金木犀の飴玉
ふとした出来心でした。
町長さんのお宅の庭の金木犀の木の、道に張り出した枝を一本、折ってしまったのです。私が子供のころ住んでいた家で嗅いだものと同じあの香りに誘われて、つい手に取ってしまいました。見とがめる人はいませんでしたが、怖くなって走って逃げてしまいました。
しかし持ってきてしまうといつまでもその香りが付きまとってきて、かえって寂しくなるばかりでした。それが辛くなってきた私は、それでも枝を捨てることはできずに、うなだれてとぼとぼ歩いていました。
「お姉さん、どうかしましたか?」
私に声をかけたのは、カートを引いて売り歩く飴屋の男の子でした。今は甘いものがほしい気分ではなかった私は飴には興味が持てず、また持ったままの金木犀に目を落としました。
「金木犀がお好き、とはちょっと違うみたいですね」
優しくかけられたその声に、私は不意に懺悔がしたくなりました。貯め込んでいたものを吐き出すように、私は胸からあふれ出たものを全部、飴屋の男の子に話し出しました。
何も知らなかった子供の頃のこと、両親に連れられて見たこの町に憧れたこと、大きくなって一人でこの町に出てきたこと、そしてこの町でどうにか生計を立てられるようになったこと。
だけど時々どうしても無性に寂しくなって、子供の頃を思い出して泣きそうになること。
「それで、懐かしい金木犀を取ってしまったのですね」
「でも、持ってきてもどうにもならないわ。植える庭もなければ飾る花瓶もない。私は子供の頃を思い出させられて寂しくなるばかりだし、この子はただ枯れていくだけでかわいそうだわ」
ただの通りすがりの飴屋の男の子に、私は訴えるように言葉を重ねていました。見ず知らずの私を相手に飴屋の男の子も困ってしまったようで、考え込む顔になってしまいました。
「そうだ。その金木犀をいただけませんか?」
「これを?」
飴屋の男の子が優しい笑顔を浮かべたので、私は厄介払いとか相手の迷惑とかを思い浮かぶこともなく、おずおずと枝を渡しました。
「それで、明日の今頃、またここに来てください」
私が何となくうなずくと、飴屋の男の子は御機嫌ようと笑って、カートを引いて行ってしまいました。
次の日、その場所には昨日と同じように飴屋の男の子が待っていました。
「こんにちは、お姉さん。これをどうぞ」
待たされたことを怒ることもなく、飴屋の男の子は優しい笑顔で私に紙袋をひとつ渡しました。その中身は、金木犀の花を閉じこめた、親指の先くらいの大きさの少しオレンジがかった飴玉でした。
私はひとつそれを口にしました。それはどこか懐かしいような優しい甘さで、ほんの少しだけ酸っぱい味でした。
「金木犀の香りは、しないのね」
「飴の匂いは強いですから、そこはごめんなさい」
「いいのよ。そうしたら私、また寂しくてたまらなくなるかもしれないわ」
久しぶりの飴をじっくり味わっていた私でしたが、突然のことに目を見開きました。飴屋の男の子もそれに気づいて、気になると言いたそうな顔になりました。
金木犀の花が舌の上に転がった一瞬、私の鼻にその香りが微かに届いたのでした。
「ありがとう。すごく、おいしいわ」
飴玉は口の中で溶けてなくなり、金木犀の花ものどの奥へ転がっていきました。私は久しぶりに、心からの笑顔を浮かべることができました。
代金を払おうとすると、飴屋の男の子はそれは受け取れないと断りました。しかし私はどうしてもこの飴をただでもらってしまうことがいけないことに思えて、食い下がりました。
「そこまで喜んでもらえるなら、これ、売り物にします。それで今日の分は、アイデア料としてお姉さんに差し上げます。それでどうでしょう?」
飴屋の男の子はそんな私に困った様子でしたが、いい案を思いついて明るくひとつ手を叩きました。それでいいならと私がうなずくと、飴屋の男の子は御機嫌ようと笑って、カートを引いて町長さんのお宅へ向かって行きました。
その晩、私はこの町に来て初めて両親に手紙を書きました。今まで便りを送らなかったお詫び、今この町でがんばっていること、今まで育ててくれたことへの感謝。
そして時々どうしても無性に寂しくなって、子供の頃を思い出して泣きそうになること。
金木犀の飴玉を添えて手紙を出して空を見上げた時、懐かしい香りを含んだ風が、私を心地よく包んでくれました。