな?私から、だとおもって?使いなさい...つまり?)
「...?...?...えっ?」
(あ、あのサーバントが?私のために損をしている?...いや、待て、落ち着こう。うん、大丈夫。...で、私にお金を渡すことによってサーバントに何の特が?)
「何をそんなに驚いているの?」
(おどろ...おどろ、く?驚く、か)
「多く、意味なし」
(深い意味はないが...)
「多く、意味なしってどういう「あれは...」ちょっと聞いているかな?...アサディー?アサディーさ「サーバント、待つ」...って、おい!」
サーバントはアサディーに懸命に話しかけようとしていたが、アサディーは既にある光景に目が釘付けになっていた。
アサディーの瞳に映ったのは、数人の衛兵らしき人物に交互に踏みつけられている子供の姿だった。子供の服はぼろぼろで、薄汚れた布切れで辛うじて素肌を隠しているように見えた。
その子供は地面に踞りながら何かを必死に守っている。
(この世界について、想像はついていた。それでも...予想を遥か上回るほど酷い。よくあんなことが...あれがこの世界の大人?よく恥ずかしげもなく...みっともない。...けれど、私のような子供に一体何が出来る?)
衛兵らしき人物全員が男であると気がついてしまったアサディーは、前世に男への酷いトラウマを抱えていることから思わず怖じ気づいてしまった。
(...怖い。体の震えがどうしても止まらない。恐ろしい。怖い。逃げたい。あんな知らない子供、助ける意味なんてあるのか?そもそもどうやって?どうせ私じゃ何も出来ない。逃げて何が悪い?嫌だ。近寄りたくない。吐き気がする。早く逃げたい。早く!)
「アサディー」
頭上から降りかかった声に、後ろ向きな気持ちになりかけていたアサディーは、はっとして見上げた。アサディーの横に立っていたのは、先ほどまでアサディーの後ろにいたサーバントだった。
「アサディー。大丈夫だ」
短い言葉だが、ゆっくりと優しげに言われたその言葉に、アサディーは体の震えが徐々に収まっていくのを感じていた。先ほどまで冷たかった指先に体温が戻って行き、真っ白だった頭に思考戻ってきて、アサディーは不思議なほど冷静な頭でどうすればいいのか考えることが出来た。
「...はい」
きっと、サーバントに言った言葉のなかで一番幼く聞こえたであろうその言葉に、サーバントは微かに微笑んだ。めったにアサディーの前で微笑むことのないサーバントがいきなりそんな表情をしたことに驚いたアサディーは、今まで心に巣くっていた恐怖が完全に無くなっていたかのような心地がしていた。
(大丈夫。一応私はここの領主の娘だ。なんとかなるだろう)
そんな無責任なことを考えながら、アサディーは一回深呼吸をし、目の前の人物の赤子の姿を想像するよう、試みた。
アサディーは、もし自分にとって恐ろしい存在が現れたとき、そんなことを想像してみるよう常日頃からしていた。上手くいけば、自分にとって絶対的な存在だった相手が、急に自分と同じ対等な人間であるように感じられたからである。目の前で屯っている男たちにも、自分と同じで、幼く無力な時があったのだと想像しながらアサディーは一歩一歩その男たちに近づいていった。
アサディーは歩みを進める度に震えそうになる足に力を込め、ガチガチと鳴りそうになる歯を食い縛った。いくら目の前の男たちが自分と対等である人間だと想像しても、やはりアサディーの体は反応してしまうみたいだったが、アサディーはそんな体の状態を無視して男たちに近づいていった。今意識してしまうと、もう二度と前に足が進まなくなる気がアサディーはしたからだ。
「にい、さん?」
そうやって、アサディーは勇気を振り絞って声をかけた。