大ちゃん遊ぼうやぁ
「大ちゃん、遊ぼうやぁ」
いつものトシ君の声だ。今日から春休みになり、大介は四月から二年生になる。きっと誘いに来るだろうと思っていたら案の定やってきた。まだ朝の七時過ぎだと言うのに早いことだ。
「何して遊ぶ?」
大介は家の中から大きな声で返事をする。出てみるとトシ君は口のほとりに涎を垂らしながら
「釣りに行こうやぁ」
と近くの藪で切ってきた自作の釣り竿を担いで立っている。
本家の英ちゃんは大介より一つ歳下の優しい少年だ。遊ぶ時はいつも三人一緒である。今日も誘って三人で近くの大正池にフナ釣りに出かけることにした。早速釣り餌にするために背戸の溝の中から砂ミミズを掘る。
大正池は瓢箪形の周囲三百メートル程の溜池で、四町歩ほどの灌漑を賄っても余りあるほどの貯水量である。それもその筈ですぐ南側を小川が流れていて、池の上から何時も川の水が流れ込みオーバーフローしている。夏の渇水期でも涸れる事は無い。北側は急斜面の松林でその木陰から竿を出せば涼しくて最高だ。池の周囲の浅い所には一メートル程の藻が繁殖している。所々藻の切れているところをねらって三人適当な場所に陣取って竿を出す。
暫らく三人とも無言で僅かなウキの動きも見逃すまいとじっと見つめる。今日はなかなか当たりがない。三月の終わりでまだ水温が低いからかもしれない。大介は辛抱が肝心と思いながら少し場所を変えて頑張っていると、
「釣れたでぇ」
大きな声でトシ君が歓声をあげた。
《コンチクショウ。先をこされたなぁ》
トシ君はバケツに池の水を汲んで二十センチくらいのフナを取り込んでいる。暫らく辛抱していると英ちゃんも一匹釣り上げた様子だ。二人とも釣り上げているのだから大介にこないはずはない。少し苛立ってくるが辛抱、辛抱と自分に言い聞かせながらウキをじっと見つめる。ウキがピクピクッと動く。ググーと引くがすぐに上げたら餌をとられるから一、二度そのまま待って次に大きく引き込んだ時が合わせ時なのだ。もう一度ググーと引いたところで合わせたが残念ながら逃げられてしまった。こうしてアタリがあるところをみると風は冷たいが水温はもう温んでいるらしい。さっき大介にも当たりがあったのだからこの次は是非とも釣り上げてやるぞと、息を凝らしてウキの動きに集中する。
こうして今日も昼過ぎまで釣りに熱中して帰る頃には六匹の釣果だった。トシ君は十一匹、英ちゃんは八匹で、一番年長の大介は差をつけられ少々悔しかったが釣果に関係なく楽しいひと時だった。
大介たちには穴場の池が地区の周辺に四つほどあり、天気であれば殆ど毎日のように今日はどこの池に行こうかとローテーションで竿を垂れて釣り三昧に明け暮れる春休みだった。】
フナ釣りに明け暮れた思い出の大正池は今も昔も同じ姿で、満々と水を溜めて大事な用水として機能しているようだ。
*
トシ君は大介より二歳年下だ。幼児の頃高熱に冒されて小児麻痺になり、言葉と足が不自由で可愛そうな子だと母から聞いている。右足がやや不自由で人並みの速さでは走れない。でも普通に歩くのには少々困難なだけで特に困るようなことはない。言葉の方も少し不自由で、話す時は口を歪めて詰まりながら話すが大介には大抵のことはわかる。三十軒ほどの小さな集落でもこの頃は大介と同じ年頃の男の子が九人も居た。だがなぜか大介はトシ君に慕われていつも遊ぶときは一緒だった。
トシ君は三つ下の弟と五つ上の姉と両親の五人家族だ。弟の勲ちゃんはトシ君に似ず小柄ですばしこくなぜかトシ君とは一緒に行動しない。仲間が隣の地区にいて大抵そっちに出かけて遊んでいる。運動会ではいつも一等賞をとる。姉の富美さんは背の高い別嬪さんだったが、戦争に負けたあくる年に肺結核で死んでしまった。トシ君をよく可愛がっていた。葬式の時トシ君が泣きながらお姉さんの遺影を持って葬列の中を歩いて行ったのを覚えている。あれはいつもになく暑い夏だった。道べりの大きな栴檀の木の枝にクマゼミが何十匹となくとまり、シャン・シャン、シャン・シャンと鼓膜にジンジン響くほどやかましく鳴いていた。
「ドイツからのええ薬も入ってこず、栄養が足らなんだけえ身体が
弱ってしもうたらしいで」
母が悲しそうな顔をしながらしんみりと話してくれた。
