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一衣帯水

お久しぶりです。かなり更新期間が空いてしまいすみません...その代わり長めだと思うので、少しずつ読んでもらえたらと思います。

少し急いで更新したので、誤字脱字等の確認漏れがある場合があります。何か気づきましたらお知らせください。もちろん質問、感想、意見などもお待ちしております。

アサディーが目を覚ましたのは寝室が騒がしくなった頃だった。


(なんの音...)


次第に意識が覚醒していくに連れて周りで何かを言っているのが聞こえたアサディーは痛む腕を抑えながら耳をすました。


「昨日、陽炎稲妻水(かげろういなずまみず)の月が出たということは、明日からイマルの日ということだよね?」

「うん。13日間帰省出来るね」

「久しぶりの家族の顔か...」

「妹が売られていないといいけど...」

「...大丈夫だよ。私達が懸命に働いているもの...」

「でも私の父さん、私がここで働き始める前から体調悪そうで...」

「水が足りなくて作物は実らないものね...」

「私のところはもう農作は諦めて猟に専念してる」

「でも、ちゃんと罠にかかるの?」

「うーん、バーラミャくらい、かな」

「それって一人分の食料もなくない?」

「荒れた畑に生える野草とかでお腹満たしているんだよ。森では...虫とか探すし」

「私のところもそうした方がいいのかな...木の根を食べたりするよりましだよね?私の弟なんて空腹すぎてそこら辺の土とか石とか食べてお腹を満たそうとするし」

「でも、領主様が農作から狩猟に転職して良いか許可を出してくださるか分からないし、罠を作る材料のためにシイナダレジャクを毎回仕入れないといけないくてお金がかなりかかるから、いずれ作れなくなるかもしれない。この森じゃ寒すぎるせいかシイナダレジャクに代わる植物が生えてないし...どうしよう」

「私はそういうときお金を盗むけどね」

「え...」

「そうじゃないと生きていけないし。まあ、皆が捨てているごみ漁ったり、そのごみの周りにへばりついている汁とか嘗めたりしたことあるけど」

「親もそうやって生活しているの...?」

「昔の話だよ?親は病気で死んだから昔はそういう生活していたって話。今は兄がやっと仕事に就けて、私もスアカルケイザュイで働けるようになったからこの施設には感謝してる」

「私も親がいなかったから孤児院に...」


普段は無言のままただ黙々と仕事をこなしている女性たちが今日は妙に饒舌だった。その事に対して疑問に思いながらも、アサディーはサーバントよりも早口な女性の言葉を分かる単語だけ頭の中で必死に訳そうと努力した。


(やっぱり、話す速さが速くて所々しか聞き取れない...お腹が空きすぎてお腹が痛いのと噛まれて腕が痛いのが、合わさって注意が散漫になっているからかもしれないけれど...)


アサディーが聞き取れたのは結局、何とかな月が出たことと、家に帰るという話だけだった。


(家に帰るって...休暇?月の話をしていた気がするけれど、月と何か関係があるのかな...?あっ、っ!痛い!)


憶測がアサディーの頭を過ったが、すぐにその考えは腕の痛みによってかき消された。

ちょうどその時、痛みに悶えていたアサディーに駆け寄る者がいた。あの少女だ。


「ねぇ、水をくみに行く時に、ゴホッ、アンブィーキオンにおそ、ゴホッ、われた、って本当!?」


咳き込みながら言われた少女の言葉を、懸命に繋ぎ合わせて理解したアサディーは、あの少年がこの怪我を何ものかに襲われて負った怪我にしたことを悟った。


(取り敢えず話を合わせておいた方が良いのかな...)

「は、はい」

「...腕だっ、ゴホッ、ゴホッ、よかった!生き...ゴホッっりがと!...ほんと」

「!!..あっ、話さない!」


咳き込みながらも話し続けようとする少女にアサディーは思わず言葉を遮ってしまった。


「ごめ、ゴホッ...あ」

「...」


少しの間、両者の間に気まずい雰囲気が流れたものの、少女は何かを思い出したかのように顔を上げた。


「そうだ...今日からイマルの日だから早く荷物をまとめないと...ゴホ」

「イマ、ルの日?」

「そう。陽炎稲妻水の月が出た次の日から13日間帰省...ゴホ、して良いの」

「え、ええ?き、せい?」

「ああ、家に帰ること」

「...え」

(そんな日があるんだ...てっきり働き詰めかと思ったけど)

「だから早く準備しよ?」

(...家に...そうだ、ここにいる人たちは家のために働きに来ているんだ。でも、私には帰る家なんて...)


