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天女の戯れ(全編)

 氏重こと次郎三郎は、戦国史上に名を遺す岩崎城の戦いにて、十六歳の若さで討死します。しかし、天女の計らいによって輪廻転生します。天女が乗り移りしひすずみの心中は如何に。次郎三郎の目指すものは何であるのか。

 ご一読くだされば幸いです。

 

 


【第一話 = あえの風】

 穏やかな日差しが降り注ぐ、太平洋の大海原から、伊勢湾に差し掛かる上空あたりで、突然海風が吹き始める。古の頃から日本の中ほどに当たる尾張地方に、海から幸福の風「あえの風」が吹いて来ると云われている。あえの風は、大型旅客機や大型貨物機などが、絶え間なく離着陸を繰り返す中部国際空港セントレアを迂回しながら北上する。伊勢湾の中ほどの金城ふ頭周辺には、伊勢湾岸道路に架かる名港トリトンや名古屋港水族館、名古屋海洋博物館などの巨大建造物が立ち並ぶ。青く澄んだ海原を太平洋フェリーいしかり、ダイヤモンドプリンセスなどの豪華客船、コンテナ船を誘導する水先案内人を乗せたパイロットボートや大型タンカーが、航跡波を描きながらゆっくりと航行している。

 眼下には、木曾三川(木曽川、長良川、揖斐川)、庄内川、新川、日光川、荒子川、中川運河、堀川などの河口群がみられる。伊勢湾は、淡水と海水が交わる豊かな汽水域で満たされており、生物多様性が高い湾口である。突然静寂を破って藤前干潟から群れを成すオナガガモが、泳跡を残しながら一斉に飛び立って行く。更に北上を続けると、直径四十メートルの球形を持ち上げたような外観の名古屋市科学館が姿を現す。豊かな濃尾平野の後方には、冠雪を頂いた鈴鹿山脈、伊吹山地や養老山地そして、鳶ヶ岳、御嶽山などが連なる大パノラマが展開しおり、空と海と大地が織り成す美しい情景は圧巻である。

 「尾張名古屋は城で持つ」といわれる名古屋城天守閣の金鯱が、太陽の日差しを浴びて一際眩しく輝いている。戦前の名古屋城(城郭)は、昭和五年(一九三〇年)国宝第一号に指定されるも戦火により消失する。その後、市民の浄財などにより、昭和に天守閣が、平成には本丸御殿が復元される。まるで箱庭の様に美しい風景に心を奪われる。ここであえの風はつむじ風の力を借りて、名古屋駅周辺のビル群や名古屋テレビ塔を旋回する。そしてミライタワー、東山スカイタワーの方向に進路を定める。名古屋の市街地を過ぎた辺りで、東部丘陵地に忽然と現れるのは、鉢巻き状をした東名高速道路インターチェンジ、東名高速道路日進ジャンクション、そして名古屋市営地下鉄と連絡するリニモ鉄道である。ここは、中部地方における物流の大動脈が集中する陸域である。

 この東部丘陵地には、愛知学院大学、名古屋外国語大学、名古屋学芸大学、名古屋商科大学、椙山女学院大学、愛知県立芸術大学、愛知医科大学、愛知県立大学、愛知淑徳大学などのキャンパスや、研究開発機関、大型ショッピングモール、愛知医科大学病院やジブリパークなどが立地している。またこの東部丘陵地は、内陸部で小高いこともあり、自然災害による危険性も低く、なおかつ愛知県を先導する名古屋圏域と豊田圏域の結節点に当たる。こうしたことから医、職、住、学が整った、落ち着きとゆとりのある「揺り籠」の様な緑住地帯である。この恵まれた地の利こそが、東部丘陵地最大の地域資源である。高度を下げたあえの風は、標高一三一メートルの岩崎御嶽山、岩崎城模擬天守閣、弁天池、菊水の滝(雌滝)、雄滝から成る東部丘陵地の「真秀ろば(まほろば)」と評される陸域に達したところで自然消滅した。

【第二話 = 戦国時代】

 さて、物語は戦国時代である。時の政権は室町幕府で、征夷大将軍は足利義政である。盤石であるはずの室町幕府は、細川氏と山名氏が将軍の後継者問題で内紛を起こす。この応仁の乱が引き金となって、守護大名と武力を蓄えた国人(戦国大名)との争いが絶えない戦国時代が幕を開ける。守護大名とは、室町幕府から任命され、拝領した領地を統治する官僚大名である。戦国大名とは、自分の実力によって自国を統治する武将である。応仁の乱により室町幕府の権威が失墜するなかで、戦国大名が、世の中を動かす戦国時代が到来する。戦国時代は下剋上も厭わない群雄闊歩する多士済々の時代であり、命のやり取りをする残酷な時代である。世の中を武力によって支配しようと、全国各地で戦いが勃発する。武家政権の頂点に立つのは、征夷大将軍である。斜陽となった室町幕府を支え復古させるか。それとも、自ら征夷大将軍となり天下を治めるか。しかし、征夷大将軍と自ら名乗っただけでは誰も相手にしない。覇権争いを勝ち抜き、武家政権の正統性を世に示すことが出来るのは、朝廷(天皇)のお墨付きが必要である。戦国時代を勝ち抜き、太平の世をもたらすことができる武将は誰か。天下取りの競争が始まったのである。

 しかし、戦いに強いだけでは、戦国時代を生き抜くことはできない。武力により奪い取るか。当面の敵対関係を棚上げして同盟を結ぶか。はたまた婚姻関係により同盟を結ぶか。うかつには動けない。先ずは、他国がどの様になっているのかを知ることから始めるのが常道である。見えざるものは、大きく見えるものである。恐怖心から、正しい判断が出来なくなる危険性がある。できる限り情報を集めて、相手のことを正しく知ることが、先手必勝である。他国の城郭がどの様になっているか。地勢はどうか。石高はいかほどか。国境を出入りする行商人の素性は。街道を行き交う荷駄の種類と数量は。御城下の様子は。領民の気質や不平不満は。城主の気心、好き嫌いから健康状態や、姻戚関係などをつぶさに調べ上げる。他国の動静をつまびらかに掴みつつ、勝術を導き出すのである。こうした軍事機密ともいえる事柄を諜報することは、命懸けであり不可能に近い。しかし、あの手この手を駆使して拾い集め、精査することが生き残る術であり、どの武将も知略戦に鎬を削っていたのである。

 戦国時代は、戦いに明け暮れ夢も希望もないと思われがちであるが、まだ身分制度が確たるものではなく、可能性に富んだ技術革新の時代でもあった。特に、領土拡大により旧領地と新領地の異文化交流が活発となり、地域振興が著しく進むなど、積極的で希望が持てる時代でもあった。また海外にも目が向けられ、スペイン・ポルトガルとの南蛮貿易で、巨万の富を得た堺の大商人が活躍するなど、閉塞感や悲壮感というよりも、むしろ解放感に満ちた時代でもあった。また、死に直面して精神が研ぎ澄まされた価値観の中で、華道、茶道、香道など、「わび、さび」といった、日本独自の繊細な文化が開花する時代でもあった。しかし、終わりなき戦火が絶え間なく続くなど、多くの領民は、凶作や疫病などで衰弱してその日暮らしとなり、年貢も収められないほど困窮していた。貧困に喘ぐ領民が救いを求めたのが、門徒宗である。死の世界と隣り合わせで生きる庶民の信仰心は、恐ろしいほど根強い。信仰心が強ければ強いほど死を恐れない。その団結力は、時に一向一揆となって猛威を振った。信長、家康も鎮圧に手を焼くほど厄介なものであった。しかし一五七一年に、信長と浄土真宗本願寺派が、十〇年間争った石山合戦が休戦する。すると各地で勃発していた、一向一揆が沈静化する。こうして世の流れは、戦国時代に終止符を打ち、天下統一へと一歩近づくのであった。

【戦国大名】

 常在戦場たる戦国時代を、春風の如く駆け抜け、後世に名を遺した戦国大名の生涯は、波乱万丈であった。

◎北条早雲(享年六十四歳)

伊勢新九郎こと早雲は、今川氏親に加勢して、小鹿範満を打ち取る。深根城を落とした後に、伊豆を平定する。三崎城を攻略して相模国を平定する。嫡男氏綱に家督を譲り、伊豆韮山城にて天寿を全うする。

 「枯るる木にまた花の木を植ゑそこへてもとの都になしてこそみめ」という辞世の句を残す。

◎斎藤道三(享年六十三歳)

 美濃国の守護土岐頼武を、美濃から追放する。仕えていた長井長弘を殺害する。稲葉山城を補強して、難攻不落の城郭とする。娘の帰蝶を信長に嫁がせる。美濃を統一するも長良川の戦いで、子の義龍に敗れ戦死する。

 「身を捨ててこの世の他に生きる世なしいづくか終の住処なりけぬ」という辞世の句を残す。

◎上杉謙信(享年四十九歳)

 越後国守護代であった父長尾為景が、下剋上により、越後国の実権を握る。その後、謙信は、越後を統一して関東管領となる。川中島の戦いで、信玄と壮絶な戦いを繰り広げながら越中、能登を平定する。手取川の戦いで、信長に大勝する。更なる領土拡大を目指すも、春日山城にて病死する。