*
大介は岡山県の西の端、広島県との県境に近い小さな農村に昭和の始め五反百姓の四男として生まれた。
海辺から四キロ程入った固い岩盤の上に家々が散在して、夏になると井戸水が涸れることが多かった。地区内はほとんど畑ばかりで、田んぼは少し離れたところに棚田があり難儀な生活に甘んじなければならなかった。それでも地区のまとまりは良く互いに助け合いながら生活をしてきたのだ。
両親が生存中は盆か正月に必ず帰省していたが、二人が相次いで亡くなってからは法要の時以外帰ることはなかった。定年を迎え五十年ぶりに本腰を入れて生まれ故郷に帰り、田舎生活を始めることにした。
大介の実家を継いでいた兄は大介と親子ほど歳が離れていて、一昨年の秋に子供たちに傘寿を祝ってもらってから二ヶ月ほどで他界してしまった。連れ添いを早くに亡くして精神的には寂しい晩年を送っていた兄だった。
跡取りの甥は東京のコンピューター会社に就職し、六十人ほどの部下を使って生命保険会社や銀行のシステム管理に精出していて郷里に帰って来る様子は見受けられない。既に横浜に住まいを構えそちらに定住するつもりだと言う。だが生前の兄は幸いにも二人の娘を近くに嫁がせていたので代わる代わる立ち寄って面倒を見ていた。独り住まいは寂しかっただろうが生活に不自由は無かったようで大介としてはそんなに心配はしなかった。高速道路の補償で二階建ての小じんまりとした家を建て安気な暮らしをしていたからだ。
大介は定年を数年後に控えた頃、リタイアしてからの自分の生活について何冊かの本を買い求めて模索していた。川波出版の「定年後」とか、婦人の友社の「定年後の時間割」などを何回も読んで、自分にはどんな生活が向いているだろうかと思案を重ねていた。
会社の先輩の中には、ゴルフや囲碁で毎日楽しくやっているという人もいる。自分で喫茶店を始めたという人もいる。だが遊び三昧で明け暮れるのは大介の性に合わないし何か事業を起こすほどの蓄えもない。趣味だけに生きて充実感はあるのだろうかと考えていた矢先、出会ったのが農漁村文化協会から出版されていた雑誌「近代農業」の増刊号「団塊帰農」と「就農時代」であった。ちょうど輸入食料の残留農薬の問題がクローズアップしだした頃であった。それに触発されて安心、安全な野菜作りに思いは傾いていた。
大介は地元の商業高校を卒業と同時に大阪の大手電気会社に就職しやっと部長にまで昇進したが、同期の大学出からは大きく遅れ部長になってわずか三年で定年を迎えたのだった。
兄の三十五日の法要で大介が帰省した時、図らずも甥や姪から帰って来て墓の守りをしてくれないかと頼まれた。墓守は跡取りのすることだろうと初めは断ったがたっての願いで大介が家と墓を守り、僅かに残っていた田畑を耕作するなどの管理を任されることになったのである。
最近の米づくりは農機具も大型化し近所の人に応援してもらうのも大変だし、四反ほどの水田は幼な馴染みの英さんに預けて作ってもらい、自分達夫婦の食べ料だけ玄米でもらう約束をした。畑は五反ばかりあったが高速道路にかかり半分程になっていた。家から離れたところの二反ばかりの畑は荒れ放題で手が出せない。家の前の二百坪ほどを菜園として守りをすることにした。
郷里に帰って野菜作りなどをしながらノンビリと田舎暮らしがしたいという大介の申し出に、幸い妻の映子は田舎育ちだったので一も二も無く賛成してくれた。彼女は大阪のマンション暮らしの時、プランターでしか出来なかった花作りや安全な野菜を本格的に栽培することに魅力を感じており、大介が退職した年の秋にマンションは長男親子に譲ってユーターンしたのだった。
地区内を散策してみると少年時代に開墾の手伝いをした田や畑は草地や雑木林に戻っていた。過疎化が全国で取り沙汰されだして久しいが、大介の故郷も例外ではなくそのありさまは無惨であった。
大介が少年の頃に中心になって活躍していた人たちの殆どは鬼籍に入っており三軒は潰れていた。確かあのあたりにトシ君の家があったと足を向けてみるが、今は足の踏み入れようも無いほど草が生い茂り道のありかも定かではない。あちこち懐かしみながら歩きまわっているとトシ君達と遊んだ少年時代のことが次々と思い起こされる。