アサディーは、みんなが家に帰ってしまうならば自分一人だけここに取り残されてしまうのではという焦りを覚えた。


「あ、えっと...」

「ん?」

「家...なし」 


自分のような人が他にいないのか、自分のような人はどうすればいいのかを少女に聞くためになんと言えばいいのかアサディーは頭を巡らせた。しかし、そんな必要もなかったようで、少女は納得したかのように頷いた。


「ああ、そう言うこと。珍しいけれど、そういう人も居なくはないよ。覚えてるかな?あの男の子。というか、男の子なんてここではあの子だけなんだけどね」

(...え、えっと、男の子?あの子のことかな?その子が一体...)

「あの子もこの時期はいつも家に帰らずにここで生活しているの」

(...家に帰ら...ない。生活、ここ。家に帰らないで、ここでも生活出来るってことかな?)

「その子に話を聞けば良いと思うよ」

「...わ、分かりました」

「うん。それじゃあ、しばらくお別れだね。寂しくなるけど元気でね」

「は、はい」


そう言うと、少女は少し咳き込みながらアサディーの元を去っていった。おそらく荷造りしに行ったのだろう。


(あの男の子に話を聞きに行こう。それに多分この傷を手当してくれたのもあの子だと思うし、お礼も言わないと)


アサディーもまた少年が何処にいるのか探しにその場を離れた。











少年が居たのは寮を出て、すぐ裏手に回ったところだった。

この付近は洗濯物を外に干せないくらいとにかく落ち葉が多いため、よく寮の裏手に落ち葉を山のようにして纏めておくのだが、その落ち葉の山の目の前で少年はしゃがみこんでいたのだ。

そんな少年の姿を見ながらアサディーは立ち往生していた。


(分かったと言ったは良いものの、やっぱり自分から男に近づくのは...いや、相手は子供だ。子供、子供、子供...)


そうやってアサディーは少年を見つけてから今まで、心の中では何度も大丈夫だと念じながらも、ずっと動けずにいた。さすがにこのままでは不味いとアサディーが思い始めた頃、少年が後ろを振り向いた。


「さっきからそこに居るけど、どうした?」

(え...え?え、え?)


今まで、大丈夫だと念じることだけに集中していたアサディーの頭は、急に少年に話しかけられたことと実は少年が腕にあの奇妙な生き物を抱えていたことで完全に思考停止してしまった。

何の反応も示さないアサディーを不思議に思った少年は、その奇妙な生き物を抱えたままアサディーに近づこうとし、恐怖の対象が二つも近づいてくるという、アサディーにとって絶体絶命の状況にアサディーの頭は焦燥感で一杯になった。

あともう一歩で少年がアサディーの目の前に来るという時に急に大きなお腹の音が辺りに鳴り響いた。

アサディーはその音に肩を跳ね上がらせ、少年は一瞬腕の中の奇妙な生き物を見たあと、徐に視線をアサディーの方へ移した。


「...」

「...」

「...」

「あー、お腹空いているならちょっとついて来な」


しばらくの間互いに黙りこくっていたが、ようやく少年の方から口を開いた。そして、少年はアサディーの返答を待つこともせず、腕にあの奇妙な生き物を抱えながら森の中へと入っていった。

その急な少年の動きに、アサディーは考えるよりも先に少年の後を追ってしまった。


(のこのこ付いてきたは良いけれど、何処に向かっているんだ?)


ちょうど人が両腕を伸ばした分くらい離れて少年の後ろを付いていっていたアサディーは、少年が向かっている場所に全く見当がつかず、アサディーの頭の中は少年はどこに向かっているのかという疑問ばかりが渦巻いていた。

しばらく二人と一匹が森の中を歩き続けると、次第に森が開け、木々の隙間から道が途中で途切れているのが見えた。


(もしかして...崖になってる?)


