フィリア姫
ハルフール国王ランゴバルドには8人の子供がいる。
王子が5人、姫が3人だ。
側室はもっと多勢いたのだそうだが、兄妹の母親以外は会ったことがない。
8人目の王子が生まれた時、この国で一夫多妻制は廃止された。
例外は国王の子どもを産んだ母たちだけである。フィリアの母親は子供を産んですぐ息絶えたそうなので顔も知らない。肖像画さえないため、遺品だという耳飾りだけを手元に持っている。
『親』の愛情を知らず、他の兄姉ともうまくいかない私を可愛がってくれたのが第一皇女であるリーナお姉様だった。
リーナお姉様のことは大好きだ。
夜中によくニコラと三人でこっそりと部屋に集まっては怪談話をしたり、リーナお姉様が社交界に初めて出陣した時の戦話を聞いたり。3年前、リーナお姉様が20歳で嫁ぐまでその秘密の女子パーティ(すぐに城中に知れ渡ったが、一応秘密だということになっている)は続いた。
大好きなお姉様が遠い国に嫁いでからは引きこもりになりがちだったが、久々に廊下を元気に走るフィリア姫に侍女や役人である騎士たちは目を丸くしていた。
「お帰りなさい!リーナお姉様!」
素早く階段をかけ降りて、たった今、城に足を踏み入れたその人に抱きつく。リーナお姉様のウェーブのかかった栗色の髪が少しだけ揺れ、優しく包み込んでくれる腕に甘える。
ちなみにお姉様は出るとこ出ちゃっているので抱きしめた感触も申し分ない。羨ましいなんて言わないわ!分けては欲しいけども……
「まあまあフィリア、久しぶりね。すごく背が伸びたわ。」
お姉様。背はさほど伸びてません。
でもお姉様がそう言うなら伸びているのかしら。嬉しい。
顔を上げてお姉様とにっこりと笑い合うとただただ嬉しくてもう一度抱きついた。
うん、そばにいるニコラもやっぱ嬉しそうだ。
さっきまで曇っていた気持ちが吹き飛んだ。これこそお姉様パワーだ!
「リーナ様、まずは国王にお目通りを。」
落ち着いた声を発したのは騎士団長のイヴァンである。
彼は齢30前にして団長を務める。就任してこれで5年目だ。綺麗な銀髪に金色の目は貴族の間で評判が高く、社交界に出れば引っ張りだこになるため、本人は表に出ることを極力控えている。
まあ、仕事一筋なのはわかるけど。
「ええ、わかった。あなたも元気そうねイヴァン。」
そう言ったお姉様とイヴァンが一瞬目線を絡めてすぐに離す。
私はその意味を知っているが、同時にそのことを言葉に出してはいけないことも知っている。終わったことだ。お姉様も皇女なのだから仕方が無い。
それにお姉様の気持ちはもう現在の夫にある。今更蒸し返しても意味のないことなのだ。
余談だが、お姉様の夫、ユースティア国の王はかなりの美形で知られている。お姉様とユースティア国王の縁談が決まってから何度か目にしたが、見事な金髪にどこか影のある碧い眼で顔も整っていて、お姉様とイヴァンと三人で並べば私が想像していたおとぎ話の中の登場人物そのままだった。
ここだけの話、城に雇われている画家の1人にこっそり『三人が並んだ姿を描いてちょうだい』と命令したのだが、話しているところをジャンに見られてしまい、おかげでお父様……じゃなくて、国王様に冷たい目を向けられた。
結局光景だけを目に焼き付けるだけとなってしまったのである。
………この先10年は怨む。あのキツネ。
というわけで後半はわたしの話になってしまったがとりあえずお姉様が幸せならばそれでいい。
今夜はお姉様の惚気話で徹夜になりそう。昨日も徹夜だったから途中で寝ちゃうだろうけど、美形の国王の話は弾みそうだ。うう、眠気を堪えながらの惚気話は手応えがある。
そうだ、今日付けている香水の話も聞いておこう。すごくいい匂いがした。お姉様はいつもだけど。なんていうか、花の匂いのする石鹸みたいな。ていうかお風呂上がりのような香りがふわっとただよってくるのだ。
女子として生まれたからにはこういう事への努力は欠かさない。お肌のお手入れとか、毎日の髪型とか、お部屋の飾り付けとか。楽しいからというのが一番の理由だけれど。
ああ、でももう結婚するんだった私。
結婚すれば、今までみたいなおしゃれは必要なくなるのかな。違う風習とかも受け入れないといけない?
装飾品の少なくなった姉の後ろ姿を見ながら、誰にも聞かれないように静かなため息を零した。
ーーーーーー
「で、ね!聞いてお姉様!もう笑ってないで!」
時刻は夜に差し掛かっていた。
外は西の空にかろうじて白い空が見えるのみ。
国王との謁見は存外長引いたらしく、お姉様はその後夕方のうちに夕食を済ませ、3年前のように三人で部屋にいる。
部屋に入るなりベッドにだらしなく寝そべり頬ずえを突いてぐたぐたな女子会議を始める。
ちなみにベッドに寝転んでいるのは私とお姉様で、ニコラはいくら言ってもぴしっと背筋を伸ばして立つ体勢を崩そうとしない。真面目な彼女の中で何か譲れないものがあるらしい。さて、話を戻そう。
そしてお姉様は昼間の大失態を聞いた途端、声を出して大笑いし始めた。お姉様、王妃だと思えませんわ。タレスがいれば顔を真っ赤にして怒り出しそう。今は誰も咎める者はいないけれど。
「ふふふふ、だって、あの国王様を『お父様』なんて呼べるのはフィリアくらいよ。うふふ、見たかったなぁ、その時の国王様の顔。」
「見ても表情なんてなかったわよ。もう!笑い事じゃないのよお姉様!背中が冷えたんだから!