 「一期の栄華一杯の酒四十九年は一酔の間」という辞世の句を残す。

◎今川義元(享年四十二歳)

 駿河国守護大名今川氏の五男として生まれる。甲斐国守護武田氏の娘を正室に迎えて同盟を結ぶ。子の氏真に北条氏の娘を正室にして、武田、北条、甲斐の三国同盟を結ぶ。海道一の弓取りといわれながらも、尾張の桶狭間にて信長の奇襲を受け討死する。

 桶狭間の戦いと同年に詠まれた「夏山の茂みふきわけもる月は風のひまこそ曇りなりけれ」の歌が辞世の句となった。

◎武田信玄(享年五十三歳)

 甲斐国守護信虎の嫡子。父信虎を追放して武田家十九代当主となる。金山衆による金の採掘や精錬により甲州金を鋳造して、軍事力と国力を高める。武田二十四将と評される家臣との信頼と団結力を強化して、戦国最強の武田軍団を率いる。上杉謙信と川中島で戦う。時の将軍足利義明から、信長討伐令を受け行軍する。三方原の戦いで家康を破るも途中で病死する。子の勝頼は長篠・設楽原の戦いに敗れ、天目山栖雲寺近くの笹子峠にて自刃する。こうして五〇〇年近く続いた武田家は滅亡する。

 「大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流」という辞世の句を残す。

◎浅井長政(享年二十九歳)

 野良田の戦いで六角氏を破り、父久政から家督を継ぐ。「近江を制するものは京を制す」と言われるほど、軍事戦略上極めて重要な北近江の国主となる。そこで信長は、妹のお市を嫁がせ同盟を結ぶ。しかし、長政は朝倉との同盟を重んじて信長を見切る。姉川の戦いで信長に敗れる。小谷城の戦いで自刃し、浅井家は滅亡する。「さらぬだにうちぬるほども夏の夜の夢路をさそふほととぎすかな」という辞世の句を残す。

 余談ではあるが、長政の最大の遺産と言えば、信長の妹お市との間に生まれた「浅井三姉妹」である。信長と長政という血筋を引く三姉妹の長女お茶々は、秀吉の側室に、二女お初は、京極高次の正室に、三女お江は、秀忠の正室となる。お江は秀忠との間に長女千姫、嫡男家光(三代将軍)、五女和子など二男五女の生母となる。長女千姫は勝頼に嫁ぐが、大阪城落城のおり救出される。その後、家光の三男綱重を養子にするなど、幕閣に強い影響力を持つ。そして四代将軍家綱のとき大奥の最高顧問として、春日局の後ろ盾となり、将軍家の血筋を守るためだけでなく、一〇〇〇人ともいわれる女性憧れの職場「大奥」を作り上げる。五女の和子は、後水尾天皇に入内じゅだいして生まれた子が、明正天皇である。また、秀忠と結婚する前の夫である豊臣秀勝との間に生まれた完子は、公家の九条忠栄に嫁ぐ。その次男道房の家系が、大正天皇の貞明皇后である。こうしてお江の血筋は今上天皇へと続いている。

◎朝倉義景(享年三十九歳)

 父孝景の死去により、越前国主となる。足利義輝から「義」の一字を賜り、義景と改名する。義輝が、松永久秀に暗殺される。義景は、義明を快く越前に迎える。義明から、再三上洛を促されるが、馬耳東風であった。仕方なく義明は家臣光秀の意見を聞き、信長の援助で上洛を果たす。信長と不仲となった義明は、義景を動かし朝倉・浅井連合軍をもって、織田・徳川連合軍と対峙する。されど姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍は敗退する。一乗谷を信長軍に焼かれ、賢松寺で討死して、朝倉氏は滅亡する。

 「七転八倒四十年中無地無自四大本空」という辞世の句を残す。

◎足利義明(享年六十一歳)

 永禄の変で第十三代征夷大将軍義輝が、松永久秀に殺害される。第十四代征夷大将軍義栄が死去すると、信長の力を借りて、室町幕府第十五代征夷大将軍となる。信長の意見十七ケ条に激怒して浅井長政、朝倉孝景とともに、挙兵するも敗れ、京を追われる。毛利輝元を頼り、備後国に移り住む。本能寺の変にて、信長が自刃する。秀吉が関白に任じられると京に戻り、秀吉の御伽衆となる。将軍職を返上して、室町幕府は消滅する。大阪の屋敷にて病死する。

 「五月雨は露か涙か不如帰我が名をあげよ雲の上まで」という辞世の句を残す。

◎『奇才』織田信長(享年四十九歳)

 清須城内にて、弟の信行を暗殺する。足利義明を傀儡の征夷大将軍にして、天下統一へと猛進する。安土城内に、自らを御神体として奉ずる、摠見寺を建立する。天皇行幸のための御殿を、自ら居住する天守閣から見下ろす場所に建てるなど、天皇をしのぐ神であると自認するに及ぶ。これが奇才と言われる所以である。安土城にて、光秀に命じた家康饗宴役を解き、毛利軍と交戦中の秀吉の援軍を命じる。光秀は丹波亀山城から柴野の陣を発した時、「敵は本能寺にあり」と家臣に告げる。天正十年(一五八二年)信長は、本能寺にて自刃する。

 「人間五〇年 天下のうちをくらぶれば夢幻の如くなり一度生を得て滅せぬもののあるべきかこれを菩提の種と忠ひ定めざらんは口惜しかりき次第ぞ」と言い残す。

◎『天才』豊臣秀吉(享年六十二歳)

 尾張国中村の木下弥右衛門の子日吉丸(秀吉)は、巧みな調略戦や墨俣の一夜城、鳥取城の檻攻め、備中高松城の水攻めなど、自らの才覚を遺憾なく発揮する。しかし天下統一を果たすも、その出自・血筋が足かせとなり征夷大将軍となり幕府を開くことができない。そこで朝廷を動かして、天皇に次ぐ関白となり、武家政権の頂点に立つ正当性を得る。慶長三年(一五九八年)正室寧々に看取られ、伏見城にて波乱の生涯を閉じる。

 「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢」という辞世の句を残す。

◎『秀才』徳川家康(享年七十五歳)

 三河の田舎大名から、天下を采配する天下人になれたのは、一つには、思慮深く物事に動じない性格にある。これは幼少期に織田家と今川家にて、人質時代を過ごした境遇から、忍耐強さが自然の如く備わり、無理難題を押し付ける信長に従うことができたからである。二つには、強敵であった信玄亡き後、多くの武田家臣を召し抱え、信玄の軍制、鉱山開発、金貨の鋳造などを取り入れた、領国統治を推し進めたことにある。こうしたことが礎となり、家康を天下人へと押し上げたのである。慶長八年(一六〇三年)後陽成天皇から征夷大将軍に任じられる。この後、二六五年間続く江戸幕府を開く。元和二年(一六一六年)駿府城にて死去する。

 「先に行くあとに残るも同じこと連れてゆけぬわかれぞと思う嬉やと再び醒めて一眠り浮世の夢は 暁の空」という辞世の句を残す。

【日進岩崎城】

 日進岩崎城は、室町時代の末期頃(一五世紀末から一六世紀前半)に、尾張国日進岩崎郷の櫓台(標高六十六・三八メートル)に築城された平山城である。織田信長の父信秀の支城の時期もあったが、その後、松平清康が所領するようになる。天文四年の「森山崩れ」で清康が死去すると、本郷城主丹羽氏清の所領となり、慶長五年までの約六〇年間、丹羽氏が四代続けて在城する。この時の丹羽氏は、日進はもとより東郷、長久手の一帯を勢力圏として治めており、当時の知行は、七○○○石であった。岩崎城は、尾張国と三河国の国境に位置していた。ここは尾張地方の鳩尾みぞおちにあたる要所であるがゆえに、常在戦場、緊張感が張り詰めた、戦いに明け暮れる危険な陸域であった。特に京を目指すには、この東部丘陵地を平定しておかなければ、背後から、あるいは横腹を突かれる恐れがある。ここに拠点となる強固な城郭を持つことは、軍事戦略上極めて重要なことであった。

戦国時代前半の城郭といえば、稲葉山城(岐阜城)のように攻め落し辛い山頂や、峰などの要害に築城することが常道であった。これに倣えば、岩崎城は竹の山(岩崎御嶽山)の山頂辺りに築城するところではあるが、築城時から交通の要所を抑えるため、あえて岩崎郷の櫓台に築城したのである。しかし、大軍が来襲すれば攻め落とされるは必定である。そこで様々な防御策が施された。

 一つには、北側の守りを固めるため、弁天池から連なる深い渓谷を天然の水堀として活用する。二つには、妙仙寺、白山宮、岩崎御嶽神社、慈眼寺、足王社、五色園大安寺、香良州神社、龍谷寺、龍渕寺、天地社、車陽寺、法輪寺、米野木神明社、折戸八幡宮、霊鶯院、大慈寺、妙渕寺、八幡神社、心入寺、宝泉禅寺、野方神明社などの神社仏閣を砦と見立て、手を加える。三つには、田圃の水源である溜池を外堀に見立て手を加える。四つには、城の鬼門に当たる竹の山(岩崎御嶽山)に、物見櫓を備えた砦を築く。五つには、家臣や商人、市が開かれる御城下を、防波堤の如く整備するなど、万全なる防御体制を構築したのである。