途切れた道の向かい側が崖になっているのが見えたアサディーは、こちら側も途切れた道の先を覗きこめば谷が見えるのだろうと想像した。

少年はちょうど森から抜け、下草ばかりが生えている場所に出ると、そっと崖を覗きこんだ。アサディーも少年の動作を真似て、少年が覗きこんだ場所から片腕を広げた分ほど離れた場所で下を覗きこんだ。

予想通りそこは谷になっており、谷の底では幅が広く、穏やかな流れの川が流れていた。水面は陽射しを受けて白く輝き、風で水面が揺れる度にその輝きはちらちらと場所を変えていた。


(こんなところに水があったのか...)


そんな川の様子を見ていたアサディーだったが、視界の端で何かが動いた気がし、河原の方へと視線を向けた。アサディーが目を向けた場所をよく見てみると、そこには羽をばたつかせている小さな小鳥がいた。しばらくすると鳥は羽を広げたまま崖を登り始めた。


(あの鳥、足にも羽が...)


小鳥が崖を登りきりそうになったとき、いつの間にか隣にいた少年にアサディーは腕を引かれ、近くの茂みに身を潜めさせられた。


(...え、今触られ...)


気づいたときには茂みの中で座り込んでいたアサディーは、少年に触られたことに恐怖する間もなく、急に腕に感じた重みの正体に慄いた。アサディーの腕の中には少年が抱えていたあの奇妙な生き物がいたのだ。アサディーは思わず腕を離してその生き物を下に落とそうとしたが、落ちたその生き物がアサディーの膝の上に乗るだけで根本的な解決にはならなかった。


(え...え?ど、どうすればいい?というかどうしてこの生き物がここにいるんだ?どうしよう、どうしよう...また噛まれるかも...)


一度腕を思いっきり噛まれたことを思い出してしまったアサディーは、噛まれた腕が再び痛みだして来るのを感じ、腕を押さえた。その様子をじっと見ていたその奇妙な生き物は、アサディーのことを一度見てからアサディーが押さえている腕にすり寄った。その行動にはどう考えても敵意などなかったが、頭の中が混乱しているアサディーにそんなことが分かるはずもなく、その生き物の行動はさらにアサディーを混乱に陥れた。


「問題ないみたいだな」


実際のところは分からないが、アサディーにとっては永遠にも感じられるほど長い時間が経ったとき、アサディーのすぐ隣からそんな声が聞こえ、アサディーは肩を跳ね上がらせて横へ逃れようとした。しかし、アサディーが動こうとした瞬間、足に冷たく尖った爪の感触を感じ、アサディーは動きを止めざるを得なくなった。


「どうやら君の上ではこの子も大人しいみたいだ」


そう言って少年は、固まって動かないアサディーの膝の上から奇妙な生き物を持ち上げ、自らの腕の中に抱いた。息苦しいほど心臓が脈打って、手足の先が冷たくなり、口を開けば歯が鳴ってしまうほどの状態だったアサディーにとってその行動は何より有難いものだった。


「...あ...ど、どこに...」

「どこに行っていたか、か?これを取りに行っていたんだ」


少年が差し出したのは2つの卵だった。その卵はアサディーが今まで少年にもらっていた卵にそっくりで、アサディーは少年が定期的にこの場所に来て卵を採っていたのだと悟った。


(そういえば私のお腹が鳴ったからここに来たんだった...)


そもそもの発端を思い出したアサディーは少年に対して申し訳ない気持ちで一杯になった。しかも傷の手当をしてもらったお礼もまだ言えていないアサディーは、せめて感謝の気持ちはしっかりと伝えなければならないと、少年に対して頭を下げた。


「おはようございます」


しかし、相手からの反応は何もなく、アサディーがおかしいと思い始めたころ、少年が口を開いた。


「ああ、なるほど。言葉を間違って覚えているのか」 

(...言葉、違う...間違った、暗記...え?間違えた言葉を使ってしまったのか?)


少年に指摘されて改めて考え直したアサディーは、自分が「ありがとうございます」と「おはようございます」の意味を入れ換えて使ってしまったことに気がついた。


(普段良く使うから間違えることなど無かったのに...あの奇妙な生き物のせいで思考が混乱している気がする...)

