07 氾濫による世界1
世界中でダンジョンの氾濫が始まった。世界中のダンジョンから獣が溢れ出て地上に勢力圏を築きダンジョンの取り合いを始めた。ダンジョンから見れば人も他の獣達と同列の存在で唯の手駒である。
日本政府の調査では日本で問題となりそうなのはヒグマ、ツキノワグマ、猪のダンジョンで次点で犬、猫、狐、狸等のダンジョンだった。そして人里近郊の森林等でダンジョンから漏れ出ただろうそれらの獣が発見された場合は自衛隊を派遣してダンジョンの探索と獣の退治を行っていた。山岳の奥地にあるだろう獣のダンジョンとの緩衝地帯を設けていたのだ。日本には幸いにも大型の肉食獣は存在しなかった。大陸ではダンジョンの発生により大型肉食獣が強化されて復活しつつありダンジョンから漏れ出た強化獣による被害が続出していた。最近シベリアで暴れているアムールトラが代表的な例だ。
ダンジョンの氾濫が始まり日本本土では山奥で角の生えたツキノワグマや牙の多い猪等が暴れていたが予め緩衝地帯を設けていたので人里への被害は少なかった。注意喚起していたにも関わらず以前と同じ感覚でいた登山家達が被害に遭ったぐらいだ。人を知る獣は無闇に人を襲う事はない。これは人が怖いのを知っているからだな。だけどダンジョンから溢れ出た獣は人なんていないダンジョンから出てきたのだ。人は唯の獲物に過ぎない。北海道では角の生えたヒグマが暴れていた。沖縄では……猪だな。珍しい所では角の生えた日本猿が優勢な地域もあった。人の領域は急激に圧迫される事となり登山をする人はいなくなった。
でも日本人はなんとか踏ん張って人の居住する領域の大半の防衛に成功していた。俺の住んでいる村は何とかツキノワグマや猪の侵入を防いでいた。
「何とか凌いでいますよ。やはり自衛隊の存在は大きいな」
「近場のダンジョンが着実に攻略出来ているのも大きいですよ。強化人の御蔭ですね」
「ダンジョンの攻略に強化人は欠かせませんからね」
日本ではダンジョンに住みたい人を募集していて人を集めては日本各地に在るダンジョンに送り込んでいた。送り込んだ先のダンジョンには既に日本各地で見つかった強化人の方々に先行して居住して貰って開拓していた。公園のダンジョンで彼等が見つかって直ぐにこのプロジェクトが始まったから地上時間で一年以上ダンジョン時間だと四十年以上だ。どうせ変わるなら早い方が良いやと言う人も結構いて強化人の人口はかなり急激に増加した。今では彼等をみても違和感を持つ日本人はそうはいない筈だ。田舎の方が防衛の最前線なので強化人の姿をよく見かける。家によく来る研究者の一人も強化人だからな。強化人の知能が高いのは既に周知の事実でダンジョン研究者は特に多い。日本ではダンジョン攻略に強化人は欠かせない人材となっていた。
ダンジョンの氾濫が始まってから強化人の世間での周知はあっという間だった。ダンジョンから溢れ出る獣に対する恐怖の方が大きかったからそれを防ぐ強化人への期待も高まった。政府の宣伝工作も上手く行ったって事だ。アメリカではまだ反発も大きいって話だからな。「あんな姿にはなりたくはない」「銃が有れば獣へは充分対抗可能じゃないか」「病気なら直す方法を早く見つけろ」とか言われている様だ。日本とは随分様子が違うな。日本ではダンジョン研究の第一人者は既に強化人だ。この変化の原因も彼等が先頭に立って調査を進めている。自分達の事だから興味も深いんだろうな。
最近の日本では私有のダンジョンの多くも強化人の居住を認める所が増えてきた。田舎のダンジョンのオーナーにそんな人が多い。ダンジョンの防護が強化される事もあるが大きな理由は強化人を受け入れる事で他の強化人が住むダンジョンと繋がるからだ。原理は分かっていないが主が同種のダンジョンは繋げるのだ。今ではこれを利用して日本中の公有地に在る人のダンジョンは網の目の様に繋がっていた。沖縄から北海道までどんな離島でも公有地に在る人のダンジョンは全てだ。非常時には通路になる事も決まっていた。かなり便利なのだが線路も通せず大量輸送には向かないので使い道は限られていた。離島の救急用とか避難用とか。