*
あれは小学校に上がる前のことだった。夏になると近所の幼友達五、六人でよく蝉捕りをして遊んだ。その中に大介より一つ年上の明美ちゃんという可愛い女の子がいて、クマゼミを捕まえてと言われて大介は網を片手に柿の木に登った。幹はちょうど手ごろの太さだった。横に伸びた枝の上をソロリ、ソロリと片手で近くの枝を握り、蝉に全神経を集中させて前に進んだ。足元の枝が枯れ枝とも気づかずもう少しで蝉に届く所まで進んだ時、枝がボギッと折れて三メートルほど下に転落した。運悪く柿の木の根元には周りから出た石ころが山のように積んであり、左の脛を怪我してしまった。見るとポッカリとザクロが口を開けたように裂けている。不思議なことにあまり出血はない。大介は自分の手で傷口を押さえて家まで大急ぎで帰った。幸い父がいて自転車に乗せられ地元のK医院に行って五針縫ってもらった。今でもそのときの傷痕が鮮明に残っていて見るたびに懐かしく思い出す。
可愛い明美ちゃんのために男気を出してとんだ災難に遭ったが、少しも後悔はしなかった。なんだか名誉の負傷といった気分だった。
あの時の柿の木がまだ現役で残っているのを見て、他愛もないあの頃のことがやけに鮮明に思い起こされて一人苦笑するしかなかった。
*
やがて小学校に上がると土曜日の午後や日曜日に六、七人の仲間を誘ってまだ鋤こんでいない田んぼに行って三角ベースをするのが最高の楽しみだった。その頃野球道具など簡単に手に入る筈も無く、バットは一メートル程の手の中に収まる太さの竹である。中に綿をギュウギュウ詰め込んだ布製のボールを姉に縫ってもらい草野球を楽しんだ。レンゲの花が咲いている田んぼで転がると服に草の汁が着いて、
「又服を汚して帰ったんなぁ。困ったものじゃのぅ」
と大介は母によく叱られた。それで大介たちは相談してあくる日はレンゲの生えていない田んぼで遊ぶことにした。稲株があって走りにくかったがワイワイ言いながら暫らく遊んでいると
「こらー、どこで遊びょうるんなら。田が硬うなってしまうが」
今度は持ち主のお爺さんにこっぴどく叱られてしまった。
田植え前になると牛ンガ(牛に曳かせる鋤)で耕すのだが、地が固くなって難儀をするから怒られるのも無理は無い。それからは服に草の汁がついても大介の家の田んぼで遊ぶことにした。普段は何かにつけて厳しい父も、この時ばかりは珍しく大目に見てくれて叱られることはなかった。
二年生になった夏休み直前のある日大介が二時頃学校から帰っていると、突然頭上にプロペラ機の鈍いブオーンという爆音が聞こえてきた。
「あっ、B29の音じゃ」
大介は本能的に道のほとりの小さな溝の中に隠れた。もう一キロ程で我が家なのに運が悪い。早く家にたどり着かねばと必死になって溝の中を這った。泥まみれになってやっと家にたどり着く。胸がドキドキして暫らく動悸が納まらない。そんな大介を見て母が不思議そうに
「どうしたんなら。そんなにハアハア言いながら、服を泥まみれにして」
「B29が飛んで来たから溝の中を這って帰ったんじゃ」
「大は何を言ようるんなぁ。もう戦争は終わったんじゃけぇ爆弾は落ちてこんよ。アホウじゃのう、アハハハ」
戦争に負けてもう攻撃してこないことは頭では理解していた。溝の中に隠れても上空からは丸見えなのになぜか隠れてしまった。大介にとってあの「B29」の爆音は空襲の怖さを暫らく思い出させる悪魔の響きだった。
母に笑われたその時大介は数年前のことを思いだしていた。それは大介がまだ小学校に上がる前のことである。
「空襲警報発令・空襲警報発令」
トシ君のオヤジさんの日出やんが地区内を大きな声で叫びながら触れてまわる。それと同時に火の見櫓の半鐘がカーン、カーン、カーン、 カーンとけたたましく鳴り出す。
空襲の時には防空頭巾を被り、小さな身体に非常食の「やっこめ」【焼き米】と自分の衣類や子供なりの大事なもの【メンコやビー玉等の遊び道具】を入れた自分用のリュックを急いで背負う。そして庭の涼み台に座って両親と次姉の四人で空を見上げていた。大介は真夏なのにブルブル震えながら見ていた。西の空が真っ赤になっている。その無気味な空をB29が何機も何機もグルグルと旋回していた。
