ジェミニの森(3)
自分の内臓の一つが二人目の弟であると知ったのは、三歳の時だった。
『たける』
「はぁい」
『たける』
「なに、だぁれ?」
はじめはどこから呼ばれているのかわからなかった。
問答するうちに、聞こえるのは耳ではなく心にこだましているのだと気がついた。
肉にくるまれたその声は、自分は猛の弟だと名乗った。人として形成される前に、母の胎内で、猛に吸収されたのだと。
「ねぇ充、おれの中にはもう一人、弟がいるんだよ」
猛はウキウキしながら充の耳に唇を寄せ、その存在を知らしめた。
人の身には生まれなくとも、命として確実に存在する弟。驚いたけれど、なんだか幻想的で、心がはずんだ。
「おれのお腹の中にいるんだ。おれのナイゾウのひとつになっちゃったんだって」
はらわたの子は、猛の中を無邪気に遊覧しているようだった。
指先にいるような気配がする時もあったし、疲れたのか、へそのあたりで眠っているような感覚の時もあった。
「猛のお腹の中にいるの? じゃあ、その子はぼくにとっても弟なのかな?」
「そうだよ。おれ達の弟だよ」
「弟!」
「弟!」
楽しい内緒話をするかのように、双子達はくすくすと口を覆って頬を寄せ合い、いつまでも笑い合った。
双子は三人いるんだ、三人揃って双子なんだ。猛も充も、それが当たり前のことなのだと考えてしまった。
だから、眠れないなら羊を数えるといいよ、と次兄の戯れで教えられたあの日の夜。
せっかく数えるなら双子がいいと、「双子がいっぴき、にひき、さんびき……」と声に出せば。
長兄が笑って言ったのだ。
「双子は、どれだけ数えたってふたり以上にならないよ 」
おれの中にはもう一人いるよ、お喋りもするよ。だからおれ達は三人で双子なんだよ。
言い返すと、長兄と次兄はリビングでくつろいでいた父母の元へ走り、そっくりそのままを告げた。あいつ、妙なこと言ってる、と前置きして。
柔和な父が顔色を変え、明るい母が泣き出したとき。
“我々”は、地球上の不思議な生物の一種になってしまったのだと、幼子ながらに悟る羽目になった。
「あ~クソ……眠れんかった」
雀の囀ずりに朝を告げられ、猛は苦々しく枕を殴り付けた。
普段遊び歩いているのは、遊びに集中することで宿の存在を感知しない為だった。昨日まではそのやり方で、無理やりでもうまくいっていたのに。久しぶりに宿は自我を露出し、充への異常な執着を見せつけた。眠っている間に身体を乗っ取られて充に手を出されるのでは……と思うと、夜中、まんじりともしなかった。
一方、隣のベッドはすでにもぬけの殻だ。いつも時間ギリギリに登校する自分と違い、充は早朝に家を出る。しかし今朝の起床はいつにも増して早かった。そんなに俺と同じ空気を吸いたくなかったのか、と猛は落ち込んだ。
「おはよう、猛。なんだ、顔色が悪いな」
部屋を出ると、通がいた。
通はワイシャツの袖のボタンを留めるのに苦心している。ぶきっちょな長兄の腕を押さえ、自分がそれを留めてやる。
「おはよ。なんか寝つけなくてさ。ハイできたよ、新社会人」
「悪い。……充もいつも以上に顔が白かったぞ。おまえら、喧嘩でもしたのか?」
「え……」
「猛、なんかやらかしたな?」
「なんで原因は俺の方だって決めつけるんだよ」
頬を膨らませると、通は苦笑する。
「うわぁー」
そのとき、玄関の方から悲鳴が聞こえた。
間延びした、危うさに乏しいあの声は、次兄の弦のものだ。顔を見合わせた二人は現場へ急ぐ。
「どうしたん、ゆう兄」
「あぁーおはよータケ」
「おはよ。で、どうしたん」
「これ」
弦は足元を指差した。
端から順に、弦のスリッポン。その横に通のビジネスシューズ。黒のローファーはすでに在らず。
そして離れた場所に脱ぎ散らかしていたはずの、茶色のスニーカーは。
「……ひでぇ……」
ズタズタに切り裂かれていた。
「た、高かったのに」
しゃがみこんでそれに手を伸ばす。しかし衝撃が大きすぎて触れることもできない。
たぶん鋏を使ったのだろう、鋭利な切り口は規則的だ。それが、紐から布地から、至るところに見られる。
呆然としてただ固まっていると、長兄と次兄は訳知り顔で首を横に振った。
「充だな」
「充だねー」
「キレたら陰険になるもんな、アイツ」
「何やらかしたの? タケ」
猛はキッと兄達を睨んだ。もう涙目だ。
「何もしてねぇって! ちょっと怒らせただけだ!」
「和訳じゃそれをやらかしたって言うんだよ。しょうがないな、兄ちゃんが昔使ってた靴を貸してやるから、今日はそれで学校に行きなさい」
「やだ。とお兄のってダサいし古くさいしサイズ違うしダサいし」
「しばくぞ?」
しょうもない言い合いを尻目に弦は八つ裂きのスニーカーを手に取り、まんべんなく見回しながら言った。
「まーまー。コレ、履き潰してずいぶんボロボロになってたヤツじゃん。買い直す機会だと思って頭切り替えよーよ」
「んなこと言ったって、そんな急にポジティブスイッチ押せねぇわ。気にいってたのにさ」
「気に入ってたんなら同じの買えばいいでしょ」
「だから高いんだってば!」
喚く猛の頭を、通が落ち着かせようと撫でる。が、逆効果で、「さわんなクソウゼェ」と喚き声は余計にけたたましくなった。
やれやれ、と再びスニーカーに目をやった弦は、つま先の部分に何かが詰められているのに気がついた。
ぎゅうっと丸まられたノートの切れ端のようだ。騒ぎの止まらない兄と弟を無視して、それを開いてみる。
「……」
そして何も言わずに自分の服のポケットにそれを突っ込んだ。
小さく、
「こわっ……」
と呟いて。
「何か言った? ゆう兄」
「や、欠伸が出ただけ。タケ、今日はオレの靴で行きな。あまり履いてないのが一足あるから」
「いいの?やった!」
「オイコラ猛。態度が違い過ぎるだろ」
「だからーとお兄のはー」
「聞きたくない! かわいい弟から愚弄の言葉はもう聞きたくない!」
しっかり者だが不器用な長男、感情の起伏が激しい三男。
さらに言えば三男の中には、家族も周知の、いろいろ不安定な五男が眠っている。
彼らにこれを……ポケットの中のこの紙きれを、見せることはできない。
書かれた内容、それはたったの一言。
『これで揃いの靴が買えるよね?』
眉目秀麗でクールな四男が、実は同い年の兄に対し、ねじ曲がった独占欲を抱いていること。
その秘密に気がついているのは、マイペースながら人の心の機微に聡い次男だけである。
彼は人知れずため息を吐きながら、シューズボックスを開いた。