表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
カンガルーポー・ピーポー  作者: 五十鈴スイ
4/5

ジェミニの森(2)

その日の夜。


「ただいま……ん?」


自宅に入った猛は、不意に違和感を覚えた。正しくは、足下にだ。

進行方向を向いたままのビジネスシューズ、これは長兄の通のものだろう。端に寄せてあるのは次兄のゆづるのスリッポンだ。

そしてきっちりと揃えられた黒のローファー。違和感の正体はこれだと悟った時、玄関横のドアが静かに開いた。


「おかえり」


出てきたのは、ローファーの持ち主だった。

風呂上がりらしく、髪がしっとりと濡れ、頬が薄紅色に上気している。いつも掛けている眼鏡がないと、途端に幼く見える弟。

同じ年齢、同じ顔、身長だって殆ど変わらないのに。幼くて、かわいい弟。

その姿が、全身が、視界の中心に映った瞬間。


――勘弁してくれ。


猛は、己の胸を激しく打ち始めた動悸に懇願した。


「おう、充! たでぇまー!」


だから、わざとらしいほど明るい笑顔を振り撒き片手を上げる。しわくちゃに笑わないと、動揺は隠せなかった。


「今日も遅いじゃないか。よく毎日毎日、遊び歩けるね」


充はそんな兄の演技にも気がつかず、呆れたような声を出した。蔑み、と言ってもよかったかもしれない。


「まー相変わらずお真面目だこと。遅いっつってもまだ9時前だし。俺はねー、今しかない青春を満喫したいのよー」

「馬鹿じゃないの」

「おまえに比べりゃウチらの学年みんなバカですよー」

「あのさぁ」


つれない態度のままでいてくれればいいのに。充は拗ねたように、それでも尚も話しかけてくる。

こちらは、ふざける時間でやり過ごしたいのに。


宿やどる、どうしてる?」


よりによって一番訊いてほしくないことを。


「最近、音沙汰がないんだけど」

「……ん。なんか、よく寝てるよ。寝てるみたい。それよりさぁ」


猛は、充のローファーを指差した。


「靴、いつの間に買い換えた? いや、それはいいんだけど。……なんで黒?」

「ああ。いいだろ、別に」

「前までは、ていうか今まではずっと茶色だったじゃん。今まで……」


俺と揃いの色だったじゃないか。どうして。

喉元までせり上がった非難を飲み込み、猛は充を凝視した。すると、充は戸惑ったように首を傾げた。


「だから意味は特にないって。たまにはおまえと違ってもいいかなって、そう思っただけだよ」


ショックだった。その言葉自体も、何気なく言われたことも。

いや。猛はすぐさま否定する。ショックを受けているのは、俺じゃない。そもそも、充に対して、劣情を感じているのだって。

俺じゃないんだ。

本当、勘弁してくれよ。


「猛」


いまだ靴も脱がず玄関にて立ち尽くす兄を、充がまっすぐに見つめる。


「音沙汰がないっていうのは、宿のことじゃない。おまえのことなんだけど」

「……」

「おまえ、去年の夏くらいから僕を避けてないか?」

「……」

「喋りかけたって、おまえはいつも話題を逸らしてどっか行っちゃうしさ」

「小便」

「は?」

「小便漏れそう! どいてっ」


猛はそう叫ぶと充を押し退け、すぐそこにあるトイレに飛び込んだ。もよおしたのは嘘だったが、切羽詰まっていたのは事実だった。

便器を前にして、ドアにぐったりと背中を預ける。虚脱感と自己嫌悪が肉体を侵す。何をやっているんだ、俺は。

きっと充はますます自分に呆れただろう。怒りもするだろう。ひどく悲しい。

けれど、もう自分には――“猛”には、どうしていいのかわからない。少なくとも充から逃げるしか、打つ手がないのだ。


「……猛」


案の定、ドアを挟んだ背後から凍てついた声で名前を呼ばれる。胃がひんやりと冷めていく。


「僕がおまえに避けられて傷ついてないとでも思っているのか。覚えてろよ」


返事はできなかった。かまわず足音は遠ざかっていく。

猛はずるりとうずくまった。両膝に顔を埋め、大きくため息を吐く。自嘲したくとも、その言葉すら見つからない。


『ば』


機能を忘れた声帯の代わりに、自分の内部に響くのは。


『か、だなぁ。猛』


自分のもう一人の弟。

文字通り自分のはらわたに宿る、姿なき存在――宿。

この存在に、性愛の業の深さに、心を蝕まれ続けている。ずっと。


『ぼくから充をきりはなそうったって、そうはいかないよ』

「うるさい……」

『ぼくは充がすき。だいすき。あいしてあいしてやまないんだ』

「うるさい……!」

『充をてにいれるためなら、おまえのからだをりようすることもためらわない』

「やめろっ!!」


もう何度くり返されただろう、愚かな舌戦。

そう、これは戦いなのだ。暗く、湿った、薄汚い聖戦なのだ。

勝たなければ、自分と充は、兄と弟ではいられなくなってしまう。血が血の意味を為さなくなってしまう。だから。

克たなければ。


「てめぇの欲望なんか蹴散らしてやる。いつかてめぇを消してやるからな、宿」


掠れながらも凛とした声で、猛は身のうちの恋慕者に布告する。

もう何度も、何度も何度もくり返されてきたそれに、宿はただ嗤うだけだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