「時々、言葉を間違えることがあるが...良かったら言葉を教えようか?」

(そもそもこの子はどうして私にあの生き物を預けたんだ?ああ、木に登るために邪魔だったからか...いや、そんなことは分かっている、でも!...え?)

「もう一度言ってもらえますか?」

「言葉を正しく使えるよう教えてあげようか、と言ったんだが...丁度今日から13日間、仕事は休みだし」

(...さっきよりゆっくりはっきり言ってくれたけど、言葉を教えてくれるというのは聞き間違えではない?...でも、さっきからこんなに震えているのに教えを乞うなんてとても...)

「...嫌だったら別に」

「え?あっ...」

(でも、こんな機会滅多にない。この世界で生きていくには言葉くらいしっかり操れるようにならないと...今は子供だから良いけれど、いつまでもこんな話し方では駄目だ。せめて常に神経を研ぎ澄まさなくても相手の会話を聞いたり言いたいことを言えるくらいにならないと。それに男の側に居続けたらこの症状も改善するかもしれないし...)

「あっ、あの...お願いします」

「分かった。その代わりこの13日間俺の方も手伝って」

「え?」

(...て、手伝い?...ってなんのことだ?)











翌日からアサディーと少年は森の中を歩き回ることになった。理由は野草探し。

この森の中に生えている特定の野草を煮詰めると、体を拭くときによく用いられる液が抽出されるのだ。その液に殺菌効果などがあるかどうかは不明だが、強い香りがし、なかなかその匂いが落ちないため、汗の匂いをごまかすために使われる。水が貴重なこの地域ではお風呂のように、体を清めるためだけに大量の水を使うことはできないからだ。

その他に、お手洗い場所に置かれているトイレットペーパー代わりの葉っぱもこの時期に取り替えるらしく、アサディーはちょうどいい大きさの葉っぱも数枚探すことになった。


(一度見本を見せてもらったけど、どの植物がそうなのか全く見分けがつかない。同じだと思えばそう見えてくるし...違うと思えば違うような...?)


アサディーが辺り一体をうろうろ探し回っている間に、少年の方はいとも簡単に目当ての植物を見つけてはブチブチと引っこ抜いていた。

アサディーが、他の野草と見分けるコツを少年にもう一度教えてもらった方がいいのかどうかを本気で悩み始めたとき、アサディーの視界の隅を黒い影が横切り、続いてすぐにアサディーの耳に何かの羽音が響き渡った。

すぐにアサディーがそれに視線を移すと、そこには小指ほどの大きさの昆虫が飛んでいた。


(うわっ!)


虫を苦手とするアサディーは至近距離にかなり巨大な虫が飛んでいたことに驚き、反射的に後退しようとして足を地面の窪みに引っ掻けてしまった。普段なら窪みに足を引っ掻けた程度だったらすぐに体制を立て直すアサディーだが、寝所やお手洗い作業場等にわんさかいる小さな虫ですら嫌悪感を覚えてしまうくらい苦手な虫の前でアサディーに冷静な判断力は残っていなかった。

アサディーはそのまま体勢を立て直すことが出来ず、地面に尻餅をつき、その拍子に被っていたカパの帽子の部分が脱げてしまった。慌ててカパの帽子を被ったアサディーだったが、そろりと視線を上げると、そこにはしっかりとアサディーの方を見ている少年が居た。


(ど、どうすれば?)


アサディーの心の中では様々な言葉が飛び交ってたが、それに反してアサディーの体は硬直して全く動かなかった。しかし、そんなアサディーのことなどお構いなしに少年はアサディーの方へと近づいてきて...


「大丈夫か?」


とアサディーから2歩ほど距離があるところで尋ねた。てっきり掴みかからん勢いで迫られると思っていたアサディーは、思わぬ対応に呆気にとられ、すぐに自分の髪色を確認した。


(え...なぜ?灰色ではない....)


しかしアサディーの髪色は灰色ではなく、暗めの茶色だった。アサディーが急いで髪を裏返すと髪が明るめの茶色になっており、まるでサーバントと同じようにこの国では一般的な髪色になっていた。


(あ、あれ?でも、ここに来るとき通った集落では確かに灰色の髪だったはず...)