「危のうなったら裏山に逃げるんじゃからちゃんと用意しとけぇ」
そんな父の言葉を聞きながら大介は膝をガクガクとさせて暗い空を見上げていた。丁度大介の家から西の方角に福山は位置している。家から二キロ先には四月八日のお釈迦様の誕生日に毎年「甘茶」を貰いに行く寺があったので
「あっ、観音寺が燃よぅる」
と大きな声で叫んだら
「観音寺は燃えとらん。心配せんでもええ。福山がやられたらしい」
父はいつに無く厳しい表情で大介の肩をぎゅっと掴んで言った。
「大、観音寺の向こうに福山があるんで。燃えとるのはずっと西の福山じゃ。アホやなぁお前は」
姉の言葉に両親も笑った。あくる日になると紙切れの燃えカスが空から降ってきた。大人の話では福山の商店の伝票の燃えカスが風に吹かれて飛んできたらしかった。福山は完全に焼け野原になってしまったらしい。なんでも大門の大津野の海岸べりに海軍の通信所があってそれを攻撃しに来たのではないかということだった。
また大介にとってさらに忘れられない戦争の思い出がある。それは幼年期に姉が買ってくれた一冊の絵本だ。その絵本に描かれていた絵と文章は大介にとっていつまでも印象鮮明であった。
*
〈椰子の木が二、三本生えた海辺の風景の中を、星条旗をつけた飛行機が黒い煙を吐きながら落下していく。そしてその上を日の丸を付けた飛行機が悠々と飛んでいる。その横に『ツヨイゾ、ツヨイゾ、ニッポン、ツヨイゾ』と赤い大きな文字で書かれていた。〉
*
たった一冊の絵本だったので大介は何回も何回も繰り返し読んで、大きくなったら飛行機乗りになってアメリカをやっつけてやろうと夢を膨らませていた。それから後父から日本はアメリカに負けたと聞かされた時、ツヨイゾ、ツヨイゾ、ニッポンツヨイゾと書かれていたのは嘘だったのかとがっかりした。
冬のある日、母がサツマイモを蒸して薄切りにしてせっせと塵が付かないように長屋の屋根の上で天日干していた。大介は梯子を懸けて干し芋をツマミ食いした。
「お前はとんでもないことをする。慰問袋に入れて戦地の兵隊さんに送る為に干しとるんで。ばちがあたっても知らんからのう」
母の意図がわからずツマミ食いをしてこっぴどく叱られたこともあった。
日清戦争の退役軍人であった父は、銃後の守りと称して国防婦人に竹槍の訓練をするため小学校によく出向いていた。あるとき父について行くと運動場にわら人形が何体も立っていて、かすりのモンペを履き日の丸の鉢巻をした国防婦人の人たちが、手に手に竹やりを持って突撃訓練をしていた。父は、「気合が入っとらん、腰の入れようが悪い」などと大声で怒鳴っていた。その姿を見ていつもの父と違うのに驚いた。
そして父は「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンを大介たちにもよく言って聞かせ、我が儘をたしなめていた。
その頃大介の二番目の姉は地元の女学校に通っていて毎日かすりのモンペを履いて、鍬や鎌を持って女子挺身隊だといって日の丸弁当を手に出かけていた。家に帰ると今日はどこそこの稲刈りだったとか芋掘りだったとよく話していた。学校での勉強はほとんど無く、田舎の女学校なのであちこちの農家に勤労動員として出かけていたようだ。若い男の働き手が兵隊にとられて年寄りと女だけの農家に応援に行っていたのである。
大介は思い出したくない二年前のそんな体験をあれこれと思い出したのだった。
母にアホウじゃのうと笑われて以来戦争は済んだ、戦争は済んだと自分に言い聞かせたがなかなかB29の忌まわしい恐怖感は消えなかった。でも不思議なものでそれから二年も経つうちに恐怖感は次第に薄れていった。だが何時までもあのB29の爆音はほかの飛行機とは違う独特の響きで忘れることは無かった。
「大よう、今年から『牛飼い』の手伝いをしてくれんか」
二年生の夏休みになり大介は父から牛飼いの手伝いを頼まれた。やっと近所のお兄ちゃん達のように手伝いが出来る。大介はとても誇らしい気分になった。朝八時頃からと、夕方四時頃から一日二度同じ事を夏休みの間毎日繰り返す。大介たちが『牛飼い』と称していた手伝いのことである。普段は大人が田んぼの畦の草を刈ってきて牛に与えるのだが、子供が『牛飼い』の手伝いをすると大人は草刈の労力が省けて大助かりなのだ。いつも本家の英ちゃんとトシ君と三人で出かける。雨で無い限り毎日出かけた。