 お城の縄張りであるが、城内の高台に本丸、と二の丸、そして、二の丸を補完する馬出曲輪と、北の曲輪、西の曲輪、東の曲輪から成る帯状曲輪を設けて、土塁や空堀で防備する。特に本丸と二の丸の間の大空堀に木橋を架けて、一兆有事にはこの木橋を崩して、敵の侵入を防ぐのである。城郭は、櫓台という高台に築城されている。このため日常の飲み水や、いざ籠城戦となった時の飲み水を確保するため、水脈を探して井戸を掘る。更には、防御力を高めるため、岩崎御嶽山周辺で出土された変成岩を用いた石垣を要所に設けるなど、徹底的に防御力を高めた。何といっても一番の特徴は、鎮守の森に鎮座していた檜の巨木を調達して建てた遠見櫓である。遠見櫓は、単に狼煙を確認するだけの物見櫓ではない。鷹が飛来する目標物として、また、農事暦のための星を観測するため。領民意識の高揚のため。更には、領国の象徴としての役割を、担わせていたのである。

 築城に当たっては、その道に秀でた近郊の名だたる職人衆が集められた。建屋を担当する大工衆、空堀を担当する穴堀衆、石垣を担当する石工衆、遠見櫓を担当する鳶衆など、それぞれの職人の技を競わせながら、普請するのである。職人同士の交流が進み、随処にみられる見事な職人の技は、高度に洗練されて行くのであった。こうして、結果的に職人集団が育成されたのである。また、竹ノ山の裾野から岩藤川に至る丘には、軍事訓練場、射的場や馬場を設けて軍団の強化に努める。御城下には、家臣の住居を始め、武具を修理する者、刀剣を研磨する者、馬具を修理する者、戦地に随行する軍医、火縄銃を扱う者、軍馬を飼い慣らして訓練する者、楽市楽座を頼りに商いをする者などがひしめいて暮らしていた。この市場といわれる御城下が、城郭としての体裁と、丹羽氏の尊厳、威厳、権威を一層際立たせていたのである。

【岩崎城主丹羽氏】

 岩崎城主の一色丹羽氏は、清和源氏の後裔である。室町幕府四職一色氏の一色氏明が、尾張国の丹羽郡丹羽荘に移住して、丹羽氏を名乗る。氏明の子孫氏従が、日進(折戸・岩崎)に移住する。三代城主氏勝の時、家臣が、主君信長の勘気を被り、氏勝は織田家を追放され、諸国を流浪する身となる。こうしたことから、氏勝の嫡男氏次が信長に仕え、長篠・設楽の戦いに従軍する。因みに、室町幕府四職とは、守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の四氏が交代で、幕府の軍事召集と指揮、都の治安維持、徴税等を司る侍所の長官を務めることを指す。丹羽氏は、この四職に起因する武士の中の武士という名門意識が、深層心理に潜んでおり、家康を好み秀吉を受け入れがたいものとさせていたのである。

 さて、本能寺の変で信長と嫡男信忠亡きあと、氏次は、信長の次男である信雄に仕える。この時期、氏次と信雄との間で、織田家の行く末について口論となり、小牧長久手の戦いで、小牧山に出陣した家康軍の先鋒を務めていた。戦いの後、家康の口利きにより、信雄と寄りを戻し、伊勢国の信雄領内にて、七〇〇〇石を賜る。氏次は、この戦いで、家康が天下人の器量であることを知り、臣下にと思いつつも、母が織田信秀の娘であり、織田家の親族である血脈・立場から信雄に仕えていた。信雄は小田原征伐のあと、秀吉により改易される。これを機に、氏次は家康に仕える心づもりであったが、秀吉の命により秀次に仕える。この時、氏次は機転を利かせ、迷わず嫡男氏資を家康に仕えさせる。時移り、関ヶ原の戦いで岩崎城の守備と、妻木城の防衛のため職人集団を送った功績により、初代伊保藩主一〇〇〇〇石の大名に任じられる。慶長六年(一六〇一年)死去する。享年五十二歳であった。後継ぎは次男氏信である。さて、氏次は参勤交代を課せられない定府の大名である。参勤交代という莫大な出費の心配もなく、領地、領民の安寧という家訓を守り、藩の発展に努める。寛永十五年のこと、美濃国岩村藩二〇〇〇〇石の松平乗寿が浜松藩主へ移赴すると、その後任として次男氏信が、岩村藩主となる。時移り、第七代薫氏が、大阪定番となる。その後、播磨国三草藩一〇〇〇〇石の藩主となる。戦国時代が終焉を迎え、豊臣政権から徳川幕府へと時代が流れる中で、豊臣恩顧の大名や徳川幕府の譜代大名、外様大名など多くの大名が、お取り潰しの憂き目に合う。そんな中で、丹羽氏は、鋭い洞察力を駆使して時勢を読みながら、第十二代氏中の時、廃藩置県により三草藩知事に任命される。

 ところで、合戦に明け暮れる戦国時代の背景として特質すべきは、武具などを大量消費すると同時に、大量生産するという二面性を兼ね備えていたということである。物を作る生産活動が活発化するなど、商いの道が開かれる技術革新の時代が到来したのである。戦いの勝敗により、城主の入れ替わりや、戦いの遠征などにより、人々が交わる中で、異文化交流が促進する。物々交換から貨幣経済が急速に浸透して、楽市楽座が盛況を迎える。人々の交流が活発となり、人々が交わる場が増えることによって、相手を唸らせるような洗練された商品開発や演出など、文化や経済が急速に発展する。岩崎城下においても、商人や職人などその道に秀でた人材が集まり、「市場」という地名が付くほどの賑わいをみせるのであった。

 この時期、領国を統治するための最大の課題は、兵力の増強、軍団の強靭化である。軍団の要といえば、騎馬軍団であるが、あいとものまきばで育てられた軍馬は、足腰が強く物事に動じないと評判であった。また、長篠・設楽原の戦いで猛威を振るった火縄銃の威力は世に知れ渡っていた。火縄銃の数こそが軍事力であることは承知の事実であるが、手に入れるのは至難の業である。武具を充実すると同様に、それを扱う兵士を確保しなければならない。弓矢隊、鉄砲隊、歩兵などの増強を図るにはどうしたらよいのか。また、武術を高める良い手立てはないか。氏次は途方に暮れていた。こうした状況下、来るべき小牧長久手の戦いに備えて、天正八年(一五六〇年)に遡った弁財天は、友である毘沙門天に、しばしの間、鎌田憲信に乗り移り、武術の訓練の道筋を付けてほしいと願ったのである。乗り移りし憲信が最初に取り組んだことは、兵士を当てもなく集めるのではなく、草の根の取り組みから始める。先ず手始めに、丹羽軍団に入隊を志す近郷の若人や、自衛のために武術を会得したいと願う者達を、取り込むことにしたのである。しかし人数が増えたからと言って、高価な刀剣などの武器を、全員に分け与えることは出来ない。そこで、樫木などで作った棒剣などを使うことにしたのである。次に毎年収穫が終わった秋祭りには、城主が褒美を遣わす御前試合を催して競わせ、武術向上に努めた。農民であれ、農閑期など暇を見ては稽古に励むのであった。女子供にも、一朝有事のための護身術として推奨した。こうして地域全体で取り組む地域集団が組織されたのである。この地域集団が、丹羽軍団を支える底力となり、軍事力の向上に大いに貢献したのである。これが、鎌田憲信率いる棒の手集団である。こうした草の根の努力があって、正規軍の他に予備軍を持つほど充実した丹羽軍団が形成されたのである。

 さて、戦国時代は兵士がぶつかり合う人開戦術だけではない。敵方の動静を探る情報戦が重きをおいていた。岩崎御嶽山は修行僧が諸国から集い、さながら生きた情報をもたらす情報源であった。そこで、修行僧に成りすました鷹匠を諸国に送り込むなど、諸国の動静に目を光らせながら、諸国からの侵略をうけない様に、注意していたのである。なお、文武両道を目指す丹羽氏は、教育にも熱心であった。武人としての品格を身に着け保つため、日頃の言動や立ち振る舞いなど、武士道に背くことのないように精進する。菩提寺である妙仙寺を始め神社仏閣の住職、神官は、丹羽家の学問の師である。さながら、領国の学問所としての機能を兼ね備えており、次代を担う人材の育成を図っていた。こうしたことから、志を高く持つ若者が相集うことになった。

 領国を統治するためには、巨額な軍資金が必要となる。その主な財力の源といえば、一つには、年貢米である。年貢米の増産を図ることに苦心する。先ずは、田畑の現状を明らかにするため、検知を進めて生産力を把握する。加えて新田開発を推し進め、増産に尽力する。二つには、特産品の奨励である。領内の丘陵地の地下には、高温に耐えうる良質な粘土と磨砂(白土)が埋蔵されている。里に近いなだらかな丘陵地は、薪を調達することが容易である。こうしたことから、窯業を奨励して保護したのである。また、地下資源の亜炭は燃料となり高額で取引された。これらの特産物が、領国の貴重な収入源となり、丹羽氏は勿論のこと領民を潤し、それが国力を高めることになったのである。