世界中でダンジョンの氾濫が始まってもお隣の半島南側では人里とその近郊のダンジョンを封鎖した事でダンジョンから溢れ出す獣の危険から逃れれると自信満々だった。日本に住む半島出身者の多くは氾濫の一年前に大挙して祖国に戻って行った。日本は危険だとの半島政府の言を信じたのだ。そして氾濫が始まった頃には日本や世界中の国々が慌てふためいているのを見て半島人は嘲笑していた。
「我々の戦略的大勝利です」
「日本を見よ。チョッパリどもが慌てふためいているではないか」
「ダンジョンを封鎖した大統領閣下の御英断の賜物です」
ダンジョンの封鎖は確かに有効だった。元々猛獣らしき猛獣が居ないにしても犬や猫がダンジョンから溢れ出るのを防いではいた。確かにダンジョンを攻略するよりはダンジョンの入り口をコンクリートで固めて封鎖する方が手間はかからない。ただそれではダンジョンの有効利用も不可能なんだ。
「私は国土を獣に蹂躙される危険は冒せなかった。利益を優先する様な事は出来なかったよ」
尤もらしい事を言っているが実際は民衆の要求に安易に応じただけだった。まずアメリカのクリスチャンのある会派の人達がダンジョンの発生を悪魔の仕業だとしてダンジョンの封鎖を言い出した時にそれを聞きつけた半島メディアが扇動を始めた。半島メディアはダンジョンの危険性を強調して繰り返し流していた。ダンジョンから漏れ出た獣達が世界中で暴れ始めていたからな。それに半島の民衆が過剰反応してダンジョンを封鎖しろと迫ったのでダンジョンを封鎖する事にしたのだ。
「世界中の国々の慌てぶりを見るにつけ国民は大統領閣下を誇りに思うでしょう」
「私も日本を見て我が国を見る度に口元が緩むよ」とニタリと笑った。
日本ではダンジョンから溢れ出たヒグマが暴れたり猪が暴れたりがニュースで流れていた。そして半島南側では民衆が大勝利とか叫びながら歩く浮かれた様子がニュースで流れていた。
だけどある日突然にダンジョンの封鎖は意味を無くした。ダンジョンは生き物だ。そしてダンジョンは入り口の大きさを変えることが出来る、入口の位置を変えることも出来る。そうして半島にあるダンジョンから溢れ出てきたのは強化された人と犬と猫だった。ダンジョンに強化された犬や猫は脅威ではあったけど軍の投入で何とかなった。問題は人だ。
彼等は四十年以上の長きに亘ってダンジョンに封じ込められていたのだ。ダンジョンの外の人に対する恨みは深く怒りは激しかった。溢れ出た強化人は荒れ狂ったが軍は手も足も出なかった。これを知った半島のメディアは手のひらを返し大統領を非難した。昨日までは称賛の嵐だったのに。
「大統領がダンジョンを封鎖した所為で国民は塗炭の苦しみを味わっている」
「私の所為ではない。日本がダンジョン封鎖の危険性を教えてくれなかった所為だ」
この大統領の発言を皮切りに日本の所為だとの声が半島では大きくなって日本を非難し始めたが日本政府は無視した。ダンジョン封鎖の危険性?そんな情報は日本が教えるまでもなく世界中で流れていたではないか。自分達に都合の良い情報しか受け取らない奴等が悪いのだ。
日本のメディアはこの半島からの日本への非難を日本では一切流さなかった。日本政府が単純に封鎖しただけでは危険だと指摘してダンジョンを封鎖しなかったのを日本のメディアは半島と比較して本当に正しいかったのかと半ば非難する様につい先日まで流していたからだ。半島のメディアがダンジョンを封鎖しようとしない日本を嘲笑している事も流していた。此処で日本の所為だとする半島のメディアに同調するのは流石に体裁が悪い。つい昨日まで自画自賛して日本を嘲笑していたくせにって話だからな。
やがてダンジョンの封鎖以外の手を打っていなかった半島からは助けを求める声が世界中に流れたがそんな余裕のある国は皆無だった。どこも自国の維持防衛に手一杯なのだ。少し前まで半島人はそれを見て笑っていたではないか。それに氾濫の初期において余裕が有りそうな半島南側はある小国に助けを求められていたのにちゃんと対処していない奴が悪いと嘲笑の上拒否していたのだ。そんな国に対して手を差し伸べる国などありはしない。そして半島南側ではあっと言う間に国が瓦解した。半島南側の高官や資産家は中国に亡命した。中国共産党政府の高官は金さえ積めば何とか亡命を受け入れてくれたからだ。紙幣は紙くずと化していたので宝石や貴金属を差し出した様だな。