どうして髪色が急に変わったのか分からず混乱しているアサディーを見て、声が届かなかったのかもしれないと思った少年は再びアサディーに声をかけた。


「立てないのか?」


少年に2度声をかけられて漸く今の状況を思い出したアサディーは、ずっとこちらを見ている少年に気がつき、慌てて立ち上がった。

おそらくずっと尻餅をついたまま動かないアサディーを少年は不審に思ったのだろうと当たりを付けたアサディーは、すぐに反応が遅れたことを少年に謝罪し、再び二人は作業に戻った。

しかし、その後もアサディーは全く植物の見分けがつかなかった。そんなアサディーの足元にあの奇妙な生き物が突然やって来た。

アサディーが、指先が冷たくなって汗ばんだ両手を握り締めながらその場から動けずにいると、あの奇妙な生き物は口に咥えていた何かをアサディーの足元に置き、すぐにその場から去った。

体が漸く動けるようになってからアサディーがあの奇妙な生き物が何を置いていったのか確認すると、それは今アサディーたちが探している野草だった。


(え?もしかして探してくれた?)


偶然とは思えない状況にアサディーが驚いていると、またあの奇妙な生き物はアサディーの元にやった来て、口に咥えた野草を置いていった。 

それが何度も何度も繰り返されるうちに、その奇妙な生き物に対するアサディーの恐怖は段々と薄れていき、野草を地面に置く際に僅かに首を傾げるその生き物の仕草すら少し可愛いと思い始めていた。

その奇妙な生き物への恐怖が薄れて心に余裕が出来たのか、アサディーは今まで恐ろしくてその生き物の爪や牙しか見ておらず、全体の姿をしっかりと見ていなかったことに気がついた。

アサディーが心の中で奇妙な生き物と呼んでいたその生き物は爬虫類のように全身を鱗で覆っていた。四つん這いで、羽根があり、首や尻尾が長かった。


(恐竜みたい...いや、ドラゴンに似ているか?)


もとの世界では想像上の生き物として認知されていた生き物に似た存在と出会い恐怖より興味が勝ったアサディーは恐る恐るその生き物に手を伸ばした。アサディーの心臓はドクドクと音を立て、手は緊張で汗ばんでいた。

アサディーの緊張を他所にその生き物はアサディーの手を拒むことなくじっとしていた。アサディーがなでてもその生き物が嫌がる素振りを一切見せなかったため、まだ心臓の音はうるさいながらもアサディーはそっと安堵の息を吐いた。

それからその生き物は何かとアサディーの跡をついていく歩くことが増え、アサディーの膝の上に乗ったり腕の中に潜り込んだりした。アサディーも緊張こそすれ、それを拒むことはしなかった。











13日間、アサディーらがしなければならないことは多岐にわたった。水の補充や各部屋の清掃、掛け布等普段洗濯できないものや時間がなくて洗濯できずに溜まっているものの洗濯に料理器具の煮沸、外の落ち葉掃きに、お手洗いの清掃、食器等壊れた物の修復に破損した物や清掃して出たごみの処理、普段働いているところの清掃も行わなければならなかった。

しかし、アサディーが怪我した腕を酷使しようとしたら何故か必ず少年がそれに気付き、代わりにやってしまうため、アサディーにとってこれらの仕事はそれほど酷なことではなかった。

少年は時間を見つけてはアサディーに言葉や思い付く限りの常識を教えた。身ぶり手振りで言葉の意味を知ったり、分からない単語の多い説明から実物として指し示めせる物がない常識というものを推測するのはかなり大変なことだったが、子供ならではの頭の柔らかさと記憶力なのか、アサディーはどんどん様々な知識を身につけていった。

この13日間はアサディーにとって比較的穏やかな時間を過ごしていた。やることは多かったが、無理をしない程度に働けば適度な休憩と睡眠が得られ、普段見張りをしている監視役の人たちもこの期間はいないため折檻されることもなかった。

