08 氾濫による世界2
アメリカやヨーロッパでは東アジアの有様を見て流石に「ダンジョンを封鎖しろ」との声は消えた。強引に封鎖しても何の意味も無い事が確認できたからだ。自分達で強引に封鎖したダンジョンも半島と同じ有様なのも確認した。ダンジョンの中にいたのが小動物だけで溢れ出しても被害が少なかっただけだった。そんな事よりも強化人の強さに注目する者が増えた。ある者は利用しようと考えある者は敵の力の強大さに恐怖した。クリスチャンの一部は強化人の事をその姿形から悪魔の使徒と考えていたからな。一般人はその姿形から病気の所為だと考え忌避していたのだが明らかに現代人よりも能力が高いのを知って能力が向上するのは良いけどあの姿形は嫌だなと考える様になった。これでは日本の様に自ら進んでダンジョンに住もうとする者は増えないよな。遅かれ早かれこれから産まれる者達は皆強化人となるのに彼等は内心ではまだ認めたくないのだ。キリスト教の影響か忌避感が強いのだろうな。
ムスリムにもクリスチャンと同じ様にダンジョンを忌避する者達はいた。だが現実的な者達が多くいてダンジョンは砂漠では重宝されていた。ダンジョン内部は放置すれば外の環境と類似となるが人が手を加えればいくらでも緑の豊かな場所となった。これは彼等砂漠の民にとっては夢のような状況だ。砂漠のど真ん中でもダンジョンが在れば水は調達可能だし家畜は育て放題で作物の栽培も可能なのだ。飢えや乾きの心配が無くなるのだ。それに比べれば多少姿形が変わる事などたいした問題ではない。過酷な土地に住む者ほど姿形の変化など些末時と考えてダンジョンを神の賜与あるいは恩恵と捉えた。確かにダンジョンの氾濫は危険ではあるがダンジョンを自らのものにして得られるものの方が遥かに大きい。ダンジョン一つで一族丸ごと子々孫々まで養う事も可能なのだ。これを悪魔によるものと言われても素直に納得する者はいない。コーランの何処にダンジョンを使うなと書いてあると言うのか。コーランにダンジョンについての記述は何処にもない。アッラーはダンジョンの使用を禁じてはいないと言う事だ。
アメリカでクリスチャンの一部が問題にしている旧約聖書の記述「神は人を自分に似せて作った」にしても角があると似姿とは言えなくなるのかと言うとさて?神の姿の具体的な記述は何処にもないから何とも言えないのだ。それに角と言っても毛が変化したもので髪の毛と言い張れない事も無い代物だ。アメリカでのテロ騒ぎは要は一部の者が勝手に俺が似姿とは思わないから似姿ではないと言って騒いでいるだけの話では?今の姿形に愛着があるから嫌だと駄々を捏ねている感じか。神への信仰を装ったナルシストだな。KKKと似た様なものだろう。因みに新約聖書のヨハネによる福音書には「神は霊である」とあるが旧約聖書にはない様だ。多くのクリスチャンはこの事を以って似せているのは霊の部分だから肉体の姿形は関係ないよとか言っている。でも本当にそう思っているなら人種差別なんて起きる筈はないんだ。クリスチャンの殆どは内心では納得してないんじゃないかな。それで角の事でも騒がしいんだ。
旧約聖書を聖典とするユダヤ教徒のラビ達は角の事について騒いではいないからそう言うことなのだろうな。
アメリカではダンジョンの氾濫により地球上での人の領域が狭まるにつれて核兵器の使用を求める声が高まり、ついに獣の領域に対して核兵器の使用に踏み切った。ダンジョンには効かないけどダンジョンから溢れ出る獣には効くからな。確かに一時的には獣達の領域拡大の進行が止まった。だけどダンジョンからは更に強い獣が溢れ出る様になった。ダンジョンは奥に行くほど環境が良いのか縄張り争いが苛烈で獣が強くなるのだ。だからダンジョンから溢れ出る獣を一挙に殲滅すると今迄より更に強い獣が次に溢れ出てくる事になる。結局、核兵器の使用は人の住めない場所を造り出し溢れ出る獣は強くなり人の領域を狭めるだけの結果となった。
「どうやら近代兵器を使用するだけではこの危機を乗り切るのは無理の様だな」
「ある程度以上強い獣が支配するダンジョンを攻略するのは確かに非常に困難ですね」
「如何すれば良い」
「日本と同じ様に積極的にダンジョンに住まう者達を活用するしかないと考えますが?」