牛は役牛として牛車を曳かせたり田んぼを耕したりする。雌牛は特に繁殖で農家に現金収入をもたらす貴重な存在でもあった。だからどの家も雌牛を飼っていて毎年獣医の先生がやって来て種付けをしていた。そして年に一度牛市が開かれる。競り市では品評会で賞を取ると血統の良い子牛は高値で競り落とされて農家の懐を暖めた。
父に連れられて大介も毎回子牛の競りについて行った。競りに連れて行く前の日は裸麦を炊いて食べさせ、当日の朝も毛ブラシで丹念に身体中梳いてやる。子牛を牛小屋からひき出していると何となく親牛の目が悲しそうに見える。牛でも判るんかなぁと大介も悲しくなった。大介は子牛に綱をつけて連れて行く。競り市では「ばくろう」が大きな声で競り落としていく。高額で競り落とされると周りに陣取った飼い主達から驚きと羨望のどよめきが起こった。次々に競りが進み大介の家の子牛の番がやって来た。手塩に懸けて育てた子牛が競り落とされていくのを見るのは複雑な思いだった。
だが帰りに競り市のすぐ近くの駄菓子屋で父は飴玉をどっさりと買ってくれた。この時大介の複雑だった思いは最高の喜びに変わるのだった。
朝八時頃
「大ちゃん、牛飼いに行こうやぁ」
トシ君の声がする。牛を連れたトシ君が大介の家の下道から大きな声で呼んでいる。
「おぅ、行こうか」
大介は急いですぐ隣の本家の英ちゃんの家に誘いに行く。そして我が家の牛に綱をつけトシ君の居るところまで行って英ちゃんを待つ。三人揃ったところで
「今日はどこえ行くかなぁ」
「西の野山にしょうやぁ」
英ちゃんが大きな声で言う。
「よっしゃ。トシ君、西の野山へ行かんか」
三人は地区の西にある草はらに向けて牛を連れて行く。牛も毎日のことなのでだんだん慣れて最初に向きを決めてやると独りで歩き出す。三匹がのっそり、のっそり歩き出すと大介たちは牛の後をついて行くだけで気楽なものである。でもそれは一本道に限る。草はらに行くまでには分かれ道が三箇所もあってそこは手綱を取らないと駄目だった。
原っぱに着いたら綱を角にグルグル巻きつけて放し飼いが始まる。牛が草を食べ出すと大介たちの仕事はひとまず一段落だ。あとはとんでもない所に行くとか畑に入らない限り牛の自由にさせてやる。
牛飼いの時は大抵トランプを持参し、牛が草を食べている間トランプで勝負をして遊ぶのが日課であった。どの草はらにも子供が四人ほど上がれる程度の平らな大きな岩があった。高さが一メートル三十センチ程でそこからは原っぱが一望できるので牛の居場所を確認するのに重宝した。その岩の上によじ登り今日もトランプ遊びに興じていると、
「コラー、何をしとんなら。畑の芋蔓を食ようるが」
どこかのおじさんにこっぴどく叱られた。慌てて牛を畑から連れ出しおじさんが居なくなると性懲りも無く又トランプ遊びを続ける。役場のサイレンが昼を告げると牛を連れて我が家を目指す。我が家に近づくと牛は心得たもので毎日の習慣から自分の牛小屋に勝手にのっしのっしと入って行くのだった。】
*
「やあ、こんにちわ。守さんその後お元気でやっておられますか」
「ああ、大さんか。もう少しは慣れたかな」
「有り難う。帰ってきて二週間ほどですからあちこち歩き回っています」
守さんは土木会社を立ち上げ今は会長に納まっている。
【昭和二十三年の八月十日は地区にとって記念すべき日だった。地区からの召集兵が次々と帰還する中でいつまでたっても帰ってこない兵隊が一人いた。シベリアに抑留されていた分家の守さんである。地区ではいつ帰ってくるのだろうか、早く無事に帰ってくればいいがと願っていた。その守さんが地区最後の復員兵として無事帰還したのである。
重苦しかった地区もやっと明るさが戻ってきた。人口百二十人少々の集落で召集兵十六名の内戦死者四名であった。そしてロシアの捕虜になり音信不通となっていた守さんの帰還を地区民全員が祈っていたのだ。これでわずか二十軒ほどの小集落にも戦後の自由・平等の平和な雰囲気が浸透し、若衆が帰ってきて地区はやっと戦前の活気を取り戻し始めたのだった。
