時の外側で、君を待つ
その人は、時間の外に立っていた。
初めて会った日のことを、私ははっきりと覚えている。
春先の風がまだ冷たく、桜も咲ききらない中途半端な季節だった。人通りの多いはずの通学路で、世界がふと静まり返った。
風が止まり、落ちかけていた花びらが空中で固まり、歩いていた人々はまるで彫像のように動かなくなった。
──その中で、ただ一人、動いている人がいた。
「驚かせてしまいましたね」
穏やかな声だった。
振り返ると、そこにいたのがあの人だった。
それが、すべての始まりだった。
あの人は「時間を止めている」のではなく、「時間が止まっている場所にいる」と言った。
私には難しい理屈だったが、要するに、世界の流れから切り離された存在らしい。
「だから、本来は誰とも関わらない方がいいんです」
そう言いながらも、その人は私の隣に立った。
私は、なぜかその言葉を深く考えなかった。
不思議と──怖くなかったからだ。
それから私たちは、奇妙な時間を共に過ごすようになった。
朝、世界が止まった通学路。
昼、教室の中で誰も動かない中、二人で会話。
放課後、止まった街を歩く。
止まった世界は、静かで、どこか寂しかった。
けれど、隣にあの人がいるだけで、不思議と満たされていた。
「どうして、私は動けるんですか?」
ある日、私は尋ねた。
あの人は少しだけ困ったように笑った。
「例外なんでしょうね」
「そんなこと、あるんですか」
「ありますよ。今、こうしているじゃないですか」
その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえた。
日々は静かに積み重なっていった。
止まった時間の中で、季節は変わらない。けれど、私の中では確かに何かが進んでいた。
笑う回数が増えて、言葉が増えて、そして──気づけば、それが当たり前になっていた。
だから、その日も、いつもと同じように始まるのだと思っていた。
「今日で、終わりにします」
あの人は、静かにそう言った。
「……どうして?」
問い返した声は、喉は、唇は、自分でも驚くほど震えていた。
「ここにずっといることは、本当は許されていないんです」
風は止まり、空は動かず、世界は変わらないまま。
なのに、その言葉だけが、やけに重く響いた。
「──時間を進めます」
それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。
「これから、どうなるんですか」
あの人は、少しだけ間を置いて答えた。
「私は、あなたと同じ場所にはいられなくなります」
胸の奥が、静かに軋んだ。
「……それって、さよならってことですか」
あの人は、頷いた。
言葉が出てこなかった。
止まった世界の中で、私だけが取り残されたような気がした。
「本当は、関わらないはずでした」
あの人は続ける。
「でも、あなたと過ごし……」
そこで、言葉が途切れた。
私は、一歩だけ近づいた。
「私は、嫌です」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
「このままでいいじゃないですか」
時間が止まったままでもいい。
世界が動かなくてもいい。
このまま、ずっと一緒にいられるなら。
けれど──
「それでは、あなたの時間まで止まってしまう」
あの人の声は、優しかった。
「あなたは、生きていく人だから」
沈黙が頬を撫でる。
やがて、あの人はそっと手を伸ばした。
触れられるはずのない、その手が、確かに私の指先に触れた。
「ありがとう」
その一言だけが、やけに温かかった。
「さよなら」
次の瞬間──
風が吹いた。
止まっていた花びらが舞い落ち、人々が動き出し、世界が音を取り戻す。
あの人の姿は、もうなかった。
それから、どれくらい時間が経っただろう。
私は、普通に生きている。
学校に通い、友達と話し、季節が巡るのを感じながら。
あの静かな時間は、夢だったのかもしれないと、何度も思った。
けれど──
春の日、またあの通学路を歩いていたとき。
ふと、風が止んだ。
一瞬だけ。
世界が、静まり返った。
そして、背後から、あの声がした。
「久しぶりですね」
振り返ると、そこにあの人がいた。
以前と同じ、穏やかな笑顔で。
「……どうして」
言葉がうまく出てこない。
「ようやく、許されました」
あの人は、少しだけ照れたように言った。
「あなたの時間に、触れすぎない範囲で」
胸の奥に、温かいものが広がった。
ずっと一緒にはいられない。
同じ時間を生きることもできない。
それでも──
「また、会えた」
それだけで、十分だった。
風が、再び動き出す。
その前に、あの人は言った。
「あなたが歩く時間の中に、私はいません」
少しだけ、寂しそうに。
「でも、あなたが立ち止まったときだけ──」
その続きを、私は知っている。
「会えるんですね」
あの人は、静かに頷いた。
そして、世界が動き出す。
私は歩き出す。
止まらない時間の中を。
それでも時々、ほんの少しだけ立ち止まる。
そのたびに、あの静かな世界で、
また、会えると信じている。