もう!もう!ちょっとそこの奴隷!なんでまだいるのよ!出ていってって言ったでしょ!」
感情に任せてついつい大きな声が出てしまう。ニコラとお姉様はそれが照れ隠しのせいだとわかっているが、突然の大きな声に驚いた女性の奴隷は床を拭く手を止めてびくりと肩を揺らした。
「も、申し訳、ありません……」
「あらダメよ、フィリア。彼女は仕事を怠っているわけでもないのに。」
お姉様はおもむろに立ち上がると、女性のすぐ前に座り、赤切れてボロボロの手に自分のハンカチを当てた。
女性は訳が分らないというように目をぱちぱちと瞬いている。
「な、何をしているのお姉様。」
「あら、だって女性の手は大切にしないと。こんなに細くて白い指なんだもの。傷なんかついてたら台無しじゃない。」
「何言ってるのお姉様。奴隷なのよ、当たり前じゃない!」
なぜ?わからない。奴隷なんだから言う事を聞いて当たり前でしょう?お姉様?
「ねえ、あなた、名前は?元は高貴な身分の方なのね。仕草に上品さがあるし、とっても綺麗な顔立ちをしてるもの。」
「ユ、ユズルと申します。」
「そう。ユズル、怖がらないで。フィリアはまだ幼い面もあるけれど、決して意地悪な人間じゃないから。」
な、なにを、お姉様?
オドオドといった感じでユズルと名乗った女性が頷く。
そう言えばニコラに紹介されてたんだった。でも覚える必要なんてある?だって、奴隷なのに。
名乗った方もちんぷんかんぷんという仕草をした。
奴隷の女性と同じく訳が分らないということを表情で示すと、お姉様は寂しげで困ったような顔を見せた。
「奴隷だって気持ちはあるわフィリア。みんな同じ人間よ……」
険のある空気が場を呑み込む。ただ、それを発しているのはフィリアだ。
みんなって、
「何が、言いたいの、お姉様……」
お姉様の視線は私と女性を同じように見比べる。もしかして、私と奴隷が同じって言いたいの?
「奴隷も、人間よ。」
「……お姉様?」
ねえ、もしかしてユースティアで何かあった?
そう訊きたいのにわなわなと唇が震えて上手く話せない。何かが心の中で鼓動を加速させている。
お姉様、私を侮辱している?私は奴隷と一緒?
「フィリア、落ち着いて。昔からあなたに言おうと思っていたことなの。」
昔から何を言おうと思ってたの?あなたが奴隷と同じだって?
「落ち着いてください、フィリア様。」
ニコラの宥める声は耳が受け付けない。
「ひどい、ひどいわお姉様!私と奴隷が、一緒だなんて!」
「あなたがそう考えてしまうのはわかるわフィリア。あなたが昔にそういう考えを植え付けられていたのは知ってる……でも、」
「もういい!お姉様なんて知らない!」
「フィリア!」「フィリア様!」
お姉様とニコラの慌てた声。
一目散にドアまで走り、外に出ると転がり落ちるように階段をかけ降りた。
なんで?どうして?ということばかりが胸に落ちていくだけで底なしの暗い穴からは物音1つ聞こえない。
髪を振り乱しながらもうスピードで走っていく姫を侍女が、騎士が、意地の悪い兄が、ぎょっとした目を向ける。
こっち見ないでよと叫びたかったが、涙でボヤけた視界で躓かないようにするので精一杯でそれどころではない。
今、暴露することではないが、運動神経は最悪なのだ。身の安全の為にナイフくらいは隠し持っているけど使えないし。加えて、寝不足のせいもあってかふらふらと足元がおぼつかない。
ああ、もう!コケないからみんなオロオロしないで!そこまで私の運動音痴はひどくない!
とたとた、とたとた
徐々に人気のなくなっていく廊下を突っ切り中庭に繋がる扉の前まで来るとそれを一息に開け放つ。
今や月明かりだけに照らされたこの小さな庭園はたった一つの自分だけの場所でもあった。
いくつかある庭園のうち、ここは一番小さく一番シンプルな造りをしている。それがどことなく荒ぶった気持ちを和ませてくれる。
一面に敷かれた緑が心を優しく包み込んでくれる。
この時期は薄い桃色の花も身を散らしていてどこか儚げな印象が涙を誘う。
そうして気持ちが落ち着いてくると同時に自覚してくる気持ちもある。
ああ、なんであんなこと言っちゃったんだろう。もっと言い方があったんじゃないか、違う言い方をすればお姉様も私の言いたかったことをわかってくれる。私もお姉様の言いたかったことをきっと誤解したんだわ。
ああ、喧嘩してしまった。
お姉様と口論になるなんて初めてかもしれない。ニコラも困っていた。
でもどうして二人ともそんな目をして私を見るの?まるで、何も知らない、無知な幼子を見るような、いやだ、あの視線。
幾重にも重なった花びらの絨毯の上、抑えきれなくなった涙を隠すように両手で顔を覆った。
ぐすん、ぐすんっと鼻を啜る音が寂しく響く。
私は独りだ。
なんだか寄り道ばかりです。
見所までもう少しお付き合いください。