Flowering Days(1)
中指の爪が欠けてしまった。
伸ばしていたわけじゃないから別にいいけれど。
「松本。松本ー」
あ、やべ。
慌てて指先から教壇の方へ視線を移すと、担任が教科書を丸めて己の肩を叩きながらこちらを見つめている。
「左手がどうかしたか」
「いえ」
「そうか。授業中だからな、集中しなさいよ」
「はい。すみません」
クラスメート達は何にも言わない。無視されているわけじゃないが、大して面白い会話でもないからだろう。
ちょっとくらいクスクスしてくれたっていいんですよ、しません? しませんか、残念。
まあ無理もない。私も、担任も、面白味のない人間だから。
担任の方は、笹河原だなんて割と面白い名字だと思うのだけれど。下の名前は、名前、なんだっけ。
ああ、爪を切らなきゃ。日本史、つまらないなぁ。テストに出るところだけ教えてくれればいいのに。
「ここ、テストに出るぞ」
えっ。さすが笹河原。私の心を読むとは、なかなかやりおるわ。なんちゃって。
だがしかし笹河原、すまない。ここと言った部分を私は聞いていませんでした。どこなの? どこなの笹河原? 今こそ心を読んでおくれ。笹河原ぁー。
……爪、切らなきゃ。早くチャイムが鳴るといいなぁ。
「花実、ボーッとしてたね」
休み時間に入ると、さやかが笑いながらやってきた。
「サーセンに注意されてやんの」
「だって爪、欠けちゃって」
「わ、ほんとだ。どしたん? これ」
「ペンのふたひねったら割れた」
「マジか。脆いな。あたし爪研ぎ持ってるから貸したげるわ」
「ありがと、さやか」
「ん」
女子だなぁ。爪切りじゃなくて爪研ぎだと。爪は切るものじゃなくて整えるものなのか。
端っこが欠けたこの爪、まるでお米の形みたいだなぁとかいう感想は女子っぽくないな。
「あ、そうだ。さやか、さっきサーセンが言ってたテストに出るとこって、どこ?」
「聞いてなかったんかい! もーあんた、ボンヤリし過ぎ……あ」
さやかが慌てたように私の背後を見る。つられて振り向くと、呆れた表情の笹河原が立っていた。
「松本。放課後、ちょっと話そうか」
「……はい」
「あと先生を変なあだ名で呼ばない」
「……はい」
面倒くさいことになった。
去っていく背中を恨めしげに見ていると、慰めるように肩を叩かれる。
「ごしゅーしょーさま。ま、おとなしく説教聞いてたら30分くらいで解放されるでしょ」
「長い。20分にマケて」
「それはサーセンに相談だ。大体、花実が蒔いた種なんだから。しっかり刈り取ってきな」
もっともな正論に、ぐうの音も出ない。
しかし、ぐう。残念だ。今日は駅前のコンビニに行こうと思っていたのに。新作スイーツの発売日なのに。15時から発売なのに。六限目が終わったらすぐ向かうつもりだったのに。
こうなってしまっては、もう間に合わない。息せききって駆け込んだ時には、すでに売り切れてしまっているだろう。
「さよなら、私のふわとろキャラメルフロマージュッ……」
「泣くなや」
「また会う日までッ」
「明日には会えるだろ」
クールに、でもちゃんと突っ込んでくれるさやかが何かを投げよこした。
爪研ぎだ。女子のアイテム、爪研ぎだ。
よし、女子らしくきれいに爪を研いでいこう。
そして出陣だ、笹河原。待っておれ。速やかな決着を要求する。
社会科準備室は狭い。
狭いのに置いてあるものは多い。
「なに見てんの、松本」
部屋の中をぐるぐる見渡していると、億劫そうに呼びかけられた。
長机に頬杖をついた笹河原が、向かいの椅子を指し示す。
「まぁ座んなさいよ。で、なに見てた? フツーの人には見えないモノ系?」
「いえ、物理的に見えるものです。地球儀とか。高校の授業で使用することあるんですか、あれ」
「知らない。少なくとも俺は使ったことないね。はい、座んなさい」
私は座った。
急に距離感が近くなる。なんといっても対面だし。ぎこちなくパイプ椅子が硬い音を立てる。
「松本は集中力があまりないね」
ペラペラと何かのファイルをめくって笹河原が言った。
その背面には私の名前のシールが貼られている。え、ちょっと待って。もしかして、個人の調査書とか、そういう校外秘にあたるものなのでは。
「一年の時の担任は、真面目な生徒だって書いてるんだけどね。これに」
やっぱり。
「生徒に見せちゃダメなものなんじゃないですか、それ」
「そうだよ。だから見せてないじゃない」
「見ようと思えば見える近さですよ。第一、読み上げたら意味ないし」
「キミのことなんだからキミも知っておいた方がいいと考えたことは読んでもいいと判断しました」
「まわりくどい表現ですね」