休憩している間は大体傷を早く治すために横になることが多かったアサディーだが、そんなアサディーの腕の傷を治すために少年はわざわざ森から薬草を摘んできてアサディーの傷口に塗ったりしていたため、少年にたいしての恐怖というものがアサディーの中から段々と無くなっていくのをアサディーは感じていた。

ドラゴンによく似たあの生き物もあれ以来アサディーに攻撃的になることはなく、逆にアサディーによく懐つき、アサディーの側で一緒に眠ることが多くなったため、その生き物に対するアサディーの恐怖心も少年と同様薄れつつあった。

もしかするとアサディーは少年よりもその生き物に親しみを覚えていたかもしれない。 

いつの間にか周りは知らない言語を話し、知らない文化を当たり前のように要求され、誰一人として見知った顔はなく、突然理由も分からずに悪意を向けられ、皆が自分を遠巻きに見るなかで誰にも頼ることが出来ず、頼れそうな人を見つけても自分の気持ち一つまともに話せず、逆にほぼ全てを相手に合わせなければならず、せっかく合わせても何一つ理解できずに周りの環境はころころと変わり、この世界に適応するためにも重要な情報を聞き漏らさないよう常に神経を研ぎ澄ませていたアサディーにとって会話を必要としない相手というのはある意味本当の心の安らぎを得られる唯一の存在かもしれなかった。

それでもこんなに穏やかな日々を過ごしていて良いのだろうかと今まで体を酷使され続けていたアサディーは一抹の不安を覚え、少年に手当てしてもらっている間に拙い言葉でなぜこのような日が設けられているのかと尋ねたこともあった。少年から返ってきた言葉はアサディーが考え付きもしないことだった。

少年はこう言ったのだ。


「長くここで働いていれば辛い環境に逃げ出したくなる者も出てくるだろう?だから定期的に一度家に帰すんだ。自分の家族の悲惨な状況を見れば逃げ出そうだなんて気は失せてしまう」


少年が言った言葉を全て理解することは出来なかったが、アサディーは少年が言いたいことを何となく感じ、まだ若い女性や幼い少女たちがここで働いているのは家族のためなのだということを思い出した。

まるで彼女たちの家族を思う気持ちを利用するかのような考えに、アサディーは怒りと悔しさとやるせなさを感じた。


(人権なんてどこにもない...)


その日からアサディーにとってこの13日間は穏やかな日々等ではなくなったが、だからと言って何か出来るわけもなく、アサディーはこれまでのようにここでの環境や常識に合わせるため、少年のあとを付いて回った。

この13日間の間、アサディーが言語や常識以外で知ったことはもう一つあった。

男の子である少年がここで働いている理由だ。少年がそれを話始めた発端は確かにアサディーだったが、それはアサディーに聞かせるというよりは独白に近かった。その証拠に、少年はアサディーが分からないであろう難しい言葉も多く使用しながら話した。それは、普段アサディーが理解しやすいように比較的易しい言葉で話そうとする少年らしからぬ行為だった。

少年がそれを話始めたのはアサディーが


「おおくの女性がここにいる。けれど、何故あなたはだんせい?」


と、尋ねたからだった。少年はアサディーの言葉に少し考え込んでこう話始めた。


「まあ、確かに男である俺がここにいるのは奇妙かもしれない...俺がここにいるのはある貴族にこの施設へ放り込まれたからだよ。ある貴族の言っても俺の父親のことなんだけど、父親とは思いたくないな。俺はあの人の隠し子でさ、一回は母親共々捨てられたんだけど...」


そこで少年は口を噤んだ。そのときの少年の顔を見たアサディーは、恐怖のあまり体が固まって動けなかった。少年の顔に表れたのは酷い憎しみと怒り。いや、憎しみや怒りなどでは言い表せないほどの激情。

少年の顔を直視することさえ出来なかったアサディーは、少年の首の位置で目線を固定し、嵐が過ぎ去るのをただひたすら待つように体を硬直させた。

そんなアサディーの様子に気づいたのか、気づいていないのか、しばらくして少年は再び話始めた。 


「...母が亡くなって身寄りのない俺があの人に助けを求めたんだ。するとあの人は正妻との間に出来た息子と似ていることに気がついて、俺を息子の影武者として利用することを考え付いた。そこからしばらくの間は影武者として命を狙われる立場だったんだが、成長していくうちに俺とあの人の息子の顔や背恰好、声の違いが明確になり始め、あの人は俺を捨ててここに放り込んだ。このくらいの年になればあの人の息子も自分のことは自分で守れるようになるだろう。11歳までは神からの預かりもの、12歳からは人の子、ってな」