その手始めとしてお盆の十四日の夜戦争以来控えていた地区の盆踊りが復活した。当時の農家はそれぞれの家の前庭が物干し場として確保されていて穀物などの乾燥に使用されていた。その広場に集まって地区民総出で夜が更けるまで踊るのだ。その最初の盆踊りが帰還を祝って守さん宅の庭で繰り広げられた。盆踊りは大介にとって初めての新鮮な催しであった。
若い衆を中心に太鼓を叩く者、音頭を取る者、踊る者とそれぞれ浴衣姿に下駄履きでなんともいえぬ楽しい一夜だった。音頭は「水かえ踊り」「大黒踊り」「備中松山踊り」と三つあって、喉に自慢のある林さんや幸男さんや正夫さんが交代で音頭をとり三郎さんが太鼓を叩いてその周りを囲んで踊った。
『踊り子皆の衆よ よろしゅうにゃ 頼む』
【ハァ ヤレコリャセー ヨイヤサノセー】
『あわれなるかや 石堂丸は 父を尋ねて 高野に登る』
【イヤ ドッコイショ ドッコイショ】
『尋ね回れど 行くえは知れぬ・・・』
『アラサー ヨイヤセー』
ゆっくりとした太鼓のリズムと音頭に合わせて踊りの輪は進む。
「子供らも入って踊れぇ」
大介たちも大人の後ろに続いて見よう見まねで団扇を手にして着いていく。手や足の運びに迷いながらも一生懸命踊った。周りの森に太鼓の音がこだまして何とも言えないのんびりとした楽しいひと時であった。
守さんのお母さんは長男の無事帰還を祝ってあれこれと料理を作ってもてなしてくれた。湯がいたシャコ・海老の天麩羅・枝豆等酒のツマミが主であったが、子供の大介も遠慮がちに手を出して食べた。井戸で冷やしたスイカは冷たくて最高に美味しかった。
踊りは十一時頃まで続き夏休みなので子供達も遅くまで遊んでいても許された。この年を皮切りに毎年青年団が中心となって、庭の広い家を順番に回って開催され夏の思い出を飾ってくれた。
*
少年時代の大介にとってもう一つ楽しいイベントが再開された。戦時中は中止していた天神様の秋祭りである。約六百戸でお祭りしている菅原道真を祭った神社で小高い丘の上のこんもりと茂った森の中にあった。
祭りの前夜は神社の境内で神楽を奉納したり青年団が素人芝居を演じたりして、地区民総出で夜遅くまで楽しんだ。夕方から夜店が何軒も立ち並びとてもにぎやかで、戦後の物資の少ない時なので何もかもが物珍しく大介たちの一番はこの夜店であった。ガス燈のカーバイトの匂いに誘われて誘蛾灯に集まる虫のように大介達は出店を取り囲んだ。お菓子も玩具も珍しく目の前でグルグル回して作ってくれるアイスクリームや綿菓子・イカ焼き・鯛焼きなどどれもこれも一年に一度の楽しみであった。だから時たま貰う小遣いやお年玉はこの日の為に大事に貯めていた。
トシ君や英ちゃんと紙カン鉄砲を買ってパチパチやって遊んだり小遣いのある限りあれこれと買って食べた。大介は戦争に負けた時子供なりに悔しい思いを抱いたが、戦争の無い平和な世界がこんなに楽しいということを身をもって体験した。
*
公会堂のあたりまで歩いてくると、定年を迎えて郷里に帰った大介の脳裏にまたあの頃の懐かしい思い出がよみがえってくる。
「今日は雨休みじゃけぇ」
大介はそのお触れを聞いてとても喜んだ。
「やったぁ」
さっそく地区の公会堂に行く。高校や中学のお兄さんたちが何人も来て卓球をしていた。大介は英ちゃんと将棋をすることにした。一勝負したが負けた。英ちゃんは頭が切れるので大介の方が一つ歳上なのに大抵二勝三敗くらいで負け越している。
大介の連れが何人か来たので勝負はそこまでにして、将棋の駒を使って「金転がし」をすることにした。トシ君、英ちゃん、三ちゃん、四郎ちゃん、それに大介の五人で将棋盤を囲んだ。歩から始まって香、桂馬、角、飛車、金、王と段々上がっていく。早く王になった者が勝ちだ。誰かが王になり上がったら勝負は一先ず終了する。何人でも参加できるのでよく遊んだゲームだった。
そのうち上級生が卓球をやめると今度は大介たちが台を囲んで試合をした。やっぱり卓球の方が面白い。昼になって上級生が帰った後もしばらく卓球を楽しんだ。審判をした者が次に勝者に挑戦する。卓球は得意なので大介が勝ち続けて気分が良かった。
