いん・ざ・あーりーもーにんぐ・おふぃす
「おはよっ」
ちゅ。
*
「先輩、おはようございます」
「あ……お、おはよう」
「いつも早いですね」
「満員電車が嫌なだけよ」
「朝ちゃんと起きられる人が羨ましいですよ。僕、朝弱いんで」
「でもあんた、今日は随分早いじゃない。どうしたの、この職場で二番目なんて初めてじゃない」
「ええ、今日は一番のりかと思いましたけどね。さすが先輩にはかないません」
「ふうん。ま、いいわ。さて仕事仕事」
「……あの、先輩。ちょっといいですか」
「何よ。早速質問? いつも考えてから訊くようにって言ってるじゃないの」
「いえ、質問じゃありません」
「何よ」
「ちょっと世間話をしたいなと思いまして」
「は? 休憩時間に私以外の誰かとしなさいよ」
「いえ、先輩に話したいんです。しかも他に誰もいない今、したいんですよ」
「え、何なの?」
「先輩、僕のこと、どう思っていますか」
「出来の悪い新人」
「酷いなあ。判断するのは早いんじゃないですか。まだ七月ですよ」
「こう毎日見てりゃわかるわよ。判断が遅い。説明が下手。指示は忘れる。計算は間違える。確認は怠る。遅刻はする。いいとこ一つもないじゃない」
「そ、そんな風に思ってたんですか……?」
「運悪くあんたの教育係に任命されちゃったのが運のつきね」
「確かに毎日のように叱られてますけど……」
「あ、いいところもあるわ。それでも毎日出勤してくるところね。性懲りも無く」
「き、来て欲しくなかったんですか?」
「いいところだって言ってるじゃない。その鉄面皮は強力な武器よ」
「うーん……なんだか褒められてる気がしません」
「これで褒められてる気がしたら正気を疑うわ」
「先輩、教育係任されたの初めてでしょう」
「最初にそう言ったでしょうが」
「僕だから耐えられるんですよ」
「あんたじゃなきゃもうちょっと褒めてるわよ。ところで、何か言いたいことがあるんじゃなかったの?」
「あ、そうでした。先輩、僕のこと、どう思ってますか」
「だから、出来の悪い新人」
「酷いなあ。判断するのは早いんじゃないですか……」
「……待った待った。何? わざとやってるの?」
「すいません。えーと、そうじゃなくて、僕のこと、好きですか?」
「はい? 好きか? 何それ。まあ好きか嫌いかで言えば、うんざりしてるわね」
「好きか嫌いかで言ってくださいよ……」
「頭でも打ったの? さっぱり話が見えないわよ」
「えーとですね、じゃあちょっと長くなりますけど、聞いてもらえますか?」
「ダメ。仕事仕事」
「いえ、聞いてもらいます。先輩が聞かなくても、勝手に話します」
「ダメ」
「わかりました、じゃあジャンケンで勝ったら、話します。負けたら黙ります」
「じゃんけん……」
「……とと、ぽん。おっ勝った。いきなりやらないでくださいよ。後出しになるとこだったじゃないですか」
「ちっ。後出しなら負けだったのに」
「じゃ、いいですよね。約束どおり喋りますから」
「じゃ、一分で話しなさい」
「い、一分ですか……。わ、わかりました。話しますよ?」
「どうぞご勝手に。仕事、させてもらうからね」
「はい……。えーとですね、昨日のことなんですけど」
「…………」
「相槌とか無いんですか?」
「…………」
「まあいいや。昨日、僕が帰宅する途中でですね、えーと、こっから駅までの道の途中なんですけど、古い神社というか……神社じゃないな、こう、小さい鳥居というか、ほら、あるじゃないですか、キツネの置物があるやつ。あの……なんて言ったっけ」
「……」
「こんぴらさまじゃなくて……」
「……お稲荷さま」
「そうそ、それです。おいなりさま。あれの前でですね、ちょっとつまづいちゃって。鳥居に手を付いちゃったんですよ。小さい鳥居で石の台座の上にあるやつなんですけどね。グラグラしてたんですよね。土台にうまく嵌ってなかったのかなぁ。僕が手をついた拍子に鳥居が倒れちゃいまして。いえ、倒れたというか傾いたというか。すぐに戻したんですけどね……。ただ今度は石のキツネが欠けちゃったんですよ。鳥居がぶつかって。耳のところが。あ、こりゃいけねって思って、慌てて欠けた耳を戻そうとしたんですけど嵌らなくて……。まあ、仕方ないんで耳はキツネの足元に置いといたんですけどね。ええ。……ちょっと先輩、聞いてます?」
「まだ続くわけ? もう一分経ったけど」
「え、ホントですか? 早いなあ」
「続きはまた明日ね」