「やはりそうか。だがな、あの連中に忌避感を抱いているのはテロリストだけではないんだ」
「そうですね。表立ってはいませんが我々を支持する資産家たちの多くもその様です」
「ダンジョンそのものが有用な事に間違いはない。ダンジョン内を開拓して畑や牧場を拡げる事には賛成だ。大規模農業でアメリカの大地が疲弊して荒れ地と化しているのも確かだからな。だがなぁ、あの角は何とかならんのか」
「髪の毛が変化したものなので切る事は可能ですが彼等が承知するとは思えませんね。彼等にとっては大人になった証で誇らしい事なようですから」
「日本の連中は何で平気でいられるんだ」
「日本の伝説にある鬼に似ているので一部の日本人が恐れてはいますよ。ただ日本では畏怖の対象ではあっても必ずしも嫌悪の対象ではないんです。悪魔を思い起こす人は少ないですね」
「奴等はクリスチャンではないからな」
「アメリカではダンジョンに住む人々の多くはクリスチャンですよ。バイブルを持ち込んだ者が居て未だに読み継がれています」
バイブルをダンジョンに持ち込んだ人は文字通り肌身離さず持っていた様でダンジョンの中でも無くさずにいてそのバイブルは今も現存するらしい。
「角が生えている奴等がバイブルとか冗談としか思えん。……まぁ、そんな事は如何でも良い。何か資本家供が飛びつく話はないのか?」
「ダンジョンに住み始めた第一世代なのですがまだ存命でそろそろ実年齢は百歳程なのに五十代の容姿だそうですよ」
「……聞いた覚えがあるな。そうか老化防止か若返りだな。何か研究成果でも挙がっているのか?」
「ええ一応は挙がっていますよ。ダンジョン内で暫く暮らすと細胞が活性化するようです。ダンジョン時間で二年程掛かりますが外では二十日程ですかね。それで五十代であれば三十代ぐらいの容姿にはなれる様ですよ」
要は五十代の企業幹部が二十日間の休みを取ってダンジョン内で二年暮らせば休み明けには三十代に若返って出社出来ると言う事だ。二十日の休暇で二年間のバカンスと若返りがセットで味わえる。ダンジョン内での暮らしを楽しめるのならこれが可能となる。二年も休んで使い物になるのかは当人の問題だ。
「それは魅力的だな。ダンジョン内で暮らすと言うのが気になるが。効果はどのぐらいだ」
「定期的にダンジョン時間でひと月ダンジョンで暮らせばその容姿をかなり長くの間保てるようですよ。百歳になっても五十代の容姿ですから」
「それはまだ公表はされてないよな」
「……元々日本からの情報で確認検証したものです。公表されてはいませんが知っている人は知っているでしょう。ただ日本ではダンジョンに住まう者が研究を主導しているので今頃はもっと凄い成果が挙がっているかもしれません。彼等の知能は我々よりも明らかに高いですからね」
「直ぐに日本から情報を引き出せ」
「日本への見返りは何を出しますか?既に日本からのアメリカ軍の撤収は決定事項です。日本とは以前のような関係ではないのですよ?撤収の条件では少し揉めていますし、譲歩して宜しいですか?」
「多少の譲歩は已むを得ない。条件が纏まらなくても撤収の期限は決まっているのだからな」
「それで日本から得た情報で資本家達を説得出来ますか?」
「若い奴等はともかく五十代以降の連中は絶対に乗ってくる。ダンジョンで暫く暮らすのだから中の奴等の協力は必須だ。若返れるなら多少の事は我慢するさ。俺もそのつもりだからな」
こうしてある日を境にアメリカのメディアはダンジョンの素晴らしさ喧伝する様になりアメリカでの強化人の待遇が改善される事となった。表向きは人の領域を守る為には地道にダンジョンを攻略するしか手が無い事に気付き、強化人の協力なしではダンジョンの攻略が難しい事が周知されたからだ。ダンジョン内での戦いであれば強化人の方が馴れているし身体能力も高いからな。