その後、言葉を切った少年は何を考えているのか分からない瞳でアサディーを見つめた。少年は何を話していたのか、何故見つめられているのか、全く分からないアサディーはただ何か言わなくてはと焦るばかりで結局何も言えずに少年の瞳を見つめ返した。どれくらい時間が経っただろうか。少年はアサディーが何も話さないことが分かると、ふっと口から息を吐き出し、目を閉じた。視線をアサディーから反らして空を見た少年は何か物思いに耽っている様子でその日はそれ以降、少年からアサディーに話しかけることはなかった。

それを見ていたアサディーは


(もしかしたらこの子は貴族が憎いのかもしれない...)


と、感じていた。少年の話のほとんどが理解できなかったアサディーだが、貴族という単語は知っていた。この世界でのアサディーの両親は領主という立場で、その言葉がアサディーにとって一番馴染みのある言葉だが、アサディーの両親らを示すときに貴族という言葉が使われることもあったからだ。だからもし自分がその貴族の娘だということがばれたら少年の恨みが自分に向かないか、アサディーは恐れた。例え両親に虐げられていたとはいえ、アサディーの親が変わる訳でもなく、同時にアサディーの身分も変わる訳ではないのだ。


(いや、ここで働かされているということはもう親子の縁を切ったのか?)


そんな考えがアサディーの脳裏に過ったが、結局この国の言葉もろくに話せない小さな子どもが何を考えたってどうこう出来るはずもなく、一度近づいた少年との距離がまた少し離れるのを感じながらアサディーはここで静かな時を過ごすしかなかった。











アサディーが少年から相談を受けたのは、この静かな日々がとうとう終わりそうになる頃のことだった。

相談内容はドラゴンに似たあの生き物について。この時アサディーは初めてあの生き物の名前を知った。直訳すれば『古き住人』といったところ。親しみを込めて『地の友』と呼ばれることもある。

しかし、この『古き住人』という存在は一般人が見られることは稀で、その中でも幼獣の姿はほとんどの人が見たことがない生き物であるため、もしここの経営者にこの『古き住人』が見つかれば即座に奪われ良からぬことに使われる可能性が高いという話だった。

もちろんすぐに野に放てればそれが一番だが、残念ながら『古き住人』は生まれた瞬間に見た生き物を親だと認識する性質があると一般的に定説されているらしく、森に放置しても臭いを追ってまた戻ってくるだろうと考えられた。

それでは何故自分は孵化直後に腕を噛まれたのかという疑問が一瞬頭に浮かんだアサディーだったが、すぐにアサディーにこの話を今までしなかった理由を少年が話始めたため、その疑問はすぐに霧散してしまった。

少年が語った理由は二つ。一つは定説通りアサディーを親だと認識し、森に返すのは本当に無理なのか、もし無理ならばどこか隠せそうな場所はないか探すため。もう一つはアサディーにこの期間の中にしなければならない仕事に慣れてもらうため。

アサディーはしばらく仕事を覚えることと傷のことに専念して安静にしていた方が良いと思い、この二つが出来てから伝えても遅くはないと思ったという旨を少年はアサディーに話した。

そして『古き住人』の隠し場所として少年が提案したのは森の中少し入ったところにある木の(うろ)の中だった。

アサディーの背より少し高いところにあるものの、飛び上がって木にしがみつき、中を覗いてみれば、ちょうど『古き住人』が入ってもまだ空きがあるくらいの空間があり、穴も上を向いているため、間違っても『古き住人』が下に落ちることはなく、居心地が良さそうに見えた。おそらくすでに虚の中の掃除は済ませているらしく、普通溜まっていてもおかしくない土や枯れ葉などは全て外に掻き出されていた。