 ところで、城主が特に気を使うのが、戦いに備えるための軍事訓練や、軍事力の増強だけではない。これと匹敵するほど心を痛めたのが、勝敗の分析と論功行賞である。勝ち戦であれ負け戦であれ、その要因を正確に分析して次の戦いに備えるのである。特に、兵士の誰もが期待するのが、論功行賞である。不平不満があってはならない。適正に評価しなければ、兵士は去ってしまう。また、優秀な兵士は集まらない。戦国時代といえども、物事の状況把握、分析、誰もが納得する理論的な結論を導き出す規範を整えて、誠実に対応することこそが、最強の丹羽軍団を編成できるのである。やるべきことが、山積していた。

【第三話 = 武人の器量】

 さて、時さかのぼること四五六年前の永禄十二年(一五六九年)領土拡大に明け暮れる戦国時代に、太陽のように眩しく輝くのではなく、流れ星の様に一瞬の輝きにその存在感を後世に残すこととなる丹羽氏重が産声を上げた。幼名を次郎三郎という。実兄の氏次は文武両道に優れ、家臣一同が認める御曹司である。次郎三郎はといえば実兄に劣らず神童と言われながらも、見た目は女子の様な華奢な体格をしており、虚弱体質であった。体力がものをいう武人としては、期待されることはなかった。しかし皮肉なことに、この虚弱体質という最大の弱みが、幸いとなったのである。それは実兄にとって代わろうとするような危うさがなく、実兄も家臣も安心感を持って次郎三郎を受け入れていた。しかし、氏重にしてみれば、この先武人としてどのように生きていけばよいのか。戸惑と葛藤は増すばかりであった。俗世間から離れて仏門の世界に入るのも選択肢のひとつであろう。しかし、自分の身体には武人としての熱い血潮がみなぎっている。この世に生を受けた自分の存在感、使命感はいかなるものか。などと心穏やかではなかった。

 若輩ながら、禅宗である妙仙寺の住職から教わった禅の作法に則り、無の境地に入るのであった。

・あぐらをかく。

・右足を左足の腿の上に乗せる。

・左足を右の腿の上に乗せる。

・両膝を床板につけ足の裏を天井に向ける。

・身体の重心をお尻と両膝の三点支える。

・右の手のひらを上向きにする。

・右の指の上に左指を重ねる。

・組んだ手を足の上に乗せる。

・両手の親指の先をつけて親指と手のひらで卵形をつくる。

・呼吸を整える。

・心を整える。

 数時を経て、武人としての生き様を、自ら見届けるのもよかろう。と悟ったような心境を得たのである。

 次郎三郎の力量は、情けにあるといってよい。実兄の氏次が合戦即ち外交にあるならば、内政は氏重である。父氏勝が流浪の身となる中で、戦いに明け暮れ、多忙を極める実兄の氏次を補佐して、二人三脚で領内を治めていた。武家の棟梁の務めは、武力と策略により、領土を拡大していけばよいというものではない。外敵から領民を保護する。米を増産すべく新田開発を進める。溜池を作事して干ばつに備える。災害や治水のため、河川を改修する。領民の争いごとを仲裁する。湧き出る雲や風の動きを掴み、天候を予報する。農事暦を示して、種まきや田植えなどの手順を示す。殖産や楽市楽座で暮らしを豊かにする。祭事、お祭り、催し物で領民の結束、団結力を醸成する。軍道でもある大通りや街道を整備して、往来の活性化を図る。疫病や怪我で苦しむ領民の医療を整える。貧困対策や読み書き算盤を教える体制を整えるなど、やらなければならないことが山積している。

 次郎三郎は、こうした気長で根気のいる内政を見事に努め上げ、領民の心を掴んでいったのである。常日頃の次郎三郎の一言一行が、死に直面しても、次郎三郎に付いていこうとする原点となったのである。

【かけがえのない友】

 次郎三郎を支えることとなる近習は、子供の頃からの遊び友達のげんごろう、たがめ、おにやんま、ぎんやんま、とびけら、あさぎ、あげはの七人衆である。幼きころより気の知れた、掛け替えのないそんな友であり、次郎三郎の目となり耳となる。

 げんごろうは次郎三郎に年恰好がよく似ており、素性は謎に満ちていた。たがめは、鷹匠として鷹の世話をする。おにやんま、ぎんやんまは、修行僧の身なりとなり、諸国を遍歴して、見聞きした城主の動静や、御城下の賑わいなど、事細かな生きた情報を即座に鷹文にて知らせる。とびげらは、棒の手の始祖鎌田寛信の次男坊で、棒の手の名手である。もんしろ、あげはは、双子の姉妹で、亀乃庵の看板娘として往来する行商人などから、それとなく他国の世情を聞き出すなど、生きた情報を拾い集める。この七人衆こそ、次郎三郎直轄の諜報集団、見聞衆みききしゅうで、終生付き添うことになるのである。因みに、若き次郎三郎が、他国の情報を得るための諜報組織である見聞衆を立ち上げ、動かすことが出来たのは、父氏勝の後ろ盾があってのことである。氏勝であるが、信長に追放され、表舞台から遠ざかっていが、諸国を流浪しながら得た経験豊富な知識を活かして、裏方に徹し次郎三郎を支えるのであった。

【時空を越えて】

 桜舞いちる春爛漫のこと、天上界の神殿で、七福神の大黒天(大国主神)が居眠りをしている。高松塚古墳に描かれた飛鳥美人図の様な衣装で、眉間に神女の証である花鈿かでんを施した弁財天が、こっそりと近づくも気付かない。これをよいことにお茶目な弁財天は、大国主神が蓄えた自慢の髭の両端を結んだのである。この悪ふざけが見つかり、弁財天は大黒天から、縁結びのお手伝いを言い渡される。お手伝いするのは、赤い糸を地上界に放つのである。赤い糸は、縁結びのために放たれると、夫婦めおとになるに相応しいカップルを見つけ出して、二人の左手小指に結びつくのである。

 余談ではあるが、七福神とは名のごとく、七つの幸福をもたらし、七つの厄災を取り除く神様である。

因みに、大黒天のご利益は、五穀豊穣、出世開運、商売繁盛である。毘沙門天のご利益は、武道成就、降魔厄除、家内安全である。弁財天のご利益は、学徳成就、諸芸上達、恋愛成就である。布袋尊のご利益は笑門来福、千客万来、家運隆盛である。寿老人のご利益は 長寿延命、家庭円満、福徳智慧である。福禄寿のご利益は財運招福、立身出世、子孫繁栄である。

 さて、弁財天はというと、ただ放つだけのお手伝いは、退屈過ぎて隙を見て逃げ出した。天界から地上界に、次元と時空を越えて飛び出たのが弁天池の上空である。さてさて、休むところはないかと見下ろすと、菊水の滝と雄滝の水源である弁天池の中央に浮島がある。オシドリやカルガモなどの水鳥が泳ぎ回り、羽を休めるこの浮島に、枝ぶりの良い老松を見付けた。急いで逃げ出して来たので琵琶は持たず、豪華な横笛を腰紐に差して、琵琶の刺繍が施された羽衣を優雅に靡かせている。老松に寝そべるように手枕をして、うとうとしていると、湖畔のクヌギ林に人の気配がする。薄目を開けて見つめると、あどけなさを残す童子が遊んでいるではないか。何をしているのかと思えば、亀の背石に腰を下ろした童子と、周囲の茂みを無言で走り回る数人の童子がいる。しばらくすると座っていた童子が立ち上がり、右手を差し出すと、上空から幼鷹がすうっと舞い降りた。草むらにいた一人の童子が、手にした昆虫を幼鷹に与えて餌付けしているではないか。

 弁財天は、幼鷹を手にした童子のことが気になり、すかさず横笛を吹いてみた。人間には聞こえるはずのない音色ながら、童子がこちらを振り向いたのである。何と清らかな眼差しをしていることか。とても気になり、童子の生涯を覗き見してしまった。この童子こそ、岩崎城主丹羽氏勝の次男次郎三郎(氏重)である。次郎三郎は、頭脳明晰なれど虚弱体質であるため、武人として期待を持たれることもなかった。    幼き頃より学ぶことが好きで、高僧といわれた妙仙寺の住職に教を乞うていた。しかし、あくまでも武人であり、丹羽家の次男坊としてどのように振舞ったらよいのか。如何にあるべきか。自問自答する日々が続いていた。この時、次郎三郎が後に太陽のように眩しく輝くのではなく、流れ星の如く一瞬の煌めきにて、その存在感を後世に残すことになろうとは、誰が想像したであろうか。なんとも哀れで切ない末路ではないか。短命なりて悲運を絵にかいたような末路に華を添えたい。弁財天は何故か惹かれるものを感じつつ、この童子に寄り添ってみたいという感情が芽生えた。よく見ると、弁財天の袂にあった大黒天から授かった赤い糸が、そよ風になびいてこの童子に触れていたのである。