北アメリカ大陸でダンジョンから溢れ出て暴れている強化獣の筆頭はグリズリーだ。元々巨体だったのが更に巨体となり角が生えたり鉤爪が強化されていたりしていた。どう考えても戦わないのが無難だな。それでもダンジョンの外なら銃器を使えば倒せない相手ではない。ダンジョンの中でも浅層なら銃器も外と同様に使用可能だから何とかなるだろう。でもそこまでだ。それ以上奥へ銃器もなしに普通の人が進んで生き残れるとは思えない。それで強化人の存在が重要なのだ。文明社会を守護し維持する為にはそこで均衡を保ってダンジョンから獣が溢れ出るのを防ぐしかない。まぁ、これは人里に近いダンジョンの話で山奥に在るダンジョンについては放置するしかなかった。核兵器の使用で分かった様に下手に弄るとダンジョンの中から更に強い獣が溢れ出して状況が悪化するだけだからな。
ダンジョンの外でなら充分に役立つ銃等の武器もダンジョン内への進行となると浅層でしか通用しない。補給が続かないのだ。ダンジョンの中に籠ると外と時間がズレてくる。ざっと計算すると外で一日経つと中では四十日経つ、外からは毎日四十日分の武器弾薬と食料の補給を絶え間無く続けなくてはならない。実際にはダンジョンの奥へ行くにつれて少しづつ時間がズレて行く感じなのでそう単純でもないのだが奥へ行く程補給が困難となる。ダンジョンにはもう一つ問題があって身に付けていない物はダンジョンが不要物として吸収してしまう。武器弾薬も地に置いたままにすると無くなってしまう。ダンジョンからゲル状の透明な物質所謂スライムが出てきて物を分解して吸収してしまうのだ。だから強化人達は必要な物は決して身から離さない。そして武器は剣か槍を使う者が多い。他はメイスや棍、斧を使う者もいる。銃器は弾薬が途切れると役に立たないので使う強化人はいない。弾薬は身に付けるにしても限度があるからな。そう言った訳で近代兵器はダンジョン攻略には向かない。それで軍ではダンジョン攻略の為に銃剣術、ナイフ術の訓練を重視する様になった。柄の長いシャベルを使った戦闘訓練なんかも行っている様だな。
ロシアではダンジョンの氾濫によりシベリア一帯がダンジョンから溢れ出た獣達の縄張り争いの場となっていた。シベリアでは人は劣勢で防戦一方の状況だ。シベリアで優勢にあるのは虎と豹とヒグマと狼だ。この獣達が縄張り争いをして均衡を保っていた。人はこれらの獣達に圧迫されて領域に籠って防戦を強いられている形だな。ロシアの西側と東側は分断された形で一進一退その間に在る都市や集落は防御で手一杯と言った感じだ。近代兵器とダンジョンの御蔭で何とか防衛できているのだがそもそもダンジョンが無ければこの様な状況は生まれなかった。でもダンジョンの御蔭で食料事情が改善されて以前より豊かになっているのも確かな所で中々複雑な環境にあった。亜寒帯から寒帯にかけての環境は過酷で冬季にはホームレスは死に直面する。その結果、ダンジョンの発生時にダンジョンに逃げ込んでそのまま住み着いた人の数は他の地域よりも多い。これが強化人の割合が砂漠地帯に次いで高い理由だ。大陸に点在する都市や集落が何とかもっているのはこの強化人達の存在抜きでは語れない。強化人達が都市や集落とその近郊のダンジョンを攻略し確保しているから人は獣達の攻勢を何とか凌げているのだ。ロシアでは中国と違って獣達が優勢にある為か人のダンジョンが互いに競う状況にはない。ただ東西の分断は深刻で西はヨーロッパ、東は日本との経済的な結びつきを強めていた。ロシアが何とか一つの国として纏まっているのは細々とではあるが空路を確保しているからだな。
「シベリア中央は守勢でいるしか手は無いな。下手に手を出して獣達の勢力均衡が崩れたら却って面倒そうだ」
「ダー、他に打つ手はないな。シベリア鉄道は分断されて補給もままならん。攻勢に出る余裕は端から無い。ダンジョンが無ければ持たん状況だ。ダンジョン発生の初期に充分なダンジョンの確保に成功した事と角付き達の御蔭だ」
「シベリアは角付き達が多いですからね。ダンジョンの中は住み心地が良いのでしょうか?」
「ああ、そうみたいだな。少なくとも食い物の心配は無くなる。作物もジャガイモの連作障害も気にする必要が無いそうだし家畜なんかも豚は厄介みたいだが牛、山羊、羊は飼いやすいようだぞ。糞尿の始末はダンジョンが勝手にするし悪臭も無いそうだ」
「人口五百人程の村が一年で六千人、二年で八万人程になったそうだ。殆どがダンジョン産まれだそうだが強化人がそれだけいれば潰れる事は無いだろうな」