アサディーもこの場所が良さそうだと少年に二段階で首を傾げると、少年に伝わったらしく、アサディーが抱えていた『古き住人』を抱え上げて虚の中へ入れようとした。最初は抵抗すると思っていたアサディーだったが、『古き住人』は何もかも分かっているかのような様子で中にするりと入り込んだ。しばらく中でもぞもぞと動いていた『古き住人』だったが、やがて虚の穴から顔を覗かせアサディーらを見た。

それからアサディーと少年はしばらく『古き住人』の様子を観察していたが、『古き住人』は出る様子もなく、虚の中に自分の臭いを擦り付けることに夢中だったため、安心してその場を離れた。すぐに『古き住人』の食べ物を与えなければならないからだ。虚の中に入れるということは前よりもいっそう自分たちで食料を確保して上げなくてはならない。

とはいえ、爬虫類らしい見た目を裏切らず、昆虫を好んで食す『古き住人』の食料など、虫が大の苦手なアサディーに出来るはずもなく、アサディーに出来ることといったら新鮮な水を上げる程度だった。

もしアサディー自身が虫が平気だったとしても何の虫が毒を持つのか、『古き住人』にはどんな虫が体に悪いのか知らないアサディーが積極的に虫を狩ろうとはしなかっただろうが...

『古き住人』には一体何が体に悪いのか分からない点は少年も同じらしく、いつも虫を与えている際は慎重に少しずつ与えているとアサディーは少年から聞いていた。アサディーが実際に現場を見ていないのは虫が駄目だからだ。時々『古き住人』の側に虫の死骸が転がっていることがあり、この度にアサディーは悲鳴を上げている。











  

アサディーにとって中々濃い時間を過ごした13日間だったが、ついにイマルの日は終わりを告げ、翌日からまた辛い労働生活が始まろうとしていた。

  

切りが良いところまでと考えて書いていたらかなり長くなってしまいました...区切ろうかとも思ったのですが、それもそれで不自然になりそうだったのでこのままにすることに。次回はもう少し短くなると思います。

今回、ドラゴンとか少年とかと親しくなる回でしたが、少年はともかく牙や爪で傷つけられる恐れがある生き物に触れるのは勇気がいることですよね...やっぱり狼とか鷹とか虎とか豹とか、中々触れませんよね...

今回も最後まで読んでくださりありがとうございました。次回やその次の回もそこそこ衝撃的な話になると思いますので、良かったらまたお立ち寄りください。



「陽炎稲妻水の月」は形は見えてもとらえることのできないもののたとえです。ここでは本物の月の名前として使っています。

「イマルの日」は、日本では8月11日に帰省する人が多いらしく、8月11日は「ヴァイマル憲法」、「ワイマール憲法」が制定された日なので二つの名前の中でどちらも使っている字を取ってきてくっつけてみました。「イマルの日」はあくまで帰省する日なので急に謎の憲法制定の話が出てきた理由とか上記の月の名前とかに関係はありません...さらに言えばややこしいことに「イマルの日」は8月11日だというわけではありません。そもそも暦自体地球のとは違いますので...

「シイナダレジャク」は「シナダレスズメガヤ」が名前の由来で、ここでは動物の首や足を絞める形の罠に使うための紐をこの植物で作っている設定です。「シナダレスズメガヤ」は温帯から熱帯に生息する植物で、耐暑性と耐旱性は強いですが、耐陰性と耐湿性は弱いそうなのでこの地域の森が鬱蒼としているから「シイナダレジャク」が生えないのかもしれませんね...

「バーラミャ」はリスのような大きさで、枝を掴むことが出来るような手足と長い尾を持ち、木の上で生活する「ハラミヤ」を想像して書いています。

「アンブィーキオン」は狼のような鋭い歯が犬のような歯並びで、虎のような大きさだけど熊のような体格の「アンフィキオン」を想像しています。危険です。

アサディーが食べていた卵の親鳥は、足にも羽があったとされる「始祖鳥」を思い浮かべて書きました。(崖を走りながら登ったかは分からないんですけど...)

この地域では二段階で首を傾げると賛成の意味になる設定です。激しい同意だと左右に二段階首を傾げる必要があります。

と、長々と失礼しました。最後まで読んでくださりありがとうございました。

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