【乗り移り】

 次郎三郎を身近で支えるためには、自然な出会いが必要である。この次郎三郎に見合った年相応の娘子はいないものか。少し遅れて琵琶を届けにやって来た侍女に、それとなく探させる。侍女が言うには、御城下に呉服問屋があり、大旦那のつかじうは御用商人として不動の地位を築いていた。しかし家庭内では、妻のたけのに、産後の日達が悪く先立たれていた。しばらくして周囲の勧めもあり、たけおんを後添えとして迎えていた。つかじうの泣き所といえば、一人娘が後添えのたけおんに心を開くことなく、数年前から、奥の別棟に引きこもったまま顔を見せないことであった。母屋と別棟は渡り廊下で結ばれており、食事や身の回りのことは、侍女が付ききりで面倒を見ていた。薄暗い部屋で、顔つきなどハッキリ見たこともない有様である。侍女についても同様で、つかじうとたけおん夫婦や手代も、気にも留めず過ごしていた。一人娘の年の頃は、次郎三郎より少し年増ではあるが、侍女をともなっており条件はよい。そこで弁財天はこの一人娘に、意識を残したまま乗り移る憑依ひょういをすることにした。憑依に先立ち、弁財天が拘ったのが、一人娘の容姿である。憑依と同時に、弁財天の容姿に永久変化するのである。  なお、神女の証である花鈿かでんは、憑依した時のみ浮き出るのである。一人娘の侍女も同様に、自分の侍女を憑依させる。さて、寒さが緩み、鶯が梅の花をついばみ日差しが眩しいそんなある日のことである。つかじうは、一人娘が装いを新たにしたいので、反物を仕立てる職人を呼んでほしいと聞くや、早速手配する。数日後、つかじうとたけおん夫婦は勿論、大番頭、手代などお店の者が見守る中、侍女に手を引かれながら一人娘が姿を見せた。一同一人娘の顔をみて驚いた。高貴な顔立ち、透き通るような素肌、腰まで伸びた黒髪、今まで見たことのないような小袖を羽織るという出で立ちである。つかじうが知っている一人娘とは別人のような雰囲気を醸し出している。一人娘をまともに見ることが出来ず、かける言葉もよそよそしいものになっていることに気付くのであった。つかじうに違和感があった。しかし、弁財天の友である布袋尊が、しばしの間つかじうに乗り移り事なきを得た。そして居間にて、親子水入らず話し込むうちに、弁財天が解離して眉間に花鈿のない一人娘の心情が伝わり、つかじうとたけおん夫婦も安堵するのであった。元気になった一人娘のために、別棟も望み通り数奇屋造りに、家具や調度品、書物なども、一人娘の気に入るように整える親ばかぶりをみせるのであった。

【お月見泥棒】

 歴代城主が家臣を始め、御城下の領民の娯楽として始めたのが、お城を開放するお月見である。その余興として始まったのがお月見泥棒である。お月見泥棒とは、お供え物を黙って持って行ってよいという暗黙の約束事である。

 今年も中秋の名月に、縁側に祭壇を設けて、瓶に刺したススキとハギ、ゆでたサツマイモとサトイモ、月見団子をお供えする。この日、月が出ると大勢の童子たちが、早速お供え物を黙って持ち去るのである。持っていかれた家では、気付かないうちにお月様が持って行ったのだと言って、大そう喜んだのである。お月見泥棒は、老いも若きも楽しみにしている年中行事で、領民の娯楽のひとつとなり、御城下は大いに盛り上がりを見せたのである。

【赤い糸】

 城主氏次は、戦いに明け暮れる家臣の慰労を兼ねて、城内にお月見をするための祭壇を設ける。また、多くの領民が望んでいた遠見櫓を開放したのである。氏次と家臣や招かれた領民が見守る中、祭事が催される。祭事が終わると、供物目当ての子供達が、大手門から駆け込んで来る。氏重は、げんごろうを伴って帰ろうとすると、一際輝く一筋の月の光が射していることに気付く。その月の光に誘われるように、搦手門からめてもんに差し掛かった所で、侍女を伴った娘子にバッタリと出会う。花鈿のある娘子は、氏重とげんごろうを住居に案内する。住居は数奇屋造りで、玄関に設えた水琴窟の音色が微かに聞こえる落ち着きのある面持ちであった。玄関から一歩足を踏み入れると、そこは別世界で、これまで見たこともないような書物が収められた部屋があるなど、驚きの連続であった。案内された娘子の部屋は、空薫からだきがしてあり、時折、鹿威しの音が心に染み入るように微かに響いて来る。抹茶と干菓子ひがしでもてなされ、落ち着いたところで、氏重は、幼名を次郎三郎であることを教える。そして娘子に名を訪ねると、娘子は恥ずかしそうに顔を伏せたまま「ひすずみ」と小声で答えた。次郎三郎の父氏勝は流浪の身なれど、文武両道に優れた兄の氏次に寄せる期待は大きく、次男坊の次郎三郎には無頓着であった。母は織田信秀の娘でお市の方の妹である。箱入姫にて子育ては乳母にまかせきりで無関心であった。その乳母もこの世を去り、次郎三郎はいつも独りぼっちで寂しい思いをしていた。そんな次郎三郎は、ひすずみに恋愛感情ではなく、母性を感じたのである。ひすずみ即ち弁財天は、次郎三郎の末路を知るうえで、ひすずみに苦難を与えたくないと、あえて男女の情を封じて、次郎三郎を導く師弟の情愛を注ぐように心したのである。次郎三郎にとって、ひすずみの話は奇想天外であった。書棚には、海外諸国の様子や朝廷に関する文献も収められており、また、見たことも聞いたこともない書物もある。知識欲旺盛な次郎三郎は、時を忘れるほど夢中になって目を通すのであった。ひすずみとの時間は、あっという間に過ぎ去る。この日も雲一つなく、透き通るような青空である。いそいそと、げんごろうを伴って、ひすずみを訪ねるのである。この時、弁財天は、忠義者を絵にかいたようなげんごろうの末路も、垣間見るのであった。そこで侍女にげんごろうについて尋ねると、まんざらでもなさそうである。そこで、弁財天はげんごろうと侍女の小指に、大国天から賜った最後の赤い糸を放つのであった。

 こうしたことが噂を呼び、周囲の者は女子にたぶけて遊び惚けていると囁く。この噂は御城下に、そして城中にまで広まったのである。しかし、当の次郎三郎はお構いなしであった。しっかり者の実兄がいて、弟は放蕩三昧でのん気者の方が、お家は安泰であることを悟っていたからである。花鈿かでんのあるひすずみとの時間は、たぶけるどころか、一瞬たりとも気の抜けない、充実したものであった。お昼までは、素養と教養は勿論のこと、知力、胆力を養うのである。お昼からは、次郎三郎の最も不得意である武人としての鍛錬が待っていたのである。 

 次郎三郎は、己が虚弱体質であることから、弱者に目が届くのであった。この「やさしい心根」が次郎三郎最大の武器となる。それは、領民と共に喜怒哀楽を共にする生き様である。領民の冠婚葬祭、出産、病気などに気を掛ける。風の動きや雲の動きなどで天候を予報して、田植え、種まき、収穫の時期を知らせる。星の動きを観察して、農事暦を作成する。干ばつ対策や水利権など、悩み事、争いごと、困りごと、などについて、言い分をよく聞き、寄り添いながら仲裁する。根気のいることではあるが、関わる者の身になって、解決策を引き出していく。こうした地道な常日頃の行いが、領民に慕われることになるのである。

 花鈿のないひすずみは、ただ筋力の鍛錬だけではなく、まなちのまきばという軍馬の養成場で、乳をよく出す牛がいると聞くと、早速取り寄せるなど、食生活に気を遣うのであった。

こうした日課を三年間続けた氏重は、戦いのない太平の世の中を築くためには、どうしたらないのか。武力に頼ることのない秩序ある社会の構築には、確たる決まり事(制度)が必要ではないかと思案する。まだまだ未熟者であることを、謙虚に受け止め精進するのであった。こうして、体力に不安があるものの、一皮も二皮もむけた若武者になっていた。次郎三郎は、遠見櫓から御城下を見るのが好きであった。ひすずみは、高所恐怖症なので遠慮するのであったが、いつか二人で、真っ赤な夕陽を拝みたいものだと次郎三郎は願っていた。

【不穏な動き】

 昨夜は夕闇の濃い朧月夜であった。今朝は明け方からどんよりと蒸し暑く、雨雲が垂れ込んで、今にも雨音が聞こえそうなけだるい日であった。この頃、御嶽山の修験者や、妙仙寺の住職などが、お城に暗雲が立ち込めていると言い出した。これは弁財天が舞い降りてひすずみに憑依した異変を感じてのことである。漂う邪気を払うため、護摩木を焚き祈祷するなどの騒ぎとなった。すると、弁天池から飛び出した龍神が、菊水の滝(雌滝)と雄滝を廻り、そして岩崎御嶽山目掛けて駆け登った。その尾っぽは、白山に達するほどであった。風雲を纏った竜神は、岩崎御嶽山の山麓にある妙仙寺の若松にしがみつくと同時に老松と化した。すると、それまでのざわつきが収まり、落ち着きを取り戻したのである。この異変に驚いたのは、人間界だけではなかった。弁天池に住んでいた亀が、群れとなって、弁天池の浮島に這い上がったのである。

【亀乃庵】

 稲刈りが終わった田圃では、スズメが、こぼれた籾を「ちゅんちゅん」と啄み、飛び立って行く。尾張国と三河国の結節点辺に、ヤマモモの大木がある。その根元に亀乃庵という団子やお餅、柿を練った竹筒のお菓子、米麹甘酒などをだす茶店がある。この亀乃庵の主人は、あさぎとあげはの母、さんはくである。この亀乃庵から少し離れた里山に、見聞衆の根城がある。母子ともに次郎三郎の見聞衆として、領国の治安維持のため、街道を行き来する旅人から生きた情報を得て、次郎三郎に伝えるのである。時折であるが、織田家を追放された、次郎三郎の父氏勝が、何故かこの亀乃庵に出入りしているのであった。 