日本に向かった船もあったがその多くは海の藻屑と消えた。ダンジョンは海にも存在する。ダンジョンの氾濫は陸だけではないのだ。中小型の船舶では漁に出れない程に危険なのだ。海は危険なので日本では既に海産物はダンジョン産の物しか出回ってはいない。軍艦なら何とかなるが日本が亡命を拒否し退去を迫ったら強引に領海に入り港に向かおうとしたので全て沈めた。流石に軍艦数隻で領海に侵入してきたら対処せずには済まされない。日本ではなくキナ臭く成っていた中国に行って艦艇を差し出せば何とかなったかもしれないのに馬鹿な奴等だ。日本相手なら強引に迫れば何とかなると考えたのだろうな。半島を引っ繰り返したのは一応は同国人なので政権簒奪となるのかな。元々どんな方法であれ勝った奴が偉いとの国柄なので問題は無いだろう。大使館員が亡命を求め日本政府は直ちにこれを拒否したが半島の現状を内紛と判断して引き続きの滞在を認めた。
強化人達は半島の南側を制すると北側にも雪崩れ込んだ。北側にもダンジョンから溢れ出た連中が居て将軍様には恨み骨髄で荒れ狂っていた。南北の強化人達は一緒になって暴れまわった。将軍様は核兵器を使用したがダンジョンの中に居た者に対しては全然効果がなかった。将軍様は這う這うの体で中国に亡命する始末となった。
半島は強化人達が君臨していて今は強化人同士で誰が半島で一番偉いかを争っている最中だ。半島に取り残された一般人は奴隷状態らしい。強化人に普通の人が敵う訳はないし半島人の性格からいってそうなるだろう。彼等にとって立場の弱い者を奴隷状態に置くのは常の話なのだ。中国に亡命した半島人は早速日本に文句を言い始めた。「日本がダンジョンの封鎖の危険性を指摘してくれればこんな事にはならなかった」とか「日本在住の半島出身者を帰国させて混乱を誘った」とか「日本が助けてくれれば亡命する必要は無かった」とか等々。だがいくら責任逃れの為に日本の所為にした所で現状が変わる訳ではない。そんな事を考える暇があったら祖国への返り咲きについて真剣に考えたら如何よ。北の将軍様は中国に亡命中だ。南の大統領も中国に亡命中だ。共同して亡命政権でも打ち立てれば面白いと思うよ。祖国は強引に統一された形だし亡命政権も一つに纏めた方が良いと思うな。
中国では人民解放軍が確保したダンジョンの数はそこそこあったもののその後の活用が上手く行っているとは言い難かった。
彼等は幾つものダンジョンの内部に人を送り込みダンジョンの支配を試みた。ダンジョンの中に畑が広がり牧場が拡がり果樹園が拡がり森林が広がり湖が拡がり等々とそこまでは順調に進んだ。ところが人民解放軍幹部がダンジョンから利益を吸い上げようとするとそれまで思い通りに動いていたダンジョンに送り込んだ連中が決まって離反するのだ。
こうして人民解放軍が支配しようとしたダンジョンの多くは流民たちのダンジョンと同じ様にして中国共産党の支配から逃れた。共産党政府はこれらのダンジョンを以前と同じ様に入り口をコンクリートで固めて直ちに封鎖した。この間もダンジョンは巷で発生していて中国では秘かにダンジョンに逃げ込む者は絶えなかった。逃げ込む者達はダンジョンの中を桃源郷の如く受け止めていた。
ダンジョンに入ったものしかダンジョンを支配する主にはなれない。そして主の一員でなければダンジョンの外からダンジョンに魅入られた人々に指示なんて出来はしない。その事に気付いた者達はダンジョン内部の開拓に自分の身内を送り込む様になった。勿論、自分がダンジョンに入る事も忘れない。そうして自分の身内で幾つものダンジョンを攻略し支配に成功した。
「君はダンジョンの攻略を上手く進めている様だ。だがどうやってダンジョンに送り込んだ者達を従わせているのかね。前は離反してダンジョンを封鎖する事になっただろう?」
「話しにくい事ですが。実は家族を人質にとって一部の者しか知らない場所に隔離しています。そして定期的に家族に会わせて脅して従わせています。私は頭が悪くてそれぐらいの事しか思い浮かばなかったものですから。子供を人質にすると良く従ってくれますよ」
「……聞かなかったことにするよ」