『雨休み』は地区独特の制度で、お触れが出たら大人も子供も男も女も地区の人全員が公平に仕事をしない日だ。大介たち子供にとっては手伝いを一切免除される日で開放感に浸れる日であり、大人たちは何もせずのんびり過ごせる日である。地区の人たちの休養確保と抜けがけ防止といった意味があるらしい。江戸時代から明治、大正と続いた習慣だと父は言っていた。大介にとってはそんな意味など関係なく手伝いから開放される自由な日であった。
この頃大介たちの普段の履物は藁草履で仕事はしない日と言いながら父は雨休みになるとせっせと草履つくりをしていた。それに農作業用の縄をなったりして休むということは無かった。藁草履は。走り回るので一週間ももたないで擦り切れてしまう。何足も編んでくれて長屋の軒下につるしてくれているのでとても有り難かった。
*
大介は少年時代よく牛飼いに来た西の野山に足を向けてみた。野山の北側に小さな溜池があってよく食用蛙を釣ったが今は利用していないらしく水が干上がっている。
大介が五年生の頃朝鮮戦争が始まり日本は米軍の物資調達のお蔭で戦後の復興は目覚しかった。米軍の物資調達は大介たち子供にも恩恵を与えてくれた。それは食用蛙釣りである。この頃から鮒釣りに代わって、大介は英ちゃんやトシ君と夏休みに食用蛙【牛蛙】を釣りに行くのが日課となった。蛙釣りは二年間ほど大介たちにとって有り難い小遣い稼ぎだった。
ウオーン、ウオーンと牛が鳴くような声なので「牛蛙」とも呼ばれるらしい。缶詰めにしてアメリカに輸出するのでまとめて買ってくれる業者が近くにあった。それで小遣い稼ぎによく釣りに出かけた。食用蛙釣りのコツは特殊な針の先に何でもいい赤か白の布切れを付けて、蛙の鼻先に近づけて揺り動かすとカブッと食い付く。池の土手の木陰からそっと近づき鼻先をねらうのだ。音を立てたり姿を見られるとガバッと水にもぐりこんでしまう。
夏は三人でよく蛙を釣りに行った。小遣いを貯めてはカバヤのキャラメルを買ってカードを集める。そのカードを五十点集めて送ると硬い型紙の表紙で作られた物語本を送ってくれる。大当たりは十点、カバのマークは八点とカードを集めた。早く五十点になるのが楽しみだった。「シンデレラ姫」「宝島探検」「隊長ブリーバ」「トムソーヤの冒険」といった本の届くのが待ち遠しく届くと何はさておきかじりついて読んだものだ。
「大ちゃん、あげらぁ」
トシ君はカバヤキャラメルに付いているカードを何時もくれた。大介にとってはこのカードがねらいでキャラメルを買っていたので大助かりだった。
わくわくしながら物語の中に入り込み、想像を逞しくしながらのひと時は最高の楽しみである。それが嬉しくてせっせと食用蛙を釣ってはキャラメルを買い、カード集めをしては本を贈ってもらって物語の世界に酔いしれた。
この頃になると夕方、ラジオで連続放送劇「鐘の鳴る丘」を聞くのも楽しみの一つだった。「緑の丘の赤い屋根・トンガリ帽子の時計台・・・」のテーマ曲が流れてくるとラジオの下に座って想像たくましくしながらドラマの世界に酔いしれた。続いて「南総里見八犬伝」が始まった。神秘なドラマの世界に明日はどう展開するのか待ち遠しい気持ちだった。夕方になるといつもトシ君や英ちゃんとラジオの下に座り込むのが毎日の習慣となった。当時我が家ではラジオは貴重品で棚の上に鎮座していて椅子を踏み台にしてダイヤルを回したものである。
*
大介が中学に行きだしてからしだいに三人で遊ぶことが少なくなった。でもトシ君は相変わらず「大ちゃん、遊ぼうやぁ」と言っては大介の所によく誘いにきた。小学校時代は宿題を片付けるだけで勉強は足りた。でも中学になると英語や数学などのんびりとはしておれない科目がある。大介はトシ君と遊ぶ機会も段々少なくなっていった。
大きくなるにつれ遊びも変わったがメジロ取りはいつもトシ君と一緒によく出かけた。英ちゃんはなぜかメジロ捕りには興味を示さずトシ君と二人だけだった。母からは
「もう中学生になったんじゃけえ遊ぶばぁしょうたらいけんで」