亀乃庵の商品は、旅人は勿論のこと、領民の心を掴み好評を得ていた。

・ぼたもち(おはぎ)

・米団子

・焼餅

・ぜんざい

・おしるこ

・米麹甘酒

・ほうじ茶

・番茶

・蒸しもん(月のうさぎ、たぬき、ねこ、いぬ、きつね、にわとり)

【運命の接見】

 戦国時代、取り分け大きな節目となったのが本能寺の変である。光秀謀反により信長と嫡男信忠が自刀すると、秀吉は即座に中国大返しにより、天王山で光秀を落ち取る。次に秀吉は、目の上のたん瘤であった筆頭家老の勝家を北の庄城で討ち滅ぼし、その実力を世に示した。時を置かず、信長の次男信雄、三男信孝そして信忠の遺児三法師による跡目争いが始まった。紆余曲折しながらも、清須会議にて、秀吉の策略により、織田家の後継者は三法師となる。この決定に信雄は秀吉に遺恨を抱きながらも、清洲城を本拠地にして、時を待つことにした。本能寺にて信長の接待を受けた家康は、堺にて信長自刃の知らせを受け、伊賀を越え岡崎城を経て駿府城に戻る。早速、光秀打倒の体制を整えようとするが、既に秀吉が光秀を討ち、破竹の勢いであることを知り駿府城に留まる。こうした中、期せずして織田領となっていた甲斐国と信濃国で、一揆が勃発する。これを好機と捉えた家康は、甲斐国に攻め入る。すると隣国の北条氏が、信濃国に侵攻する。一連の戦いにより、上野国を北条氏が、甲斐国を家康が、領国とする旨の同盟関係を結ぶことになった。信長の家督相続に出る幕を失った家康ではあったが、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を領有して、足場を固めることになった。家康は次の一手を模索するため、信雄の動静を見定めていた。この時、頭に過ったのが桶狭間の戦いである。大高城に兵糧を運び終えたところで、義元が討たれたことを知るが、織田軍の追撃を振り切り、駿府に逃げ帰ることはできない。そこで、大樹寺に逃げ込むが織田軍に包囲され、絶体絶命の危機を迎え、自刃しようとする。すると、登誉天室上人に、厭離穢土欣求浄土おんりえどごんぐじょうと即ち、戦国乱世を太平の世にすべしと諭され、思い止まる。寺僧の手助けもあり最大のピンチを乗り切り、岡崎城に生還して、氏真と関係を断ち切り、信長と和睦したのである。

 運命の選択をした、松平家の菩提寺でもある大樹寺に詣でることを思い付いたのである。すると、信雄が秀吉に対抗するため、同盟を結びたいとの吉報がもたらされる。覇権争いに出番を模索していた家康は、信雄との同盟を好機と捉えた。

 信長亡き後、氏次の主君は、必然的に信長の次男信雄である。信雄では秀吉に織田家が飲み込まれてしまう。織田家の行く末ままならずと、容赦のない諫言を浴びせて、信雄と仲たがいする。しかし、信雄は、特に気にもせず、家康が同盟を意識していると知るや、同盟に関する書状を家康に持参する大役を、氏次に命じたのである。

 額に花鈿のあるひすずみは、予てより氏重に家康に接見することが、武人としての転機になることを指南していた。また、氏次の夢枕にて、家康に氏重が接見できるよう取り計らうことが、丹羽氏にとってどんなに重要なことかを、吹き込むのであった。氏重も、家康に接見したいと、実兄の氏次に願い出ており、その願いが叶ったのである。接見当日、早々と氏次は、氏重と従者数人を伴って早馬を飛ばし、大樹寺の山門に現れる。古刹である大樹寺境内の石畳を少し進んだところで、氏重は何気なく振り返った。すると先ほどくぐった総門の開口部が額縁となり、三キロメートルほど遠方にある岡崎城がくっきり遠望できるのである。この大樹寺も砦として、岡崎城を守るため配置されているのだと感心しながら、接見場へと足を進めた。

 庫裏くりに設えられた接見場では、前もって軍議が開かれていた様で、徹底抗戦を主張する家臣団の声が飛び交っていたと思われる。軍議を終えた家康は、小姓に肩を叩かせながら、氏次一行を召し出す。氏次が、信雄の同盟の意を記した書状を、小姓を通じて差し出す。小姓から書状を手にした家康は、うっすらとほほ笑むしぐさを見せながら、同意する旨の返書を、信雄に渡すよう氏次に言い渡す。家康は、氏次の後方に控えし氏重に目を移す。氏重は、平伏したまま微動だにしない。氏重面を上げよ。家康は氏重に自分にないものを見て、一目見て気に入った。それは氏重の「若さ」である。この時、氏重一五歳、家康四十一歳、歳の差は二十六歳である。家康は立ち上がり氏重に近づき、腰を落として秀吉をどうしたものかのう。と耳元で囁く。信雄の動静かと思いきや、氏重は機転を利かせ、すかさず、この度の戦いは織田家の内紛なり。家康様は天下に名を知らしめるのみの戦いなり。と答える。家康は、ふむ。とうなずく。家康が更に問うと。家康様にありて秀吉になきものあり。と答える。家康が、それは何か。と問うと、生まれてから常に従う家臣団でござる。と答えた。居並ぶ徳川武将は、持ち上げられて悪い気はしない。

 岩崎城主の丹羽氏は、尾張と三河の国境に位置しており強い勢力に付くことが延命策なのである。両者を天秤にかけて、どちら付かずのコウモリ状態で、静観を決め込む。味方に与しても、体勢不利となれば、なりふり構わず寝返ってします。芯のないあてにできないのが尾張者であると決めつけていた。三河者は尾張者を好まぬ気質が根底にあった。しかし、この氏重には好意を持った。更に家康は、何か申せ。と言った。氏重は、秀吉が天下人とならば一代のみ。家康様が天下人とならば、子子孫孫まで。と答えた。家康は天井を仰いだ。ふむ。眉を急ぐべからず。秀吉の動きをよく見よということか。家康の胸の内は、徹底抗戦して長引けば、兵力から言って秀吉に軍配が上がる。今回は、秀吉に徳川軍団の存在感と底力を見せ付ける程度でよいと見切っていた。氏重は、人の話をよく聞く包容力と、「厭離穢土欣求浄土」という旗印に込められた、戦乱の世に終止符を打ち、太平の世をもたらすという、崇高な理念を持つ家康に、尊敬の念を抱いていた。家康は、物事の本質を見抜く聡明さと、媚び諂うことのない素直な眼差しの氏重を、大いに気に入った。そこで、家康は、腰に差していた守り刀(京の刀工信國作)を、無名ながら物心ついた時から片時も離したことがない。励め。と言って、手ずから与えた。両手を面前に差し出し、受け取った氏重は、有難き幸せ。と言って拝領したのである。去り際、家康は氏重の右肩を二度叩いて、氏重、そちは鷹を飼いならしていると聞く。わしの鷹を遣わす。と言った。そういえば庭先に設えた止まり木に、幼鷹が止まっていたことを思い出した。感激を表す表情をして、氏重は幸せ者でござる。と言って深々と頭を下げた。これは武人として最大の誉であり、氏重は家康に、父の様な感情が芽生えたのである。この瞬間、家康を主君として生きることを決めたのである。これを見ていた実兄の氏次にしてみれば、実弟に先を越されたような気にもなったが、実弟であり悪い気はしない。しかし、兄弟でも命のやり取りをする戦国時代である。我に取って代わり、当主の座を脅かすことは、万に一つもないわけではない。しかし、虚弱体質である氏重に謀反の恐れがないのである。喜んだ氏重は、この脇差を「三河様」と名付けて片時も離さず大切にした。幼鷹を「岡崎様」と名付けて愛情深く訓練するのであった。

【岩崎城の戦い】

 さて、本能寺にて、家臣光秀に信長が討たれたことを知った秀吉は、中国大返しをやってのけ、天王山にて光秀を討った。そして、信長の嫡孫である三法師を後継者に担ぎ上げ、その後見人としての立場を得たのである。それに納得しない勝家を、賤ケ岳の戦いで苦境に追いやる。更に追撃して北ノ庄城にて、勝家と妻お市の方を自刃に追い込む。こうして実質的な信長後継者としての地位を築こうとしていた。しかし、後継指名を確信していた信長の次男信雄は、これに納得せず異を唱えたのである。そして家康と同盟を結び、秀吉を成敗しようと立ち上がる。家康は、天下の覇権争いの後れを挽回する機会を模索していた。信雄の誘いを絶好の機会と捉え、同盟関係を結び、秀吉に挑んだのである。