「モスクワ近郊では考えられませんね」
「ダンジョンの中がそこまで住み易いって事だ。少なくともシベリアの寒村の住民にとってはな」
「モスクワ辺りでは以前はホームレスの巣扱いでしたよ」
「一時はダンジョンへホームレスが流れ込んだからな。住み易いって事だろう。我々がダンジョンへ調査を入れた時には元ホームレスとその子孫で合わせて十万人いた。今でも増え続けている筈だ」
ロシアではホームレスがダンジョンに住み着く事を禁止してはいない。ダンジョン内を開拓して自給自足してくれれば外で面倒を見るよりは安上がりだからな。表をウロウロして犯罪に走るよりは数段マシだ。そんなのよりダンジョンが犯罪組織に利用されたり獣のダンジョン化したりする事を恐れてロシア政府は調査していた。正直なところ犯罪組織の摘発に忙しくてホームレスの相手なんてしている余裕は無かったのだ。今では日本と同じ様に増えた強化人をダンジョンの攻略に活用していた。国内のダンジョン内の開拓も共同で行う様にして食料の増産に勤めていた。
日本のお隣の半島の騒動により半島に駐留するアメリカ軍はなし崩し的に半島からの撤収を開始した。このアメリカ軍とアメリカ人の撤収を補助して以降の日本政府は日米安保条約の存在意義を失っていた。それはアメリカ政府も同様で太平洋で交易路が寸断されて交易が細るばかりの混迷するアジア市場に軍を駐留する戦略的意義は低い。海に関しては日本もアメリカも共に海洋に点在する自領の島々を維持するだけでも手一杯の状況なのだ。それで条約を解消する運びとなったのだが人は仕方がないとして各種兵器を持ち帰る費用が馬鹿にならない。まぁ、これは日本側に譲渡する事で早々に決着した。アメリカは破棄した方が良いぐらいのものだったし日本も状況的に武器弾薬の類は有って困る様なものではなかったからだ。
問題となったのはアメリカ軍の施設内のダンジョンの取り扱いだ。日本では国内のダンジョンの内部は占有者のものとなってはいるがそれはあくまで日本国民に適用されるもので外国人は対象外だ。アメリカでは発見者にダンジョン内部を占有する権利がありそれが外国人であっても適用されていた。ただ管理責任も非常に重く放置するだけで罰金刑を食らうので大半の人は直ぐに売却していた。一般人がダンジョンの開拓に時間が取れるとは思わないのでそうなるだろうな。アメリカ軍の施設内はアメリカの法が適用されてはいたが土地は日本からの貸与なのでダンジョンの権利については元々揉めていたのだ。日本では発見者にはダンジョンの入口の権利しかない。それも地主が別にいれば権利は半分である。ダンジョン内に関してはダンジョンの主にならない限り何の権利も無い。そしてダンジョンの入口の権利を売っても日本では微々たる金にしかならない。十万円が精々って話だ。日本のダンジョンの入口の権利は出入りする権利と期限付きの占有優先権で占有する気が無い人には何の意味も持たない。日本はダンジョンについてはあくまで日本の法が適用されるとしていてアメリカは治外法権の範囲内だとしていた。この時点ではアメリカ軍は撤収する気は無かったから当然だな。それでダンジョンの取り扱いについては宙に浮いていて半ば放置されていたのだ。流石に獣が溢れ出ては困るから一層目辺りまでは占拠していたが奥の方は撤収するまで放置していた。それで撤収する段になってその放置状態のダンジョンを買えと言ってきたのだ。日本側はあくまでアメリカ側に権利があると主張するのであればダンジョンを持って行けと言ってこの件は終了した。ダンジョンを移送する方法なんて確立していたらこんな事では揉めやしないわな。
アメリカ軍の撤収後に残されたダンジョンの内三つの管理は特に杜撰だったようで犬や猫が繁殖していた。要らなくなったペットを捨てていた様だな。アメリカ国内ではそんなダンジョンが幾つも有って皆当然の様にペットを捨てていてダンジョンの氾濫の時に大変だったようだ。流石にここはアメリカ軍の施設内なので対処できたようだが酷い話だ。日本はこのダンジョンの攻略の為にかなりの人手を割くこととなった。ダンジョン内はダンジョン時間で八十年以上放置されて野生化した犬猫が繁殖していたのだ。こんなものを街中に放置するな!