「いや、待ってください。わかりました。じゃあもう一回ジャンケン。ジャンケンしましょう。あと一分で話し終えますから」
「じゃんけんぽん」
「と、とと、勝ちました。あの先輩、だから急すぎですってば。卑怯ですよ」
「もう三秒経ったよ」
「わっとっと……。えっと、どこまで話しましたっけ。ああ、そうだキツネか。で、キツネに謝ってですね、僕は家路についた訳なんですよ。いえ、家路につこうとしたんですね。でも、そこで信じられないことが起こったんです。なんとですね、僕の身体がですね、虫になっちゃったんですよ。蚊なのか蠅なのかわかりませんけど、小っちゃな虫なんです。虫に変身しちゃった訳です。もう驚いちゃいましたよ。カフカの変身かよって。いや、読んだこと無いんですけど」
「あれは巨大な虫になる話よ」
「良かった。聞いてた。先輩さすが読書家ですね。僕、文字を読むと眠くなっちゃうんですよ。漫画もろくに読めない人間で……。あ、話続けなくちゃ。えっとですね、虫になって飛べるようになったんで、家まで飛んで帰ろうかとも思ったんですけど、方向がわからないんですよね。いつも電車なんで、歩き……いや飛行だと方向がわからない。しょうがないんで、元来た道を引き返して職場に戻ることにしたんです」
「一分経った」
「え。もう? す、すいません。またじゃんけんで……」
「ぽん」
「ほほ、ほら勝った。勝ちましたよ。危ないなあもう……。先輩、いきなりぽんだけ言わないでください。早すぎですって」
「四、五……」
「はいはい続けますよ。で、この職場までなんとか飛んできた僕はですね、とりあえず自分の席に座って……というか自分の机の上に止まって考えたんです。なんでこんなことになったのか。原因はやっぱりあのこんぴら……じゃなくてお稲荷さんだと思うんですよ。呪いってことです。ちょっとお供のキツネの耳が欠けたくらいで人を虫に変えるなんて心が狭い神様だと思いませんか?」
「石に変えてくれればうるさくなくて良かったのに」
「酷いなあもう。で、どうやって元に戻れるのか必死に考えてたらですね、突然目の前に神様が現れまして。いえ、神様というか、見た感じは仙人みたいなお爺さんで。でも空中にいきなり現れたんできっと神様だと思うんですよ。なんでもお爺さんが言うにはですね、呪いを解くには古来から伝わる方法が有効じゃ、と言うんですよ。ええ。要するに愛する人のくちづけだそうなんです。あれって洋式かと思ってましたけど日本でも有効なんですねぇ。ねえ、先輩、聞いてます?」
「一分経ったけど」
「あ、そうで」
「ぽん」
「早い! だから早い! でもほら、見えてます僕の手? グーですよ、僕の勝ちで」
「三、四……」
「呪いを解く方法がわかったのは良かったんですけど、問題は虫の姿なことですよね。たとえ誰か僕のことを愛する人がいたとしてもですよ? 虫にキスする人がいますか? いたらむしろ、僕が嫌です」
「私も嫌ね」
「ですよね。そこでですね、僕はもう一度神様を呼びました。目の前にじわーっとさっき消えた神様がまた現れまして。何か聞きたいことがあるのかと言うんで、僕は聞きました。間接キスでもいいのか、と」
「……」
「間接キスでもいいのか、です。そう聞いてみたところ、お爺さんは言いました。前例が無い。聞きました? 前例が無い、ですって。びっくりですよね。お前は公務員かって。僕は親指を立てて、ああ虫なんでつまり気持ちの問題ですがとにかくお爺さんに対して、自信満々に言ったんです。前例が無ければ作ればいい、と。お爺さんは頭をボリボリかきながらね、まあ好きにせいと言いました。だから僕は好きにさせてもらって、一つ間接キスで手を打つことにしました。で、呪いを解くために努力を……あ、一分経ちましたね」
「……」
「じゃんけんぽん。はい、僕はパーです。グーですね? それグーですよね? はい、続けますよ話」
「……」
「僕は考えました。とりあえず僕には恋人もいませんし、僕を愛してくれる人というのに心当たりもありません。親かなとも思いましたが、正直親もあんまり僕を愛してくれてる自信がありませんでしたからね。なんせ不肖の息子で……。で、とにかく数撃ちゃ当たる作戦で行こう、ということで、虫の体を活かして、人が口をつけそうなところに片っぱしから止まってまわるしかないんじゃないのかと。ええ。ほら、いつどこで誰が僕を好きになってるかなんてわからないじゃないですか。道行く誰かが僕に一目惚れしてるかもしれない。喫茶店で誰かが僕に恋心を抱いたかも。その喫茶店のコップに片っぱしから口をつけといたらどうです? ほら、その人は図らずも毎日の習慣から僕と間接キスをすることになる訳です。もうそういう偶然にかけるしかないと思いまして、とりあえず目に付くコップに片っ端から口をつけて回ることにしたんです」