 天正十二年のこと、秀吉は覇権争いを優位に進めるため、信雄と家康を打ち滅ぼすことにした。そこで秀吉は犬山に、家康は小牧山に本陣を構えて対峙したのである。両軍膠着状態が続いていた。これに根を切らし戦功に目が眩んだ池田恒興(信輝)は、秀吉に家康の留守を狙って密かに三河に攻め込む「三河中入り」を献策したのである。この中入り作戦は、迅速かつ極秘で遂行しなければ成功しない極めて危険な作戦である。秀吉は迷いに迷ったあげく、甥の三好秀次を総大将に、池田恒興・元助隊、森長可隊、堀秀政隊合わせて二〇〇〇〇にも及ぶ奇襲隊を、岡崎城目指して進軍させたのである。勢いに乗じて、森長可隊の別動隊が、一色城と長鍬城を焼き討ちする。この時の岩崎城であるが、城主は氏次で、本隊を率いて小牧山の家康軍に従軍していた。岩崎城は、氏次の実弟氏重が城代として守備していた。そんな中、何の前触れもなく、父氏勝が放った鷹文が届く。驚いたことに、秀吉が大軍で岡崎城を奇襲する「三河中入り」の極秘情報であった。一早く知った氏重は、行軍経路を想定する。長久手岩作方向から、この岩崎城付近を通過すことは明らかであり、この地が戦場となることは間違いない。氏重はすぐさま、城内を始め御城下の男衆を呼び出す。先ずは、城内は勿論、御城下の女子供やお年寄りを、岩崎御嶽社とその麓の妙仙寺に、また、白山宮と龍谷寺に、一刻も早く避難させる。その先導役を、あさぎとあげはに命じたのである。次に、奇襲隊をどの様に迎え撃つか、知恵の限りを振り絞る。三河中入りの核心は、三河に電光石火で奇襲することである。いかに早く三河にたどり着くかが鍵である。休む暇なく行軍しなければならない。小城である岩崎城などにかまけている暇は無い。氏重は考える。予備軍程度の城兵を侮り、この岩崎城を、無視して通り過ぎるであろう。なれども、無視されるなど、武人としてこれほどの屈辱はない。迎え撃つか、立てこもるか。士分四十二人、射夫三十八人、歩卒六〇人、奴僕七〇人、商工人三〇人の予備軍で戦えるのか。何も策を弄せずは、無駄死というものだ。しかし、我のみの思い込みだけではなく、皆が納得する生き様はないものか。一世一代決断の時である。

 城兵二三八人を前にして、家康から拝領した守り刀を握りしめる。そして、この奇襲のことは、家康様はまだ知るよしもないであろうから、命に代えて足止めする。何もせずは末代までの恥、武士もののふとしての意地をみせるはこの一戦である。丹羽軍団を天下に知らしめる戦いである。と言った。すかさず、命ほしき者は城外に避難せよ。と告げる。これを聞くも、一人として離脱する者はいなかった。これも、常日頃の強い信頼関係の賜物であり、命を捨ててでも氏重に従う者達であった。この戦いの意義は、少しでも長く時間を稼ぐことができるかである。援軍が来るまで、矛先を岩崎城に向けさせ、いかに足止めをすることが出来るかに掛かっている。氏重は即座に、三河中入り。徹底抗戦。至急援軍願う。と記した鷹文を、氏次に放つ。意を決して、氏重は長鍬城主の加藤景常と共に、生牛が原付近を、松明を持たずに行軍する奇襲隊を発見するや、先制攻撃を仕掛ける。これに驚いた奇襲隊であったが、すぐさま体制を整えて、夜明け近くに岩崎城を怒涛の如く包囲する。先制攻撃したことにより、奇襲隊を誘い込むことに成功をしたのである。朝靄が消え去る早朝、静けさを破って、池田恒興率いる二〇〇〇の奇襲隊の足音や、馬の鳴き声が徐々に大きくなって近づいて来る。恐怖心が高まり、身の毛がよだつとはこのことである。

 岩崎城を包囲した池田隊の伊木忠次が大手門から、片桐俊忠が搦手門からめてもんから攻撃して来た。これに耐えつつ氏重はげんごろうを伴って、大手門から打って出る。こうして、凄まじい攻防戦が繰り広げられたのである。しかし応戦の甲斐もなく、手薄となった北東部から、森長可の兵が乱入して来た。氏重は馬の頭に標具だしを付けた軍馬にまたがり、げんごろうが手綱を引いて、大手門から打って出た。一度は池田隊を撃退したが、多勢に無勢である。三度目に打ち出たとき、石橋付近で、土肥七右衛門が放った弓矢が右わき腹に刺さる。げんごろうも深手を負った。二人とも生き絶え絶えであったが、げんごろうは、最後の力を振り絞り、氏重を背負って城内に退避する。巨大な遠見櫓の左側の支柱に、アジサイとキンモクセイの茂みがある。この茂みに事切れそうな氏重を運び込む。目がかすみ意識が遠のく氏重は、家康から拝領した守り刀を握りしめ、皆の者は如何に。と最後の一言を呟く。その刹那、戦火渦巻く戦場の時が止まる。すると、時空の裂け目から弁財天が姿を現す。氏重に優しく差し伸べた弁財天の手に、氏重の差し出した手が触れた瞬間、氏重の魂と共に、一筋の光を描いて天空へと飛び去って行った。と同時に戦場の時が動き出す。

げんごろうは、氏重の甲冑をはぎ取り、主君の首級を取られるは末代までの恥、とられてなるものか。と言って身に着けた。そして、深手を負っている見聞衆に、氏重に覆いかぶさるように告げる。足を引き釣りながら、遠見櫓の本柱にもたれたげんごろうは、氏重ここにあり。と最後の力を振り絞った。その間、城内は混乱して、夕陽が沈み夕暮れの中で落城した。籠城兵二三八人は、弓矢が刺さり切り刻まれ、その鮮血が辺り一面を覆い尽くした。目をそむけたくなる様な地獄と化したすざまじい光景がそこにあった。この時、氏重は若干一六歳の若武者であった。

さて、徳川軍の援軍が来襲すると知った池田隊には時間がない。この劇的な足止めにより「三河中入り」が失敗に終わる中で、その代償として、城代の首級はどうしても持ち帰らなければならない。兵士が血眼で探し回る。しかし城代の顔など見たこともない。やっとのことで、遠見櫓の本柱に持たれた豪華な武将の甲冑を見て、城代と早合点した。そして首級を池田隊長に差し出す。この時、妙仙寺の松に潜んでいた龍神が、菊水の滝(雌滝)と雄滝、そして弁天池の水を巻き上げながら岩崎城の遠見櫓の上空に現れた。その瞬間、滝水が水滴となり、敵味方を問わず亡くなった兵士一人一人に降り注いだ。すると亡くなった兵士の魂が光り輝き一つの閃光となって龍神の後から一直線に弁財天の待つ天空へと飛び去って行った。慌てふためいた奇襲隊は、首級が城代のものかどうか改める暇もなく、大急ぎで長久手方面に引き返すのであった。こうして天正十二年(一五八四年)四月九日岩崎城は落城したのである。

 氏重の首級として持ち去られたげんごろうの首級は、池田隊の兵が持っていた。これに気づいた春田将吉が奪い返して、氏次に届ける。氏次はこの首級が氏重の側近のげんごろうであることを知り、主君思いの一途な忠義者であると感じ入り、侍大将の称号を与え妙仙寺に届ける。住職は、首級のないげんごろうの亡骸と共に手厚く葬る。氏重以下戦死した兵士の亡骸を、領内のお寺の僧侶や避難していた者たちが、手を合わせながら拾い集め、安置して懇ろに供養するのであった。

 こうして岩崎城の戦いが、奇襲隊を足止めすることになった。このことが、功を成して「三河中入り」を木っ端みじんに粉砕する転機となったのである。天下は近しとほくそ笑んでいた秀吉の鼻をへし折ったのである。秀吉の独壇場と思えた戦いであったが、家康の存在が秀吉の肩に大きく圧し掛かったのである。

 氏重と籠城兵の捨て身の籠城戦は、後の世に語り継がれる戦国史に名高い戦いの一つとなったのである。因みに、家康の出陣を知った総大将の秀次は、直ちに敗走した。

奇襲隊と家康軍が激突した「長久手の戦い」で、池田恒興・元助親子は長井直勝に、森長可は水野正重に打ち取られる。ここに、三河中入りは水の泡と消え去ったのである。もはや、本隊激突かと思われたが、家康が知らず内に、信雄と秀吉が和睦したことから、戦いの大義が無くなり、ここに戦いは終結したのである。

 この戦いにより、秀吉は家康の実力を認めざるを得なくなったのである。家康、侮れず。この後、秀吉がとった行動は、常人の粋を遥かに越えていた。それは、妹の朝日を離縁させて家康に嫁がせる。母のなかを人質として送る。など、形振り構わず、家康を抱き込むことに画策するのであった。

【戦いの後 = 第四話】

 三河武士から成る徳川軍団は、人質時代の今川軍からも織田軍からも、先鋒隊や後方隊など、理不尽とも思える扱いを受けていた。岡崎城に帰参するという目標を掲げ、怯むことなく果敢に戦場を駆け回っていた。そんな三河武士から見る尾張武士は、能書きが多く優柔不断のようで、武士の風上にもおけぬ輩と映るのである。

