ジェミニの森(2)
その日の夜。
「ただいま……ん?」
自宅に入った猛は、不意に違和感を覚えた。正しくは、足下にだ。
進行方向を向いたままのビジネスシューズ、これは長兄の通のものだろう。端に寄せてあるのは次兄の弦のスリッポンだ。
そしてきっちりと揃えられた黒のローファー。違和感の正体はこれだと悟った時、玄関横のドアが静かに開いた。
「おかえり」
出てきたのは、ローファーの持ち主だった。
風呂上がりらしく、髪がしっとりと濡れ、頬が薄紅色に上気している。いつも掛けている眼鏡がないと、途端に幼く見える弟。
同じ年齢、同じ顔、身長だって殆ど変わらないのに。幼くて、かわいい弟。
その姿が、全身が、視界の中心に映った瞬間。
――勘弁してくれ。
猛は、己の胸を激しく打ち始めた動悸に懇願した。
「おう、充! たでぇまー!」
だから、わざとらしいほど明るい笑顔を振り撒き片手を上げる。しわくちゃに笑わないと、動揺は隠せなかった。
「今日も遅いじゃないか。よく毎日毎日、遊び歩けるね」
充はそんな兄の演技にも気がつかず、呆れたような声を出した。蔑み、と言ってもよかったかもしれない。
「まー相変わらずお真面目だこと。遅いっつってもまだ9時前だし。俺はねー、今しかない青春を満喫したいのよー」
「馬鹿じゃないの」
「おまえに比べりゃウチらの学年みんなバカですよー」
「あのさぁ」
つれない態度のままでいてくれればいいのに。充は拗ねたように、それでも尚も話しかけてくる。
こちらは、ふざける時間でやり過ごしたいのに。
「宿、どうしてる?」
よりによって一番訊いてほしくないことを。
「最近、音沙汰がないんだけど」
「……ん。なんか、よく寝てるよ。寝てるみたい。それよりさぁ」
猛は、充のローファーを指差した。
「靴、いつの間に買い換えた? いや、それはいいんだけど。……なんで黒?」
「ああ。いいだろ、別に」
「前までは、ていうか今まではずっと茶色だったじゃん。今まで……」
俺と揃いの色だったじゃないか。どうして。
喉元までせり上がった非難を飲み込み、猛は充を凝視した。すると、充は戸惑ったように首を傾げた。
「だから意味は特にないって。たまにはおまえと違ってもいいかなって、そう思っただけだよ」
ショックだった。その言葉自体も、何気なく言われたことも。
いや。猛はすぐさま否定する。ショックを受けているのは、俺じゃない。そもそも、充に対して、劣情を感じているのだって。
俺じゃないんだ。
本当、勘弁してくれよ。
「猛」
いまだ靴も脱がず玄関にて立ち尽くす兄を、充がまっすぐに見つめる。
「音沙汰がないっていうのは、宿のことじゃない。おまえのことなんだけど」
「……」
「おまえ、去年の夏くらいから僕を避けてないか?」
「……」
「喋りかけたって、おまえはいつも話題を逸らしてどっか行っちゃうしさ」
「小便」
「は?」
「小便漏れそう! どいてっ」
猛はそう叫ぶと充を押し退け、すぐそこにあるトイレに飛び込んだ。もよおしたのは嘘だったが、切羽詰まっていたのは事実だった。
便器を前にして、ドアにぐったりと背中を預ける。虚脱感と自己嫌悪が肉体を侵す。何をやっているんだ、俺は。
きっと充はますます自分に呆れただろう。怒りもするだろう。ひどく悲しい。
けれど、もう自分には――“猛”には、どうしていいのかわからない。少なくとも充から逃げるしか、打つ手がないのだ。
「……猛」
案の定、ドアを挟んだ背後から凍てついた声で名前を呼ばれる。胃がひんやりと冷めていく。
「僕がおまえに避けられて傷ついてないとでも思っているのか。覚えてろよ」
返事はできなかった。かまわず足音は遠ざかっていく。
猛はずるりとうずくまった。両膝に顔を埋め、大きくため息を吐く。自嘲したくとも、その言葉すら見つからない。
『ば』
機能を忘れた声帯の代わりに、自分の内部に響くのは。
『か、だなぁ。猛』
自分のもう一人の弟。
文字通り自分のはらわたに宿る、姿なき存在――宿。
この存在に、性愛の業の深さに、心を蝕まれ続けている。ずっと。
『ぼくから充をきりはなそうったって、そうはいかないよ』
「うるさい……」
『ぼくは充がすき。だいすき。あいしてあいしてやまないんだ』
「うるさい……!」
『充をてにいれるためなら、おまえのからだをりようすることもためらわない』
「やめろっ!!」
もう何度くり返されただろう、愚かな舌戦。
そう、これは戦いなのだ。暗く、湿った、薄汚い聖戦なのだ。
勝たなければ、自分と充は、兄と弟ではいられなくなってしまう。血が血の意味を為さなくなってしまう。だから。
克たなければ。
「てめぇの欲望なんか蹴散らしてやる。いつかてめぇを消してやるからな、宿」
掠れながらも凛とした声で、猛は身のうちの恋慕者に布告する。
もう何度も、何度も何度もくり返されてきたそれに、宿はただ嗤うだけだった。