中国でも本当にそれを実行していたら犯罪だからな。それで上手く行っているのなら知らない事にするのが中国では無難な対応だ。「上手く行っているなら構わない。だがバレた時はお前の責任だぞ。俺は知らない」って事だ。実際は人質の筈の家族は全てダンジョンの中で暮らしていたから何処にもバレる事は無い。後は共産党主導でダンジョンを支配している様に見せかければ上の方はダンジョンの支配構造なんて知ろうともしないからいくらでも誤魔化す事は可能だ。中国では上は命令するだけで自ら動こうとはしない、上手く行っている様に見せかけて報告を上げれば問題にはならないのだ。そうして彼等は幾つものダンジョンの実効支配を進めた。この調子で出来得る限り幾つものダンジョンを支配し続けてバレてもダンジョンに逃げ込めば良い。ダンジョン内部は身内が支配する己の領域だ。ダンジョンの中に居れば核兵器にだって対抗可能なんだ如何とでもなる。
そんな事が中国の各地で起きていた。ダンジョンの支配を静かに進めていた者達は機を見計らっていた。
そして中国でダンジョンの氾濫が始まった。中国各地のダンジョンから強化された獣が溢れ出て人民を襲った。中国共産党の幹部連中は共産党主導でダンジョンの支配が進んでいると思っていたので充分に対処が可能だと判断していた。地上でなら通常兵器でダンジョンから溢れ出た獣達に充分に対処が可能だから人民解放軍が居れば問題は無い。ダンジョンが在れば共産党員とその家族の食料は充分に確保できる。共産党員さえある程度守れれば充分だ。人民は多すぎるのでこの機に獣に減らして貰おう。核兵器を使うのは最後の手段だ。人民の命などどうでも良いが地上は出来得る限り荒らしたくはないからな。実際に共産党主導のダンジョンの支配が中国国内で順調に進んでいればそれは可能だった筈だ。でもそんな甘い思惑は早々に崩れた。
まず封鎖された流民たちのダンジョンから強化人が溢れ出して支配領域を拡大し近郊のダンジョンの攻略を始めた。外では二年弱でもダンジョン内部では八十年近くの歳月が経っていた。半島と類似の事が起こった訳だ。半島と違っていたのはダンジョンから出てきた連中がそのダンジョンの精鋭部隊だった事だ。半島では封じ込められたのはホームレスや犯罪者が主体だ。いくら知能が上がっても出てきた奴等は怒りに任せて暴れるだけだった。だけど中国では違った。初めは環境汚染から逃れる為にとそれなりに賢い連中がダンジョンの支配を始めたのだ。次に流民が加わりそして最後には人民解放軍の兵までダンジョンに魅入られて加わっていた。流民が主体ではあるがそれなりに賢い連中がダンジョン内部を八十年に亘って支配していたのだ。彼等はダンジョンから出る事が可能になった時に外も八十年近く経っていると考えて最初は慎重に行動を開始した。八十年あればどんな兵器が開発されていてもおかしくはない。以前の様にダンジョンに籠っていれば安全とはならない可能性があった。ところが外では二年しか経っていなかった。これなら能力の上がった強化人の軍であれば瞬く間に制圧が可能だ。そしてそれが本当となった。
共産党幹部は流民のダンジョンの氾濫を人民の暴動として人民解放軍に直ちに制圧するように命じた。幾つものダンジョンの支配に成功していた者達は共産党に従う風を装ってこの機に便乗して行動を開始した。まず自分達のダンジョンの周辺を支配下に置き近郊のダンジョンの攻略を大っぴらに始めた。彼等の勢力は人民解放軍の中にも浸透していたから面白い様に支配領域が拡大した。軍閥の垣根は越えられないし軍閥内の派閥の垣根も越えられないからそれなりの話だけど中国は広いからかなりの領域だ。
そんな事が中国各地で次々と発生した。此処に至って中国の主席は支配に成功したと報告のあったダンジョンが共産党の支配下にはない事にやっと気が付いた。ダンジョンの外では二年しか経っていないからこれは無理もない事だな。そしてダンジョンの支配に乗り遅れた人民解放軍の者達と共に遅ればせながらダンジョンの支配を開始した。幸いと言うか防衛に徹するなら強化人に対しても通常兵器で何とか対抗が可能だ。そして何とか幾つかのダンジョンの確保に成功して勢力争いの一翼に残る事になった。
中国大陸は瞬く間に大小様々な勢力が相争う群雄割拠の時代に突入した。