 しかし、今回の岩崎城の戦いにおける若干十六歳の城代氏重と、予備軍ともいえる籠城兵の戦いぶりはどうであろうか。二〇〇〇〇にも及ぶ奇襲隊が目指したのは、岡崎城である。見過ごせば多少の犠牲を伴っても、近くを通過する程度であろう。それをあえて岩崎城に誘い込んだのである。迎え撃つ城代氏重以下籠城兵二三八人の玉砕は目に見えている。命を捨てても、氏重についていく家臣がいる。丹羽軍団とはいかなるものか。それを率いた氏重恐るべし。と畏れ入ったのである。

 戦いが終わり徳川軍の陣中にて、氏次は、氏重が、家康様から拝領した守り刀を「三河様」、鷹を「岡崎様」と名付けて大切にしていたこと。その三河様を握りしめて氏重は二三八人と供に、城を枕に事切れたことを披露した。これを聞いた家康は、すくっと立ち上がり、居並ぶ家臣を前にして、扇子を開き、武人氏重器量よし。といって褒め称えた。そして、再び守り刀と鷹を氏次に授けた。拝領した氏次は、家宝にして大切にしたことは言うまでもない。この時の氏次の立場は微妙であった。織田家の縁戚として、織田家から徳川家に鞍替えすることは困難であった。しかし、徳川家における丹羽家の立ち位置は、譜代に勝るとも劣らないほどの優遇を受けることになったのである。慶長五年(一六〇〇年)関ヶ原の戦いで、氏次は戦功を挙げ、初代伊保

藩一〇〇〇〇石を拝領したのである。

【お月見返し】

 天正十二年(一五八四年)四月九日、岩崎城の戦いで、戦死した家族の悲しみは如何ばかりか。御城下を始め領内への打撃は大きく、失望感が広がり、気力を失っていた。それでも丹羽氏の菩提寺である妙仙寺にて、形ばかりの一周忌を終えたのである。時を経て、三回忌を終えた年の瀬の十二月十二日ことである。悲しみを堪えるかのように、早朝より初雪が舞い散り、薄っすらと御城下界隈一面を覆った。

 この日は、奇しくも次郎三郎の誕生日でもあった。犬の遠吠えがする中、月光に照らされた新雪を踏みしめて、弁財天の友である福禄寿が乗り移った修行僧が、若僧を伴って呉服問屋の店先に立った。引き戸を閉めようとしていた手代がこれに気づき、いつも通り頭陀袋にお布施(お米)を入れようとすると、大旦那つかじうに取次ぎをとのことであった。引き戸から土間に案内した手代が、そそくさと大旦那を呼びに行く。入れ替わりに、ひすずみと侍女のさきわいが姿を見せた。この時、ひすずみと侍女は弁財天から解離していた。今も夢の世界から抜け出せず、これまでのことを受け止められずに、ぼんやりとしていた。氏重こと次郎三郎とげんごろうが亡くなり、憂鬱な日々を過ごしていたのである。ひすずみは、虚ろな眼差しを若僧に向ける。何故か吸い寄せられるように、若僧の前に進み出た。駆け付けたつかじうとたけおんが驚いて止めようと手をさし出す間もなく、ひすずみは、若僧の耳元で何かつぶやく。すると、ゆっくりと網代笠をとった若僧の顔を見て、ひすずみはのけ反るように驚いた。剃髪して頬がこけ肌は青白く、今にも朽ち果ててしまいそうな若僧であった。しかし、その眼差しは、亡くなった次郎三郎そのものであった。男女の恋沙汰を封じた弁財天の呪縛が解けて、師弟愛から男女の情愛に目覚めたひすずみは、無意識に若僧に近づき手を取った。瞬間、二人の手に赤い糸が現れたことに気付く者はいない。心身ともに衰弱し抜け殻のような若僧は、前世の記憶が全くない。無垢な若僧は、驚いた様子もなく、無言のままひすずみの手を優しく握り返した。どこの誰かもわからない正体不明の若僧を、警戒しなければいけない。しかしどうしたことか、つかじうとたけおん夫婦は、見守るしかなかった。何の迷いもなく、ひすずみと従女のさきわいは、若僧の脇を支えながら奥の別棟に消えていった。

 沈水香木が漂う部屋にて、芯まで冷え切った若僧の身体を温めるため、早速暖かい米麹甘酒を飲ませる。夢ではないかと頬をつまんでみる。我に返ったひすずみは、忘れてはならじとさきわいに、明日の朝まなちのまきばから牛のお乳を取り寄せるように言った。お店の土間にいた修行僧は頃合いを見て、何事もなかったように網代笠を被り、お経を唱えながらいずこかに立ち去って行った。時を置かず、亡くなった兵士の家々にも、修行僧と若僧が現れたのである。次郎三郎に吸い寄せられるようにげんごろうが、店先に立ったのは翌朝のことであり、侍女のさきわいも安堵するのであった。この不思議な出来事は、正に七福神のご加護による輪廻転生であるとの噂が、御城下に広まった。

 亡くなった者が生き返るなど「夢物語」の世界であると、笑う者が多く騒がしくもあったのだが、時が過ぎるうちに、いつしか忘れ去られて行った。この日は、ボタン雪が粉雪に変わり、見渡す限り銀世界となった。朝日が差し込む朝方になると、白粉のような新雪に、狸の足跡が山懐に向かって点々と続く情景がそこにあった。家々の軒先から下がる氷柱に、朝日がさして眩しく輝いていた。慌ただしく年の瀬が過ぎ、新しい年を迎えた元旦のこと、次郎三郎とひすずみそして子供たちは居間にいた。床の間の掛け軸に描かれた弁財天に向かって、皆して手を合わせるのであった。子供たちはこの弁財天が、母と見間違えるほど似ていることを不思議がった。

 この後、げんごろうとさきわいが所帯を持つ。また、あさぎとあげはそして、輪廻転生した見聞衆は、呉服問屋の奉公人となり、次郎三郎を支えるのであった。それもこれも全てのことが、弁財天を始めとする七福神のお陰であると感謝するのであった。そして、次郎三郎以下二三八人は、十日夜とおかんやに、弁財天を始めとする七福神に感謝の意を込めて、お月見返しを催すことにしたのである。中秋の名月と同じ様に、縁側に祭壇を設けて、瓶に刺した赤い実をつけたセンリョウとマンリョウ、干し芋、干し柿や干栗、月見団子に七福神を描いたおこしもんや、月のうさぎを模した蒸しもんを供えて、心ばかりの恩返しをするのであった。ここでも、お月見泥棒と同様、子供達がお供え物を持ち去っても良いとする風習が引き継がれ、領国界隈は大いに盛り上がったのである。

 一家団欒で濡れ縁に出た次郎三郎とひすずみそして子供たちの頬を、あえの風がそっと撫ぜながら吹き抜けていった。

【その後のこと】

 時が過ぎ七回忌を終えたお月見の夜、大旦那つかじうとたけおん夫婦は、居間に次郎三郎を呼んだ。つかじうは、呉服問屋の他に庄屋として御用を預かっていた。次郎三郎によい機会であるから、楽隠居したいと告げたのである。ひすずみの待つ居間に戻った次郎三郎は、前世のことを全く思い出せず一人悩んでいた。襖が開き、侍女のさきわいが米麹甘酒を持ってきた。次郎三郎は、これからのことについて悩んでいることをひすずみに打ち明ける。静かに口を開くひすずみは、ためらいながらも初めて前世のことを話すのであった。これまでの経緯を知った次郎三郎は、特に驚いた様子を見せなかった。翌日、次郎三郎はげんごろうを伴って妙仙寺の修行場にいた。心静かに右足を左腿の上にのせる。右手を左手で包むように握る。顎を引き頭を前後左右に傾かないようにする。姿勢をただし呼吸を調え、雑念を消して、無の境地を会得するまで無心になる。一人静かに熟慮する。無我の境地に至り悟りを開くのである。

 この世に再来した大雪の十二月十二日、同志二三八人とあさぎ、あげはを妙仙寺の本堂に集める。そして口を開く。許されるものならばではあるが、ここに集まりし皆の者は、今日只今から我が家族なり。荒れ果てた岩崎城の再建を目指すものなり。その先頭に立ちたく存ずる。と物静かに言った。これを聞いた一同は、拳を突きあげながら、オオー。と声を上げ、同志としての団結力を示すのであった。









 岩崎城が落城した天正十二年(一五八四年)四月九日から四〇〇年という節目の昭和五十九年四月に、氏重と籠城兵の徳を慕い偲びつつ、岩崎区民による四〇〇年大祭が催されました。そして、文化財の保護と活用という難しい問題を抱えながらも、昭和六十二年(一九八七年)三月に日進市が、岩崎城歴史記念館を開館するなど、市民憩いの城址公園として整備されました。更には、同年五月に岩崎区(岩崎財産区)が、模擬天守閣を建造して日進市に寄贈されました。日進市民の岩崎城への熱き想いが、一過性でなく、この地域の風土となって伝承されていることを伺い知ることが出来ます。まさに地域活動が郷土愛を育み地域資源、歴史資産を生み出したケースといえましょう。岩崎城は、春夏秋冬いつ訪れても見学者が絶えることのない、市民の拠り所となっています。時にはカラフルにライトアップされる岩崎城模擬天守閣は、建造から三十八年を経て今では日進市の象徴・シンボルとなり、日進市における唯一無二の「市宝」という称号に値するものであると確信しているところです。

 この機会に一度訪れてみてください。 


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