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時の外側で、君を待つ

作者: 岸本 源之助
掲載日:2026/04/03

 その人は、時間の外に立っていた。


 初めて会った日のことを、私ははっきりと覚えている。


 春先の風がまだ冷たく、桜も咲ききらない中途半端な季節だった。人通りの多いはずの通学路で、世界がふと静まり返った。


 風が止まり、落ちかけていた花びらが空中で固まり、歩いていた人々はまるで彫像のように動かなくなった。


 ──その中で、ただ一人、動いている人がいた。


「驚かせてしまいましたね」


 穏やかな声だった。


 振り返ると、そこにいたのがあの人だった。

 それが、すべての始まりだった。


 あの人は「時間を止めている」のではなく、「時間が止まっている場所にいる」と言った。


 私には難しい理屈だったが、要するに、世界の流れから切り離された存在らしい。


「だから、本来は誰とも関わらない方がいいんです」


 そう言いながらも、その人は私の隣に立った。


 私は、なぜかその言葉を深く考えなかった。


 不思議と──怖くなかったからだ。


 それから私たちは、奇妙な時間を共に過ごすようになった。


 朝、世界が止まった通学路。


 昼、教室の中で誰も動かない中、二人で会話。


 放課後、止まった街を歩く。


 止まった世界は、静かで、どこか寂しかった。


 けれど、隣にあの人がいるだけで、不思議と満たされていた。


「どうして、私は動けるんですか?」


 ある日、私は尋ねた。


 あの人は少しだけ困ったように笑った。


「例外なんでしょうね」


「そんなこと、あるんですか」


「ありますよ。今、こうしているじゃないですか」


 その言い方が、少しだけ寂しそうに聞こえた。


 日々は静かに積み重なっていった。


 止まった時間の中で、季節は変わらない。けれど、私の中では確かに何かが進んでいた。


 笑う回数が増えて、言葉が増えて、そして──気づけば、それが当たり前になっていた。


 だから、その日も、いつもと同じように始まるのだと思っていた。


「今日で、終わりにします」


 あの人は、静かにそう言った。


「……どうして?」


 問い返した声は、喉は、唇は、自分でも驚くほど震えていた。


「ここにずっといることは、本当は許されていないんです」


 風は止まり、空は動かず、世界は変わらないまま。


 なのに、その言葉だけが、やけに重く響いた。


「──時間を進めます」


 それがどういう意味なのか、すぐには理解できなかった。


「これから、どうなるんですか」


 あの人は、少しだけ間を置いて答えた。


「私は、あなたと同じ場所にはいられなくなります」


 胸の奥が、静かに軋んだ。


「……それって、さよならってことですか」


 あの人は、頷いた。


 言葉が出てこなかった。

 止まった世界の中で、私だけが取り残されたような気がした。


「本当は、関わらないはずでした」


 あの人は続ける。


「でも、あなたと過ごし……」


 そこで、言葉が途切れた。


 私は、一歩だけ近づいた。


「私は、嫌です」


 ようやく出てきたのは、それだけだった。


「このままでいいじゃないですか」


 時間が止まったままでもいい。

 世界が動かなくてもいい。

 このまま、ずっと一緒にいられるなら。


 けれど──


「それでは、あなたの時間まで止まってしまう」


 あの人の声は、優しかった。


「あなたは、生きていく人だから」


 沈黙が頬を撫でる。


 やがて、あの人はそっと手を伸ばした。


 触れられるはずのない、その手が、確かに私の指先に触れた。


「ありがとう」


 その一言だけが、やけに温かかった。


 

「さよなら」


 

 次の瞬間──


 風が吹いた。


 止まっていた花びらが舞い落ち、人々が動き出し、世界が音を取り戻す。


 あの人の姿は、もうなかった。


 

 それから、どれくらい時間が経っただろう。


 私は、普通に生きている。

 学校に通い、友達と話し、季節が巡るのを感じながら。


 あの静かな時間は、夢だったのかもしれないと、何度も思った。


 けれど──


 春の日、またあの通学路を歩いていたとき。


 ふと、風が止んだ。


 一瞬だけ。


 世界が、静まり返った。


 そして、背後から、あの声がした。


「久しぶりですね」 


 振り返ると、そこにあの人がいた。


 以前と同じ、穏やかな笑顔で。


「……どうして」


 言葉がうまく出てこない。 


「ようやく、許されました」


 あの人は、少しだけ照れたように言った。


「あなたの時間に、触れすぎない範囲で」


 胸の奥に、温かいものが広がった。


 ずっと一緒にはいられない。

 同じ時間を生きることもできない。


 それでも── 


「また、会えた」


 それだけで、十分だった。


 風が、再び動き出す。


 その前に、あの人は言った。


「あなたが歩く時間の中に、私はいません」


 少しだけ、寂しそうに。


「でも、あなたが立ち止まったときだけ──」


 その続きを、私は知っている。


「会えるんですね」


 あの人は、静かに頷いた。


 そして、世界が動き出す。


 私は歩き出す。


 止まらない時間の中を。


 それでも時々、ほんの少しだけ立ち止まる。


 そのたびに、あの静かな世界で、


 また、会えると信じている。

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