「…………」
「一分経ちました? はい、チョキ。ちゃんと開いてくださいよ。それ、パーとみなします。続けますよ? えと、そう思って職場を見渡すとコップが一つある。虫の姿でコップの縁を舐めまわしてみてから、気付きました。あ、これ僕のコップだと。自分のアホさ加減が悲しくなりましたが、気をとりなおして街へ出ることにしました。とにかく、コップ。コップを探す旅です。コップがあるのは飲食店ですよね。そう思って喫茶店、レストラン、居酒屋を探しました。ところがですね、意外にもオフィス街の真夜中なんで、店が軒並み開いてない。意外じゃないですね。はは。とにかく一軒もやってないんで、しょうがない諦めて明日の昼間にチャレンジしよう、そう思って僕は職場に戻ることにしました。その時にはもう日が上っていて、やばいなあこのままじゃ無断欠勤だよなんて思いながら、このビルにたどり着き、この階まで上がって、職場のドアを開けようとした時にいきなり呪いが解けまして」
「…………」
「先輩、大丈夫ですか? 凄い汗ですけど。えっと要するに、結果的に僕が口をつけたのは職場の机の上の自分のコップだけだったんですよ。なのに、いきなり呪いが解けたんです。何が起こったのかわかりませんでしたけど、のろいが解けたってことは誰かと間接キスが成立したってことですよね。で、ドアを開けたら……あ、一分経ちましたね」
「…………」
「ふーっ。さて、仕事しますか」
「…………」
「どうしました? 先輩。さっきから手が動いてませんけど」
「…………じゃんけんは? いいの? 続きは?」
「んー」
「……」
「まあ、もういいです。やめときます」
「ま、まだ、話は終わってないんじゃないのかな?」
「ええ、もうちょっとだけ続きますけど。いいじゃないですか、先輩、退屈だったでしょう? もうそろそろ皆出勤して来ますし。仕事しましょう」
「…………し」
「……え、何です?」
「し、し、し」
「し?」
「知ってたの?」
「何をですか?」
「だ、だから、私が……」
「はい、先輩が」
「私が、毎朝……」
「毎朝」
「き、君のコップに」
「はい、僕のコップに」
「……」
「……」
「ご、ごめんなさい……」
「なにか謝るようなことでも?」
「な、なんだってそんな作り話なんか」
「作り話じゃありませんよ? ホントに僕は虫になってたんです。じゃなきゃこんな早い時間に僕が来ますか?」
「み、見てたの? 知ってたの?」
「先輩。先輩。僕は何も見てません。ドアを開けたら先輩が仕事を始めようとしてるとこでした。僕は何も見てません。なんで呪いが解けたのか僕にはわかりません」
「嘘よ! 何が、何が楽しいよ。素直に言えばいいじゃん! 人のコップに触るのやめてもらえませんかって! ねえ、気持ち悪いでしょ? 五つも年上の女がさ。軽蔑したでしょ? や、嫌だよねぇ。三十路手前の女がさ、こんな中学生みたいな」
「先輩」
「ばか!」
「先輩……。いいですか、三つだけ、言わせてください。一つ、僕はたしかに先輩より五つ年下ですが、年の差なんてどうでもいいことです。二つ。先輩は僕の尊敬する先輩です。これまでも、これからも。三つ。嫌だったら、こんな話しません」
「…………」
「四つ。泣かないで下さい」
「……み……」
「……み?」
「み……」
「み?」
「三つだけって言ったくせに」
「ははは。ほら、先輩。そろそろホントに皆出勤してきます。顔、洗ってきたほうがいいですよ?」
「……今日は休む」
「え、ちょ、そんなぁ。先輩がいないと僕何していいかわかんないんですから」
「知らない!」
「あ、ちょっと、ホントに帰るんですか? ま、参ったなあ。あの、先輩、明日は来てくださいよ? 来てくんないと僕泣いちゃいます」
「泣けばいいじゃん!」
「自分が泣きながら言わないでくださいよちょっと。あら……お、お疲れ様でした……。どうしよ。先輩マジで帰っちゃった。今日の仕事何をすればいいのかわからないんだけど……ちょっとからかい過ぎたなぁ。明日ホントに来てくれんのかな。……今度メアド教えて貰お……」