とよく叱られた。メジロ捕りは冬休みがシーズンで、鳥モチを棒の先に巻きつけておとりのメジロの入った籠に棒を仕掛ける。メジロがやってくるのを木の陰に隠れて待つ。おとりの鳴き声に誘われて籠の近くにやってきたメジロが取りモチの棒に止まる。足がくっついて逃げられなくなりクルット廻ってぶら下がる。このとき急いで駆け寄って捕まえるのだ。いつ来るか、いつ来るかと息を潜めて待っている時のあの緊張感がたまらない。病み付きになって冬の朝早く寒いのもかまわず毎日曜日出かけた。そんなに簡単には捕まえられずひと冬に二、三匹が精一杯だった。雄か雌か見分けて雌は高音を張らないので逃がしてやり雄だけを捕まえる。
捕まえたメジロは餌付けをして毎日世話をする。魚粉ときな粉とほうれん草を擂り鉢ですった練り餌を与え、蜜柑を輪切りにして毎朝与える。みかんを食べさせると張りのあるいい声で鳴くというので蜜柑がある時は欠かさず与えた。
春になると日照時間が長くなりメジロはホルモンの刺激を受けて繁殖のために雌を呼んで鳴く。雄が高音を張り出すと鼓膜にびんびん響く。チー・チュウ・チー・チル・チル・チー・チュル・チュル・・・・と長い時は二十秒くらい続き一息つくと又鳴き出す。何ともいえないほど素晴らしい。
*
こうした遊びも中学二年になった頃から次第に遠のいた。大介は算盤塾に通い出し、バスケットのクラブ活動もあり放課後は日が暮れてから帰宅した。トシ君との遊びは殆どなくなっていった。
大介が中学三年の秋に学校から帰っていると、公会堂の付近に大人たちが大勢居て何か慌しく右往左往している。何があったのかなぁと思いながら帰宅すると母が沈痛な顔で言う。
「大よう、トシ君が死んだんで」
何かがあったと思っていたがそうだったのか。
「何で死んだんでぇ」
「風邪を引いて寝ていたらしいがこじらせて肺炎になり、お医者さんが来た時はもう手遅れだったらしい。可愛そうなことじゃ。まだ十三になったばかりなのになぁ」
母は目に涙を浮かべながら教えてくれた。
「大はトシ君と仲がよかったなぁ。よう三人で遊んどったから辛いじゃろう。」
そう言われると大介は余計に涙がこぼれそうになり慌てて庭に出た。泣くまいと思って空を見上げた。夕日が西の山に沈みかけて茜色に染まっているのが目に入った。涙がとめどなくなく流れてきた。
とうとうトシ君はあの世に逝ってしまった。最近トシ君と遊ぶことが少なくなっていたが、も少し声を懸けてやればよかったなぁと大介はぼろぼろとこぼれる涙を拳でゴシゴシと拭いながら、茜空の彼方を見つめて呆然と佇んでいた。
あくる日の昼下り、チーン・チーン、しばらくして又チーン・チーンと野辺送りを報せる鉦の音が聞こえてくる。急いで外に出て物陰からそっとみると、トシ君の棺が四人の大人に担がれて共同墓地に向かって静かに運ばれて行く。父は朝早く出かけて行ったが、葬式を終えて白い布を垂らした竹を持って葬列の先頭を静かに歩いて行く。続いてトシ君のお父さんの日出やんが位牌を胸に抱き弟の勲ちゃんが遺影を持って続いていくのが見える。
秋の気配の漂う周りの山の木々はすっかり紅葉して目に染みるような午後であった。
トシ君と遊んだ数々の思い出が次々と頭をよぎる。鮒釣りや蛙釣りそして牛飼いにメジロ取り・・・・・。純粋で心根の優しいトシ君は大介にとって少年時代の大事な友の一人であった。わずか十三年間の人生だなんてなんと儚い命であろうか。もうトシ君と一緒に鮒釣りをすることも出来ずメジロ取りにも行けない。「大ちゃん遊ぼうやぁ」という元気な声も聞けない。優しさの塊のようなトシ君に何度心洗われる思いがしたことだろう。純粋な心の持ち主だったトシ君にだけは嘘はつけなかった。何か自分でもよくわからないが大介の心の中にぽっかりと穴が空いたような思いであった。
夕方になり英ちゃんを誘って道端の野菊を一輪手折ってこっそりとトシ君の眠っている墓地に出かけた。そこにはまだ土の色の新しい小さな土饅頭があった。「秋冷俊・・居士」と書かれた位牌が乗っかっている。その下にトシ君は静かに眠っているのだ。二人で静かに手を合わせた。
そして寂しさを拭い去るようにお互いを励まし合いながらトボトボと夕暮れの山道を帰って行った。
*
完全リタイアした大介が生まれ故郷に戻り生まれ育った地区を散策していると、貧しくも楽しく過ごした少年時代のことが次から次へと思い出され、目頭が熱くなるのを覚えるのだった。
了